映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

レッド・クリフの違和感

2010-12-26 11:26:02 | 舞台は東アジア・中国

1、大作に失礼だが・・・


中国チャン・ウー監督の大作レッドクリフ?・?。宣伝が大規模で大ヒットしたように報じれれているが、実際はどうなのだろうか。


チャン・ウー監督は香港出身、迫力あるアクションシーンでヒットした「男の挽歌シリーズ」で名を売った人。映画商売の厳しさは先刻ご承知だろうから、とにかく派手な映画を創り、いろんな話題を作ってマスコミ売込みに熱を入れたであろうことは容易に想像できる。


それは承知の上で言うのだが、この映画は商売第一が見え見えで、内容的に訴えるものがない。というより違和感や反発を覚える。コンピューターグラフィックスによる戦場場面、風景場面その規模の大きさ派手さは言うまでもないのだが、それのみでなく全てに亘って違和感だらけ・・・なにか落ち着かない。何故だろう。


結論だけ私見で恐縮だが、映画上映の2-3時間の間、観客の視覚を占領し・・・他の頭脳の働きを停止させ・・・これでもか、これでもかと「ド迫力」画面を突き付けるのが本当の映画なのだろうか。「消費する映画」でなく「残る映画」は、視覚に訴えつつも人の心を動かすことを考えるのではなかろうか。


 2、兵士が多すぎる


ここで、映画の題材を歴史的事件からとるからといって歴史を丁寧に扱ってほしいとか、事実を曲げないようにとかいうつもりは毛頭ない。しかし私の覚える違和感の原因を探っていくと・・・この映画は、中国人の大言壮語癖を二乗したものではないかというところに行き当たる。


つまり中国後漢末の乱世を舞台にした中国人好みの三国志演義という物語、それがそもそも相当大袈裟に脚色されているのだが、レッドクリフはそれに更に大袈裟にした、大言壮語に輪をかけた 創り方なのだ。


ともあれ、ちょっと考えると・・・


後漢が滅び、全国規模の大反乱「黄巾の乱」(AD184年)が吹き荒れ、更には「董卓の乱」(189年)と呼ばれる内戦で中国中が疲弊した時代、中国の人口は極端に減少した。


東京外大教授だった岡田全弘氏によれば・・・中国の人口統計から類推してゆくと、前漢全盛時には6000万人だったものが、後漢成立時には十分の二、1200万人にまで減った。光武帝の統治を経て一旦人口は5000万台まで回復するが、乱世と飢饉が続き後漢滅亡の220年ごろは400万にまで落ち込んでいたという。


従って後漢後三国鼎立の時代が長く続いた理由は、どの国も人口減で戦いを続ける力がなかったからである。人手不足を補うために、三国はそれぞれの辺境で異民族狩りを熱心に行った。蜀の諸葛亮は雲南省に侵入して人狩りをした。呉の孫権は台湾に艦隊を派遣して数千人を捕獲してきたという。


が、魏の曹操が最も大規模に人狩りをおこなった。当時北の匈奴がゴビ砂漠を挟んで南北に分裂し、南匈奴は漢の将軍と組んで北を圧迫していた(やがて北の匈奴は黒海経由ヨーロッパに達しフン族と呼ばれるにいたるという)。魏王の曹操はまず内モンゴル西部の南匈奴を支配下に入れ、自分の私兵にした。そして東部の「烏丸」や「鮮卑」を荒らし多数の遊牧民を中国内地へ連れ込んだという(岡田全弘「皇帝たちの中国」より)。


しからば、三国志の英雄たちは三国あいまみえて戦ったことは事実だろうが、最大の問題は戦力、兵員数の維持拡大だった。そしてそれは中国史の常なのだが・・・各種異民族を取り込んでゆくという難事業で、英雄たちはこれに精根使い果たしたに違いない。三国志は一応魏の勝利に終わるが魏は長続きせず晋に代わり(265年)、やがて「五胡十六国」入り乱れる時代に移ってゆくのである(316年)。


ともあれ、「レッドクリフ」ファンにはちょっと水を差すような話で申し訳ないが、岡田説はきちんと理解されねばならないと思う。


 


3、想像力を働かせると


それにつけてもその後の魏についてもう少し面白い歴史話が欲しいなどと思っていると・・・。


日本史上の重要文書「魏志倭人伝」は、中国の正史「魏書」の中の「烏丸鮮卑東夷伝」のうちの「東夷伝倭人条」とのこと。朝鮮半島の諸勢力(扶余や高句麗等)に関する記事が多いという。


そこでちょっと飛躍してみると・・・卑弥呼に会いに日本に来た魏人・・・彼らに連れ去られた倭人も相当いるのだろう・・・そういう人たちもレッドクリフで戦っていたのかもしれない。彼らが何らかの書き物を残しておいてくれたら・・・当時の日本語はまだ字を持ってないから無理でした。


 


 


 


 


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