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日本近代文学の森へ (132) 志賀直哉『暗夜行路』 19 「自然」と「不自然」 「前篇第一  四」その4

2019-10-24 22:05:28 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (132) 志賀直哉『暗夜行路』 19 「自然」と「不自然」 「前篇第一  四」その4

2019.10.24


 

 「西緑」に着いた。


 登喜子はもう来て待っていた。お蔦と店へぴたりと坐って、往来を眺めながら気楽な調子で何か話していた。そして、謙作の姿を見ると、二人は一緒に「さあ、どっこいしょ」という心持で起上がった。──と、そんな気が謙作はしたのである。
「お一人?」と登喜子がいった。
謙作は段々を登りながら、
「今に、もう一人来る」といった。
「竜岡さんですか」
「君に似た人といった人の御亭主だ」
「ええ?」
「その人の奥さんが君に似てるんだよ」彼は少し苛々した調子で早口にいった。



 国語の試験問題を長いこと作ってきたということを突然思い出した。大嫌いな作業だった。評論ならともかく、小説となると、途方に暮れることが多かった。定期試験なら、授業でやったところから出せばいいのだから、少なくとも小説を探さなくてすむ。けれども、模擬試験やら、バイトでやった受験対策の問題作成やらでは題材の小説から探さなくてはならないので、難儀したものである。

 そんなことを思い出したのも、この部分なら出せるかも、って思ったからだ。最後の行の、「彼は少し苛々した調子で早口にいった。」というところに線を引いて、「謙作が苛々したのは何故か?」って聞けば問題になりそうではないか。解答は、「登喜子とお蔦が、謙作を見るや、さあ仕事だ、やれやれといった感じで、面倒くさそうに起き上がったような気がして、自分が歓迎されていないと思って不愉快になったから。」とでもしておけばよい。

 これで正解なのかどうか。「『さあ、どっこいしょ』という心持」というのは、「面倒くさそう」「大儀そう」ということでよいのだろうか。


 別解として考えられるのは、「石本の妻が登喜子に似ているということを前に登喜子に話したのに、そのことを忘れていたから。」という答え。これも正解かもしれないが、これだけではやはり不十分だろう。そんなことを忘れたからといって、「苛々する」というのはちょっとおかしい。この苛立ちは、そういうこと以前に、謙作の心に生じているもので、それは、そもそも自分がやってきたのを見て「さあ、どっこいしょ」と起き上がった登喜子に対しての「不愉快」であろう。謙作はかほどに敏感な神経を持っているのだ。

 だから本当の正解としては、「せっかくやってきたのに、登喜子が面倒くさそうに起き上がったように思えて不愉快になった謙作は、石本が登喜子に似ているということを以前に登喜子に話したのにそれを覚えていないことに、自分への関心の薄さを見せつけられたような気がして、腹が立ったから。」ということになるだろう。こんなに長い正解では、採点が大変なのは目に見えている。

 「似ていることを覚えてなかったから。」と書いた生徒は、どうしてこれだけじゃダメなのか? 二人が「『どっこいしょ』という心持ち」で起き上がったといっても、それが「めんどくさい」からだとは言い切れないんじゃないか。ただ、ふたりとも疲れていただけなんじゃないか、とか文句を言ってくるだろう。それに対しては、いや、二人が本当に「めんどくさい」って思ったかどうかは分からないけど、そう感じたのは謙作で、謙作がそう感じたということは、それがきっかけで謙作が不機嫌になったということになるんだと、縷々説明しなくてはならない。

 そんなことをいちいち考えなくちゃならないので、試験問題作成ってやつは、それこそメンドクサイのである。そのうえ自分の作った模範解答が果たして正しいのか自信が持てないことがほとんどなので、自己嫌悪までが加わってメンドクサさは倍増するのである。



「ああ」と登喜子は笑い出した。「何とかの御亭主だって仰有るんですもの」
餉台(ちゃぶだい)のまわりには座蒲団が一つ敷いてあった。謙作がその一つに坐った時、
「皆さんは?」と登喜子が訊いた。
「竜岡とは昨晩来たよ」
「ええ、それは昨晩ちょっと寄って伺ったわ。それからあの方は……阪口さんは?」
「あれから会わない」
お蔦が上がって来た。そしてこの女も、
「皆さんは?」と訊いた。
謙作はこういわれるたびに何か非難されるような気がした。こういう場所に不馴な自分が、それほどの馴染でもない家に電話まで掛けて、一人で出向いて来る事はどうしても不自然で気が咎めた。石本に見せるという事がなければ、いくら登喜子が好きでも自分は此処へは来られなかったと思った。



 謙作は石本と来るつもりだったが、石本が遅れるということで、一人で来た。だから実質上は一人で来たわけではなくて、二人で来るつもりだったが、一人が遅れたので先に着いたというだけのことだ。それなのに、登喜子たちに「皆さんは?」って聞かれただけで、「非難されたような気がした」のだ。「どうしてお連れがいないんですか?」「なぜ一人で来たの? どういう魂胆があるの?」「まさか一人で来て、私を口説くおつもり?」とか、まあ、いろんなセリフが謙作の頭のなかを廻るわけで、いたたまれない思いをしたのだろう。

 謙作にとって「不自然」というのは、許しがたいことなのだ。この場合、いったい何が「不自然」だというのか。遊郭に行くのに、そこの遊女と性的な交渉を持ちたいと思って出かけて行くことが「不自然」だとしたら、「自然」とは何か?

 この文脈からすると、登喜子が石本の妻に似ているから、その石本に登喜子を見せるために、石本を連れて登喜子に会いに行く、ということが「自然」だと謙作は思っていることになるが、それこそ「不自然」の極みではないか。

 こんなふうに考えてくると、試験問題はいくらでも作れそうだが、やっぱりメンドクサイことは変わりない。試験問題はともかく、謙作という男はとことんメンドクサイ奴である。

 登喜子と謙作は、その後、たわいもない話をして時を過ごす。けれども、二人じゃ何もできないから、他の女の子も呼びましょうかと言う登喜子だったが、謙作は呼んでくれとは言わなかった。

 


 しかし謙作は呼んでもらおうとはいわなかった。彼は今、こうして登喜子と会っている、そして余りに毒にも薬にもならない事を座を白らけさせまいと努力しながら互に饒舌(しゃべ)っている、全体これが、三日も前からあれほどに拘泥し、あれほどに力瘤を入れて来た事と何(ど)ういう関係があるのだろうという気がした。彼は深入した話をしようとは、初めから少しも思ってはいなかった。しかし今話している事は、あるいは話している心持は、余りに浅く、余りに平面過ぎると思った。
 彼はこれがしかし一番あり得べき自然な結果だったとも思い直した。自分が一人角カに力瘤を入れ過ぎただけの事だと思った。そして今日の登喜子はともかくもこの前よりは軽い意味での親みを現わそうとしているのだ。今はそれで満足するより仕方がない。それ以上を望むのは間違いだと思った。



 ここでも「自然」が問題となる。登喜子に会いたい、できれば性的な交渉にまで到達したいと思っていたのに、登喜子とこうしてたわいない話をしていることが「一番あり得べき自然な結果」だというのだ。つまりは、登喜子のことは好きで、性的な交渉を望んではいるけれど、どうもそこまで踏み込めない。踏み込む勇気がない。だから、そこまでいかない今の状態のほうが気が楽だ。「これ以上望むのは間違いだ」と思うのだ。

 それが「自然」なのかどうか知らないが、しかし、この謙作の気持ちは分かるような気がする。相手が遊女であれ、本気で好きになった女と、どこまで関係を深めるかは、そんなに簡単なことではない。





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