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木洩れ日抄 61 老人たちの光景

2019-10-06 14:25:41 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 61 老人たちの光景

2019.10.6


 

 高齢化社会ということが問題になって久しいが、当の自分がその問題の渦中にいるとなると、困ったもんだとうそぶいてもいられない。かといって、どうすることもできない。どうすることもできないままに、「横浜市敬老特別乗車証」などという代物に嬉々として申し込んでゲットし、用もないのに用事を無理やりみつけ、先日初めて乗ってみた。

 上大岡駅始発の住宅循環バスである。この住宅循環に昼間乗る乗客のほとんどは高齢者で、まともに運賃を払って乗る人など稀だ。運転手も、運賃を払う人には思わず「ありがとうございます」なんて言ってしまう人もいるくらいで、まあ、老人の天下である。そういう老人も結構卑屈になっていて、パスを見せながら「よろしくお願いします」などとペコペコする人も多く、ぼくが「パス持ち」でないころは、もっと堂々と使えばいいのにと思ったものだ。それよりなにより、バスに乗り込んでから、パスをバッグから探す人もいたりして、ペコペコする前に、乗る前からちゃんとパスを出しておいたらどうなんだ、なんて内心ブツブツ呟くこともよくあった。

 その日、無理やり作った用事を終えて、上大岡駅からいよいよ最初の「無賃乗車(もちろん、ほんとうは年額なにがしかの金を払っています)」のバスに、胸躍らせて乗り込もうとした。

 上大岡駅には、大きなバスセンターがあって、ぼくらの住宅循環バスの乗り口には、「思いやりベンチ」という4〜5人掛けの木のベンチが置かれている。立ってバスを待つのが大変な老人とか具合の悪い人が、そこに座って待てるようにという配慮である。しかし、ベンチの脇に、立って待つ人が並んでいるわけだから、後から来た人がベンチに座ってしまうと、並んだ順番が分からなくなってしまう。そのことで、以前からたびたびトラブルが起きていた。

 そこで、数年前からだと思うが、とにかくベンチに座っている人が、来た順番とは関係なく、先に乗車できるということにして(たぶんバス会社がそう決めたのだろう)、ベンチの側に「ベンチに座っている人の乗車を優先してください」というような張り紙が貼られるようになった。しかし、小さな張り紙なので、それを知らない人もいて、相変わらず小さないざこざが起きていたのである。

 その日、ぼくが並んだ列はまだ人が少なくて、ぼくは前から2人目だった。ベンチには2人のバアサンが座っていた。そこへひとりのジイサン(といってもたぶん60代)がやってきて、ぼくの後ろに立った。その後、2〜3人のバアサンがやってきてベンチに座った。そのうち列も長くなって来たころにバスがきた。

 当然のごとく、ベンチに座っているバアサンたちがよっこらしょと立ち上がり、バスに乗り込もうとした。すると、ぼくの後ろに立っていたジイサンが、「なんで後から来たヤツが先に乗るんだ」とバアサンたちに向かって言い放った。バアサンたちは、ハッとして立ち止まった。

 「あ、それはいいんですよ。ベンチに座っている人を先に乗せろって、そこに書いてあるでしょ!」ととっさにぼくが大声で言った。ジイサンは納得できないという顔をしてぼくをにらみつけるので、「いいじゃないですか。ベンチに座っている人はたいてい具合が悪いんだから。」と言ったら、ジイサンは「おれだって具合が悪いんだ。」と反論してくる。「何言ってるの。オレだって具合が悪いよ。」とだんだんぼくもヒートアップしてきた。柄も悪くなる。それにぼくはちっとも具合なんか悪くない。でも、「老人」だというだけで、若者より「具合が悪い」ことは確かだ。だから嘘じゃない。

 すると、さらにヒートアップしたジイサンは、「オレなんか、障害者だぞ。一級だ!」と叫んだ。変な「自慢」である。

 「それならあんたもサッサとベンチに座りゃあいいじゃないか!」と声量マックスで叫ぼうとしたとき、ノロノロ進んでいた列はぼくの番になり、ぼくは無料パスを運転手に見せる段となってしまった。けれども、頭の中には、さっきのセリフが渦をまいていてワンワンいっているので、「最初に無料パスを見せる快感、あるいは感慨」などどこへやら。いったんの休止を経ては、そのセリフも行き場を失ってしまった。ぼくの前の座席に座っているそのジイサンの背中にむかって、そのセリフを言ってみても始まらない。なんとも憤懣やるかたない気持ちのままバスは発車した。

 次のバス停で、バアサンが一人乗ってきた。席はもう埋まっていたらしく、いったん後ろの方へ歩いていったそのバアサンが、バスが走っているのに、フラフラと前の方に歩いてきた。すると、運転手がキレてしまって──キレた気持ちほんとよく分かる。だって、のっけからジイサン二人がワアワア喧嘩しながら乗ってきて、その挙げ句これだもんね──、「走っているときに、動き回らないでよ! 危ないから!」とマイク越しに怒鳴った。バアサンは照れ笑いをして手すりにつかまった。

 次のバス停で何人かが降りようとした。運転手が「いいですか皆さん、バスがちゃんと止まってから降りましょうね!」と言った。さっきの怒鳴り声とはうってかわって冗談めかした明るい声だった。車内の老人たちは、顔を見合わせて笑った。「そうよねえ、わかってるんだけど、どうしても遅れちゃ悪いって思って立っちゃうのよねえ。」なんて会話がバアサンたちの間で交わされたことだろう。

 ぼくの前に座っていた件のジイサンは、なんとぼくと同じバス停で降りた。ご近所さまだったらしい。見知らぬ顔だけど。

 まったくやれやれである。こんなわけのわからぬ高齢者連中の仲間になり、これから生きていくのかと思うと暗然とする。高齢者パスなんて持ってなければ、「オレは仲間じゃないぜ面」できるけど、そんな面をしたところで、何の得にもならないし。

 それにしても、あの近所のジイサンは、なんであんなことにムキになるのだろう。どう計算したって、自分が「前から5番目」で、その前に3人入ったって8番目なんだから座れることは明らかなのだ。自分が座れればあとはどうだっていいや、ってどうして思えないんだろう。自分が座れればそれでいい、なんていうのは自己中心主義で、彼の中では「後から来たヤツが前に行くのは許せない」ということなのだろう。そんなヘンテコな正義感みたいのから早く自由になって、お互いにいたわり合って暮らしていかなきゃこの先大変ですぜ、って、今度あったら話してみようかなあ。また怒鳴られるだけか。

 

 


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日本近代文学の森へ (130) 志賀直哉『暗夜行路』 17 「好き」の程度 「前篇第一  四」その2

2019-10-06 10:57:34 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (130) 志賀直哉『暗夜行路』 17 「好き」の程度 「前篇第一  四」その2

2019.10.6


 

 どうしても登喜子に会いたい謙作は、石本を誘って、明日行くことにした。けれでも、金がない。いったい当時の吉原で遊ぶにはどのくらいの金が必要だったかよく分からないが、登喜子はかなり高級な芸者だから、そんな安いことはないのだろう。

 謙作は、本を売って金を作ろうとする。その際に、自分がもっている浮世絵もみんな売ってしまおうと思って骨董屋に持っていくのだが、いかにもうさんくさい骨董屋に、売る気も失せて持ち帰る。で、その浮世絵を、家で謙作の帰りを待っていた竜岡に譲ろうとする。


「これでよかったら、お餞別に進呈しよう」と謙作は今持って帰った浮世絵を包のまま、竜岡の前へ出した。
「ありがとう。しかしこれは君のコレクションの全部じゃないか。こんなに貰っちゃあ、済まない。僕はどうせ人にやる心算(つもり)なんだから、いい物だけを取っておいてくれ給え」
「いいんだ。皆とってもらう方がいいんだ」
二、三日前の夜の話が出た。
「あの登喜子という芸者はなかなか立派だね」と竜岡がいった。
「そうかしら?」謙作は不意に拘泥した気持から、こんな風にいってしまった。もっとも彼は普段から綺麗という言薬と立派という言葉とを多少区別して考えていた。立派という中には大きさあるいは豊さという要素もなければならぬと彼は思っている。ところが、登喜子の美しさにはそれらはなかったから必ずしも彼の言葉は偽言(いつわり)ではなかった。が、実は彼が拘泥したのは「もし竜岡も……」という疑問が不意に想浮んだからであった。
「立派というより普通、美しいという方だろう」謙作は最初の否定的に響いた言葉をこう訂正した。
「つまり、そうさ」
「君は登喜子が好きかい?」謙作は思い切って訊いて見た
「そう訊かれると困るが、君はどうだい」と竜岡は反問した。
謙作はちょっと困った。彼は自分で自分の顔の赤くなるのを感じながら、
「僕は好きだ。しかしもし君が好きなら、僕は遠慮するよ。それが出来る程度だから」といった。
竜岡は大きな身体を揺すって笑った。そして、
「その遠慮は要らないよ。第一僕はもう二ヶ月すれば彼方(むこう)へ行ってしまうんだ」といった。
「うん」
「しかしそれはよかった」竜岡はなおにこにこしていった。「この間君が何だか不愉快そうな顔をしていたので、あんな場所へ君を誘った事に気が咎めていたのさ」
「不愉快は不愉快だったよ」
「どうして」
「阪口の調子が厭だったじゃ、ないか」
「阪口のこの頃は何時だってああだろう」
謙作は黙っていた。
「じゃあ、また行って見る気があるネ?」
「明日石本と行くつもりだ」
「それなら、今晩僕と行こうか」


 結局浮世絵は全部竜岡に譲ったのだろうか。「いいんだ。皆とってもらうほうがいいんだ」の後、いきなり「二、三日前の夜の話が出た。」と登喜子の方へ話がとんでしまう。遊ぶ金ほしさに古本を売ろうとする謙作なのに、浮世絵は惜しげもなく友人にやってしまう。基本的に金持ちなのだ。それにしても、説明不足。というか、むしろ志賀直哉の本領発揮といったところ。この際、浮世絵を「全部」竜岡に譲ろうが、「一部」譲ろうが、どうでもいいことだ。どうでもいいことは書かない。それが志賀直哉の流儀だ。

 竜岡の「あの登喜子という芸者はなかなか立派だね」という言葉に、謙作は拘る。

 「立派」と「綺麗」は違うというのだ。確かに違う。今では女性に対して「立派」だといったら、たいていは、その生き方についてだろう。容姿について「立派」はあまり使わない。しかし当時は使ったようだ。竜岡はどういう意味で登喜子が「立派」だといったのか分からないのだが、謙作はそれを自分の理解する「(肉体的)大きさあるいは豊さ」の意としてとり、それに「そうかしら?」と軽く反論したわけだ。それは嘘ではなかったと謙作は言う。どこまでも嘘が嫌いな謙作である。

 ここを分かりやすく言えば、竜岡は「登喜子はボインだね。」というので、謙作は「そうかなあ」と答えた。実際に、登喜子は美人だったけどボインじゃなかったんだから、オレの言葉に嘘はなかった、ということになるだろう。その程度のことなのに、「綺麗」と「立派」は違うなんて、ずいぶんと回りくどい。しかも問題は実はそっちにはない。登喜子を竜岡が褒めたのに対して、自分はそれに異を唱えるようなことを言ってしまった。それはなぜかというと、「『もし竜岡も……』という疑問が不意に想浮んだから」だという。

 もしかしたら竜岡も登喜子が好きなのだろうか? しかしそれなら「立派」なんて言葉は使わないんじゃないのか。好きなことをオレに隠してるから「立派」なんて言葉を使ってるんじゃないのか? という疑問。

 で、「立派というより普通、美しいという方だろう」と言い直す。つまり、君は登喜子を「美しい」と思わないのか? という疑問にしたのだ。すると竜岡は「つまり、そうさ」と答える。竜岡は「綺麗」も「立派」も厳密には使い分けていないらしい。しかし、「美しい」と言わなかったのは、やっぱり謙作が思ったとおり、ちょっとした遠慮からだった。微妙に使い分けていたのだ。

 それを知った謙作は、いきなり「君は登喜子が好きかい?」と聞く。それに対して竜岡は、「そう訊かれると困るが、君はどうだい」と言う。つまりは「好き」なのだ。しかし好きは好きでも、深入りするつもりはない。だって、もうすぐ洋行する身なのだ。

 謙作は、竜岡が好きなら譲るという。「それが出来る程度」に登喜子を好きなのだという。もちろんほんとのところは分からない。謙作は自分の心が分からないのだ。今は、頭で考えて、自分の登喜子への好意は、「それができる程度」でしかないと判断しているのだが、そんなことはそうなってみないと分からない。

 竜岡は、芸者の登喜子に対して「好き」も「嫌い」もただ遊びの範囲でしか考えていないわけだが、謙作は、あくまで真面目で真剣だ。そんな謙作を竜岡は、「ウブな奴だなあ」ぐらいに思っているのだろう。謙作の言うことに大笑いして、むしろ、そんなふうに吉原に入れ込みつつある謙作に、自分の「案内」は結局よかったのだと安心するのだ。

 「明日」、石本と行くはずが、「今日これから」竜岡と行くことになってしまった。肝心の言い訳の「登喜子は石本の妻に似ている」は、どこかにふっとんでしまった。

 その夜9時に、二人は「西緑」へ行ったが、登喜子はいなかったので、結局、帰ってきた。

 翌日は雨だった。


 翌日彼は八時頃眼を覚ました。戸外では烈しい雨音がしていた。樋を伝いきれない水が二階の庇から直接、地面まで落ちる、その騒がしい響を聴きながら彼は困った降りだと思った。雨は別に困らないが、この降りの中をも行くという事が、相手にはどうしても気軽な事とは解(と)れないだろうと思うと、彼は重苦しい気持になった。第一、石本がこの雨では如何(どう)かとも考えた。その上、自分が似ていると思っても「これが……?」といわれる場合を思うと気遅(きおくれ)がした。


 雨の描写がいい。雨水がどこをどう伝わって地面に落ちようとこの際どうでもいいことではないか、というと、そうでもない。先ほどの、浮世絵譲渡の件は、ほんとうにどうでもよいことで、話の展開には係わらない。しかし、ここでの雨は、謙作の心の逡巡を描く重要な背景画となっている。そういうところはきちんと書くのだ。「樋を伝いきれない水が二階の庇から直接、地面まで落ちる」なんて表現は、さりげないけれど、実景を如実に浮かび上がらせて見事なものだ。

 謙作はどうしても登喜子に会いたいのだが、相手には、自分が真剣だと悟られたくないという気持ちがある。できれば「気軽な事」ととってほしい。ほんとうは真剣なんだけど、自分が相手にぞっこんで、夢中になってしまっているとは思われたくない。それは、登喜子とのことを遊びですませたいということとは違うが、どこか、本気になってしまうことを恐れているのかもしれない。

 

 


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