日本近代文学の森へ (43) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(5)憑き物』その2
2018.9.25
前回、「この後、どういう展開が待っているのだろうか。」と書いたが、それほどの「展開」もなく、あっという間に読了してしまった。筋の展開がないわけではない。というか、おおいにあるのだが、妙にあっさりしている。それが「心中未遂」事件だ。
義男は、お鳥を何とかして捨ててしまおうと思うのだが、「病気を治してやる」(この病気は、義男からうつされたもの。病名は書かれていないが、その症状の激しさからすると梅毒と考えられる。)という約束だけは律儀に守ろうとして、苦心惨憺する。金がないからだ。そのうえ、お鳥も、「病気を治せ! お前のせいだ!」と難詰するかと思えば、時として、優しさも見せるものだから、義男もつい可愛く感じたりする。それで、どうもお鳥には恋人がいるらしいという勘ぐりをして、焼き餅焼いたりもするのだ。
義男の神経も、中学校での講演事件以来、だいぶ変調をきたしており、疲れもひどく、とうとう、お鳥と心中未遂をするに至る。豊平川の橋の上からお鳥と身を投げたのだが、川の下の根雪の上に落ち、死ぬことができない。その「心中」にしても、『心中天網島』みたいな、「愛するが故の心中」ではなくて、むしろ、お鳥を殺してさっぱりしたという気分(これはずっと義男が抱いていた願望でもある。)からのもので、どうしたはずみか、自分もやけをおこして一緒に身を投げたとしか思えないのだ。ほんとに、変な「心中未遂」である。
そんなわけで、北海道での事業にことごとく失敗した義男は、敗残の身を東京へ向けねばならなくなる。その旅費でさえままならぬなか、何とか友人を回って金策をして、(それでも、ほとんど断られるのだが)お鳥を連れて、札幌を発つ。けれども、車内で具合の悪くなったお鳥を何とか休ませようとして、盛岡で降りる。
安宿に泊まるが、とにかく金がないので、かつての教え子が盛岡にいるのを思い出して、宿に呼びつける。けれども、教え子もまだ19歳で、自由になる金もない。親に頼んでみても、貸してはくれないという。北海道の友達に「カネオクレ」の電報を打っても、返事もない。やっと来たと思えば、そもそも盛岡なんかで降りたのが間違いだとニベもない。
それでも、なんとか、教え子に、お鳥を病院に入れる手筈だけは整えさせて、あとの世話を頼んで、義男は一人で東京へ帰ってきてしまう。
それじゃ、病気のお鳥を見捨てたのかというと、そうでもなく、実は、お鳥にをもらいたいという男がいることが発覚するのだ。それを知った義男は、むしろ安心する。これでようやく厄介払いができた。「憑き物が落ちた」と感じるわけだ。
なんとも、自分勝手な男だが、お鳥の「行く先」を見定めて、初めてはっきり縁を切ることができたあたり、義男は、曲がりなりにも「誠実」だったと言えるのかもしれない。
東京に帰った義男にとって、最後の「憑き物」は、女房だ。その女房とも、きっぱり別れることにして、義男はようやくすべての「憑き物」が落ちたと感じる、というところで、この長い小説は終わる。
『泡鳴五部作』の中でも、この『憑き物』と前の『断橋』は、散漫な印象がある。それに、この2作によく出て来る「新日本主義」という泡鳴の主張は、独断的すぎてとてもついていけるものではない。自分の「刹那主義」は、古来の神道と、「古事記」に由来するという一種の国粋主義は、なんら説得力をもたないたわごとにしか思えない。けれども、思想ともいえない未熟な思想を背景に、泡鳴の「自然主義」は、独特のものとなったことも確かである。彼からすれば、おそらく、藤村や花袋などが東京で「自然主義作家」としてもてはやされるのが我慢ならなかったはずなのだ。そんな批判も、この小説には出て来る。
しかし、そうした学問的な考察は、ぼくのよくするところではない。
吉田精一は、その『自然主義の研究』の中で、泡鳴の『耽溺』を評して、こんなことを言っていた。
この作の欠点は、さしたる特色もない不見転(みずてん)芸者に主人公が過分なイメーヂをかけ、俳優として仕立てようとまじめに考へる非聡明さ、もしくは非合理性で、いくら時代が時代にしても、読者はこの点に対して批判的にならざるを得ない。それをのぞけばぐうたらな女主人公のいかにも安芸者らしい容姿や態度も、その父母も、彼女の雇主も、みなよく描けている。大胆で露骨な官能描写も力強いし、鋭い感覚も光ってゐる。ことに明治文学で、これほど小汚らしい恋愛はいまだかつてとり扱われなかったと云ってよいほどの、非美的な男女関係はみものである。といふことは彼がイメーヂはヴィジョンを一方でもちながらも、現実の姿をありのままに見る観察力をそなへてゐたことを証するのである。
いやあ、吉田精一って、おもしろい。「明治文学で、これほど小汚らしい恋愛はいまだかつてとり扱われなかったと云ってよいほどの、非美的な男女関係はみものである。」なんて、学者の書く言葉だろうか。「みもの」といえば、それこそ、この『泡鳴五部作』における、お鳥、千代子なども、まさに「みもの」である。これほど「女性としての魅力に欠ける」女性の描写は、ぼくも読んだことがない。それだけに「みもの」であったし、おもしろくもあった。
『泡鳴五部作』についての吉田精一の「的確すぎる」評を紹介して、締めくくりとしたい。
五部作を通じて観取されることは、これがまぎれもない、類のない泡鳴一流の作品であることだ。世の倫理と善悪を超越し、妥協なく自己を主張し、自己を表現して行く徹底した態度は無類である。「我事に於て後悔せず」といふのは彼の如きを云ふのであらうか。世俗は何であらうと、自分にとって絶対的なものを、それのみを追究し、つまり自己にとっての真理の実体に肉迫して行く態度には、何らの逡巡がない。(中略)
この作品にあらはに出てゐるのは、主として人間の動物性であり、人間獣の側面である。さうすることによって彼は通俗的な道徳や慣習に挑戦し、新しい生き方を見出さうとした。「世俗の悪徳が、文学の上では美徳と換算されねばならぬ。」(舟橋聖一)と称される所以である。その結果は味噌も糞もない、場合によれば身も蓋もない赤裸々な残酷痛烈な文学が生まれた。よしそれが生活の不如意からだったにせよ、思想をすぐさま実行に移し、その実行を又仮借なく描いて憚らない作家的態度は、近代の作家中無類の徹底さであった。
自然主義作家が問題にした「家」との対決、家族制度の拘束は、彼の場合問題にならなかった。彼は親の同意を待たずして妻をめとり、それに愛情を感じなくなると、直ちに妻も子もすて、家もすてた。このやうなことを三度も彼はくり返し、それによって生じる社会の悪評などは物の数ともしなかった。すべてが自我の要求の前には蹴とばされて行く。ここに自然児のやうな彼の生き方が見えてゐる。
彼の作品がこのやうな態度を反映して、倫理感に欠け、精神的にも、肉体的にも汚らしく思はれ、しばしば人を顰蹙させるのは事実である。五部作のお鳥にしても千代子にしても甚だうす汚く、女性の醜い部分のみを高度に発揮してゐる。女性の肉感的な姿態や、小ずるい心理をうがつ彼の筆致は巧妙であって、五部作を通じてお鳥や千代子の描写に成功してゐる。一面ではまた、藤村、花袋、秋声等の長篇にないユーモアが多分にある。作者は五部作では構へてユーモラスに描かうとはしてゐない。大真面目なのだが、その真面目さが非常識を時に伴ひ、単純な、手前勝手の子供の動作や思考、言語に見られると同様な、作者の恐らく意識しないユーモアがそこここに漂ふのだ。
『自然主義の研究』1958