芭蕉
「奥の細道」より
半紙(一番唐紙)
●
ぼくは、どちらかというと「家にいるのが好き」派なので
「漂泊の思ひ」はないのですが
たまには、ぶらりと、遠くへ行きたいとは思います。
それよりも
「いづれの年よりか」
この世に存在していることに
「漂泊の思ひ」を感じるようになった気がします。
芭蕉
「奥の細道」より
半紙(一番唐紙)
●
ぼくは、どちらかというと「家にいるのが好き」派なので
「漂泊の思ひ」はないのですが
たまには、ぶらりと、遠くへ行きたいとは思います。
それよりも
「いづれの年よりか」
この世に存在していることに
「漂泊の思ひ」を感じるようになった気がします。
鷲の巣の樟(くす)の枯れ枝に日は入りぬ
凡兆
半紙
●
昔から大好きな句でした。
「枯れ枝」という語があるからか
冬の句だとばかり思っていました。
今日は、何を書こうかなあと、俳句歳時記(山本健吉編)の春の巻を見ていたら
この句があって、びっくり。
「鳥の巣」は、春の季語なのだとか。
春だと大分イメージが変わってしまうなあ。
樟は、常緑樹で、一年中葉があるわけで
この句は、完全に枯れてしまった楠(この字もクスです)に
鷲の巣があるという情景です。
どこか、荒涼としたイメージがあるので
やっぱり冬の方がいいと思うのですが。
ちなみに、この歳時記では
「枯れ枝」は冬の季語となっており
「枯れ枝」と「鳥の巣」のどちらを重視するかということなのかもしれません。
冬の句とするなら、風景そのものの荒涼とした感じをとるのでしょうし、
春の句とするなら、鳥の巣にやがて生まれるヒナ鳥に命の誕生を予感するのでしょう。
そう考えると、どちらともとれますね。
本当は、この句の原典を探してみなければなりません。
で、原典ではありませんが、小学館の「日本古典文学全集」で調べたところ
やはり、季語は「鳥の巣」で春、とありました。
ちなみに、この句は、『猿蓑』の中の句。
めざめ
山本洋三
半紙
●
全文は以下の通り。
めざめ
緑の窓辺から
アンリ・ルソーの雲が見える午前
少年は
素足に草の愁いを感じ
卵形の少女の視界を
一目散にかけぬける
空気は
秋のプールのように息をひそめ
ポプラは
遠く
光っている
1996年に、作った小詩集「少年の森」の中の一篇です。