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一日一書 698 栄光学園校歌・旧校歌「千里の波濤」(コラ書)

2015-09-25 10:44:23 | 一日一書

 

栄光学園校歌(旧校歌)

 

 

ぼくは、中学3年の1学期まで、この校歌を歌い

中学3年の2学期からは、新しい校歌を歌いました。

 

「千里の波濤」とか「大横須賀」とか「ひんがし」とか

「そびゆる殿堂」とか

もう、ひたすら気宇壮大。

でも、校舎は、荒れ果てた海軍の施設で、

冬はすきま風が入ってきても、暖房もなかった。

しかし

校舎はオンボロでも、ぼくらにとって学校は、「殿堂」だったのです。

 

 

 

田浦時代の校歌は、以下の通りです。

 

 

  千里の波濤(作詞:殿村秀雄 作曲:酒井悌)

 

1

千里の波濤 寄せ散るところ

大横須賀の ひんがしに

そびゆる殿堂 おお我等が母校

 

2

真理を求め つどへる健児

永遠に変わらぬ 若き命

栄えあれと祈る おお我等が母校

 

3

栄えの光 満ち充ちて

平和の使徒の 生まれよと

呼ぶ声高し おお我等が母校

 

4

若き血潮の うづまきかへる

七つの海を 乗り切りて

つとめぞ果たさん おお我等が母校

 

 

4番まであるので、いつも、長いなあと思って歌っていました。

 

背景の写真は、ぼくが中学の頃の、中学校舎と校庭。

 

 


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一日一書 697 横浜市立日枝小学校校歌(コラ書)

2015-09-24 08:39:24 | 一日一書

 

横浜市立日枝小学校校歌

 

 

日枝小学校は、ぼくの母校。

我が家のすぐ裏手にあり、走れば30秒もかからないところにありました。

創立は明治44年という伝統ある学校です。

 

この学校の校歌がとても素晴らしいのですが、小学生には難しい。

特に、1番の「暁暗」(暁闇とも書く)は、「ぎょあん」と読むのですが

卒業してからも、どういう言葉かまったく分かりませんでした。

それがある日、そうか! と分かったときは、びっくりしました。

1番は、いかにもハイカラな港町の光景が歌われてて、今でもときどき口をついて出ます。

こんなエッセイを書いたこともあります。

 

卒業して、50年以上も経つのだから校歌も変わっているだろうなあと思って

日枝小学校のホームページを見たら、まだ変わっていませんでした。

感激して、校歌を書いてみました。

バックの写真は、ぼくが撮った昔の校舎の写真です。

 

 

参考までに、校歌の全文を掲載しておきます。

作詞・作曲が分からないのが残念です。

 

 

暁暗今し 明かるめば
港都の空に 星消えて
白鴎飛ぶ 朝じほを
静かに渡る 丘の鐘
あゝわれら日枝の生徒
保たなむ まことの平和


七つの洋の 濤越えて                    
ここに集へる 船の数                    
世界を結ぶ 横浜に                     
文化花咲き 日は高し                    
あゝわれら日枝の生徒                  
くみとらむ つきせぬ知識 

 

常盤のみどり 山王の 
森のかなたに 夕富士は
太古のかげを さながらに
流転の世々に 不壊の法
あゝわれら日枝の生徒
身にうけむ 久遠の真理

 

 

 

 


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一日一書 696 雨上がり・関根悦雄

2015-09-23 14:38:48 | 一日一書

 

関根悦雄

 

雨あがり刈りたての芝匂い立つ

 

 

作者は、栄光学園の元校長、関根悦雄神父です。

今は、海外で過ごしておられますが、最近フェイスブックに俳句を発表し始めました。

もともとは英語の先生でもあったのですが、国語や書にもとても造詣が深い方。

俳句を始められたとは、嬉しい限りです。

フェイスブックには、主に英語で投稿しておられるので、俳句もローマ字なのですが

勝手に漢字に直して、勝手に書いてしまいました。

削除せよとのお叱りがあれば、即刻削除します。

 

関根神父とぼくは、実は同い年。

その誠実な人柄で、校長時代は生徒からもとても慕われていました。

一緒に飲んで議論したことも多々あります。

海外にいらしても、こうして交流できるなんて、いい世の中ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 


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水曜日は水彩画・サトイモ

2015-09-23 13:20:46 | 水曜日は水彩画

 

サトイモ

 

14×19cm

 

 

サトイモのおいしい季節ですね。

サトイモの煮っ転がしなんかを、嬉しそうに食べてる大人が

小学生のころは不思議でならなかったのですが

今は、よく分かります。

 

 

もう1枚。

 

 

これは、水彩画ではありません。

クレパスだけで描いたものです。

まず下地に黄色系の色を塗り

それを特殊なスプレーで色を固定し

その上から茶色系の色を重ね

その茶色のクレパスを、ヘラなどで削り落として

下の黄色を出してサトイモの形を描いていく

というような複雑なことをしています。

水彩とはまた違った雰囲気がでて面白いです。

 

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・54 「清水比庵」という人

2015-09-22 11:29:14 | 100のエッセイ・第10期

54 「清水比庵」という人

清水比庵「毎日佳境」

2015.9.22


 

 清水比庵という人をご存じだろうか。ぼくは、記憶領域のどこかに、かすかにあったのだが、ちゃんと認識していなかった。

 土曜日の書道のお稽古のとき、師匠から「清水比庵」の展覧会をやってますよと教えられて、行ってみようと思っていたのに、翌日にはすっかり忘れてしまっていた。その夜、師匠のブログで「必見 清水比庵」という記事を見て、しかも、21日(月曜日)が最終日で、しかも、21日は、10時から12時まで、という文字をみて、あわてた。行こうと思った。

 ただ、その日は、師匠のグループ展「書TEN」の初日でもあり、ぼくはその書展の「写真係」になっていたので、午後は会場である池袋の東京芸術劇場に行くことになっていた。ただし、初日なので、開始は12時。なるべく早めに会場に着きたいので、「清水比庵展」はもう10時開場と同時に行かねばと思って9時ごろに家を出たのだった。比庵展の会場は横浜は栄区の区民センター「リリス」である。根岸線本郷台駅のすぐそばにある。

 ところが、本郷台へ向かう電車の中で、もういちど、「書TEN」の開始時間をみたら、何と、1時だった。しまった、これでは、時間が余ってしまう。清水比庵展をどうねばったって、1時間がせいぜいだろう。まあ、どこかで昼飯でも食べながら時間をつぶせばいいかと思いつつ、こうやって、いつも時間を間違えてばかりいる自分が今更ながら情けなかった。

 「清水比庵展」は、ものすごく充実していた。狭い会場に、絵、書、絵手紙などが所狭しとばかり展示されている。しかも写真撮影OKなのだ。絵も、書もいい。すごくいい。だんだん記憶の中から、この人がどんなに有名な人だったかということが引き出されてくる。そういえば、師匠のブログには、清水比庵のお孫さんが会場にいらして、ご挨拶もできたと言っていた。どの人だろうなどと思いつつ、夢中になって写真を撮っていたら、「それではこれからギャラリートークということで、清水さんからお話を伺うことにします。」との案内があった。会場に置かれた大きなテーブル(その上には、いろいろな資料が展示されていたのだが)を囲んで10数人が座った。お話をされたのが、清水比庵の孫、清水固(かたし)さんだった。

 清水固さんは戸塚に住んでおられて、清水比庵の業績を世に広めようと努力されているのだそうで、「私は話し出すととまらなくなるので」と言いながら、比庵の生まれから、どのように生き、どのように世の中で評価されるようになったのかを、実に詳しく、分かりやすく話してくださった。時間は1時間にも及ぼうとする長さだったが、飽きることはなかった。人の話を聞いて飽きないということは滅多にないことだ。

 中でもいちばん心ひかれたことは、比庵が大活躍したのは80歳を過ぎてからだということだった。もともとは歌を詠むことが好きだった比庵は、やがて絵も描き、書も書き、絵手紙も膨大な数を書いたのだが、「歌・絵・書」の三位一体の独特の作風が成熟し、自由自在にその世界を展開したのは80歳を過ぎてのことだったのだという。サラリーマンとして、そしてやがては日光町の町長などもするかたわらに書いた書は誰に師事するということもなく、若い頃はむしろ下手で、小学生の頃の書道の成績は丙だったそうだ。絵の方も河合玉堂と親交があったが、弟子となったわけではない。むしろ河合玉堂の方が歳下の比庵を歌の師としたという。

 言ってみれば、比庵の書も絵も文人のものであり、専門家のものではないということになる。だからいい、ということにもなるのである。熊谷守一という人の絵も書もおもしろいが、その系統になるということかもしれない。

 清水固さんのお話を聞きながら、比庵は、ぼくが目指している方向にいる人だなあと思った。いま、ぼくは、書だけではなく、絵も描き、写真も撮り、エッセイも書いている。書では、昔書いた詩を引っ張り出してきて、それを書いてみてもいる。「書画一体」こそ、ぼくが目指している境地で、そのうえ、書として書く言葉が自分の詩だったりすれば、それこそ比庵みたいな「三位一体」ではないか。そんなふうに考えてうれしくなってしまった。

 もっとも、比庵は、相当変わった人でもあるようで、発想の自由さ、奇抜さ、そして天真爛漫さ、などなどでは、ぼくとはまるで逆の人でもあることは確かだ。だからこそ憧れるのだ。

 80歳以降、比庵は、作品に年齢を書き込むようになった。だから、年齢が書かれていない作品はみな80歳以前のものです、と固さんは言っておられた。比庵は93歳でなくなったそうだが「時世の歌」がふるっている。曰く「大なる文字書きておる夢ばかり病臥五十日いまだ書き足らず 仰臥書之 比庵」。

 比庵の一人娘、固さんのご母堂は、101歳まで生きられたが、その101歳のときに、やはり寝たまま書を書いたという。すごすぎる。

 「書TEN」の開始時間を間違ったために、1時間はやく比庵展に行ったぼくは、はからずも、清水固さんのお話を聞くことができた。なんというラッキーなことであろう。何かといえば、「先が短い」ことばかりを嘆いていたぼくにとって、比庵はこれからの「目標」となるだろう。まるで神の啓示である。

 調子にのったぼくは、「書TEN」の会場で、師匠に、「ぼくもこれから年齢を書こうかと思うんですが。」と言ったら、「まだ早いですよ。」と一蹴されてしまった。80歳まで、まだ先は長い。

 



清水固さんのホームページはこちらです。


 



 

比庵が歌を書き、その後で、玉堂が絵を描いたという。
玉堂が自分の姿を描いているのは非常に珍しいとこと。




ご母堂101歳のときの書を手にして思い出を語る清水固さん。





清水比庵時世歌

 

 

 


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