あるがまま
半紙
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「あるがまま」に生きるというのは、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うということではない。
笑いたい気分や泣きたい気分を「あるがまま」に受け入れて、今なすべきことをやるのが
「あるがままに生きる」ということである。
『とらわれる生き方 あるがままの生き方』
大原健士郎著(講談社)
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そうだったんですね。
新しい発見です。
この本は、なかなかいいです。
あるがまま
半紙
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「あるがまま」に生きるというのは、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うということではない。
笑いたい気分や泣きたい気分を「あるがまま」に受け入れて、今なすべきことをやるのが
「あるがままに生きる」ということである。
『とらわれる生き方 あるがままの生き方』
大原健士郎著(講談社)
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そうだったんですね。
新しい発見です。
この本は、なかなかいいです。
わたしが与える水を飲む人永遠に渇くことがない
新約聖書「ヨハネによる福音書」より
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やはり、聖書の言葉は
こころに沁みます。
一日一書は、ちょっと休憩します。
蕪村
山は暮(くれ)て野は黄昏(たそがれ)の薄(すすき)哉(かな)
八つ切り
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一月ほど前に書いたものです。
木原先生に褒められ、とても嬉しかったので。
自分でも何となく、いいなあと思っていたものが
専門家に認めていただけると
嬉しいものですね。
頑張らなくちゃって、思いますし。
57 ジャリジャリのマグロ
2013.12.14
ぼくが生まれたのは昭和24年だが、考えてみれば、それはまだあの戦争が終わって、たった4年しかたっていないころだったのだ。ずいぶんとすごい時に生まれたものだ。
いわゆる戦後の食糧難というのも、4年もたてばずいぶんと解消していただろうし、第一生まれてすぐは、おっぱいで育ったのだろうから、食糧難も関係なかったのかもしれないが、横浜の下町の職人の家で育ったぼくは、家で出される食事をあんまりうまいと思ったことがない。別にそれは母親が料理が下手だったということではない。素材が悪すぎたのだ。
何しろ、今日はお刺身だよと言われると、ぼくはひどくがっかりした。出てくる刺身は、たいていはマグロの刺身なのだが、これが今思い出しても不思議なほどまずかった。まずいというよりは、変だった。とにかく、この赤身のマグロは、きまってジャリジャリした食感があったのだ。このことを今まで何度となく人に話してきたが、誰ひとり、「あ、そうそう!」と相槌を打ってくれたためしがない。「何、それ?」と怪訝な顔をされる。
「ジャリジャリしたマグロ」と聞けば、おそらく誰でも「冷凍マグロのまだ解凍しきれていないヤツ」って思うだろうが、それが違うのである。冷凍なんてとっくに溶けて、すっかり柔らかくなっているのに、食べるとジャリジャリしているのである。といって、砂が入っているわけではない。そんなに固いジャリジャリではなくて、ジュアリジュアリとでもいったらいいのだろうか、とにかく、今スーパーで買ってくる最低のマグロにもない変な食感で、味はとにかく薄い。
薄いといっても、小学生や中学生の味覚だから、刺身の味が分かるわけもないのだが、とにかく、全然うまくなかったのだ。他の刺身も出たのだろうが、どれも、うまいと思ったことがないので、ひょっとしたら、ぼくは刺身が嫌いだったということなのかもしれない。
カツオは煮たものしか食べた覚えがないが、これも固くてまずかったし、タラも、鍋に入っていたような気がするが、これもパサパサでまずかった。ようするに、魚という魚は、幼い頃のぼくに「うまい!」という感動を与えてくれなかったことは確かなのだ。
その魚は、ほとんど、家のすぐ近くの魚屋から買ってきたものだから、ぼくの味覚のせいでないとすれば、その魚屋は、ろくな魚を置いてなかったということになる。
魚を食べて、そのうまさに驚愕したのは、何と言っても、土佐のカツオのタタキだった。結婚したてのころだったろうか、家内の郷里に行ったとき、家内の親が連れて行ってくれた「徳月楼」(これは宮尾登美子の小説「陽暉楼」のモデル)で、初めてカツオのタタキを食べた。大きな皿いっぱいに盛られたカツオの刺身。これがカツオのタタキですと言われても、タタキなんてアジのタタキしか知らないから、何だ、叩いてないじゃないかと怪訝に思いつつ、添えられたニンニクのスライスを言われるままに挟んで食べたときの衝撃!
いつまでたっても忘れない。まあ、幼いころから、ろくなものを食べてこなかったおかげで、その後の人生では、これに似た衝撃に何度も出会ってきた。一時はその思い出をシリーズで書こうと思ったことがあって、こんなエッセイも書いたが(「わがグルメ事始めはクリームコロッケなりき」「ああ、哀愁の有明のハーバーよ」)、いまだにこの2編を超えるエッセイは書けていない。
半紙二分の一
新約聖書「マタイによる福音書」より
野の百合を見よ
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イエスの有名な説教「山上の垂訓」の一節です。
神は、野の百合さえもあんなにきれいに着飾らせてくだっている。
まして、あなたたち人間には、それにも増して恵みをくださるのだ
といって、神への絶対的な信頼を持つように説いています。
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ぼくが、そもそも
書の道へ入ったのは、
師匠である越智先生の、
新約聖書のパウロ書簡の一節を書かれた書を見たことが
ひとつのきっかけだったのかもしれません。
それは、おそらく今から20年以上も前のことかもしれませんが
ああ、こういう書もあるんだと
強く印象に残りました。
それから師匠に入門するまで10年以上もかかったわけですが
いま、それを思い出して
聖書の言葉を書くのもいいかも、と思った次第です。