56 東京オリンピックのころ
2013.12.8
東京オリンピックが開催されたのは、ぼくが中学3年の時だ。ちょうどその年の夏休み、ぼくが通っていた栄光学園が、横須賀から今の大船の地へ引っ越してきた。だから記憶は鮮明である。
開会式の当日は土曜日で、その日、学校は、放課後の部活を中止して、一斉に帰宅させるという措置をとった。家に帰ってオリンピックの開会式を見なさいということだった。ぼくは、これに猛烈に反発した。オリンピックの開会式より、部活の方がずっと大事だったからだ。
思えば、中学3年の1年間は、ぼくの人生にとって最高の1年だった。生物部にいたぼくは、とにかく昆虫採集に熱中し、春でも夏でも秋でも冬でも採集に出かけた。三浦半島、相模川、丹沢といったあたりがぼくの採集地で、まさに野山を飛び回る少年だった。この生物部での1年間があったからこそ、栄光学園での苛酷な6年間を何とか無事に過ごせたのだと思う。そうでなければ、毎日の勉強、中でも数学や物理や化学といった超不得意科目の勉強や、不意に襲ってくるテストの嵐の中で、とっくに難破してしまっただろう。
そういうぼくにとっては、週に2回しか許されていない部活の時間は、何よりも大事で、それを学校が無理矢理中止するというのは絶対に許せない暴挙であった。しかも、ちょうどその日は、ぼくの発案が通って生物部の第二の雑誌の制作をする日だったのだ。それなのに、学校は、家に帰ってテレビを見ろという。オリンピックの開会式を見ろという。そんな理不尽があっていいものだろうか。
絶対に帰らない。部室で雑誌の制作作業をする。そう決めて、ぼくは部室に立てこもった。ぼくに同調した友人が2人ぐらいいた。まあ、立てこもったとはいっても、別に教師が学校から強制下校させるというようなことではなかったし、第一、教師自身もテレビを見たいから家に帰ってしまっていて、だれも見回りになどこなかったのだ。
開会式の開始は午後2時。放課後の学校は、まったく人影も消えてひっそり静まっていた。その静かな校舎の一角の生物部室で、ぼくらは、ひたすらガリ版を切っていた。しかし2時が近づくにつれて、どうにも落ち着かなくなってきた。オリンピックには興味がなかったけれど、さすがに、開会式というイベントは見ておきたいという思いもわきあがってきた。何しろ、当時はビデオなどはないわけだから、後で録画をみればいいやというような安直さはなかったのだ。放送を生で見なければ、それでおしまい。そう思うと、やっぱり見たいなあという気持ちがだんだん強くなってきた。しかし、とうとう2時になってしまった。もう、これから家に帰っても間に合わない。
その時、だれからともなく「やっぱり見たいね。」という言葉が出た。そうだ、教員アパートに行って、見せてもらおう。引っ越してきたばかりの大船の校舎の一角には、教員用のアパートがあり、何人かの先生がそこに住んでいたのだ。
みんなで走っていった。若い英語の先生の家の鉄の扉を叩いた。先生がびっくりして出てきた。「何だ、まだ残っていたのか。」「すみません。テレビ見せてください。」「バカヤロウ、だから帰れって言っただろう!」そういいながらも、先生はテレビの前に案内してくれた。白黒の画面に、その時、ギリシャ選手団が入場してくるのが映っていたのをはっきり覚えている。その後、いつまでぼくらが新婚(だったはずだ)の先生の家のテレビにかじりついていたのかは、まったく記憶にない。