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★「失われた時を求めて」を読む★ 第4巻・引用とコメント

2015-04-10 10:44:09 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第4巻・引用とコメント

 

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。


 

★「失われた時を求めて」を読む★1/31 今日は、第4巻29pまで。

▼「ゲルマントのほう」が始まった。土地の名前が呼び起こすイメージについて語られる。それを読んでいると、「平成の大合併」とかで多くの由緒ある土地の名前が廃止されて「新しい」名前にとって変わられたことの罪深さが実感される。「変わらない」ことの大事さというものもあるのだ。


★「失われた時を求めて」を読む★2/2 今日は、第4巻64pまで。

〈われわれはある人の肉体のなかに、その人の生活のあらゆる可能性、その人の知人についてのわれわれの記憶、またその人がいまわかれてきたりこれから会いに行ったりする人たちについてのわれわれの記憶を位置づけるのだから、たとえば私が、フランソワーズから、ゲルマント夫人が歩いてパルム大公夫人のところに昼餐に行くはずだときいていて、正午ごろゲルマント夫人がカーネーション色のサテンのドレスを着て彼女の家から出てくるとき、襟からぬけでているその顔が夕焼雲のようにドレスとおなじ色あいなのを私が見るとすれば、私が目のまえにしているものは、フォープール・サン=ジェルマンの快楽のすべてなのであって、それはある種の貝で、ばら色の真珠母のつやをもった二枚の貝殻のあいだにくっついているあの小量のかたまりのようなものなのであった。〉第4巻53p

▼人間の「肉体」のこうした捉え方に驚かされる。この後には、オペラ座の中の貴族たちの様子が描かれるのだが、それはリアリズムの対極にある華麗な表現によって埋め尽くされている。



★「失われた時を求めて」を読む★2/3 今日は、第4巻78pまで。

▼演劇・演技などについての論がある。ラシーヌの「フェードル」がよく出てくる。



★「失われた時を求めて」を読む★2/4 今日は、第4巻91pまで。

〈……しかしラ・ベルマは、ここでもまた『フェードル』でとおなじように至芸に達していた。そこで私が理解したことは、作家の作品はこの悲劇女優にとって一つの材料にすぎず、彼女の傑出した解釈による演技の創造にとって、作品それ自体はほとんど重要性をもたないのであって、その点、私がバルベックで知りあいになった偉大な画家エルスチールが、特色のない学校の建物と、それ自身傑作である大聖堂とのなかに、いずれも優劣のない二つの絵のモチーフを見出したのと同様だということであった。〉第4巻79p

▼ラ・ベルマは女優、エルスチールは画家。「創造」にとって、「素材」は必ずしも重要ではないということか。


〈そのとき、青い両眼の無感動な流のなかに、個人的存在を失って原生動物の漠然たる形となった私という人間が、たぶん屈折の法則によって描きだされたのであろう、一瞬ぱっとあかるい光が公爵夫人のその両眼を照らしだすのを私は見た、女神から女になり、突如として千倍も美しくなったように見える公爵夫人が、ボックスの手摺にのせていた白い手袋をはめた片手をさっと私に向かってあげ、それをなじみのしるしに振ったのだ、そしてその瞬間私の視線は、大公夫人の目からほとばしりでる無意識の白熱と炎とに交錯するのを感じとったが、大公夫人は、その従妹がいま誰に挨拶を送ったかを見ようとして自分の目をちらと動かしただけで、思わずその目を発火点に達せしめたのであって、その一方公爵夫人は、私が誰であるかを認めると、そのほほえみの、きらめく天上の驟雨を、私の上にふらせた。〉第4巻91p

▼劇場で、あこがれの侯爵夫人(大公夫人の従妹)が「私」を「見た」だけのシーン。「視線」をこんなふうに描いた作家がかつていただろうか。そして、今も……。


★「失われた時を求めて」を読む★2/7 今日は、第4巻150pまで。

▼「睡眠」について論じられている。一晩寝た後で、どうして昨日の同じ自分であると判断できるのだろう、という疑問が述べられている。昔、養老孟司もそんなことを書いていたことがあるのを思い出した。

 


★「失われた時を求めて」を読む★2/8 今日は、第4巻170pまで。

〈広場では、夕暮が、城の火薬庫のようにならんだ屋根に、その煉瓦の色によく調和したばら色の小さな雲をのせ、その煉瓦と雲との接ぎ目をタ映でうまくやわらげていた。私の神経には何か大きな生命力が流れこんできて、いくら運動をやってもそれを使いはたすことができないほどであった、私のふむ一歩一歩が、広場の敷石にふれたかと思うと躍りあがり、かかとにメルクリウスのつばさが生えたかのようであった。噴水の一つには赤い色がみなぎっているのに、もう一つの噴水では、その水がすでに月光でオパールの色になっていた。〉第4巻153p

▼なんて美しい描写。こんな描写を引用していたら、きりがない。この「私」が病身であるだけに、こうした「健康的」な感覚が奇跡的なものとして描かれるわけで、しみじみとしてしまう。


★「失われた時を求めて」を読む★2/10 昨日と今日は、第4巻221pまで。

〈私がゲルマント夫人への思いをはせていたのは大空のなかにだけではなかった。すこしあたたかい一陣の風が吹きすぎると、それは彼女からもたらされた何かの伝言のように思われるのであった、かつてメゼグリーズのむぎ畑でジルベルトからのように思われた伝言のように。人間はそう変わるものではい、われわれはある人によせる感情のなかに多くの要素を入れる、それらの要素は眠っていたのをその人によって呼びさまされるわけだが、その人にとってはかかわり知らぬことである。そして、それらの特殊な感情を、われわれの内部にある何物かが、つねに、真実以上のものにみちびこうとつとめる、つまり人間全体に共通な感情、より普遍的な感情に合一させようとつとめるのであって、個々の人間や、個々の人間がわれわれにひきおこす苦痛は、単にこの共通普遍的な感情とのコミュニケーションの機会にすぎないのであり、私の苦痛になんらかの快感がまじっていたとすれば、それは、私がその苦痛を普遍的な愛の一部分であると知っていたからなのである。〉第4巻197p

▼「普遍的な感情」「普遍的な愛」というものがあって、個々の人間との間の感情はそれらとの「コミュニケーションの機会」にすぎないという発想はおもしろい。


〈唐突な変化をもたらすこのすばらしい魔法、それは、しばらく辛抱して待っていれば、われわれのそばに、こちらが話したいと思っていた相手の人を、目に見えないがそこにいるのとおなじように出現させるのであり、その相手の人は、まだその食卓を離れず、住んでいる町(私の祖母ならばパリであったが)のなかで、こちらとは異なる空の、これまたかならずしもおなじではない天候のもとで、話をきくまではこちらの知らない状態にいて、こちらの知らない何事かに没頭しているわけであるが、その人を、われわれの気まぐれが命じた一定の時刻に、われわれの耳もとまで、数百里をへだてて(その人も、その人が投げこまれている環境も、ともどもに)、突然はこんでくるのである。そしてわれわれはまったくおとぎ話の人物そっくりになり、魔法使の女が、このわれわれの訴えるねがいにもとづいて、本をめくっている、涙を流している、花を摘んでいるわれわれの祖母とか婚約者とかの姿を、超自然な光のなかに出現させてくれるのだが、その祖母なり婚約者なりは、それをながめるこちらのすぐそばにいながら、それでいて非常に遠く、彼女が現実にいるその場所を離れてはいないのである。〉第4巻219p

▼これは「電話」のことを言っているのだ。最後に出てくる「魔法使いの女」とは「電話交換手」のこと。プルーストがインターネットを知ったら、いったいどんなふうに描くだろうか。しかし、「電話」も、こうした目でもういちど見直してみると、やはり不思議な「魔法」に思えてくる。

 

★「失われた時を求めて」を読む★2/11 今日は、第4巻241pまで。

〈その声はやさしかった、しかしまた、なんと悲しげであったことか! 悲しげであったのは、第一に、ほかならぬそのやさしさのためであった、そのやさしさは、あらゆる苛酷なもの、他人にさからうあらゆる要素、あらゆるエゴイスムを濾しさった、ほとんど人間の声がそれ以上に達したことはなかったほどの、にごりのないものであった! あまりの繊細さのゆえに、もろくて、いまにも涙の清らかな波のなかにこわれて消えてしまいそうに思われる声であった。その声が悲しげであったのは、第二に、顔面を見ることなしにただそれだけをすぐそばにきき、はじめて私が、その声にこめられている悲しみに、そして長い生涯のあいだに悲しみがその声にはいらせてしまったひびに、気がついたからなのであった。〉第4巻223p

▼「電話」で愛する祖母の声を聞いたとき、「わたし」は、それまで知らなかった祖母の「悲しみ」に気づいたという。「声だけ」聞こえる「電話」が、新しい「発見」を生む。そんなことは、今でも、あるのかもしれない。ただ、ぼくらは「電話」をあまりに当たり前のものとして使っているので、その「発見」に気づかないだけなのだろう。


★「失われた時を求めて」を読む★2/13 今日は、第4巻286pまで。

▼サン・ルーという「わたし」の友人の愛人をめぐって。恋というものの不思議さが描かれる。


〈プルーストを読むタイミングというものがあり、それはくり返し人生のさまざまな機会を通じて、恩寵のようにおとずれる。芸術論、恋愛論、社交界の人間模様、特権的瞬間の記述と、本を手にするたびに引き込まれる箇所が違う。読み返すにつれて謎が深くなる。ページを繰る手から結末が逃げてゆく。こんな本はプルースト以外にはない。書き終えることができなかったように、読み終えることのできない書物。それは文字通り、一生かけて読まれる書物なのだ。〉鈴木和成(集英社版「失われた時を求めて5」エッセイより)

▼そういう意味では、遅すぎたとはいえ、今回の読書は、「恩寵のようにおとずれたタイミング」だったのかもしれない。


★「失われた時を求めて」を読む★2/16 今日は、第4巻362pまで。

▼貴族たちの交友の姿を描く部分は、時として退屈。読み方もはやくなる。相変わらず、iPadがお腹の上に落ちてくる。


★「失われた時を求めて」を読む★2/17 今日は、第4巻405Pまで。

▼いわゆる「ドレイフェス事件」が何度も話題になっている。ユダヤ人問題は、根が深い。この辺では、貴族たちのパーティが描かれているのだが、とにかく、○○夫人、○○侯爵夫人、○○何とかが多くて、記憶力の悪いぼくには、実は1P読むのも大変である。ここは、踏ん張らねば。


★「失われた時を求めて」の中に出てくるホイッスラー 2/18

〈……しかし、エルスチールが、すでにバルベック湾に神秘性が失われ、私にとって他の何とでも置きかえられる、地球上の多量の塩水の任意の一部分にすぎないものとなっていたときに、それがホイッスラーのシルヴァー・ブルーの階調をもったオパールの湾であると私に語ることによって、突然それに一つの個性をとりもどしてくれたように、ゲルマントの名も、フランソワーズの痛棒を食って、あえなくその名から立ちあらわれた最後の寄りどころがついえさる憂き目を見たのだが……〉「失われた時を求めて」第4巻40p

▼エルスチールは「わたし」が敬愛する画家。フランソワーズは、「わたし」の家の頑固だが献身的な家政婦。


★「失われた時を求めて」を読む★2/20 今日は、第4巻459pまで。

〈それにしても、われわれがたがいに相手について抱いている意見、また友情関係、家族関係は、固定的なものをもっているように見えても、それは表面だけで、じつは海とおなじようにたえず動いているのだ、ということを記憶にとめておく必要がある。そんなわけで、いかにもぴったり和合しているように見えていた夫婦のあいだに離婚話がもちあがっているとのうわさがさかんに流れたあとで、すぐまたその二人はたがいに相手のことを愛情をこめて語る、ということが起こるのだし、離れられないむすびつきだと思われていた二人の友人の一方が、さかんに他方の悪口をふれあるき、そのおどろきからわれわれがまださめないうちに、一方がもう他方と和解しているのに出会うことがあり、また国民と国民とのあいだに、きわめてわずかな期間に、あれほど多くの友好関係の逆転があるのだ。〉第4巻459p

▼今の芸能界も、同じこと。芸能界どころか、ぼくらの日常生活も、同じですね。


★「失われた時を求めて」を読む★2/23 今日は、第4巻510pまで。

▼いよいよ、第4巻も読了間近。

 

★「失われた時を求めて」を読む★2/24 今日は、第4巻537pまで。

〈われわれが知っているかぎりの偉大なものはすべて神経質の人たちからもたらされています。宗教の基を築き、芸術の傑作をつくったのは、そうした人たちであって、ほかの人間ではないのです。けっして世人は知りますまい、そうした人たちに世人がどんな恩恵を受けているかを、とりわけ、世人にそんな恩恵をあたえるためにそうした人たちがどんなに苦しんだかを。……〉第4巻524p


▼「私」の祖母の往診に来た、デュ・ブールボン医師の言葉。これはプルースト自身の思いなのかもしれない。

▼この医師の診断は結局正しくなくて、この後祖母は死に向かってゆく。祖母の発作で、「ゲルマントの方 1」は終わる。

▼これで、第4巻読了。第5巻は「ゲルマントの方 2」から始まる。

 

 

★「失われた時を求めて」を読む★2/25 昨日読んだところにあった印象的な部分。


〈病気になってみると、われわれは自分がひとりで生きているのではなくて、ちがった世界のある存在にしばられて生きていることをさとる、その存在とわれわれとのあいだは深淵にへだてられ、その存在はわれわれの気持を知らず、またその存在にわれわれの気持をわからせることも不可能なのだ、その存在とはわれわれの肉体なのである。われわれは街道でたとえどんな追いはぎに出会ったとしても、われわれの不運にたいしてではなく、その男の個人的利害にたいしてならば、おそらくその男の心を動かすことができるだろう。しかしわれわれの肉体にたいしては、いくらあわれみを乞うたところで、蛸をまえにしてご託をならべるようなものであり、蛸にとっては、われわれの言葉も波の音以上の意味をもつわけはなく、われわれはこんなしろものといっしょに暮らす因果を思つてはっと恐怖に身がすくむだろう。〉第4巻511p


▼確かに、人間にとって、自分の「肉体」は、もっとも遠い「他人」なのだということを、ぼくらは病気なったとき、痛切に知るのです。だからこそ、ぼくが胸部大動脈の大手術を前にして、医師から、その考えられないようなやり方を聞いても、「ふ~ん、でも、そんなことができるんですか?」といったような反応しかできなかったのでしょう。そのときぼくは、まるで「他人事」のように感じていたのでした。そのことをプルーストは見事に表現しているのです。


▼それにしても「蛸をまえにして…」以下の比喩の何という面白さ。こんな比喩は一晩かかったって思いつかないなあ。

 

 

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