詩歌の森へ(18) 八木重吉・「鞠とぶりきの独楽──第8番」
2019.3.7
ぽくぽく ひとりでついてゐた
わたしの まりを
ひょいと
あなたになげたくなるように
ひょいと
あなたがかへしてくれるように
そんなふうに なんでもいったらなあ
10数年ぶりに偶然会った旧友に、ちょっとした自慢話をしたら、「そんな話はするもんじゃない」と諭された。ぼくは、自分のあさはかさを深く反省したけれど、その一方でちょっと淋しかった。
自慢といっても、社長に出世したとか、宝くじで10億あたったとかいうことじゃない。生活上のちょっとした喜びに過ぎなかった。それでも、その友人には、その喜びを素直に受け取れない事情があったのだろう。
「ぽくぽく ひとりでついてゐた/わたしの まり」というのは、純粋な喜びに浸ることの比喩だ。その「喜び」を、「ひょいと/あなたになげたくなる」と詩人は言う。そうだ、自分の喜びは、「ひょいと」他者に伝えたくなるものだ。つまり自分の思いを言葉にして「なげる」。そのとき「あなた」も、「ひょいとかへしてくれる」。つまり、なんのわだかまりもなく、返事をしてくれる。「そんなふうに なんでもいったらなあ」と詩人は嘆くのだ。この嘆きの深さ・苦さを味わいたい。
大人の心は、迷路のように複雑に入り組んでしまっていて、言葉は、もうどこへどう届くのかさっぱり分からない。その大人の現実に疲れはてた八木重吉は、「子ども」「あかんぼう」への回帰を絶望の中にも切実に願っていたのだ。
八木重吉の詩はみな短いが、この「鞠とぶりきの独楽」は、珍しく連作だ。そしてこの連作こそが、八木の最高傑作だとぼくは信じている。
八木重吉というと、ただ純情なキリスト教詩人といったイメージが定着しているようだが、実際はそんな単純な人ではない。教師として、キリスト教信者として、悩み苦しみ抜いた人だ。
興味を少しでも持たれた方は、かつてぼくが、渾身の力をこめて書いた『八木重吉ノート』という「評論」を是非お読みください。「鞠とぶりきの独楽」の詳しい評釈もあります。