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日本近代文学の森へ 266 志賀直哉『暗夜行路』 153  癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作  「後篇第四 八」 その3

2024-08-03 10:13:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 266 志賀直哉『暗夜行路』 153  癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作  「後篇第四 八」 その3

2022.8.3


 

 謙作の癇癪の発作のありようが「理解に苦しむ」と前回書いたところ、友人から、メールが来て、こんなことが書かれていた。引用の許可はもらっていないが、許してくれるだろう。

 

 着物を切り刻むは序の口、もっとしたいだろう、癇癪のつらいのは、際限がなくて、じぶんで抑制できないことなんだけど、そうか、それは分かってもらえないことなのか、と、来し方を振り返るのでありました。
 謙作の「おれがこうやって癇癪を起こすのは、お前の過ちを責めているんじゃないってことは、さんざん言ってるだろう。それがなぜ分からないんだ!」には、「うそつけ!おまえのせいでこれだけオレが苦しんでるって、もっと思い知らせてやりたいくせに!」とおもいました。
 作者にそれが分からないわけないから、謙作の内面を描いて、「お前の過ちを責めているんじゃないっ!」は、まさかウソだろう、なにか表現上のテクニックかなとしか、きみの解説を拝読しても、信じがたい。
 だって癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ、「おれのツラさ、分かってるだろ、おまえは」なんだから心底は。

 

 なるほど、友人には、謙作の心底がよく分かるのだ。「癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ」って彼は言うけれど、実際に癇癪を起こしたことのないぼくにはその「身勝手」さがやっぱり理解できない。

 自分の人生を思い起こしてみれば、幼少のミギリはそれこそ癇癪起こして身勝手の限りを尽くしたはずだけど、物心ついてからは、ほとんどその記憶がない。記憶がないだけで、実際には何やってきたのか知らないが、まあ、だいたいのことは、耐えてきたような気がする。少なくとも他人の着物を切り裂いたり、皿を庭に投げ捨てたことなんてない。

 そういうことになったのは、たぶん、癇癪ばかり起こして荒れる祖母と、それに耐えたり立ち向かったりする母とのバトルのかなかで、幼い頃に育ったことが強いトラウマとなって、とにかく争いごとを極端に嫌うようになったのだろうと思われる。自分さえ我慢していれば、争いにならないから我慢しようという基本的スタンスは、結局のところ、現実に果敢に立ち向かうといった姿勢をぼくから奪ったようにも思える。まあ、職場では、なにかというと校長とかにたてついて、争いごとの種をまき散らしてきたけれど、それはまた別の分野の話。

 まあ、祖母の癇癪は経験しているはずだけど、子どもにはよく理解出来なかったし、それ以外に、ぼくの周囲にはあんまり癇癪持ちはいなかったし。経験不足は否めない。

 いくらこんなことを書いても詮無きことだからやめるが、文学鑑賞には、どうしても自分の人生経験というバイアスが入るよね、ということだ。でも、そういうバイアスを、こうした友人の感想が是正してくれるのは、とてもありがたい。そうか、癇癪っていうのは、そんなに身勝手なのか、と少なくとも頭では分かるから。

 さて、「自分で自分を支配しなければならぬ」と思っていた謙作だが、末松の助言も頭によみがえり、旅に出るようになった。


 彼は久しく遠退いていた、古社寺、古美術行脚を思い立った。高野山、室生寺、など二、三日がけの旅になる事もあった。丁度晩秋で、景色も美しい時だった。そして彼は少しずつ日頃の自分を取りもどして行った。
 秋が過ぎ、出産が近づいた。彼は総てでいくらかの自制が出来て来ると、直子に対し、乱暴する事も少くなった。自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考えると、彼は無理にも苛立つ自身を圧えつけるよう心掛けた。


 奈良には志賀直哉住居跡という建物もあるが、志賀直哉は、奈良を愛していたのだろう。美しい景色を見ていると、「少しずつ日頃の自分を取りもどして行った」とあるが、これが最後のシーンへの伏線でもあろう。

 しかし、ここも、ほんとうのところ、ぼくにはよく分からないのだ。よくテレビの旅番組などで、キレイな景色をみて、「あ〜、癒やされる〜」とか、悩み事があったけど、旅にでて温泉に入ったらすっかり解放された気分になったとかいった場面がよく流れるが、いつも、イマイチ分からない。なぜだかよく分からないのだが、簡単にいうと、どこへいっても、「自分自身」はあんまり変わらない。謙作のいう「日頃の自分」が、どういうものなのか分からない、といってもいい。キレイな景色を見れば、ぼくなりに感動はするが、それで「日頃の自分」が取り戻せたというふうには感じないのだ。

 謙作には「日頃の自分」という何か動かしがたい確固とした「自分」があるらしいが、ぼくには、そういう「自分」がないということなのかもしれない。その場その場の「自分」はいるが、それに、たいした一貫性がない。平野啓一郎が最近よく言っている「分人」というものなのかもしれない。

 ま、それはそれとして(どうも今日は脇道が多い)、謙作は、落ち着いてきたとはいえ、「まだ」直子に乱暴してきたのだ。妊娠している妻にどの程度かはしらないが、乱暴するというのは、いくら身勝手な癇癪だとはいえ、大変なことで、そのことを自覚している謙作は、「自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考える」という理性的な判断で、辛うじて乱暴を「少なく」したというわけで、いやはや、どうにも始末におえぬ癇癪ではある。


 出産はその暮れ、── 延びて、正月の七草前という事で、彼は前の例もあるので、直子の軽挙(かるはずみ)にはやかましくいっていた。そして今度はお栄もいるし、万事手ぬかりなくやるつもりだったが、正月になり、十日過ぎてもまだ産がないと、少し心配になって来た。そして彼は今度は病院で産をして、一卜月位は其所で養生する方がいいというような事をいい出したが、医者に相談すると、これだけの人手があればその必要はあるまいといった。その上、直子もそれを望まなかったため、入院の話はそのまま沙汰止みになった。
 謙作はもし一卜月数え違いではないかという不安を感じた。二月に入って産があり、月を逆算してそれが自分の朝鮮旅行中にでもなっていたらと思うと、慄然(ぞっ)とした。


 最初の子は丹毒で生後間もなく亡くなっているので、謙作もずいぶんと気を遣った。「直子の軽挙」とは、何を指しているのか、読み返してみたが、該当箇所は見つからなかった。丹毒で死なせてしまった、ということ全体を「軽挙」と言っているのだろうか。そうだったら、直子もかわいそう。

 ここで、謙作が、生まれてくる子が、自分の子ではないんじゃないかという不安をずっと抱えていたことがはっきり分かる。

 最初の子は、自分の子であることに疑いこそ持たなかった謙作だが、それでも、その赤ん坊を「抱いてみる気になれなかった」謙作である。どこまでも「自分の出生」が影を落としているのだ。


 しかし一月末のある日、彼は大和小泉にある片桐石州の屋敷に出かけ、それから歩いて法隆寺へ廻り、夜に入って帰って来ると、自家(うち)では赤児(あかご)が生れていた。充分に発育し、そのため、前より遥かに産が苦しかったという丸々とした女の赤児を見て、彼は何かなし、ほっと息をついた。彼が丁度法隆寺にいた頃生れた児ゆえ、一字をとって隆子と命名した。


 赤ん坊が生まれそうになると、旅に出ちゃう謙作である。最初の子のときは、こともあろうに、鞍馬の火祭見物に深夜に出かけている。これは単なる偶然というよりも、出産への怖れなのではなかろうか。現在では、出産に立ち会うことが常識になっているが、ぼくの時代でさえ、立ち会うことはむしろ出来なかったのではなかろうか。たとえ出来たとしても、ぼくにはムリだった。

 謙作の生きた時代には、「立ち会う」ことなど、論外だったはずだが、まさか、旅に出ちゃうことが常識だったとも思えない。

 「丸々とした女の赤児」を見て、喜びではなくてほっとした謙作。隆子はどうなっていくのだろうか、ちょっと心配である。しかし、ほんとうに心配なのは、実は直子のとのことなのだった。

 

 

 

 

 


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