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日本近代文学の森へ (176) 志賀直哉『暗夜行路』 63  怒りの「正しさ」  「前篇第二  八」 その2

2020-11-22 21:11:18 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (176) 志賀直哉『暗夜行路』 63  怒りの「正しさ」 「前篇第二  八」 その2

2020.11.22


 

信行の手紙は続く。

 

 そして夜おそく、(―つは父上と会うのがいやだったので)帰って来ると、二十八日出しのお前の手紙が来ていた。俺はそれを読みながら、さすがお前らしく、参りながらも、その苦みから抜け出す路を見出そうとする気持に感心した。本統に随分苦しかった事と思う。しかしその苦みにまた添えて今度のような問題をいってやらねばならぬ事を考えると俺は全く気が滅入ってしまった。のみならず、俺はお前がお栄さんに対する申出をまだ断念してないのを見ると、これはもしかすると今度の問題でお前がその決心を一層堅くしはしまいかという不安を感じた。不安といっては済まぬ気もするが、実際俺にはそれは不安だ。お前のためにも不安だが、父上がそれから受けられる苦痛を考えると、変に不安になる。俺は本統に自分の無力を歯がゆく思う。全く板ばさまりだ。もし自分に力があればこんな事もどうか出来る事かも知れない。しかし俺にはどうする事も出来ない。父上は父上の思い通りに主張される。お前はお前の考に従って何でもしようとする。両方それは正しく、両方に俺はよく同情出来る。が、さて自分の立場へ帰って、それを考える時に、俺は本統にどうしていいか分らなくなる。


 信行の「不安」は、結局は、父への配慮からくることがわかる。信行は「板ばさまり」だという。父も謙作も頑固で、自分の思いを貫こうとするが、信行には貫くべき「自分」がない。ただ父を苦しませたくない。あるいは、父と衝突したくないのだ。

 信行はどうしていいか分からない。

 

 全く俺は臆病なのだ。二、三年前一年ほど家を持たした事のある或る女とも、約束しながら、しまいに俺はそれを破ってしまった。これは恥ずべき事とは思うが、とても承知するはずのない父上との衝突が考えてもいやだったからだ。衝突はいいが、俺が勝ったとしても父上がそれで弱られる事を考えると、俺にはそれを押してやる気にはなれない。幸にその女も簡単に納得したからいいようなものの、こういう事はお前としては考えられない事かも知れない。それからお前がたつ前日にもちょっといったが、俺は今の生活をどうかして変えねばならぬという気を随分強く感じている。精しい事は長くなるから書けないが、あの時お前は「それなら直ぐ会社をよしたらよかろう」といったが、それすら俺には出来ない。今更にこんな事を書くまでもないが、どうして、こう弱いか自分でも歯がゆくなる。


 どうしていいか分からないので、自分の弱みを書く。「家を持たした事のある或る女」との「約束」って、愛人だった女との結婚の約束ということだろうが、それも、父との衝突がいやでその約束を破ってしまう。そんなに父と衝突したくないのなら、最初から家など持たせなければいいじゃないかということだが、そんな理屈が問題なわけではない。信行は、とにかく自分の恥をさらすことで、自分の弱さを口実にして、謙作にお栄との結婚を諦めさせようとしているわけだ。なぜ、そんなに謙作とお栄との結婚を嫌がるのか。ほんとうに父のことを思ってなのか。どうもそれだけではなさそうだが、その辺ははっきりしない。そして、結論を述べる。


 そこで仕方がない。俺は俺の希望を正直に書く。出来る事なら、どうかお栄さんの事を念(おも)い断(き)ってくれ。これは前の手紙にも書いた通り、必ずしも父上を本位にしていうのではない。その事は何故かお前の将来を暗いものとして思わせる。そしてなお出来る事なら、この機会に思い切ってお栄さんと別れてくれ。これは後になれば皆にいい事だったという風になると思う。それはお前の意地としては、なかなか承知しにくい事とは思う。が、それをもしお前が承知してくれれば吾々皆が助かる事だ。俺は俺の過失に重ねて、こんな虫のいい事をいえた義理でない事をよく知っている。が、俺の希望を正直現わせばこういうより他ない。


 ここに至って、信行の「希望」がいったい何を願ってなのかがさっぱり分からなくなる。「必ずしも父上を本位にしていうのではない」というわけだが、じゃあ、「何故かお前の将来を暗いものとして思わせる」との言葉通り、謙作の将来を思ってのことなのかと思うと、「もしお前が承知してくれれば吾々皆が助かる事だ」と言う。「吾々皆」って誰なのか。「吾々皆」がどう助かるというのか。

 要するに、信行や父や、その他の親族が、この結婚を快く思っていない。親族の恥だと思っているということだろう。世間から非難されるようなことを謙作にしてほしくない。それが本音であろう。

 こうやって信行の気持ちを謙作側から見ていると、信行のずるさばかりが目に立つわけだが、しかし、世の中ってこんなもんじゃなかろうかという気もするのだ。何かをしようとすると、決まって反対するヤツがいて、ああだこうだと理由をつけてくる。それがどこかすっきりしなくて、どうして反対なのかが分からない。いろいろ挙げてくる理由を分析しても、どこに焦点があるのか分からないままだ。しかし、反対だという意志だけは、妙に強固で、揺るがない。その訳の分からない「反対」の奥の奥にあるものは、結局はエゴイズムだと思うのだが、それが絶対に表面には出てこないのだ。

 そう考えると、信行の場合は、そのエゴイズムが比較的みえているので、まだカワイイとも言えるのかもしれない。

 さて、謙作は、この手紙を読んでどう思ったのか。「不快」に決まっているが、まあ、見てみよう。


 謙作は漸く、この彼には不快な手紙を読みおわった。そしてやはり彼は何よりも父の怒りに対する怒りで一杯になった。しかも彼は自分の怒りが必ずしも正しいとは考えなかった。同様に父の怒りも正しいとは考えられなかった。
 とにかく彼は腹が立った。愛子の事に、「そういう事は自分でやったらいいだろう」と変に冷たくいい切った父が、何時か彼には浸み込んでいた。そしてその時はそれをかなり不快に感じたが、段々には彼は「それもいい」という風に考えるようになった。それ故、今度の場合でも父が不快を感ずる事は勿論予期していたが、それほどに怒り、それほどに命令的な態度を執るという事は考えていなかったから、何となく腹が立って仕方なかった。


 謙作の、あるいは志賀直哉の面目躍如だ。いきなり「不快な手紙」と来る。しかしその後の「怒り」は複雑だ。

 謙作はまず「父の怒りに対する怒り」を感じたわけだが、その自分の怒りと父の怒りの「正しさ」を信じられない。それは、まず父が「不快」には思うだろうとは予想していたが、そんなに怒るとは思っていなかったということがあるらしい。父の激怒は、謙作には「意外」だったのだ。なぜ、そんなに怒るんだろう。関係ないでしょ、あんたには。愛子との結婚の件も、勝手にしろと冷たかった父だから、そんなふうに激怒するとは思っていなかったというのだ。

 改めて考えてみる。自分の女房を寝取った父親が囲っていた妾と、女房が父親との間にできた子どもが結婚するということに対して、「ふざけるな!」って怒ることがそんなに「意外」なことだろうか? 話が複雑すぎて、感情も込み入りすぎて、ぼくだったら、もうどう反応していいか分からないってところだけど、取りあえず、「ふざけるな! なにやってんだ! おまえたちは!」ってぐらいは思うだろうと思う。それを細かく分析すれば、謙作は、父にとっては、淫乱な女房の子どもで、したがって女房の同類で、その父の父はまさに淫乱な唾棄すべき男で、その男が妾にしたお栄だって淫乱な女で、つまりは、淫乱な女房の息子が、淫乱な親父の淫乱な妾と結婚だって? って話になる。やっぱり、「怒る」でしょ。それは。誰に対して、というのではなくて、そうした状況そのものに腹が立つ。激怒する。人間として当然という気がする。

 だからこそ、謙作は父の怒りに対する自分の怒りが「正しい」とは思えないわけだ。けれどもまた父の怒りも「正しい」とは思えない。それは、少なくとも自分のお栄に対する愛情には一片の淫乱さもないと信じているからだ。

 しかしである。そもそも、自分の出自が分かったあとに、なお、謙作はお栄と結婚することに拘っているのはなぜなのかということが気になるのである。信行はそれは「意地」だというのだが、もちろん、謙作にとってはたぶん意地ではない。お栄に対する愛情は、一緒に生活しているうちにごく自然に生じた愛情なのだと思われる。もうすこし実情に即したことを言えば、一緒に暮らしているうちに謙作はお栄に情欲を感じるようになった。その情欲を満足させるためには結婚しかないと思った、ということもある。もちろん情欲だけの問題ではないが、やはりそのことは大きいし、それは前にはっきり書かれていたことだ。

 しかし、そうだとしても、自分が祖父の子であることを知った今、その妾であったお栄と結婚することにためらいを感じるほうが普通だろう。それを諦めないというところに、謙作の不思議さがある。自分の愛情が純粋であればそれで十分で、その他のことは考慮の余地はないということなのだろうか。そうだとすれば、ずいぶん子どもっぽいことではある。

 そういう謙作に対して、ああ、もうやめてよ、これ以上ゴチャゴチャするの。もうほんとにメンドクサイよ。勘弁してよ。という信行の気持ちも痛いほど分かるわけである。

 ここで謙作がお栄とさっぱり縁を切って別れてくれれば、「皆が助かる」というのも確かなことで、いっそ読者も助かるっていいたいところである。

 それにしても、怒りが「正しい」か「正しくない」かを考えてもしょうがないのではなかろうか。そういう「分別」を離れたところに怒りは生じるもので、だからこそまた怒りは純粋であるともいえるのだ。確か三木清がそんなことを言っていたように思うのだが。

 

 


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