池西言水
牛部屋の昼見る草の蛍かな
半紙
●
この句については、小西甚一の解説を。
農家を訪れた人ならご存知のはずだが、牛部屋に明るいのは無い。「くらやみに牛」ってのは、そこから出たんですか──。そんなことはどうでもよろしい。大切なのは、そのうす暗い牛部屋の、いかにも田舎らしい感じなんです。貴族趣味の人ならば、あら厭だとおっしゃる汚ない感じの処ですが、田舎育ちのわたくしなんかには、その田舎らしさがなつかしく回想されます。歌人や連歌師ならば、もちろん相手にしません。そこに、草が摘んでる。たぶん牛の飼料と見えます。おや、蛍だ。昼だけれど、淡い光が呼吸みたいに草の間からもれる──。可憐な蛍を昼の牛部屋にみつけた把握は、なかなか凡でない。この牛部屋にいま牛が居るのか居ないのかで、すこし情景が違ってくるけれど、わたくしは、居ないのが良いと信じる。なぜですか──って? 「牛がのそのそ動くのでは、蛍の可憐な光が生きてきません。静けさのなかであってこそ、光の微妙な影が感じられるのです」と説明すれば芸術的な返事で、もし「夏の農家で、昼間に牛も人も居るわけがないさ。農繁期だぜ」とやれば、腕力的な解釈になる。
小西甚一「俳句の世界」講談社学術文庫
●
小西甚一の「俳句の世界」の初版は、1952年。小西先生36歳の著作。(大学で、ちょっとだけ教わったので「先生」です。)
北原白秋の「昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の薮を出でて消えたり」を思い出させる句ですね。
白秋の歌は、小西先生の言う「貴族趣味」といってもいいでしょう。短歌的な優雅さがあります。
それに対して、この言水の句は、「静けさの中の光の微妙な影」と同時に、牛部屋の「匂い」も感じられるところが俳諧たる所以でしょう。