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日本近代文学の森へ 268 志賀直哉『暗夜行路』 155  謝れない謙作  「後篇第四 九」 その2

2024-09-03 15:10:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 268 志賀直哉『暗夜行路』 155  謝れない謙作  「後篇第四 九」 その2

2024.9.3


 

 謙作とお栄は、次の駅で降りた。駅には、末松から電話がかかっていたので、それに出たところ、直子は軽い脳震盪を起こしたらしいが、ケガはないとのこと。謙作とお栄は、京都行きの電車に乗って、引き返した。


 謙作はどうしてそんな事をしたか自分でも分らなかった。発作というより説明のしようがなかった。怪我がなく済んだのはせめてもの幸だったが、直子と気持の上が、どうなるか、それを想うと重苦しい不快(いや)な気持がした。


 謙作はなぜ直子を突き落としたのか自分でも分からないという。それを説明するには「発作」としかいえないと思う。癇癪の発作だ。癇癪は、突発的で理不尽なものだから、その発作なら、いちおう説明がつく。しかし、その説明は、自分自身を納得させるには有効かもしれないが、他者を説得するにはどうだろう。

 お栄は、謙作の「発作」の原因が、自分にあるのではないかと気をまわす。


 「謙さん、何か直子さんの事で気にいらない事でもあるの? 貴方は前と大変人が変ったように思うけど……」
 謙作は返事をしなかった。
 「それは元から苛立つ性(たち)じゃああったが、それが大変烈しくなったから」
 「それは私の生活が悪いからですよ。直子には何も関係のない事です。私がもっと《しっかり》しなければいけないんだ」
 「私が一緒にいるんで、何か気不味(きまず)い事でもあるんじゃないかと思った事もあるけど……」
 「そんな事はない。そんな事は決してありません」
 「そりゃあ私も実はそう思ってるの。直子さんとは大変いいし、そんな事はないとは思ってるんだけど、他人が入るために家(うち)が揉めるというのは世間にはよくある事ですからね」
 「その点は大丈夫だ。直子も貴女(あなた)を他人とは思っていないんだから」
 「そう。私は本統にそれをありがたいと思ってるのよ。だけど近頃のように謙さんが苛立つのを見ると、其所(そこ)に何かわけがあるんじゃないかと思って……」
 「気候のせいですよ。今頃は何時(いつ)だって私はこうなんだ」
 「それはそうかも知れないが、もう少し直子さんに優しくして上げないと可哀想よ。直子さんのためばかりじゃあ、ありませんよ。今日みたいな事をして、もしお乳でも止まったら、それこそ大変ですよ」
 赤児の事をいわれると謙作は一言もなかった。


 謙作は、自分の苛立ちは「私の生活」が悪いからで、直子には関係のないことだと言い張るわけだが、直子の過ちを知らないお栄には、そういうしかないということだろう。しかし、案外これが謙作の本音なのかもしれない。

 直子が過ちを犯したことは事実だが、それはあくまで「過ち」であり、それを謙作は「許している」と思っている。いや、「許すべき」だと思っている。その上で、自分の中に起きた不快感を、自分だけの力でなんとか克服しなければならないと思っている。その心の中の作業においては、直子は「関係ない」のだ。自分だけの問題なのだ。自分だけの問題として取り組み、乗り越えたいのだ。

 謙作の中には、「しっかりしなければならない」という強迫観念がある。自分の出生にどんな暗い秘密があろうとも、それに負けまいとして生きてきた。だから、自分の周囲にどんなことが起ころうとも、自分は「しっかりした自分」を保持して、生きていかねばならない。直子が何をしようと、それが「過ち」に過ぎないならば、それを「許し」、そこから生じる不快感をなんとか自分の力で払拭し、「しっかり」と生活しなければならない。決して、そこで、女遊びなどに走ってはいけない。

 直子の告白の直後に、当の直子に「お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる」と言い放った気持ちは、その後もずっと続いているのだ。この極端な「自己中心主義」。「自分さえよければそれでいい」という意味の「自己中心主義」ではなくて、何事も、「自分だけ」の問題として捉え、「自分だけ」の問題として解決しなければならないという、強迫めいた意識。これはいったいどこから来ているのだろう。

 これはあくまでもぼくの推測だが、やはりキリスト教道徳があるのではないだろうか。性欲の問題で、信仰を捨てた謙作だが、それでも、女遊びに明け暮れる日々から脱出しようとしてもがいた。信仰は捨てても、そこで植え付けられた厳しい道徳観念は、謙作の心に深く根をおろしていたのだろう。

 神の助けを借りなくても、自分のことは自分で始末する、そんな「しっかりした自分」を作り上げてやる、それが謙作のいわば「意地」だったのではなかろうか。

 直子は、駅長室に、末松と一緒にいた。

 

 駅長室では末松と直子と二人ぼんやりしていた。直子は脚の高い椅子に腰かけ、まるで訊問前の女犯人とでもいうような様子で凝(じ)っとしていた。
 「まだ医者が来ないんだ」末松は椅子を立って来た。
 直子はちょっと顔をあげたが、直ぐ眼を伏せてしまった。お栄が傍へ行くと、直子は泣き出した。そして赤児を受取り、泣きながら黙って乳を含ませた。
 「本統に吃驚(びっくり)した。大した事でなく、何よりでした。──《おつも》、如何(どう)? 水か何かで冷したの?」
 「…………」
 直子は返事をしなかった。直子は自分の身体(からだ)よりも心に受けた傷で口が利けないという風だった。
 「どうも、あれが実に困るんです。乗遅れるといって、四十分で直ぐ出る列車があるんですから、少しも狼狽(あわ)てる必要はないんですが、僅(わず)か四十分のために命がけの事をなさるんで……。しかしお怪我がないようで何よりでした」
 「大変御面倒をかけました」謙作は頭を下げた。
 「嘱託の医者が留守で、町医者を頼めばよかったのを、直ぐ帰るというので、そのままにしたのですが、どうしましょう。近所の医者を呼びましょうか?」
 「どうなんだ」謙作は顧みていった。
 「少しぼんやりしてられるようだが、かえって、直ぐ此方(こっち)から医者へ行った方がよくはないか」
 「それじゃあ、折角ですが、私の方で、連れて行きます。大変御厄介をかけ、申訳ありません」
 末松は俥(くるま)をいいに行った。
 謙作は直子の傍(わき)へよって行った。彼は何といおうか、いう言葉がなかった。何をいうにしても努力が要(い)った。直子の決して寄せつけないというような態度が、謙作の気持の自由を奪った。
 「歩けるか?」
 直子は下を向いたまま点頭(うなず)いた。
 「頭の具合はどうなんだ」
 今度は返事をしなかった。
 末松が帰って来た。
 「俥は直ぐ来る」
 謙作は直子の手から赤児を受取った。赤児は乳の呑みかけだったので急に烈しく泣き出した。謙作はかまわず泣き叫ぶまま抱いて、駅長と助役にもう一度礼をいい、一人先ヘ出口の方へ歩いて行った。

 


 毎度のことながら、巧い文章だとは思うのだが、ここでは、どうも「視点」が定まらない。この小説は第三人称の小説だから、謙作の「視点」一本で進むわけではないが、その都度、微妙に「視点」を移動させている。それが効果的な場面ももちろんあるが、ここでは、混乱のように感じてしまう。

 「ぼんやりしていた」直子のことを、志賀は、「まるで訊問前の女犯人とでもいうような様子で凝(じ)っとしていた。」と書くわけだが、ここは、明らかに「謙作の視点」をとっている。つまり「謙作にはこう見えた」という書き方だ。

 直子は「被害者」であり、「加害者」でもなければ、まして「女犯人」でもない。「訊問」されなければならないのは、わびなければならないのは、謙作のほうだ。それなのに、直子はぼんやりと、訊問を待っている、ように、謙作には見えるというのだ。

 それは、謙作が直子に対して、申し訳ないという感情に支配されているのではなく、むしろ難詰したい気持ちでいっぱいだったことの現れであろう。どうして、無理矢理乗ってこようとしたんだ、どうしてオレの言うとおりにしなかったんだ、と次から次へと出てくる非難の言葉を、ぐっと飲み込んでいるからこその「見え方」だ。

 それにしても、この「比喩」は、残酷な比喩で、志賀直哉という人の酷薄さを見せつけられる気がする。

 その一方で、お栄の言葉にも返事をしない直子を、「直子は自分の身体(からだ)よりも心に受けた傷で口が利けないという風だった。」と書く。ここは、「謙作の視点」とは微妙にずれる。むしろ、直子の気持ちを汲んでの「見え方」である。このずれかたが、どうも気持ち悪い。すっきりしない。

 謙作は直子の「傷」をもちろん感じ取っているのだ、悪いことをしたと思ってはいるのだ、ということかもしれないが、そこがこの後に生きてこない。それが「混乱」と感じる理由である。

 とにかく、謙作は「悪いことをした」と思っているのかもしれないが、それが態度に、言葉に出ない。素直に、「すまなかった。癇癪を起こしてしまって。どこか痛くはないか。大丈夫か。」と言えばいいのに、それが言えない。

 むしろ、駅員の言う、非難がましい言葉こそが、謙作の心に共感をもって受け入れられる。謙作も同じことを思っていたに違いない。直子が命を賭けたのは、「40分」のためではない。赤ん坊への「乳」のためだ。そのことの切実さを、謙作は理解しない。しようともしない。だから、謙作は直子から赤ん坊をむしりとるように受け取ると、乳を飲みかけだった赤ん坊を「かまわず泣き叫ぶまま抱いて」、「一人先へ」歩いていってしまうのだ。まるで、復讐をするかのように。乳なんかに拘るからお前はあんな目にあうんだ。赤ん坊なんて、これでいいんだ。そう、謙作の後ろ姿は叫んでいる。

 一言の詫びも言えないのは、「直子の決して寄せつけないというような態度が、謙作の気持の自由を奪った」からだというように書いてあるが、それでも、まず、直子をいたわる、心配する、わびる、言葉ぐらいは言えないわけではなかろう。そんなときに「気持ちの自由」なぞ、微塵も要らぬ。

 まあ、こんなふうに読んでくると、この謙作という男の今風に言えば「好感度」は、だだ下がりで、(今までだって、「好感度」は、低かったわけだが。)この男はいったいこの先どうしようというのだろうと心配になる。

 直子は、こんな男にどこまでついていけるのだろうか。それも心配になる。結論は、もう出ているのだが、それはそれとして、もうしばらく心配しながら、読んでいくこととしよう。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 267 志賀直哉『暗夜行路』 154  そして「事件」は起きた  「後篇第四 九」 その1

2024-08-16 17:17:30 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 267 志賀直哉『暗夜行路』 154  そして「事件」は起きた  「後篇第四 九」 その1

2024.8.16


 

 生まれてきた子どもが自分の子どもだと確信して、喜びよりも安堵した謙作だが、それで直子に対するわだかまりが解消したわけではなかった。

 そのわだかまりの正体がなんなのかも分からないままに、ある日、それが自分でも思ってもみない行動として現れた。ここが、この長編小説「暗夜行路」の一つのクライマックスである。

 この章の冒頭は、隆子が生まれてしばらく経った梅雨時の気分から始まる。いやな予感を感じさせる文章は、相変わらずうまい。


 謙作は毎年(まいねん)春の終りから夏の初めにかけきっと頭を悪くした。殊に梅雨期(ばいうき)のじめじめした空気には打克(うちか)てず、肉体では半病人のように弱る一方、気持だけは変に苛々して、自分で自分をどうにも持ちあつかう事が多かった。


 今ではまず使わない「頭を悪くした」という言い方は、今でいうと「鬱っぽい」とか、「気分がすぐれない」とかいう感じだろうか。桂文楽の「鰻の幇間(たいこ)」の中に、タイコ持ちが、暑い街中を歩きながら、こう暑くちゃどうも「脳が悪い」というようなことを呟く場面がある。こっちのほうは、もっと使わないが、明治あたりでは「頭」を「脳」と言ったようである。古典落語でよく聞く言葉が、こういう小説にも出てくると、ちょっと嬉しい。小説を読むことの喜びの一つは、言葉との出会いだ。

 「自分で自分をどうにも持ちあつかう」という表現にも引っかかる。今では「自分で自分を持ちあつかいかねる」となるべきところで、志賀の誤りだろうと思ったが、念のため「日本国語大辞典」で調べてみると、そうではなかった。「もちあつかう」の説明はこうだ。

 

(1)手で持って動かしたり使ったりする。あつかう。とりあつかう。
*吾輩は猫である〔1905~06〕〈夏目漱石〉一〇「姉の箸を引ったくって、持ちあつかひ悪(にく)い奴を無理に持ちあつかって居る」
(2)もてなす。あしらう。対処する。あつかう。
*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・三・二「柳之助は未だ興有りげに持扱(モチアツカ)って、『解りませんか』」
*疑惑〔1913〕〈近松秋江〉「そんな卑しいものにはお前を待遇(モチアツカ)はなかった」
(3)取り扱いに困る。処置に苦しむ。もてあます。当惑する。もてあつかう。
*あきらめ〔1911〕〈田村俊子〉三〇「提げた片手の傘を持ち扱かって富枝は肩に凝りさへ覚えるやうであった」
*海に生くる人々〔1926〕〈葉山嘉樹〉二七「自分では大して自由にならない体を持ち扱って退屈し切ってゐた」

 

 ここでは、(3)の意味である。この「暗夜行路」の後篇が書かれたのが、だいたい1937年ぐらいだから、それ以前にこの(3)での用例があることが分かる。やっぱり、志賀直哉あたりだと、言葉の誤用というのはほとんどないようだ。なんか変な使い方だなあという言葉はよくみかけるのだが、それでも、当時の使い方だと考えておくほうが無難なようだ。

 それはそれとして、ここから信じられないような「事件」が起こる。


 ある日、前からの約束で、彼は末松、お栄、直子らと宝塚へ遊びに行く事にした。その朝は珍しく、彼の気分も静かだった。丁度彼方(むこう)で昼飯になるよう、九時何分かの汽車に乗る事にした。
 出がけ、直子の支度が遅れ、彼は門の前で待ちながらいくらか苛立つのを感じたが、この時はどうか我慢した。
 末松とは七条駅で落ちあった。暫く立話をしている内に改札が始まった。彼はふと傍(わき)に直子とお栄の姿が見えない事に気がつくと、
 「便所かな」とつぶやいたが、「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」と直ぐ腹が立って来た。
 二人は便所の方へ行こうとした。その時彼方からお栄一人急足で来て、
 「二人の切符を頂戴」といった。
 「どうしたんです。もう切符切ってるんですよ」
 「どうぞお先へいらして下さい。今赤ちゃんのおむつを更(か)えてるの」
 「何だって、今、そんな事をしてるのかな。そんなら、貴方(あなた)は末松と先へいって下さい」
 謙作は苛立ちながら、二人の切符を末松へ渡し、その方へ急いだ。
 「有料便所ですよ」背後(うしろ)からお栄がいった。


 宝塚へ遊びに行くことにした朝は、「珍しく」謙作の気分も「静か」だったのに、ちょっとしたことで、苛立った。出がけに直子が支度で遅れたからだ。これは今でもよくあることで、とくに女性の場合は、いろいろと支度が多くて、予定の時間に家を出られないことが多いようだ。もっとも、これも人それぞれで、我が家の場合は、出がけにもたついて時間をとるのはほとんどぼくである。家内は、何やってるの、はやくしなさいよ、とは絶対に言わないが、これが逆だと、「何やってるんだ」と夫が叱責することになる。こういうシーンは玄関にとどまらず、昨今の、スーパーや、バスの中で頻繁に見かけるところだ。

 ちょっとした苛立ちは、少しずつ膨らむ。門の前では「どうか我慢した」とあるので、かなりの苛立ちだったことが分かるが、駅について、直子の姿が見えないことに気づいた謙作は、それが直子が便所にいっていることを察知して、「直ぐ腹が立って来た」。苛立ちは、腹立ちへと変化したのだ。「苛立ち」はまだ漠然としているが、「腹立ち」は具体的な形をとる。すなわち「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」という「言語化」である。これを言葉に出したわけではないだろうが、心の中では、ほとんどヒステリックに叫んでいる。

 列車に乗ってから、車内で用を足すのは、今でもそれほど愉快なことではない。まして、車内にある便所は、数も少なく、使用者も少ないし、万一列車が途中で止まりでもしたら、それこそ大変だ。だから、今でも電車に乗る前には、それほど行きたくなくてもトイレには行くことが多い。まして、直子は乳飲み子を抱えている。それなのに、「乗ってからやればいいのに馬鹿な奴だ」というのは、いくらイライラしていたといっても、思いやりに欠けるし、想像力に欠けるとしかいいようがない。

 しかし、謙作にとっては、ちゃんと列車に乗り込むこと「だけ」が大事なのであって、それを阻害する「直子の事情」はどうでもいいわけである。というように、理性的に分析することなど苛立った謙作にはできないのであり、「苛立ち」から「腹立ち」へと移行しつつ、その感情はもう制御できないところまでエスカレートしている。

 そんなにまで謙作の苛立ちと腹立ちがエスカレートしてしまう根源には、やはり直子に対する怒りがあることは言うまでもないだろう。


 直子は丁度赤児を抱上げ、片手で帯の間から蟇口(がまぐち)を出している所だった。
 「おい。早くしないか。何だって、今頃、そんな物を更(か)えているんだ」
 「気持悪がって、泣くんですもの」
 「泣いたって関(かま)わしないじゃないか。それよりも、皆もう外へ出てるんだ。赤坊(あかんぼ)は此方(こっち)へ出しなさい」
 彼は引(ひつ)たくるように赤児(あこご)を受取ると、半分馳けるようにして改札口ヘ向った。プラットフォームではもう発車の号鈴が消魂(けたたま)しく嗚っていた。
 「一人後(あと)から来ます」切符を切らしながら振返ると、直子は馳足(かけあし)とも急足(いそぎあし)ともつかぬすり足のような馳け方をして来る。直子は馳けながら、いま更えた襁褓(むつき)の風呂敷を結んでいる。
 「もっと早く馳けろ!」謙作は外聞も何も関っていられない気持で怒鳴った。

 


 この辺はもうカメラの移動撮影そのものだ。赤ん坊のオムツを包んだ風呂敷を結びながら、「馳足とも急足ともつかぬすり足のような馳け方」をしてついてくる直子の姿は、謙作の目に映った情景だが、その謙作も走っているので、目に見えるような立体的な映像が現出している。

 直子にしてみれば、赤ん坊が濡れたオムツを気持ち悪がって泣くのを放ってはおけない。なんとかしてやりたいのだ。だが謙作は、「泣いたって関わしないじゃないか」と言い放つ。そんなことは車内でどうにでもなる。今は、列車に乗り込むことが大事だ、というわけだ。しかし、考えてみれば、たかが宝塚へ行くだけのこと。九州にでもいくわけじゃない。列車を1本遅らせればいいだけの話だ。それなのに、謙作は、直子がモタモタ走っているのを見ていられない。

 謙作の頭には、遅れてくる「直子を待つ」という選択肢などまったく浮かぶ余地もなく、列車に乗り込んでしまう。


 「どうでもなれ」そう思いながら彼は二段ずつ跨いでブリッジを馳け上ったが、それを降りる時はさすがに少し用心した。
 汽車は静かに動き始めた。彼は片手で赤児をしっかり抱きしめながら乗った。
 「危い危い!」駅夫に声をかけられながら、直子が馳けて来た。汽車は丁度人の歩く位の速さで動いていた。
 「馬鹿! お前はもう帰れ!」
 「乗れてよ、ちょっと摑(つか)まえて下されば大丈夫乗れてよ」段々早くなるのについて小走りに馳けながら、直子は憐みを乞うような眼つきをした。
 「危いからよせ。もう帰れ!」
 「赤ちゃんのお乳があるから……」
 「よせ!」
 直子は無理に乗ろうとした。そして半分引きずられるような恰好をしながら漸(ようや)く片足を踏台へかけ、それへ立ったと思う瞬間、ほとんど発作的に、彼は片手でどんと強く直子の胸を突いてしまった。直子は歩廊へ仰向(あおむ)けに倒れ、惰性で一つ転がりまた仰向けになった。
 前の方の客車でそれを見ていた末松が直ぐ飛び下りた。
 謙作は此方(こっち)へ馳けて来る末松に大声で、
 「次の駅で降りる」といった。末松はちょっと点頭(うなず)き、急いで直子の方へ馳けて行った。
 遠く二、三人の駅員に抱き起されている直子の姿が見えた。
 「まあ、どうしたの?」お栄が驚いて来た。
 「私が突とばしたんだ」
 「…………」
 「危いからよせというのに無理に乗って来たんだ」謙作は亢奮(こうふん)を懸命に圧(おさ)えながら、
 「次の駅で降りましょう」といった。
 「謙さん。まあ、どうして……?」
 「自分でも分らない」
 直子が仰向けに俄れて行きながら此方(こっち)を見た変な眼つきが、謙作には堪えられなかった。それを想うと、もう取かえしがつかない気がした。

 

 息をもつがせず、とはこのことだ。今とは違って、列車の乗降口は、開いたままだったわけだから、走っている電車に飛び乗ったり、飛び降りたりは、日常茶飯事ではあっただろうが、これはもう常軌を逸した行為だ。

 駈けてくる直子、「人の歩く位の速さ」で動き出した列車、謙作がやめろと言っても、赤ん坊にお乳をやらねばという一心から、列車に飛び乗ろうとする直子、そして直子の片足が、列車の踏台にかかったその瞬間、あろうことか、謙作は直子を突き飛ばしてしまう。普通の展開なら、直子の手をとってひっぱりあげるところだ。それがまったく逆になる。人間の所業とは思えない。その所業の瞬間を、志賀直哉の筆は、鮮明に書き尽くすのだ。

 お栄に「どうして?」と問われても、謙作は「自分でも分からない」と答えるだけで、茫然自失の体である。謙作の脳裡には「仰向けに俄れて行きながら此方を見た変な眼つき」の直子の顔が映画のスローモーションのカットのように浮かび続けている。

 謙作が直子を列車から突き落とすという事件が「暗夜行路」には書かれているということは、なんとなく覚えていた。いや、ほとんど忘れていたといったほうがいいかもしれない。何しろ、「暗夜行路」を通読したのは高校時代(あるいは大学時代?)のことで、それから60年近く経っているのだ。このシーンより、幼子を「丹毒」で亡くすシーンのほうが鮮明に記憶にある。それはそのシーンが、高校の国語の教科書に載っていたからだ。そして、短い部分ではあったけれど、それがあまりに印象的だったから、おもしろくないなあと思いつつ(たぶんそう思っていたはずだ)、通読したのだった。

 そのシーンが一つのクライマックスではあろうけれど、ここほどの「重大性」はない。子どもの死は悲しいけれど、それは、謙作の外側で起こったことで、謙作の責任ではない。しかし、この事件は、「自分では分からない」とはいえ、謙作がやってしまったことだ。せっかく、直子との生活をなんとか穏やかなものに戻しつつあったのに、これではもう「取り返しがつかない」に決まっている。

 謙作はいったいこの後、どうすればいいのだろう。それより、直子は大丈夫なのか? 

 

 


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日本近代文学の森へ 266 志賀直哉『暗夜行路』 153  癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作  「後篇第四 八」 その3

2024-08-03 10:13:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 266 志賀直哉『暗夜行路』 153  癇癪の真実、そして旅に出ちゃう謙作  「後篇第四 八」 その3

2022.8.3


 

 謙作の癇癪の発作のありようが「理解に苦しむ」と前回書いたところ、友人から、メールが来て、こんなことが書かれていた。引用の許可はもらっていないが、許してくれるだろう。

 

 着物を切り刻むは序の口、もっとしたいだろう、癇癪のつらいのは、際限がなくて、じぶんで抑制できないことなんだけど、そうか、それは分かってもらえないことなのか、と、来し方を振り返るのでありました。
 謙作の「おれがこうやって癇癪を起こすのは、お前の過ちを責めているんじゃないってことは、さんざん言ってるだろう。それがなぜ分からないんだ!」には、「うそつけ!おまえのせいでこれだけオレが苦しんでるって、もっと思い知らせてやりたいくせに!」とおもいました。
 作者にそれが分からないわけないから、謙作の内面を描いて、「お前の過ちを責めているんじゃないっ!」は、まさかウソだろう、なにか表現上のテクニックかなとしか、きみの解説を拝読しても、信じがたい。
 だって癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ、「おれのツラさ、分かってるだろ、おまえは」なんだから心底は。

 

 なるほど、友人には、謙作の心底がよく分かるのだ。「癇癪おこしてるヤツって、ほんと、身勝手よ」って彼は言うけれど、実際に癇癪を起こしたことのないぼくにはその「身勝手」さがやっぱり理解できない。

 自分の人生を思い起こしてみれば、幼少のミギリはそれこそ癇癪起こして身勝手の限りを尽くしたはずだけど、物心ついてからは、ほとんどその記憶がない。記憶がないだけで、実際には何やってきたのか知らないが、まあ、だいたいのことは、耐えてきたような気がする。少なくとも他人の着物を切り裂いたり、皿を庭に投げ捨てたことなんてない。

 そういうことになったのは、たぶん、癇癪ばかり起こして荒れる祖母と、それに耐えたり立ち向かったりする母とのバトルのかなかで、幼い頃に育ったことが強いトラウマとなって、とにかく争いごとを極端に嫌うようになったのだろうと思われる。自分さえ我慢していれば、争いにならないから我慢しようという基本的スタンスは、結局のところ、現実に果敢に立ち向かうといった姿勢をぼくから奪ったようにも思える。まあ、職場では、なにかというと校長とかにたてついて、争いごとの種をまき散らしてきたけれど、それはまた別の分野の話。

 まあ、祖母の癇癪は経験しているはずだけど、子どもにはよく理解出来なかったし、それ以外に、ぼくの周囲にはあんまり癇癪持ちはいなかったし。経験不足は否めない。

 いくらこんなことを書いても詮無きことだからやめるが、文学鑑賞には、どうしても自分の人生経験というバイアスが入るよね、ということだ。でも、そういうバイアスを、こうした友人の感想が是正してくれるのは、とてもありがたい。そうか、癇癪っていうのは、そんなに身勝手なのか、と少なくとも頭では分かるから。

 さて、「自分で自分を支配しなければならぬ」と思っていた謙作だが、末松の助言も頭によみがえり、旅に出るようになった。


 彼は久しく遠退いていた、古社寺、古美術行脚を思い立った。高野山、室生寺、など二、三日がけの旅になる事もあった。丁度晩秋で、景色も美しい時だった。そして彼は少しずつ日頃の自分を取りもどして行った。
 秋が過ぎ、出産が近づいた。彼は総てでいくらかの自制が出来て来ると、直子に対し、乱暴する事も少くなった。自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考えると、彼は無理にも苛立つ自身を圧えつけるよう心掛けた。


 奈良には志賀直哉住居跡という建物もあるが、志賀直哉は、奈良を愛していたのだろう。美しい景色を見ていると、「少しずつ日頃の自分を取りもどして行った」とあるが、これが最後のシーンへの伏線でもあろう。

 しかし、ここも、ほんとうのところ、ぼくにはよく分からないのだ。よくテレビの旅番組などで、キレイな景色をみて、「あ〜、癒やされる〜」とか、悩み事があったけど、旅にでて温泉に入ったらすっかり解放された気分になったとかいった場面がよく流れるが、いつも、イマイチ分からない。なぜだかよく分からないのだが、簡単にいうと、どこへいっても、「自分自身」はあんまり変わらない。謙作のいう「日頃の自分」が、どういうものなのか分からない、といってもいい。キレイな景色を見れば、ぼくなりに感動はするが、それで「日頃の自分」が取り戻せたというふうには感じないのだ。

 謙作には「日頃の自分」という何か動かしがたい確固とした「自分」があるらしいが、ぼくには、そういう「自分」がないということなのかもしれない。その場その場の「自分」はいるが、それに、たいした一貫性がない。平野啓一郎が最近よく言っている「分人」というものなのかもしれない。

 ま、それはそれとして(どうも今日は脇道が多い)、謙作は、落ち着いてきたとはいえ、「まだ」直子に乱暴してきたのだ。妊娠している妻にどの程度かはしらないが、乱暴するというのは、いくら身勝手な癇癪だとはいえ、大変なことで、そのことを自覚している謙作は、「自分の乱暴が胎児に及ぼす結果を考える」という理性的な判断で、辛うじて乱暴を「少なく」したというわけで、いやはや、どうにも始末におえぬ癇癪ではある。


 出産はその暮れ、── 延びて、正月の七草前という事で、彼は前の例もあるので、直子の軽挙(かるはずみ)にはやかましくいっていた。そして今度はお栄もいるし、万事手ぬかりなくやるつもりだったが、正月になり、十日過ぎてもまだ産がないと、少し心配になって来た。そして彼は今度は病院で産をして、一卜月位は其所で養生する方がいいというような事をいい出したが、医者に相談すると、これだけの人手があればその必要はあるまいといった。その上、直子もそれを望まなかったため、入院の話はそのまま沙汰止みになった。
 謙作はもし一卜月数え違いではないかという不安を感じた。二月に入って産があり、月を逆算してそれが自分の朝鮮旅行中にでもなっていたらと思うと、慄然(ぞっ)とした。


 最初の子は丹毒で生後間もなく亡くなっているので、謙作もずいぶんと気を遣った。「直子の軽挙」とは、何を指しているのか、読み返してみたが、該当箇所は見つからなかった。丹毒で死なせてしまった、ということ全体を「軽挙」と言っているのだろうか。そうだったら、直子もかわいそう。

 ここで、謙作が、生まれてくる子が、自分の子ではないんじゃないかという不安をずっと抱えていたことがはっきり分かる。

 最初の子は、自分の子であることに疑いこそ持たなかった謙作だが、それでも、その赤ん坊を「抱いてみる気になれなかった」謙作である。どこまでも「自分の出生」が影を落としているのだ。


 しかし一月末のある日、彼は大和小泉にある片桐石州の屋敷に出かけ、それから歩いて法隆寺へ廻り、夜に入って帰って来ると、自家(うち)では赤児(あかご)が生れていた。充分に発育し、そのため、前より遥かに産が苦しかったという丸々とした女の赤児を見て、彼は何かなし、ほっと息をついた。彼が丁度法隆寺にいた頃生れた児ゆえ、一字をとって隆子と命名した。


 赤ん坊が生まれそうになると、旅に出ちゃう謙作である。最初の子のときは、こともあろうに、鞍馬の火祭見物に深夜に出かけている。これは単なる偶然というよりも、出産への怖れなのではなかろうか。現在では、出産に立ち会うことが常識になっているが、ぼくの時代でさえ、立ち会うことはむしろ出来なかったのではなかろうか。たとえ出来たとしても、ぼくにはムリだった。

 謙作の生きた時代には、「立ち会う」ことなど、論外だったはずだが、まさか、旅に出ちゃうことが常識だったとも思えない。

 「丸々とした女の赤児」を見て、喜びではなくてほっとした謙作。隆子はどうなっていくのだろうか、ちょっと心配である。しかし、ほんとうに心配なのは、実は直子のとのことなのだった。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 265 志賀直哉『暗夜行路』 152  謙作の癇癪  「後篇第四 八」 その2

2024-07-20 11:30:53 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 265 志賀直哉『暗夜行路』 152  謙作の癇癪  「後篇第四 八」 その2

2024.7.20


 

 直子の妊娠を知った謙作は、自分たち夫婦の関係が「決定的なものになった」と感じたが、それは、子どもが出来たことで、「本当の夫婦になった」と言ったようなことではなくて、むしろ「重苦しい感じ」を起こさせたのだった。もちろん、子どもが自分の子ではないのではないかという疑惑をどうしても否定できなかったからである。

 そんな謙作の生活は次第に荒んでいった。


 夏が過ぎ、漸(ようや)く秋に入ったが、依然謙作の心の状態はよくなかった。それは心の状態というよりむしろ不摂生から生理的に身体(からだ)をこわしてしまったのだ。彼はこんな事では仕方ないとよく思い思いしたが、だらしない悪習慣からはなかなか起きかえる事が出来なかった。彼は甚(ひど)く弱々しいみじめな気持になるかと思うと、発作的に癇癪(かんしゃく)を起こし、食卓の食器を洗いざらい庭の踏石に叩きつけたりした。ある時は裁縫鋏(さいほうばさみ)で直子の着ている着物を襟から背中まで裁(た)ちきったりした事がある。こんな場合、彼ではその時ぎりの癇癪なのだが、直子は直ぐその源(みなもと)を自身の過失まで持って行き、無言に凝(じ)っと、忍んでいるのだ。そしてその気持が反射すると、謙作は一層苛立ち、それ以上の乱暴を働かずにはいられなかった。
 お栄は前から謙作の癇癪を知っていたが、そんな風にそれを実行するのは余り見た事がなく、僅(わず)か一、二年の間に何故、謙作がそれほどに変ったか、分らないらしかった。


 ここで言われる「不摂生」、「だらしない悪習慣」とは、間違いなく、女遊びである。東京にいたころの放蕩から、何とか立ち直ろうとして、尾道に逃れた謙作だったわけだが、その「病」がふたたび再発したのだ。

 お栄に対する欲情を感じたときも、謙作は、激しい放蕩生活に墜ちた。その時は、性欲のはけ口としての放蕩だったのだが、今回は、一種の絶望感からくる放蕩だ。しかし、もちろん、そんなことをしたって、癒やされるわけではない。むしろ自己嫌悪が増大するだけだ。元来が真面目で、正義感の強い謙作だから、そういう身を持ち崩した自分に我慢がならないのだ。

 そういう謙作が起こす「癇癪」は、尋常ではない。食器を庭に投げて壊すだけでもびっくりするのに、直子の着物をズタズタにハサミで切り裂くなんて、想像を絶する所業だ。癇癪持ちというのは、そこまでするのが当たり前なのだろうか。ぼくが癇癪を起こすことはまったくないので、理解に苦しむところだ。

 そうした尋常じゃない癇癪を、謙作は、「彼ではその時ぎりの癇癪なのだが、直子は直ぐその源を自身の過失まで持って行き、無言に凝っと、忍んでいるのだ。」と認識する。まるで「その時ぎりの癇癪」なんだから、そんなに深刻にとることはないのだといったふうである。しかも、その癇癪は、「自分の中だけから来る癇癪」と思っているふしがあって、だからこそ、直子がその癇癪の原因が自分にあると思うことが、自然のこととは思っていないようなのだ。「直子は直ぐその源を自身の過失まで持って行き、無言に凝っと、忍んでいるのだ。」という書き方の中の「直ぐ」が問題だ。

 今でも日常会話によく出てくるように、「お前は何かというと直ぐ怒るんだから。」とか、「君は直ぐそうやって、すねるからいけない。」とか、「直ぐ」には、どこか非難めいたニュアンスがある。「怒ったり、すねたりする必要なんかないのに」という意味合いが込められているわけである。時代が違えば言葉の意味やニュアンスも変わるのだろうが、この謙作の場合も、直子が謙作の癇癪の原因を自分のせいだと考えるのは筋違いなんだけどなあというニュアンスが感じられる。

 だから、次には、「そしてその気持が反射すると、謙作は一層苛立ち、それ以上の乱暴を働かずにはいられなかった。」と続くことになるのだ。「おれがこうやって癇癪を起こすのは、お前の過ちを責めているんじゃないってことは、さんざん言ってるだろう。それがなぜ分からないんだ!」という「苛立ち」である。その「苛立ち」が、「それ以上の乱暴を働かす」ことになるなんて、なんという理不尽さだろう。いったい「それ以上の乱暴」って何? って思う。直子にも直接暴力をふるったということだろうか。どうもそうらしい。

 お栄もそんな謙作をはたで見ていたことになるが、なぜ謙作がそれほど荒れるのか「分からないらしかった」というのも、もっともである。けれど、お栄は、さすがに黙ってみていることはできず、かといって自分が中に入ってなんとかすることもできず、結局、謙作の兄の信行に手紙を書くことしかなかった。

 

  ある時謙作は鎌倉の信行から、その内遊びに行くという便りを貰った。そして謙作は直ぐ返事を書いたが、後で、それはお栄が手紙で信行を呼んだのだという事に気がついた。彼は追いかけに直ぐ断りの手紙を出してしまった。しかしまた、彼は折角来るという信行をそんなにして断った事が気になり出した。彼は来てもらうかわりに此方から出掛けようかとも迷ったが、それを断行するだけの気力はなかった。そして会えば必ず総てを打明けるだろうと思うと、それだけでも今は会いたくなかった。

 

 いろいろグズグズと迷う謙作である。信行にぜんぶ打ち明けてしまえば、スッキリするのにと思うのだが、謙作はどうしてもそれをしたくない。自分で、自分だけで解決したい。なにしろ、当の直子ですら関係ないから顔出すなといった謙作だ。(しかし、そこまで言うなら、直子に暴力をふるうな、って言いたいけどね)

 信行に「総てを打明ける」ことがなぜいやなのか。友人の末松には打ち明けたではないか。やっぱり、肉親となると、また感情は別に働くのだろう。もともと信行とは気が合わなかったということもあるだろう。

 その点、友人の末松は、すでに事情を知っているから、謙作に旅を勧めるのだった。


 末松は自分も一緒に行くからと、切りに旅行を勧め、二人ともまだ知らない山陰方面の温泉案内などを持って来て、誘ったが、彼はなかなかその気にならなかった。末松の好意はよく分っていながら、そうなると意固地になる自身をどうする事も出来なかった。そしてとにかく自分で自分を支配しなければならぬ、そう決心するのだ。

 


 友人というのはありがたいものだ。しかし、謙作は、とことん意固地だ。そういう謙作の決心とは、「自分で自分を支配しなければならぬ」ということ。しかし、これほど難しいことはない。かつて、この「決心」を実現できた人間が一人でもいただろうか。

 話をそんな大げさにしなくても、日本の近代文学の大きなテーマに「近代的自我の確立」という問題がかつてあった。今はどうなってるのか詳しいことは知らないが、志賀直哉の時代には、この「近代的自我」の問題が、作家の中に根深く存在し、そこで個々の作家が苦闘した、ということがあったのだろうと思う。

 


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日本近代文学の森へ 264 志賀直哉『暗夜行路』 151  疑惑  「後篇第四 八」 その1

2024-07-06 19:41:49 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 264 志賀直哉『暗夜行路』 151  疑惑  「後篇第四 八」 その1

2024.7.6


 

 その後平和な日々が過ぎたが、あくまでそれは表面的なもので、夫婦の仲は悪化し、謙作の生活はすさんでいった。


 その後、衣笠村の家(うち)では平和な日が過ぎた。少なくも外見だけは思いの外、平和な日が過ぎた。お栄と直子との関係も謙作の予想通りによかった。それから謙作と直子との関係も悪くはなかった。しかしこれはどういっていいか、──夫婦として一面病的に惹き合うものが出来たと同時に、其所(そこ)にはどうしても全心で抱合えない空隙が残された。そして病的に惹き合う事が強ければ強いほど、あとは悪かった。
 妻の過失がそのまま肉情の剌戟になるという事はこの上ない恥ずべき事だ、彼はそう思いながら、二人の間に感ぜられる空隙がどうにも気になる所から、そんな事ででもなお、直子に対する元通りなる愛情を呼起こしたかったのである。病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさえした。

 

 「夫婦として一面病的に惹き合うものが出来たと同時に、其所(そこ)にはどうしても全心で抱合えない空隙が残された。」というのは、いったいどういうことなのか、分かりにくい。「病的に惹き合うものが出来た」とはどういうことなのか。直子の性的過失を、観念的には赦そうとしながら、謙作という男の肉体は、そこにどうしようもなく性的な刺激を受けてしまったということらしい。まあ、安物の恋愛小説なんかにはよくある設定である。

 その分かりにくさは、すぐに具体例によって解消される。いわく「病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさえした。」というのである。その「描写」を会話で再現しないだけましだが、それにしても、醜悪な行為である。そうした痴態を、志賀は平然と書く。これが岩野泡鳴だったら、こんなことではすまないし、別に驚きもしないだろうが、あの「高潔さ」を何となくイメージさせる志賀直哉だから、そしてこの小説が「私小説的」なところがあるので、なおさらびっくりする。

 自分でも「恥ずべきことだ」と認識しながら、そういう痴態を演じてしまう人間というもののどうしようもなさ。そこから志賀直哉は目を離そうとしない。これを冷徹なリアリストと呼ぶべきだろうか。


 直子がまた妊娠した事を知ったのは、それから間もなくだった。彼は指を折るまでもなく、それが朝鮮行以前である事は分っていたが、いよいよ直子との関係も決定的なものになったと思うと、今更、重苦しい感じが起って来た。

 

 直子の妊娠と聞いて、謙作はすぐに「指を折る」。(「指を折るまでもなく」と書かれているが、心の中で折っているのは明白だ。)「要の子ではない。自分の子だと確認する。けれども、それは果たして「確信」だったろうか。自分が朝鮮に行く前に、直子と要が二人で会っていないという保証はどこにもない。男は、これは自分の子だという確信をなかなか持ちにくいものだと相場は決まっている。

 それはそれとしても、その後にくる「いよいよ直子との関係も決定的なものになったと思うと、今更、重苦しい感じが起って来た。」とはどういうことなのだろう。

 「直子との関係も決定的なものになった」というのは、直子と自分が生まれてくる子どもの親であるという関係が、「決定的」なものになったと思ったということだろうか。それなら、「重苦しい感じ」ではなくて、「晴れ晴れした感じ」とか、「嬉しい感じ」とか、そういった親になる喜びではなかろうか。それがなぜ「重苦しい」のか。

 それは、やはり、生まれてくる子どもの父親が自分ではなく、要ではないのかという疑いを拭いきれなかったからだろう。だから「決定的」なのは、親が自分だということなのではなくて、とにかく、直子と自分の間に子どもが生まれ、それが誰の子であれ、その子を自分たちの子どもとして受け入れなくてはならないという意味での「決定的」なのだ。まわりくどい言い方しかできないが、そうでもいうしかない。

 あるいは、そういうこととは別に、子どもが生まれることによって、直子との関係が今までとはまったく異なった新しい段階に入ったという意味での「決定的」なのかもしれない。


 謙作の心は時々自ら堪えきれないほど弱々しくなる事がよくあった。そういう時、彼は子供のようにお栄の懐(ふところ)に抱(いだ)かれたいような気になるのだが、まさかにそれは出来なかった。そして同じ心持で直子の胸に頭をつけて行けば何か鉄板(てついた)のようなものをふと感じ、彼は夢から覚めたような気持になった。


 今風に言えば、「出た〜、お栄!」といったところだろうか。結局のところ、謙作にとっての「女」とは、自分の母であり、母の代わりであったお栄であったので、その「愛」は、「その懐に抱かれる」以外の何ものでもなかったのだ、と、結論づけたくなるほどだ。

 お栄に「母」を感じた謙作は、その懐に抱かれることを夢見て、あろうことか結婚の申し込みをする。けれども、それが断られると、直子と結婚していちからやり直そうとしたのだが、そこでも直子に求めたのは「母」であった。しかも、その母親は夫を裏切り、あろうことか、夫の父と過ちを犯してしまい謙作を生んだ。その上、謙作を捨てて、謙作にとっては祖父にあたる「実の父」の家にあずけてしまい、その祖父の妾であったお栄が謙作を育てる、という、まあ、ありえないほど複雑な事情を抱えている謙作なのだが、それだけに、直子の過ちは、自分の母の過ちと重なり、生まれてくる子が万が一にも自分の子でなかったとしたら、いったい自分の人生はなんだったのかと、世をはかなむのは当然のことだろう。そういうすべてを含んでの「重苦しさ」であったはずなのだ。

 だからほんとうは、謙作は直子を赦すことなぞできるはずがないのだ。そうしたことを理解しないで、ここだけ読んだ読者は、なんだこの甘ったれ男が! ってことになるだろうが、そこは十分に忖度しなければならないところだろう。

 室生犀星などは(実在の人物だが)、謙作よりももっとひどい境遇に生まれた。加賀藩の足軽組頭が女中に手をつけて生まれた犀星は、生後すぐに近くのお寺に預けられ、犀星は生涯実の母に会えなかった。もらわれていった雨宝院というお寺の住職室生真乗の「内縁の妻」赤井ハツの私生児として戸籍登録され、ハツに育てられたのだが、このハツという女は片っ端から貰い子をして、その子たちを虐待し、小さい頃から働きにだして金を稼がせ、自分は酒だ役者だと遊び暮らした女だ。犀星は粗暴に育ち、小学校3年のとき、事件をおこして(小学校で先生の来るまえに、教卓の上に座って切腹のマネをしていたところを、やってきた先生に叱られ、先生が「やれるもんならやってみろ」と言ったところ、ほんとうにナイフを腹に突き刺したとかいう事件。不正確かもしれません。)退学となり、以後学校というものに行っていない。犀星は死ぬまでそのハツを恨み、自分の文学を「復讐の文学」と呼んだのだった……なんてことを書いていたら切りがないのだが、本当の話だ。

 謙作の境遇なんか、それに比べれば屁でもないといえばいえるが、人間というものは、そんなに簡単に理解できるものではないのだということは、肝に銘じておきたい。そしてそのことを何よりもよく教えてくれるのが文学というものなのだ。

 

 

 


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