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日本近代文学の森へ 263 志賀直哉『暗夜行路』 150 密雲不雨  「後篇第四 七」 その5

2024-06-14 14:49:07 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 263 志賀直哉『暗夜行路』 150 密雲不雨  「後篇第四 七」 その5

2024.6.14


 

 疲れ切った謙作は、茶屋に入り、末松にことの次第を話そうとするが、なかなか切り出せない。

 

 少時(しばらく)して二人は二年坂を登り、其所(そこ)の茶屋に入った。謙作は縁の籐椅子に行って、倒れるように腰かけたが、今は心身の疲労から眼を開いていられなかった。節々妙に力が抜け、身動きも出来ぬ心持だった。これは病気になったのかも知れぬと彼は思った。そして、
 「茶が来たよ。そっちへやろうか」末松にこう声をかけられた時には謙作はいつか、眠りかけていた。
 「どうしたんだ」
 「寝不足なんだ。それにこの天気でどうにもならない」
 謙作は物憂い身体を漸く起こすと敷居際から這うような恰好で、自分の座蒲団へ来て坐った。
 「大変な参り方じゃあないか」
 「実は君に話したい事があるんだ。しかしそれを話すまいと思うんでなおいけない」
 末松はちょっと変な顔をした。
 「…………」
 「持て余しているんだ。僕の気持の上の事だが」
 しかし謙作はまだいうまいと思っている。いえばきっと後悔する事が分っていた。
 「気持の上の事?」
 「ああ、丁度今日の天気見たように不愉快な気持なんだ」
 「どういうんだ」
 「何れ話す。しかし今日はいいたくない」

 


 今日の「天気」が重要な役割を果たしている。今日の天気のために、からだがいうことをきかない。今日の天気のように不愉快な気持ちだ。謙作は、天気の支配下にある。この天気は、謙作の感情そのものだ。

 謙作は、末松に、以前末松がその関係に悩んでいた商売女のことに話題を転じる。嫉妬に苦しんでいた末松の気持ちと自分の気持ちを比べてみようと思ったわけだが、末松の場合は女に対する疑心暗鬼が問題だったのに対して、謙作の場合は、問題はすでにはっきりしているという違いがあった。少しずつ、謙作は語り始める。


 「疑心暗鬼ではない。しかし事件としては何も彼も済んでいて、迷う所は少しもないのだ。ただ、僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいるんだ。それだけなんだ。それは時の問題かも知れない。時が自然に僕の気持を其所まで持って行ってくれる、それまでは駄目なのかも知れないんだ。が、とにかく今は苦しい」
 「…………」
 「しかし一方ではこうも思っている。今直ぐ徹底的に僕が平和な気持になろうと望むのはかえって、自他ともに虚偽を作り出す事だとも。その意味で、取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが本統だという考えもあるんだ」
 「…………」
 「抽象的な事ばかりいっているが、そうなんだ」
 「大概分ったような気がする。そしてそれは水谷に関係した事なのか?」
 「いや、直接関係した事ではない。露骨にいえば水谷の友達で直子の従兄がある。それと直子が間違いをしたんだ」
 「…………」
 「それも直子自身に少しもそういう意志なしに起った事で、僕には直子が少しも憎めないのだ。再びそれを繰返さぬようにいって心から赦しているつもりなのだ。実際再びそういう事が起こるとは思えないし、事実直子にはほとんど罪はないのだ。それで総てはもう済んだはずなんだ。ところが、僕の気持だけが如何しても、本統に其所へ落ちついてくれない。何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」


 告白された直後、謙作は、とっさに観念的に事態を捉えることで、なんとかダメージを最小限に食い止めようとしているようにみえる。これは人間の自衛本能なのかもしれない。
「事件としては何も彼も済んでいて、迷う所は少しもない」というが、現実には「事件」はまだ始まったばかりで、「迷う」ところばかりだ。けれども、事実としては、妻は過ちを犯し、それを謙作に告白したが、謙作は、妻にはほとんど罪はないと考え、赦したつもりになっている。それでもう「事件」は終わりだとするのだ。ただ、「僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいる」ことが苦しいという。この「僕の気持ち」の問題は、時間の問題で、いずれ解決するだろうと言うのだ。

 もちろん、それは当座の頭の中での解決で、真の解決にはほど遠い。本当に厄介な問題は、「僕の気持ち」なのだ。

 謙作は、直子の告白を聞いた直後に、お前は邪魔だ、俺がこの問題を解決するんだと言い放ったのだが、それがどれだけ間違った認識だったのかを、あとで痛いほど知ることとなる。けれども、まだ、この時点では、謙作は、自分の感情が、あるいは肉体が、どれほどのダメージを受け、それがどんな行動を自分にとらせることになるのか知るよしもなかったのだ。

 いくら謙作が直子を「赦したつもり」になっていても、直子に「罪はない」と思っていても、それは謙作だけの勝手な判断にすぎない。それで「事件」が終わるわけではない。直子がどう思っているかが肝心なことで、直子は「赦された」と単純に思っているはずはない。「赦したつもり」の謙作が直子に憎しみをほんとうに感じないかといえば、それもおぼつかない。憎しみは、持続するとは限らない。波のように繰り返し打ち付けるかもしれないのだ。

 その予兆のようなものを、「何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」と表現していると言えるだろう。

 謙作の話を聞いて、末松は、時の経過を待つしかないが、それとともに、感情を意志で乗り越えるべきだと言う。

 


 「それは君のいうように時の経過を待つより仕方ないかも知れない。現在はむしろそれが自然だよ」
 「それより仕方のない事だ」
 「無理な註文かも知れないが、事件として解決のついた事なら、余り拘泥しない方がいい。拘泥した所で、いい結果は生れないから。つまらぬ犠牲を払うのは馬鹿馬鹿しい」
 「ただ、当事者となると、よく分っている事で、その通り気持が落ちついてくれないのが始末に悪いんだ」
 「本統にそうだ。しかし意志的にも努力するのだな。そうしなければ直子さんが可哀想だ。感情の問題には相違ないが、君のように事件が十二分に分っているとすれば、感情以上に意志を働かして、それを圧えつけてしまうのは人間としても立派な事だと思う」
 「君のいう事に間違いはない。しかし僕としてはそれは最も不得手な事だからね。それとたとえ直子に罪がなかったとはいえ、僕たちの関係からいえば今まで全然なかったもの、あるいは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端な事をいえば仮に再び同じ事が起っても動かないような関係を。──もっとも、こんな事をいうのからして、君のいう事を本統に意志してない証拠かも知れないが」
 「まあ、それは無理ないと思うけど……」
 「密雲不雨という言葉があるが、そういう実にいやな気持がしている」
 「それはそうだろう。しかしとにかく、君にとって、これは一つの試練だから、そのつもりで充分自重すべきだな」

 


 時の経過を待つよりしかたがないという末松だが、「事件として解決のついた事なら、余り拘泥しない方がいい」という。しかし、これもまた観念的な言い方だ。ついさっき起きた(少なくとも謙作の心の中で起きた)事件が、すでに解決済みということはないだろう。頭では解決していても、謙作の感情がついていかないのだから、それを「解決」とはいえない。いろいろと「拘泥する」ことがあるから、謙作の心も落ち着かないのだ。「時の経過を待つ」というのは、座してただのうのうと待つことを言うのではない。むしろ謙作の言うように、「取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取る」ことだ。その「経過」には、当然ながら様々な「拘泥」があるはずだ。相手をなじり、追求し、罵倒し、といったそれこそ泥まみれの「経過」があるはずだ。その「経過」がなくて、「赦す」ことなどできるはずがないのだ。

 お前は邪魔だと直子に言った謙作も、この「事件」が「夫婦関係」の中で起きていることを知らないわけではない。しかし、この「事件」が、夫婦関係の根幹を揺るがすものだとまでは、まだ感じていない。

 だから、「たとえ直子に罪がなかったとはいえ、僕たちの関係からいえば今まで全然なかったもの、あるいは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端な事をいえば仮に再び同じ事が起っても動かないような関係を」というようなトンチンカンなことを考えるのだ。ことは、そんなに単純に観念的に運ぶものではないことも、やがて謙作は知るはずだ。

 「密雲不雨」という天候に関する言葉が、この後の展開を見事に暗示する。「密雲不雨」とは、「兆候はあるのに、依然として事が起こらないことのたとえ」だが、謙作は、夫婦関係の新たな姿を模索しながら(たとえトンチンカンであったとしても)、「事件」が決して解決済みではないことを実は痛切に感じ取っているのだ。むしろ、これから何が起きるのか、不安の真っ只中にいるといったほうがいいのだろう。

 そしてこの「七」は、二人が見た飛行機が、深草に不時着したという号外の件を挿入して終わる。夫婦関係の崩壊を暗示するかのような不気味な幕切れである。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 262 志賀直哉『暗夜行路』 149 またまた誤読訂正  「後篇第四 六〜七」 その4

2024-05-28 11:21:14 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 262 志賀直哉『暗夜行路』 149 またまた誤読訂正  「後篇第四 六〜七」 その4

2024.5.28



 どうもだんだんボケてきたのだろうか。「誤読問題」が続いている。

 前回、どうもひどい誤読をしたようだといって、お詫びと訂正をしたばかりなのだが、ふたたび、お詫びと訂正をしなければならなくなった。これが「最終決着」だといいのだが。

 「誤読」はどこにあったのか。

 

謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々の事を考えると、多くが結局一人角力になる所を想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。──自分が直ぐこれをいったのは知らず知らず解決をやはり自身の内だけに求めていた事に初めて気がついた。実際変な事だと思った。──

 

 この中の「お前」が誰を指すのかということだ。前々回では、これを「直子」ととった上で、問題は直子の過ちなのに、その問題の解決から直子を排除してしまうことの理不尽を指摘したのだが、その後、いやいやそれはあまりに非常識だ、そんなことを直子に言うはずがないではないか、「お前」は末松に決まっている、そう考え直して、「お詫びと訂正」に至ったわけである。

 しかし、それも間違いでないかと改めて思ったわけだ。

 それは、この前後をちゃんと読むと、謙作はまだ末松に直子の過ちについて何も語っていないことが分かるからだ。末松は、謙作の水谷への態度に関して、謙作のエゴイスティックな態度を非難しているだけなのだ。それなのに、謙作がいきなり、「解決は総て自分に任かせてくれ」とか「お前は邪魔だ」など言うわけがない。もし末松がそんなことを言われたら、この後、末松が穏やかに話していることが納得できない。

 こういうわけで、やっぱり前々回にぼくが書いたことは、間違いではなかった。前回の「お詫びと訂正」こそが間違いだったということになる。

 しかし、それにしても、なぜこんな「誤読問題」が生じたのかを考えてみると、負け惜しみじゃないけど、志賀直哉の書き方が分かりにくいということに原因の一端がある。「自分が直ぐこれをいったのは」という部分だ。「直ぐ」という言葉が突然出てくる。「何から直ぐ」なのかが明示されない。最初の読みでは、直感的に、直子の告白を聞いて直ぐだと思ったわけだが、結局はそれが正しかったらしい。しかし、いくらなんでも、過ちの当事者を「邪魔」だというのは、エゴイズムにもほどがある、という「常識」が、「誤読」を引き起こした。謙作自身が「実際変な事だと思った」と言っているわけだが、ほんとに変だ。でも、それが正解だった、としか今は思えない。

 というわけで、前回分は、そっくりそのまま削除したいところだが、関連して引用した内田樹の文章が貴重なので、煩雑だがそのまま残し、恥をさらしておくことにしたい。

 さて、気を取り直して先へ行こう。

 

 大津からの電車はなかなか来なかった。
 謙作はぼんやり前の東山を見上げていたが、ふと異様な黒いものが風に逆らい、雲の中に動いているのに気がついた。そして彼は瞬間恐怖に近い気持に捕えられた。風で爆音が聴こえなかったためと、こんな日に如何にも想いがけなかったためと、その姿が雲で影のように見えていたためとで彼の頭にはそれが直ぐ飛行機として来なかったのだ。
 機体は将軍塚の上あたりを辛うじて越すと、そのまま、段々下がって行き、しまいには知恩院の屋根とすれすれにその彼方(むこう)へ姿を隠してしまった。
 「きっと落ちたぜ、円山へ落ちた。行って見ようか」
 陸軍最初の東京大阪間飛行で、二人とも新聞では知っていたが、今日はまさか来まいと思っていた。それが来たのだ。
 二人はそのまま粟田口の方へ急ぎ足に歩いて行った。

 

 ここに描き込まれている事故は、実際にあった事故らしい。こちらを参照。

 

 このエピソードを描き込んで、「第六」は終わる。「第七」は、そのまま飛行機事故のことから書き始められる。


 二人は円山から高台寺の下を清水の方へ歩いて行った。何処でも飛行機の噂をしているものはなかった。朝の新聞でもしそれを見ていなければ謙作は先刻(さっき)の機体を自分の幻視と思ったかも知れない。それほどそれは朧気にしか見えなかったし、またそれほど彼の頭にも危なっかしい所があった。彼は甚(ひど)く空虚な気持で、末松に前夜の事を話そうか話すまいか、迷いながら、絶えず他の事を饒舌(しゃべ)り続けていた。実は話すまいと彼は決心しているのだ。しかしその決心している自身が信用出来なかった。


 墜落してゆく飛行機の姿が幻視と思えるほどに、謙作の頭は「危なっかしい」ところがあった。冷静さを欠いている謙作の心理的状況をうまく描いている。


 彼は前にも尾道でちょっとこれに近い気持になった事がある。それは自分が祖父と母との不純な関係に生れた児(こ)だという事を知った時であるが、その時はそれを弾ね返すだけの力が何所(どこ)かに感ぜられた。そして実際弾ね返す事が出来たのだが、今度の事では何故かそういう力を彼は身内の何所にも感ずる事が出来なかった。こんな事では仕方がない、こう思って、踏張(ふんば)って見ても、泥沼に落込んだように足掻(あが)きがとれず、気持は下ヘ下へ沈むばかりだった。独身の時あって、二人になって何時(いつ)かそういう力を失ってしまった事を思うと淋しかった。

 

 自分に自信が持てず、空虚感を抱えている状態を、自分の出生の秘密を知った「尾道」時代にまで遡って重ねている。謙作も歳をとって(といってもまだ30歳前後)、気力が衰えたというわけだが、独身の時にあった「力」が、結婚したらなくなったというのは、どういうことなのだろうか。なんとなく分かるような気もするが、実感的には分からない。というのは、ぼくは23歳で結婚したので、いわゆる「独身時代」というのをほとんど経験したことがないからだ。

 結婚というのは、どこかで男の活力を削ぐものなのだろうか。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 261 志賀直哉『暗夜行路』 148 誤読訂正 そして「暗夜行路」の価値 「後篇第四 六」 その3

2024-05-19 11:42:28 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 261 志賀直哉『暗夜行路』 148 誤読訂正 そして「暗夜行路」の価値 「後篇第四 六」 その3

2024.5.19


 

 前回、どうやらぼくは大変な誤読をしたようだ。それは、前回の後半部分。次の引用部についての読み取りだ。


 しかし謙作は自身の過去が常に何かとの争闘であった事を考え、それが結局外界のものとの争闘ではなく、自身の内にあるそういうものとの争闘であった事を想わないではいられなかった。
 「つまり人より著しいんだ」と末松がいった。
 謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々の事を考えると、多くが結局一人角力になる所を想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。──自分が直ぐこれをいったのは知らず知らず解決をやはり自身の内だけに求めていた事に初めて気がついた。実際変な事だと思った。──
 「自身の内に住むものとの争闘で生涯を終る。それ位なら生れて来ない方がましだった」
 そんな意味をいうと、末松は「しかしそれでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂なしという境涯まで漕ぎつけさえすれば」といった。


 この部分の「直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。」の「お前」をなぜだか「直子」ととってしまったのだ。だから大変なことになった。「直子はこの問題から、除外されてしまったのだ。」というとんでも誤読になったわけである。

 いくらスーパーエゴイストたる謙作だとて、過ちを犯した当の本人を「問題から除外する」ことなどあるわけがない。あるわけがないことが書かれていたととってしまったのだから、ぼくは、えらく混乱したけど、まあ、謙作ならそこまで行くのかもしれない、と恐らく思ったのだろう。

 今、改めて冷静になって、ここを読めば、謙作の態度を難詰してくる末松に対して「お前は退いていてくれ」と言ったのだとしかとれない。どうしてそんな誤読をしたのか分からない。「魔が差した」ということだろうか。

 うるさい、ゴチャゴチャ言うな、オレの問題はオレが解決してみせる、お前は邪魔だ、というのは、友人の末松にこそ向けられた気分だったのだとすれば、すっきりする。それしかないよね。

 ここに、謹んでお詫びして訂正致します。(何度目か?)

 さて、それでもなお謙作の「強烈なエゴイズム」は、「健在」だ。

 謙作は、自分というものを度しがたいものとして捉えているし、その度しがたいものとの戦いとして自分の人生を捉えてもいるのだが、つまりそれだけ「自分」というものの存在を疑っていないのだといえる。

 思想家の内田樹と精神科医の春日武彦の対談「健全な肉体に狂気は宿る」(2005・角川書店)の中で、内田は、いわゆる「自分探し」を批判して、自分なんてどんどん変わっていって、結局何だか分からないものなんだから探しても意味がない、というようなことを言っているが、謙作(あるいは志賀直哉)の場合は、探すまでもなく、ちゃんと「ある」。把握されている。ということは、その「自分」というものは、変化しないもの、度しがたいほど変化しないものとして把握されているのだ。

 謙作が把握していた(あるいは把握していると思っていた)自分というものは、内田がいうような自分ではなくて、いってしまえば「近代的自我」とでもいうべきものなのだろうと思われるが、この点については深入りしない。いつか、言及できればいいとは思っているが。

 さて、この本で、「ひきこもり」が話題となり、「ひきこもり」の原因となることの一つに「罪悪感」があるとの春日の指摘に、内田はこんなふうに言っている。


 うーん、それは深刻だな。でも、いずれにしても、ソリューションの選択がちょっと早すぎるような気がするんですよ。罪悪感にしても、幼児虐待のトラウマにしても、とにかくレディメイドのお話にわりと簡単に乗ってしまうんじゃないですか。ひきこもりでも、解離症状でも、罪悪感でも、問題の生成プロセスは一人ひとり、みんな全然違うわけじゃないですか。

 ひどい親だ、ひどい先生だ、ひどい学校だ、と言っても、実際はその「ひどさ」には無限のグラデーションがあるわけでしょう? その差異というか、微妙な違いをどうやってていねいに言語化するか、という努力を放棄して、するっとできあいの物語のパッケージにはまり込んでしまう。ぼく、その安易さがどうも気になるんです。

 自分の身に起きている事柄には、「バリ」というか「バグ」というか、そういう「まだことばにできないような何か」、「できあいのストーリーでは説明できない余剰」があるわけでしょう。むしろ、その割り切れないところにその人の個性とか、スキームを書き換えるときの足がかりになるようなヒントがあったりすると思うんですけど、「バグ」や「ノイズ」を全部切り捨てて、できあいのチープでシンプルなソリューションに飛びついてしまう。

 これって、バランスを崩した人が、池の真ん中の小さな石の上にパッと飛び移ったようなもので、たしかに当面の足場はあるけれど、そこから先はもうどこにも行けないし、元へも戻れなくなっている。問題の解決を急いで安手のソリューションに飛びつくとむしろ「出口なし」ということになりそうな気がするんです。

 そういう行き止まり状況を打開して、そこから脱出するための手がかりというのは、実は自分の中にしかないんです。自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向、そういうものしか最終的には足場には使えないとぼくは思うんです。

 その誰にも共有されないもの、自分が他ならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめてそういう行き止まり状態から出られると思うんです。

 でも、今問題にしているケースだと、自分の中の特異点を切り捨てて、わかりやすいソリューションに飛びついてしまったことで、苦境に陥っているわけですから。そもそも出口を自分で塞いで「出口なし」にしちゃったんだから。


 自分というものは、結局のところ何だか分からないものだが、それでも自分の中に起きた問題というものを解決していくためには、出来合の「ソリューション」に飛びつくのではなく、自分をじっくり見つめていかねばならないということだが、特に、「自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向、そういうものしか最終的には足場には使えないとぼくは思うんです。
 その誰にも共有されないもの、自分が他ならぬこのような自分であることを決定づけるような特異点を、何とかして主題化・言語化することで、自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる。そのときにはじめてそういう行き止まり状態から出られると思うんです。」という指摘は、そのまま「暗夜行路」の「価値」を考える際に重要なことだと思われるのだ。

 養老孟司は、日本の私小説をこきおろして、こんなことを言っている。

 

なにしろいきなり「独立した自我」なんていわれても、フツーの人は、「そりゃ、俺のことか」と思うに違いなかったからである。それなら「俺ってなんだ」を具体的に吟味することになり、日本人は生真面目なところがあるから、自分が毎日することを懇切丁寧に記録し、それが私小説になった。だって、それ以外に、自分なんて、吟味のしようがないではないか。(「日本の無思想」2005・ちくま新書)

 

 養老孟司には、私小説を論じた本もあるらしいから、ここだけを取り上げるのもどうかとは思うが、「私小説」がそんなに単純なものじゃないことは、「暗夜行路」を読めばよく分かる。もちろん、「暗夜行路」は純然たる私小説ではないけれど。

 謙作が見つめていたのは、「自分の中にあるほんとうに個性的な部分、誰にも共有されない部分、誰にもまだ承認されていないような傾向」であり、それを何とかして「主題化・言語化」して、「自分がこの世界に存在することの必然性みたいなもの、宿命的なものを感知できる」ところまで行こうとしていたのだということになる。

 「暗夜行路」を読んでいて、時折ぶつかる「わけのわからないもの」は、謙作のなかの「バグ」であり、「バリ」である。謙作の幼児期のそれこそ特異なトラウマも、さまざまある人間のトラウマの「無限のバリエーション」のひとつであり、その「差異」を、志賀直哉は、飽くことなく「ていねいに言語化」する「努力」をしてきたわけだ。

 その果てにしか「行き止まり状態」からの脱出はない、と内田は言う。とすれば、謙作の「脱出」は、約束されたようなものではないか。それとも──。

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 260 志賀直哉『暗夜行路』 147 強烈なエゴイズム 「後篇第四 六」 その2

2024-05-07 15:10:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 260 志賀直哉『暗夜行路』 147 強烈なエゴイズム 「後篇第四 六」 その2

2024.5.7



 千本の終点からは楽に乗れた。(その頃其処が終点だった。)戸外(そと)も夕方のように灰色をしていたが、電車の中は一層薄暗く、その上、蒸々して、長くいると、嘔気(はきけ)でも催しそうに思われた。
 実際暫くすると、彼は湿気と《人いきれ》から堪えられなくなった。そして烏丸の御所の角まで来ると、急いで電車を飛降り、其所の帳場から人力に乗換えた。
 岡崎の下宿では玄関に立つと、偶然二階から馳け降りて来た末松と向い合った。


 直子の告白を聞いてから、家にいたたまれない思いから、謙作は末松に会いにいったようだ。

 朝家を出る時も、「南風は生暖かく、肌はじめじめし、頭は重かった。」とあるように、謙作の心の中の状況は、湿気の多い空気や「人いきれ」と、それに対する謙作の肉体の反応によって描かれる。

 こうした描き方は、普通のようにも思えるが、また志賀直哉独特のものにも思える。というか、こうした描き方は、志賀の「発明」じゃないかという気がする。検証はしてないけど。

 謙作の「嘔気(はきけ)」は、電車の中の「蒸し蒸し」した空気によって催されるが、しかし、もちろん謙作自身の心の葛藤から生じていることも確かなのだ。末松に会ったときも、

 

 謙作はその路次を出た。道の正面に近く見える東山は暗く霞み、その上を薄墨色の雲が騒しく飛んでいた。変に張りのない陰気臭い日だった。

 

という情景描写がある。謙作の内面が、風景そのものになっている趣である。それに続いて、一見なんのつながりもないような光景が描かれる。


 公園の運動場で自転車競争の練習をしている若者があった。赤色のシャツ、猿股の姿で、自転車の上に四ツ這いになり、頭を米揚機械のように動かしながら走っていた。向かい風では、上体を全体右に左に揺り動かし、如何にも苦しそうだが、再び追い風に来ると、急に楽になり、早くなる。謙作は往来端に立ち、少時それを眺めていた。


 末松が出てくるのを路地で待っている間に見た光景なのだが、どうしてこういう光景をここに書き入れる必要があったのか、不思議だ。自転車の練習をしている若者の姿に己の姿を投影したのか、などというのはうがち過ぎの読み方だろうけれど、それ以外に、この光景を書き込む必然性が見当たらない。

 しかし、小説は論文ではない。「必然性」、つまりは「論理性」によって展開しなければならないということはないのだ。見えたから書く、それでいい。それでいいのだが、ただ、これはフィクションだ。だから、志賀直哉が「見た」というような単純なものではなく、作者志賀直哉が、謙作にこういう光景を「見せている」わけで、やっぱり、「それは何故?」と問いたくなるのもまたやむを得ない。

 この奇妙な行動をする若者が、謙作の内面のなにかを語っている、というのではなく、内面に葛藤を抱えて吐き気すらおぼえている謙作が、この若者になぜか興味をもって、「少時それを眺めていた」という「事実」(フィクションの上での事実)が大事なのだ。「なぜ眺めていたのか」という問いはこの場合意味がない。「何故か」は分からないけど、「なにかを見つめてしまう」ということは、ぼくらの生活の中でよくあることだ。そして、「なぜか」が分からないまま、妙にその光景が長く心に止まり続けるということもまた多いものだ。

 末松は、道具屋で見つけた「藤原時代の器」をいつか見てくれと謙作に言うのだが、謙作は、興味を示さない。


 大津からの電車に乗る事にし、広道(ひろみち)の停留場で、其所のベンチに二人は腰を下ろした。
 「下らない奴を遠ざけるのは差支えないが、時任のように無闇と拘泥して憎むのはよくないよ」末松は突然こんな風に水谷の事をいい出した。
 「実際そうだ。それはよく分っているんだが、遠ざける過程としても自然憎む形になるんだ。悪い癖だと自分でも思っている。何でも最初から好悪の感情で来るから困るんだ。好悪が直様(すぐさま)此方(こっち)では善悪の判断になる。それが事実大概当るのだ」

 

 謙作の「悪い癖」は、この小説全体を通じて描かれているが、それを端的に謙作自身の自覚として語る重要な部分だ。

 「何でも最初から好悪の感情で来る」、そしてその「好悪の感情」がすぐに「善悪の判断」になる。それは、この「暗夜行路」の至るところでお目にかかってきたことだ。謙作は、それを「悪い癖」だというながら、「それが事実大概当るのだ」と結論する。

 そして、このことを巡って、以下末松との議論が展開する。これは、むしろ謙作の内部の「自問自答」というべきものだろう。


 「それは当ったように思うんだろう」
 「大概当る。人間に対してそうだし、何か一つの事柄に対してもそうだ。何かしら不快の感情が最初に来ると、大概その事にはそういうものが含まれているんだ」謙作は昨夜水谷が停車場へ来ていた事、それが不愉快で、知らず知らず糸を手繰って行った自身の妙な神経を想った。
 「そういう事もあるだろう。しかしそれを過信していられるのは傍(はた)の者には愉快でないな。何となく脅かされる。──少なくともそれだけに手頼(たよ)るのはいかんよ」
 「勿論、それだけには手頼らないが……」
 「気分の上では全く暴君だ。第一非常にイゴイスティックだ。──冷めたい打算がないからいいようなものの、傍の者はやっばり迷惑するぜ」
 「…………」
 「君自身がそうだというより、君の内にそういう暴君が同居している感じだな。だから、一番の被害者は君自身といえるかも知れない」
 「誰れにだってそういうものはある。僕と限った事はないよ」
 しかし謙作は自身の過去が常に何かとの争闘であった事を考え、それが結局外界のものとの争闘ではなく、自身の内にあるそういうものとの争闘であった事を想わないではいられなかった。
 「つまり人より著しいんだ」と末松がいった。
 謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々の事を考えると、多くが結局一人角力(ひとりずもう)になる所を想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退(ど)いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。──自分が直ぐこれをいったのは知らず知らず解決をやはり自身の内だけに求めていた事に初めて気がついた。実際変な事だと思った──
 「自身の内に住むものとの争闘で生涯を終る。それ位なら生れて来ない方が《まし》だった」そんな意味をいうと、末松は「しかしそれでいいのじゃないかな。それを続けて、結局憂(うれい)なしという境涯まで漕ぎつけさえすれば」といった。
 大津からの電車はなかなか来なかった。

*《  》は傍点部を示す。


 「暗夜行路」の中核となる重要な部分だ。

 「好悪の感情が善悪の判断」となってしまう謙作は、その「癖」を、「自分の中の暴君」と呼ぶ。(実際にこの言葉を発したのは末松だが)その「暴君」を、末松は「非常にイゴイスティック」だという。しかも、その「暴君」は、謙作自身ではなくて、謙作の中に「同居している」というのだ。

 そして謙作は、こんなことを言う。「自身の内に住むものとの争闘で生涯を終る。それ位なら生れて来ない方が《まし》だった。」

 痛切な述懐である。謙作は、自分の生涯をそんなふうに眺めている。なにか、切ないほどの実感がある。

 人生は、所詮、「自身の内に住むものとの争闘」ではないのか、と、読むものに反省を強いるからだ。もちろんぼくにとってもそれはあてはまる。それが何かということは、謙作の場合のようにはっきりと言語化できないが、たしかに、自分の中に「どうしようもないもの」があって、それを否定したり、ある時は妥協したり、まれに肯定したりしてかえってまた酷い否定感情に陥ったり、そんなことを繰り返す人生だったなあと今にして思う。で、結局、その「決着」はついていない。「決着」がつかぬまま「生涯を終わる」ことになりそうだ。

 それでも、鈍感なぼくは、「それ位なら生れて来ない方がましだった。」とは思わない。「それ位」でも、「生まれてきてよかった」と思えるくらいの、それこそ「境涯」に達しつつあるような気がする。しかし、それも「気がする」程度で、末松がいうように、「それを続けて、結局憂なしという境涯」には到底達しそうにないのである。

 それはそれとして、直子の告白を聞いた謙作が、何と言ったかが、初めてここで明らかになる。それは驚くべき言葉だった。引用を繰り返す。


直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退(ど)いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。

 

 謙作は、こんなことを言った自分自身を「変なことだ」と言っているが、「変」どころか、「非常に変」だ。

 「直子の事」というのは「直子の過ち」のことだ。責任は直子にある。だからその「解決」は、まずは直子がどうするかにかかっているはずだ。それなのに、謙作は、直子の過ちについての「解決」を、自分「だけ」の問題として考えている。事実としては、「直子だけ」の問題でもなく、「直子と謙作の間」の問題なのだ。

 「お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。」とは、なんというエゴイズムだろうか。これはオレだけの問題だ。オレが「妻に裏切られた」という事実から何をどう感じるかを、いや、感じることが「善悪」に直結してしまうオレをどう乗り越えるかを考えなければならない。そこにはもう、お前の存在はいらない。邪魔なのだ。オレだけに、取り組ませてくれ。そういう思いなのだろうが、これを言われた直子は、いったいどう思ったのだろうか。

 過ちを犯した直子への「憎しみ」すら入る余地のないエゴイズム。直子にしてみれば、「憎まれ」「ののしられ」たほうがどんなに楽かしれない。憎しみ、憎悪を受け止めてこそ、直子の悔い改めは始まるだろう。その果てにあるのが謙作の「赦し」だったら、直子はどんなに救われるだろう。

 しかし、「お前は邪魔だ」と謙作は言う。直子はこの問題から、除外されてしまったのだ。

 つまり、それほどまでに謙作の衝撃は大きかったということだ。それは、謙作の出生の秘密にも密接にかかわる問題だったからだ。自分が祖父と母との間に生まれた「不義の子」だということが、謙作のこれまでの人生すべてを覆い尽くす暗雲だった。謙作の強烈なエゴイズムも、この暗雲から生まれでたのではないかと思うほどだ。

 その暗雲から、直子との結婚でなんとか脱出できたと思ったのに、またもっと深い闇に包まれてしまったわけだから、謙作にしてみれば、もう直子どころではない。あっちへ行ってろ、オレは一人で戦う、そう言いたくなるのも、ある意味もっともなのだとも思える。

 この強烈なエゴイズムから、謙作はどのようにすれば「憂なしという境涯」に辿りつくことができるのだろうか。その過程をこれから志賀直哉は書いていこうとしているのだろうが、果たしてそれはどんな過程なのだろうか。

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 259 志賀直哉『暗夜行路』 146 告白のゆくえ 「後篇第四 六」 その1

2024-04-22 10:48:31 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 259 志賀直哉『暗夜行路』 146 告白のゆくえ 「後篇第四 六」 その1

2024.4.22


 

 直子の告白を聞いた謙作は、翌日、友人のもとを訪ねるために外出する。


 翌日謙作は一条通を東へ急足(いそぎあし)に歩いていた。南風は生暖かく、肌はじめじめし、頭は重かった。天候の故(せい)もあり、勿論寝不足の故もあったが、その割りには気分が冴え、気持は悪くなかった。つまり彼はしんで亢奮していた。ただ、落ちついて物が考えられなかった。断片的に色々な事があたかもそれが廻転しているもののようにチラチラと頭にひらめくばかりだった。

 


 「第四 6」は、こう始まる。「第四 5」が、三人称の視点から書かれた特異な部分だったが、ここではまた謙作の視点に戻っている。巧みな構成だ。

 短い文章なのだが、案外複雑なことが書かれている。「天候」「寝不足」のために「頭は重」かったが、「その割には」、「気分が冴え」「気持ちは悪くなかった」という。体調はイマイチなのだが、気分が妙に冴えていて、気持ちが悪いということがない。

 志賀直哉という人は、「気分」がすべてなので、この「気分は悪くない」というのは、重要だ。普通なら「不愉快だ」の一言で済んでしまうところを、「気分は悪くない」どころか、「気分が冴えている」というのだから、注目に値する。

 そうした「冴えて」「悪くない」気分は、「しんで亢奮していた」からだと説明される。説明といっても、くどくど説明しているわけではない。ただ「つまり」という接続詞でそれが表現されているのだ。簡潔の極み。

 「しんで亢奮していた」から、「落ち着いて物が考えられ」ず、「断片的に色々な事があたかもそれが廻転しているもののようにチラチラと頭にひらめくばかりだった。」というのだ。

 何か重大なことに直面して動揺しているとき、よくこんな感じになるような気がする。いろいろな場面、言葉などが、断片化して、頭に浮かぶのだが、それがちっともまとまらない。まとまらないのだが、どこかで、精神が高揚していて、それがときとして精神の深みをのぞき込むような形になる。

 謙作は、歩きながら、直子との会話を反芻して、自分の精神を整理しようとする。


 「直子を憎もうとは思わない。自分は赦す事が美徳だと思って赦したのではない。直子が憎めないから赦したのだ。また、その事に拘泥する結果が二重の不幸を生む事を知っているからだ」彼は前夜直子にいった事をまた頭の中で繰返していた。
 「赦す事はいい。実際それより仕方がない。……しかし結局馬鹿を見たのは自分だけだ。」

 


 直子の告白を聞いて、謙作はどのような反応を示したのか、ここで初めて明らかになる。謙作は、「赦した」のだ。

 それは、謙作の道徳観念からのことではなくて、「直子を憎めない」という、いわば「直子への愛」からのことだったという。そして、更に、「その事に拘泥する結果が二重の不幸を生む事を知っているからだ」という、いわば「処世上の判断」からでもあったという。

 直子の告白を聞いても、謙作は直子を憎めない。憎めないから赦すしかない。憎みつつ赦すということは謙作にはできないのだ。もちろん、そんなことは誰にだってできないだろう。「赦せない」なら、憎むことになる。人間の感情はそのようにできている。

 二番目の「処世上の判断」はこの際どうでもいい。それは、あくまで理性的な判断にすぎないし、謙作にとっては実際にはどうでもいいことだ。問題は、謙作の直子への感情のありかたなのだ。

 謙作が直子を「憎めない」以上、「赦すことはいい」という結論は当然の帰結だ。しかし、その次にくる、「しかし結局馬鹿を見たのは自分だけだ」が、強烈にリアルだ。

 直子への愛情とか、赦しとか、そういうところを出たあとに来る、「なんだ、おればっかりが貧乏くじか」というむなしさ。直子と要は、なんだかんだいっても「いい思い」(かどうかは知らないが)をして、まあ、それなりに苦しんでいるだろうけど、それとはまったく関係のないオレは、「いい思い」はまったくなくて、苦しみだけをひっかぶっている。なんなんだ、これは。オレはまったく「割に合わない」じゃないか。

 こういった思いが、実にリアルで、見事に言語化されている。周囲の目を気にする人間は、こんなことを思わない。というか、思っても言わない。小説はフィクションだけど、志賀直哉が、世間体を気にする人なら、こんなリアルなセリフを謙作に言わせないだろう。フィクションだからといって、謙作の思いが、作者志賀直哉と無関係だとは言えないからだ。

 そういう意味では、志賀直哉という人は、ほんとに正直な人なのだと思う。

 この後、北野天神の縁日の様子などが簡潔に、しかも印象的に描かれたあと、謙作の心中が引き続き語られる。こうした情景描写を適宜挟むうまさも、特筆ものだ。

 


 「つまり、この記憶が何事もなかったように二人の間で消えて行けば申分ない。──自分だけが忘れられず、直子が忘れてしまって、──忘れてしまったような顔をして、──いられたら── それでも自分は平気でいられるかしら?」今はそれでもいいように思えたが、実際自信は持てなかった。お互に忘れたような顔をしながら、憶い出している場合を想像すると怖しい気もした。
 「自分はまた放蕩を始めはしないだろうか」彼は両側の掛行燈(かけあんどう)の家々を見ながら、ふと、こんな事も想った。


 「お互に忘れたような顔をしながら、憶い出している場合を想像する」と、確かに「怖ろしい」。この記憶が、「二人の間で消えて行」くなどということは、「申分ない」に決まっているが、そんなことはあり得ないだろう。とすれば、今後の生活は、つまるところ、「お互に忘れたような顔をしながら、憶い出している」ということになるしかない。それが嫌なら、別れるしかないだろう。けれども、謙作は、「別れる」ということをまったく考えていないのだ。

 だから、「自分はまた放蕩を始めはしないだろうか」という思いがふと浮かぶのだ。それは、せっかく全力を尽くして抜け出したいまわしい過去への逆流であり、謙作としてはなんとしても避けたいところだが、「結局馬鹿を見たのは自分だけだ」という思いが、そんならオレはオレで遊んでどこが悪いという開き直りに向かう危険を感じていたのだろう。


 彼は今日の自分が変に上ずっているように思えて仕方なかった。末松に今日は何事も話すまい。もしきりだしてしまったら、恐らく下らぬ事まで饒舌(しゃべ)るに違いない。
 「そうだ、末松へやる土産物を忘れて来た」彼は帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。

 

 「しんで亢奮していた」という謙作のこころは、ここでは「変に上ずっている」と言い換えられる。「しん(芯)」が亢奮しているために、気持ちが「上ずっている」、つまりは、心の奥の「亢奮」が、気持ちの表面、つまりは「発せられる言葉」を上ずらせている。これも、なんだか、身近に感じられる感情の状態のような気がする。

 

 

 


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