ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

溶接について

2007-01-24 02:34:44 | 帰国・修論+αな日々
夜はミュンヘン留学の同期四人で飲む。そのうちの一人が来月から大学のプログラムでイタリアの設計事務所に派遣されるので、その壮行会にかこつけ久しぶりに。みなスタジオも同じだったので、思い出話やスタジオメンバーの近況、自分たちの進路など話す。僕は修論の暫定版を見てもらったり、ロンドン就活話をする。AtoZカフェでゴハンを食べて、近くの居酒屋でうどんすきをつつきつつ終電まで。

・・・

二極間の放電火花を用いるアーク溶接法は19世紀の終わりにロシアで発明され、まず造船業で適用された後に建築でも使われるようになったが、それ以前にも、部材を炉内で突き合わせるといった手段での初歩的な溶接合は行われていた。しかしそれも錬鉄が登場してからで、鋳鉄しか手に入らない時期には溶接は不可能だった。なぜなら、鋳鉄はその炭素含有量の多さのために、高温に熱すると割れてしまうからである。ちなみにボガーダスの(友人が記したという)鋳鉄建築の解説書のなかには、接合部について次のような記述が見られる。

ここで注意すべきことは(中略)ボガーダス氏はつねに各部材を結合す直前に各接触面にペンキを塗って接合部を完全に気密にするようにしていることである。この説明から明らかなことは、ばらばらの部材は全体として一つの安定したものになるように結合され、強度の点で単一の鋳鉄体と同じになることである。
「J.ボガーダスの鋳鉄建築(その構法と利点)」『建築雑誌195809』より

このボガーダスの解説書、今にして考えれば突っ込みどころが満載なのだが、当時鋳鉄建築が立たされていた立場などがうかがい知れて面白い資料である。

一度建てられた建物も各部分を損傷せずに容易に解体し、最初のと同様に完全に再び建てることができる。(中略)この性質は非常に重要なことである。鋳鉄の建物は現在のみならず、永久に国家の富としてのこるからである。(中略)破壊のかわりに今後は移動―単なる位置の変更―のみとなるであろう。
(同上)

1856年のアメリカで記されたこの解説書では、イギリスの鉄骨造建築はしばしば不完全なものとして指摘される。なぜならボガーダスが目指したのは、土台まで鋳鉄(基礎はさすがに石だけど)の文字通りの鋳鉄造建築だったからである。
(ただし錬鉄・鋼についてはまったく言及されていないところが注目に値する)
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