顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

高部城…中世の山城と高部宿

2021年08月25日 | 歴史散歩

ここ常陸国北部の中世城郭は佐竹氏の山城が多く、山を削って堀を掘ったり土塁を盛り上げた土の城で、建物も木造の簡易なものでした。小さな集落を抱えただけの高部城も、城下を持つ領国経営的な城には程遠く、隣国との攻防戦の戦略的な城だったと思われます。
現地案内板の城郭イメージ図に「図説茨城の城郭(茨城城郭研究会)」掲載の郭を重ねてみました。

コロナ禍で現地踏査をする予定が実行できないまま、とりあえず外観だけの紹介です。
(麓の常陸大宮市美和支所からみた高部城です。)

城は常陸国と下野国の国境で、山方と馬頭(栃木県)を東西に結ぶ街道と大子へ至る南北の道が交わり、那珂川支流の緒川が流れる要衝の地の標高291m(比高約130m)の館山に築かれています。

鎌倉時代末期(1260年頃)佐竹氏7代義胤の5男景義(高部氏初代)の築城と伝わります。その後数代にわたり高部氏がこの地を領しますが、佐竹氏の内紛、山入の乱が起こると明応9年(1500)前後に山入義藤に攻め落とされ、上檜沢城に移ります。永正元年(1504)佐竹義舜に敗れて大田城を追われた山入氏義は、小田野氏を頼り高部城に入りますが、佐竹氏と通じていた小田野氏に急襲され討たれたといわれます。

高部城はその後、佐竹氏分家の東家が治め、対抗する那須氏など下野国への守りを固める拠点でしたが、佐竹氏の秋田移封に伴い廃城になりました。

城跡一帯は、地元の人々が草刈などの整備に力を入れ、城下に位置する高部宿の町並みとともに保存活動を行っています。

江戸時代には、この高部宿は特産の和紙や葉煙草の流通が盛んで大きな商店が軒を連ねていました。山間の寒村にはその後の開発もなかったため、今でも当時の街並みが残る貴重な一画となっています。

明治20年(1887)に偕楽園(水戸市)の好文亭を模して当時の当主が建てたという、岡山家の木造三階櫓「喜雨亭」は、杜甫の詩「春夜喜雨」から名前をとり、茶会や歌会にも使用されていたとか、「花の友」という銘柄の「花」は梅花で庭園には梅の古木が多く見られるそうですが、日本酒醸造は廃業してしまいました。

間宮家住宅は明治35年(1902)の建築で、3階建ての洋館と2階建ての和風建築がつながった和洋折衷建築、銀行としても使われたり、ビリヤードやダンスができるホールなどもあったそうです。

秋すだれ旧街道はすぐに尽き  村上恵生
町並はモダンにユリの木黄葉して  高澤良一
山城の山あきらかに秋澄めり  上野青逸

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