顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

吉田正音楽記念館

2019年08月04日 | 日記

日立市に生まれ戦後歌謡界の巨星となった吉田正の音楽文化への功績を伝えるために平成16年に市内を見下ろすかみね公園の最高地点に建設されました。

大正10年(1921)1月20日、日立市で生まれた吉田正は、日立工業専修学校卒業後民間会社に勤務しましたが、昭和17年(1942)満州国に展開していた陸軍水戸歩兵第二連隊に入隊となりました。昭和19年(1944)急性盲腸炎のため部隊のペリリュー島転戦に参加できず満州に残リました。(この年の11月、約1万の部隊は約5万の米軍相手にペリリュー島で玉砕してしまいました)
その後シベリアに抑留され、従軍中に作曲した歌が読み人知らずのまま抑留地に広まり歌われていました。

※肖像写真は吉田正音楽記念館のホームページから借用いたしました。
(ここからはWikipediaの記述です)昭和23年8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌った。しかし、よみ人しらずで歌ったため伴奏のアコーディオンがついていけなかったこともあり、その回は鐘ひとつ(不合格)で終わったという。しかし、その後(翌週とのこと)、再びこの曲を歌う者が現れた。その際は、アコーディオンがその曲を知っていた(前回よみ人しらずで歌ったため)こともあり鐘三つで合格したのだが、「この曲は一体何の曲?」と話題となり、NHKがラジオにて作曲家をさがし始めることとなった。
しかし、募集直後から「私が作曲した」と偽ったものが何人も応募し、作曲家探しは混乱を極めてしまった。
一方、同月2月に舞鶴港へ復員し、静養の後、入隊前の会社に復帰した吉田正がその話をたまたま聞き、NHKへ名乗り出たことにより、正式な作曲家が確定。翌月佐伯孝夫が補作詞したこの曲が「異国の丘」として大ヒットし、吉田正が大作曲家としての足がかりとなった。(以上Wikipedia より)

今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春も来る


2階から4階にかけての吹き抜けには、690枚のレコードジャケットが飾られ、78回転のSPレコード時代からCDまで時代を彩った吉田メロディーの歩みを表現しています。

吉田正の居間の空間、吉田門下生のレッスンに使ったピアノや作曲に使った机などで、居間の雰囲気を再現しています。

思わずメロディーが浮かぶヒット曲の数々、歌謡曲は流行った頃を思い出させてくれるというすごい効能を持っています。
赤と黒のブルース(1955年/鶴田浩二)
有楽町で逢いましょう(1957年/フランク永井)
誰よりも君を愛す(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)
潮来笠(1960年/橋幸夫)
平成10年6月10日死去、77歳。没後、国民栄誉賞を受賞しました。

所在地/日立市宮田町5丁目2−25    (入場無料)
年中無休・午前10時〜午後6時(5階展望カフェは午後9時まで)