顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

佐竹宗家と百年戦争の本拠…山入城址 (常陸太田市)

2019年04月29日 | 歴史散歩

山入城は別名国安城、久慈川の支流である山田川西岸に聳える標高185.6mの要害山の山頂から、南東に向かう尾根一帯に築かれています。
常陸源氏の名門佐竹氏8代貞義の七男師義は足利尊氏に従って転戦し、観応2年(1351)に播磨国で討ち死にしますが、その戦功により子の与義が国安郷一帯などを与えられ、山入氏を称したといわれます。やがて小田野や高柿、依上などの庶家を周辺に独立させ、佐竹宗家と肩を並べる勢力を持つようになりました。

その後応永14年(1407)11代宗家の佐竹義盛に子がなく、関東管領上杉憲定の子を養子に迎えようとしたとき、山入与義、長倉義景などの有力支族がこれに反発し、宗家との間で山入の乱が起こりました。一旦鎮圧されましたが、山入氏はたびたび佐竹本家と対立し、延徳2年(1490)山入義藤・氏義の代には宗家15代佐竹義舜の太田城を奪い14年も占拠したこともありますが、のちに義舜の反撃に遭い、永正3年(1506)に山入城は落城し、氏義は子の義盛と共に殺され山入氏は味方した他の一族とともに滅ぼされ、100年にわたった内紛はようやく収束しました。

地元の方が建てた城の想定図です。山入城発掘報告書により平成23年12月に地元の国安げんき会が建てたとあります。一番下の郭が本城となっていますが、茨城城郭研究会の「茨城の城郭」では階段状の連郭式山城の一番高いところがⅠ郭、一番下がⅤ郭と表示されています。
発掘により山入氏以後の遺構や出土品が発見され、後の佐竹氏時代にも北の防衛や詰の城として使われたと想定されています。

最上段のⅠ郭の奥には3mくらいの櫓台があり小さな社が祀られています。

櫓台の上から見下ろしたⅠ郭、山桜は散り際…麓から鬨の声が聞こえそうです。

Ⅱ郭とその上のⅠ郭、平成10年建立の山入城の案内板が建っています。

Ⅲ郭とⅣ郭の間の尾根を切った竪堀とそこに架かる土橋の跡です。

Ⅳ郭の下、上記想定図の現在地まで車で入ることができ数台の駐車スペースがあります。

Ⅴ郭の先から国安地区を望みます。約500年前の落城の際、城主氏義親子は逃げて同族の小田野氏を頼りましたが殺され、孫の義遠、義嗣は幼少のため許されて僧になったといわれます。

草茫々の城跡には蕨がたくさん出ており、夕餉の晩酌用に少々摘ませていただきました。

城を守った山田川、ここから約12Km下流で久慈川に合流して太平洋に注ぎます。