沓掛宿から、追分宿、小田井宿、岩村田宿へ
【長倉神社】(沓掛宿)
本殿は江戸時代の建築 神社の中の土俵は、何か懐かしい気がする。故郷の諏訪神社に土俵があり、よく相撲をとって遊んだ記憶があるからだ。吉葉山、鏡里、朝潮などの全盛期だった。
さて、雷電は、信濃の国の出身だが、信州の力士で有名なのは、雷電のみというのが残念だ。
※雷電爲右エ門(らいでん ためえもん、明和4年(1767年)文政8年2月21日(1825年4月9日))は、信濃国(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。力士生活21年、江戸本場所36場所中(大関は27場所)で通算で喫した黒星がわずかに10、勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、古今未曾有の最強力士に推す意見も多い。
沓掛の時次郎碑(長谷川伸が発表した戯曲の主人公)
【馬頭観世音】
江戸時代後期、中山道を往来する馬の息災延命を祈り、建立された。歩いていると随所に建立されている。
【遠近宮(おちこちのみや)】
信濃なる浅間の獄に立つけふり
をちこちの人の見やはとがめぬ(在原業平)
【追分宿郷土館】
結構整理されていて見やすかった。入館料400円は取らないか100円位にして、もっと多くの人に見てもらえばいいのに、と思った次第。
【諏訪神社と一茶の句】
有明や浅間の霧が膳(ぜん)を這(は)ふ
夜が明けても、まだ空に月が残っている。早立ちのために食膳につくと、浅間山の方から霧が流れてきて膳のあたりを這っている。〔季語〕霧
【泉洞寺】(追分宿)
山門の周りの紅葉が綺麗だった。下は、堀辰雄が気に入っていた如意輪観音の半跏思惟像(地元では歯痛止めの仏様)
【追分の分去れ(わかされ)】
北国街道と中山道の分岐点
北国街道道標 森羅亭万象の歌碑(平賀源内の門人・桂木甫燦三)道しるべ石(さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿 常夜燈(1789建立)
【御代田の一里塚跡】
長野県下でも数少ない一里塚で、榎ではなく枝垂桜だ。春は見事だろうなと想像する。
集中豪雨の跡か、倒木や崩れた土砂で道が塞がっている。潜って通過する。案内板を正しく立て直しておく。この道を通り抜けたところに「全面通行禁止」の表示板があった。
雲が流れ、青い晴れ間が広がってきたが、浅間山の頂上付近の雲はなかなか取れない。雪の頂上を見たい。気温は8度位だ。街路樹の花梨の木は、熟した花梨の実を付けていた。2、3個持って帰ればよかったかなー。砂糖漬けは、結構いけるのだ。昔は、風邪といえばこれを食べさせられた。
こんな街道を歩いていると、なにか懐かしい感じがするのだ。
【龍雲寺】(岩村田宿)
曹洞宗の寺で、佐久に進攻した武田信玄が越後から北高禅師(越後・雲洞庵)を迎えて中興。北高禅師が伊那の駒場で病死した信玄の遺骨を持ち帰り、ここにひそかに埋葬されたという。昭和6年骨壺が発見され、中から骨と島田助宋作の短刀、「大壇越信玄千時天正元年酉年四月十二日於駒場卒戦時為舎利納慈、北高和南頂百拝」と記された袈裟環が発見され、言い伝えが確認された。
【鼻顔(はなづら)稲荷神社】(岩村田宿)
京都清水寺を彷彿させる景観。地元の佐久長聖高・野球部の連中に案内してもらった。いい感じの連中だった。頑張れよ!
神社の脇を、湯川が静かに流れている。夕方の静寂。
陽はもうすぐ落ちる。雲が綺麗だ。(鼻顔稲荷神社から)
陽が落ち、ようやく雪を冠した浅間山が頂上を見せ始めた。
幻想的な雲の上に、三日月が。(岩村田宿上空)
【今回の旅】
・実施日 平成19年(07)11月13日(火)午前10時から 午後5時
・天 候 曇りから晴れ 気温8~9度前後か、さすが風が吹 くと寒い。
・メンバー4人
・距 離 約28Km(35,000歩前後か)
・見 所 龍雲寺の山門
・食 事
昼飯を食おうとそば屋の前で迷っていた時、通りがかりの地元?のおばあさんが、小声で「ここは美味くないよ」とおっしゃる。もっと先のそば屋の方が美味いというので朗報に感謝し、急ぎ行ってみれば「休みじゃー」。仕方なく入ったカレー屋兼スパゲッテー屋。しょっぱ目のカレーに文句。このところ昼は駄目じゃなー。
・満足度 満足。
全体的に「気持ちのいい旅」ができた。
【どこまで来たか?】
・宿 :六十九次中、22番目(岩村田宿)
・距離 :534Km中、166.5Km
【今回の駄作】
雷電や 神社の土俵に 枯葉巻く
紅葉に 囲まれ如意輪 泉洞寺
秋の陽や 鼻顔神社に 川光る
【次回予定】
晩秋の信濃路、いよいよ中山道最大の難所和田峠越えへ 塩名田宿、八幡宿、望月宿、芦田宿、長久保宿、和田宿から下諏訪宿へ
塩なた(広重画)
八幡(広重画)
望月(広重画)
あし田(広重画)
長久保(広重画)
和田(広重画)
下諏訪(広重画)
【長倉神社】(沓掛宿)
本殿は江戸時代の建築 神社の中の土俵は、何か懐かしい気がする。故郷の諏訪神社に土俵があり、よく相撲をとって遊んだ記憶があるからだ。吉葉山、鏡里、朝潮などの全盛期だった。
さて、雷電は、信濃の国の出身だが、信州の力士で有名なのは、雷電のみというのが残念だ。
※雷電爲右エ門(らいでん ためえもん、明和4年(1767年)文政8年2月21日(1825年4月9日))は、信濃国(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。力士生活21年、江戸本場所36場所中(大関は27場所)で通算で喫した黒星がわずかに10、勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、古今未曾有の最強力士に推す意見も多い。
沓掛の時次郎碑(長谷川伸が発表した戯曲の主人公)
【馬頭観世音】
江戸時代後期、中山道を往来する馬の息災延命を祈り、建立された。歩いていると随所に建立されている。
【遠近宮(おちこちのみや)】
信濃なる浅間の獄に立つけふり
をちこちの人の見やはとがめぬ(在原業平)
【追分宿郷土館】
結構整理されていて見やすかった。入館料400円は取らないか100円位にして、もっと多くの人に見てもらえばいいのに、と思った次第。
【諏訪神社と一茶の句】
有明や浅間の霧が膳(ぜん)を這(は)ふ
夜が明けても、まだ空に月が残っている。早立ちのために食膳につくと、浅間山の方から霧が流れてきて膳のあたりを這っている。〔季語〕霧
【泉洞寺】(追分宿)
山門の周りの紅葉が綺麗だった。下は、堀辰雄が気に入っていた如意輪観音の半跏思惟像(地元では歯痛止めの仏様)
【追分の分去れ(わかされ)】
北国街道と中山道の分岐点
北国街道道標 森羅亭万象の歌碑(平賀源内の門人・桂木甫燦三)道しるべ石(さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿 常夜燈(1789建立)
【御代田の一里塚跡】
長野県下でも数少ない一里塚で、榎ではなく枝垂桜だ。春は見事だろうなと想像する。
集中豪雨の跡か、倒木や崩れた土砂で道が塞がっている。潜って通過する。案内板を正しく立て直しておく。この道を通り抜けたところに「全面通行禁止」の表示板があった。
雲が流れ、青い晴れ間が広がってきたが、浅間山の頂上付近の雲はなかなか取れない。雪の頂上を見たい。気温は8度位だ。街路樹の花梨の木は、熟した花梨の実を付けていた。2、3個持って帰ればよかったかなー。砂糖漬けは、結構いけるのだ。昔は、風邪といえばこれを食べさせられた。
こんな街道を歩いていると、なにか懐かしい感じがするのだ。
【龍雲寺】(岩村田宿)
曹洞宗の寺で、佐久に進攻した武田信玄が越後から北高禅師(越後・雲洞庵)を迎えて中興。北高禅師が伊那の駒場で病死した信玄の遺骨を持ち帰り、ここにひそかに埋葬されたという。昭和6年骨壺が発見され、中から骨と島田助宋作の短刀、「大壇越信玄千時天正元年酉年四月十二日於駒場卒戦時為舎利納慈、北高和南頂百拝」と記された袈裟環が発見され、言い伝えが確認された。
【鼻顔(はなづら)稲荷神社】(岩村田宿)
京都清水寺を彷彿させる景観。地元の佐久長聖高・野球部の連中に案内してもらった。いい感じの連中だった。頑張れよ!
神社の脇を、湯川が静かに流れている。夕方の静寂。
陽はもうすぐ落ちる。雲が綺麗だ。(鼻顔稲荷神社から)
陽が落ち、ようやく雪を冠した浅間山が頂上を見せ始めた。
幻想的な雲の上に、三日月が。(岩村田宿上空)
【今回の旅】
・実施日 平成19年(07)11月13日(火)午前10時から 午後5時
・天 候 曇りから晴れ 気温8~9度前後か、さすが風が吹 くと寒い。
・メンバー4人
・距 離 約28Km(35,000歩前後か)
・見 所 龍雲寺の山門
・食 事
昼飯を食おうとそば屋の前で迷っていた時、通りがかりの地元?のおばあさんが、小声で「ここは美味くないよ」とおっしゃる。もっと先のそば屋の方が美味いというので朗報に感謝し、急ぎ行ってみれば「休みじゃー」。仕方なく入ったカレー屋兼スパゲッテー屋。しょっぱ目のカレーに文句。このところ昼は駄目じゃなー。
・満足度 満足。
全体的に「気持ちのいい旅」ができた。
【どこまで来たか?】
・宿 :六十九次中、22番目(岩村田宿)
・距離 :534Km中、166.5Km
【今回の駄作】
雷電や 神社の土俵に 枯葉巻く
紅葉に 囲まれ如意輪 泉洞寺
秋の陽や 鼻顔神社に 川光る
【次回予定】
晩秋の信濃路、いよいよ中山道最大の難所和田峠越えへ 塩名田宿、八幡宿、望月宿、芦田宿、長久保宿、和田宿から下諏訪宿へ
塩なた(広重画)
八幡(広重画)
望月(広重画)
あし田(広重画)
長久保(広重画)
和田(広重画)
下諏訪(広重画)
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