上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

知的好奇心への冒険と人との出会いへの旅

2013年02月23日 | 日記

昨晩はSEAソフトウェア技術者協会特別イベントの食事会へ参加

会場は福州路の高名な老舗料理店でした。

 


SRA最高顧問(というか、日本でのフリーランス開発業の創始者)の岸田孝一先生から新著「ソフトウェア・グラフィティ」(中央公論事業出版)を手ずから頂く。
岸田先生がソフトウェア開発者のバイブル、「プログラミング序説」の著者であることなど、すっかり忘れて、日中ソフトウェア論やら中国世相環境などを小1時間ぶってしまって、更に調子に乗り、日本から参加していた方を新天地に誘って、富士通中国の幹部の方(元SRA社員)と二次会。
その後、ドレミに顔を出した後、3周年を迎えた静安寺のBar「SIS」に梯子酒。
NTTDATA現地法人の部長に「この若造が!」と絡みつつ3時まで深酒。
前夜の出来事を悪夢の様に思い出しつつ朝は猛省し、岸田先生の本を読みふけってしまった。
・・・岸田先生、若造は私の方でした。
さて、これからアニソン会で、娘と同世代の若者たちと昼間から交流の予定。
二日酔いの頭のまま、上海での知的好奇心への冒険と人との出会いへの旅は、まだまだ続くのでした。
今日もYOROYOROと行くとしますか。

注)「ソフトウェア・グラフィティ」本文中に、映画のフィルムを欧米の学者がプログラムの記憶媒体として紙テープ代わりに使っていたが、熱に弱くてドライブエラーが出て困ったとこぼしていたとの回想が出てきますが、これはシネテープ(映画用16㍉フィルムに磁気素材をコーティングしたもの)の事だと思います。
また、ドライブ装置のシネコーダーを映画録音現場で使用していましたが、それをコンピュータ記憶装置に転用していたと推測されます。(というか、シネコーダーのデータ出力端子はその為のものだったのでしょう)
そういえば、映画学校(映画大学)には加々良次郎先生が丹精込めて整備していたシネコーダは、まだ健在なのだろうか・・・まだあるなら、コンピュータ開発史の資料としても、中山には大事に保存してもらいたいものだが。