昨年教科書執筆でお世話になった方より、メールが届く。南の国立大学を去って、関西の国立大学での勤務が決まったらしい。彼女にとっては、母校への就職が決まり、短いメールの中にもその喜びが伝わってくる。
この私も短大勤務時代に、母校の4年生大学の恩師の先生が、退官を迎えるにあたりぜひ後継者になって欲しいと声をかけていただいたことを思い出す。業績の殆どないこのような私に2年近くラブコールしていただき、割愛願いという寸前で、私の迷いもあり結局お断りし、大変申し訳ない思いをした苦い出来事だが、もしその申し出を受け入れてたらどのような人生が転回していたかと時々思うことがある。
おそらく日本では「協調性がありそうな人」「若くて仕事をしてもらえそうな人」という印象を与えたのか、知り合いになった関西や関東の大学の先生から、時々「どうです。うちの大学に来ませんか?」と声をかけていただいたのも1990年代ならではのことで、今となってはなかなか考えられない。
いつかアメリカでもフルタイムで教職・研究職に従事したいと願っていながらも、家庭と両立させながらどこまで可能なのかが不安になる。しかしアドバイザーが昔ほろっと語ってくれた「夜は仕事をするよりは、息子のギターの演奏を聞く方を選んだはね。おかげで業績はなかなか伸びなかったけど」を思い出す。そういう生き方を選ぶアドバイザーに共感したからこそ、今日の自分があるのだと感じる。
この私も短大勤務時代に、母校の4年生大学の恩師の先生が、退官を迎えるにあたりぜひ後継者になって欲しいと声をかけていただいたことを思い出す。業績の殆どないこのような私に2年近くラブコールしていただき、割愛願いという寸前で、私の迷いもあり結局お断りし、大変申し訳ない思いをした苦い出来事だが、もしその申し出を受け入れてたらどのような人生が転回していたかと時々思うことがある。
おそらく日本では「協調性がありそうな人」「若くて仕事をしてもらえそうな人」という印象を与えたのか、知り合いになった関西や関東の大学の先生から、時々「どうです。うちの大学に来ませんか?」と声をかけていただいたのも1990年代ならではのことで、今となってはなかなか考えられない。
いつかアメリカでもフルタイムで教職・研究職に従事したいと願っていながらも、家庭と両立させながらどこまで可能なのかが不安になる。しかしアドバイザーが昔ほろっと語ってくれた「夜は仕事をするよりは、息子のギターの演奏を聞く方を選んだはね。おかげで業績はなかなか伸びなかったけど」を思い出す。そういう生き方を選ぶアドバイザーに共感したからこそ、今日の自分があるのだと感じる。
その時の決断が良かったのでは?
聞きなれない「割愛願」、教員の大学間異動に使われる言葉なのですね。
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