谷沢健一のニューアマチュアリズム

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初試合顛末記(その2)

2006-03-06 | YBC始動
 東大側の厚意で打撃練習を40分ほど設けてもらい、なおかつボールも貸していただいた。初春の暖かい日和が、一層、球音を響かせた。
 ベンチ入り選手22名(和久田君が仕事の合間を縫って、ユニフォームの採寸を行い、久し振りに練習にも参加)、スタッフは、長屋ベンチスコアラー、阿部、勝原の両トレーニングコーチ(阿部君は選手兼任の意向が強く、近々クローズドテストを実施予定)、金子鍼灸トレーナー、香川ヘッド、久保田コーチ、上村コーチ(彼は試合開始早々に日大習志野グランドでの残留組練習に向かった)、そして河童君こと、3月からYBC事務局専従の杉村広報&ビデオ係、根本、小松両マネージャー(小松君はネット裏から投手の投球を詳細にチェック)。
 ネット裏スタンド(収容人員約100名)には、川島理事、松田監事も駆けつけてくれた。また、いつも応援していただいている加藤参与の伴侶・富美子夫人もスタンドにみえていた。林氏が選手のために飲用水を多数、差し入れて下さった。ありがたいことだ。他にも応援に来て下さった方も多かったはずだが、お一人お一人を確認する前に、私の目はグランドに向けなければならなかった。
 試合直前には、全員に訓示した。「今日、YBCは東大と対戦する。かつて日本の野球はこの学生チームから始まった。東大(旧制一高)が一番強かったが、早慶が破ってから、野球熱は全国に広まって行った。今、YBCという「コミュニティ」が東大とも対戦できる時代となった。弱くなったからではなく、新しい時代がやってきたと言える。いずれ我々はプロとも対戦するだろう。いつも想うことだが、私の喜びは君たち一人一人の喜びと、同じ価値を生んでいると考えている。私はプロ野球の経験者だが、プロだろうがプロでなかろうが、人間にとって、野球人にとって一番大事なことは、自分たちの行為(活動)が、「世の中に問う」ような内容であること、世の中に何を残すか、何を訴えるのか、なのである。「Have a Good Time!」、この時を皆で楽しむんだ。」、呼応するように谷野投手が「Have a Good Day!」と叫んでくれた。
 簡単なブロックサインを指示して、記念すべき試合が始まった。

初試合顛末記(その1)

2006-03-06 | YBC始動
 地下鉄南北線「東大前」駅の改札を出ると、前方にマルーンカラー(YBCのチームカラー、エンジと金色)のウインドブレーカーを着用した男性が目に入った。加藤副部長だった。またも「二人の晴れ男」が何の連絡もしていないのに落ち合ったのだ。偶然もこれだけ頻発すると、必然の出来事とさえ思えてくる(もちろん「運命の赤い糸」などという意味ではない!)。
 東大球場は農学部校舎の裏手に位置することはナビで確認済みだったものの、大正か昭和初期に建造されたと思われる校舎の間を、壮老(どちらがソウだロウか?)の紳士2人が感慨にふけりながら、うろうろ。
 そこへ、重いバッグを両肩から抱えるようにして、YBCの選手たちも球場の入口は「どこだ、どこだ」と言いながらやって来た。ともあれ、至近距離に見えるスコアボードの方向へ進むことになった。
 東大の選手たちが練習しているのを右手に見ながら、ネット沿いに進み、一塁側のダッグアウト横からグラウンドに降り立った。ここへ来るのは何年ぶりだろうか。突然、郷愁がこみ上げてきた。1966年の11月上旬、東京6大学の新人戦がこの球場で行われた時以来だから「40年ぶり」となる。
 ネット裏のスタンドや得点ボード、一段深く下がったベンチも懐かしい。あの時はグラウンドもまだ人工芝でなかったはずだが、それにしてもこの人工芝も年季が入っているようだ。
 野球部主務は不在(審判研修会)だったが、スタンドの最前列で練習を注視している東大の大沼監督の下へ挨拶に伺った。初対面であったものの、クラブチームの現状もよく理解されていて、活動の趣旨に賛同していただいていることに、嬉しさとありがたさが募った。大学野球部の監督は概してそうでない方が多いからである。大沼監督は千葉経済大学短期大学部こども学科長であるだけに、子供たちの育成には殊のほか関心が及ぶのだろう。
 「今日はうちも初戦ですから、選手を頻繁に入れ替えますので、ご勘弁下さい」という丁重な言葉をいただいて、私もさっそくユニフォームに着替えるためロッカー室に向かった。