思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

初体験の「帰宅困難者」ではあったが、野宿困難者ではなかった

2011-03-13 23:30:59 | 東日本大震災
11日(金)の14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震によって、宮城県栗原市で最大震度7、その規模は修正を重ねてM9.0と国内観測史上最大(世界で4番目の規模)となったこの大地震の影響は、僕の地元の埼玉県南部でも少なからず影響はあった。

地震発生翌日の昨日12日(土)から今日13日(日)にかけて、テレビでその報道をくまなく観て、地震よりもその直後の太平洋岸への大津波による被害の大きさに呆然とした。
特に、北から八戸市、宮古市、釜石市、大船渡市、気仙沼市、南三陸町、東松島市、仙台市宮城野区の津波到達の瞬間や最大波の映像を観ると、クルマや漁船がいとも簡単に流されたり、津波が堤防をゆうに越えて街地になだれ込んだり、家屋が流されて12日に落ち着いてから現地にカメラが入ると家の基礎部分しか残っていない、とかいう被災地の画の数々は衝撃的で、映画を観ているかのようだ、なんて軽々しく口にはできない(していた人もいたけど)、複雑に思う一大事である。人知をはるかに超えた威力を観て、所詮は人間なんて地球上でちっぽけで無力な存在なんだなあ、と改めて思い知らされるとともに、これによる惨状を今後のためにもしっかり記憶・記録しておかなければならない(そういう意味では、報道関係者以外で津波の様子を録り続けていてその映像をテレビ局に提供してくれた一部の地元民を、報道特番ではその行為は危機意識が足りないと批判していたコメンテーターもいたが、結構偉いことだと思う)。
また、福島第一原発の炉心溶融への対処と、住民の被曝も気になる。そちらは今日夕方までに最悪の事態は免れたみたいね。

それで、地震・津波によって今夜時点で北海道~関東地方で1300人以上亡くなってしまった方々の冥福を祈りつつ、今後ひょっとしたらそれが東日本全体で数千人かそれ以上に膨らむかもしれない行方不明者の早期発見にも期待しつつ、タイトルにもあるが11~12日に僕個人的にはその影響初めて東京都内で「帰宅困難者」になったことについて時系列で、人によっては不謹慎だと感じる部分もあるかもしれないが、そのときの印象を僕なりに正直に記録しておく。
今回の写真はデジカメ不携帯だったので、ウィルコムPHSで。



●11日(金)

14時46分
昨秋もお世話になっていた東京都新宿区内の会社で校正仕事に従事していた最中に、のちに規模はM9.0に上方修正される今回最大の地震が発生。ぐわんぐわん横に揺れた。たしか9日の地震と同様に緊急地震速報は出ていなかったように思うがどうなんだろう(これの精度はまだまだやね)。
そのときは9階建ビルの2階にいたのだが、初体験の強い揺れでびっくり。しかも長かった。
揺れが収まるまで室内のモノの落下に備えながらも足は止まった。こんなときは人間、なかなか動けないものなのだな。

14時49分
揺れが完全に収まりはしないが弱まったところでビルの入口の扉をオートロックで閉めきられないように開けて退路を確保しながら外に降りると(エレベーターは当然止まった)、ほかの建物からもすでに避難のために外に出ている人が多く、目の前の普段はそこそこ交通のある2車線道路ではクルマもすべて一時停止していて、完全に揺れが収まるまで動かなかった、というよりは地震のショックで動けなかった感じ。
後々観た報道では、このときにすでに太平洋岸に大津波警報が出ていたのね。
外に出ながら、やはり混み合うもののツイッターはふつうに覗けるのには驚き、しばらくウィルコムのPHSでモバツイを凝視。

15時22分
発生から15分ほどで少し落ち着いたので仕事場に戻り、でも余震はひっきりなしに続くので仕事に集中できず、また大きな揺れがあると再び外に避難に出て、ビル上部からの落下物に注意しながら揺れが収まるのを待った。ほとんど仕事にならない。街路樹や消火栓や電線の揺れがなかなか止まらない光景も初めてだったかな。
で、周りの人々は発生直後から携帯電話での通話を試みるが当然規制がかかっていて通じなくて、でも近くに運良くあった公衆電話からは固定電話へいくらか通じたようで。ちなみに僕はこの時間にPHSで自宅の固定電話にかけて数回で通じて、在宅していた両親と連絡が取れた。家はモノがいくらか落下しただけで停電とか断水とかいう大きな問題はないことを知る。
こういう緊急時は混み合う大手の携帯電話よりも、公衆電話や比較的利用者の少ないPHSのほうが強いのかしら、なんてことを思った。でも今回の被災地のど真ん中ではその限りではないだろうけど。でも近年、携帯電話の普及によって公衆電話を徐々に減らしたことによる歪みがあるのでは、とも感じた。

16時00分
余震はずっとあるものの、最初ほどの大きな揺れではなくなったので、仕事再開。社内ではラジオを流せるので、そこからの随時の情報提供を気にしながらやっていたが、まあ机にかじつりつきながらも余震によって少しは心は乱れるので、冷静を装いつつもいつも以上にじっくり対処。

18時00分
仕事中、テレビなしで映像を観られる環境ではなかったので(周りには携帯電話のワンセグで観ていた人もいたけど)津波のことはよくわからないが、主に東京近郊の地震による被害報告は随時小耳に挟んでいた。だから、鉄道はすべて止まっている、東京ディズニーリゾートの駐車場が液状化現象、東京タワーの先端が曲がった、とかいう情報はリアルタイムで仕入れていた。中継が出ていたからそのへんはツイッターよりも早かったか。となると、パソコンや携帯電話が使えない被災地でもやはりラジオは効果大だろうね。
そんななか、たまに外に出てみると通りの歩道は歩いて帰宅する人が徐々に増えてきて、近所のコンビニエンスストアではパン・おにぎり・弁当のような生ものは早々と売り切れ、でも菓子やカップ麺はまだ残っている、なんていう事態が発生していることも併せて知る。
消防車やパトカーのサイレンの音も数十分おきに聞こえると、都内も人的被害が結構あるのかなあ、と少し気になる。

22時30分
徒歩で帰宅する人が絶えず、新宿駅前の歩道は帰宅困難者の混雑で凄いことに、なんていう報道があると、さらに気になる。
都心へ乗り入れる鉄道、僕の場合は常用する東武東上線が今日じゅうに復旧しないことをここで知り、なぜ西武鉄道や東急線や京王線はこのあと動くようになったのに東武は……、とその差異も気になる。
これで、どうせ帰れないし、家は無事だと知っていて25kmほど歩いて直ちに帰宅するほどの切羽詰った状況でもないからと開き直り、代わりに仕事に傾倒。緊急事態なので無礼講? で、社内的にも帰るか社内に泊まるかの判断も各自にお任せ、というお達しも出たので、今夜はどう動くか動かないかと考えながらまだなんとなく働く。
家よりも内心は周りの(家屋がやや古い)友人知人宅のほうが気になって、結局は仕事を完全にさぼるというほどではないがその合間にツイッターで周りの状況を確認したり、メールで連絡をもらった友人とやりとりしたり、ということもやっていて結局はさぼり気味だった(メールも、ドコモとかよりはウィルコムのほうが通じやすかったみたい)。
この頃から地下鉄が徐々に運転再開し始めて、でもJRの復旧は明日に、とも知り、帰宅困難者のために無料開放している学校や百貨店や公共施設もこれで少しは空くかなあ、と少しは楽観視できるようになった。

23時48分
仕事がそろそろ尽きたので、まあ着の身着のままでも池袋駅で横になって駅寝できればいいな、せっかくだからいろいろな場所の様子を観に行くか、と決めて会社を辞す。ちなみに、社内的には僕が普段から野宿をたしなんでいることは伏せていて、今回の都心の被害も阪神淡路大震災のような都市部の直下型地震ほどでもないので、このくらいの緊急事態? でも、というか帰宅できなくても何も問題ないと思っていることはあえて言わなかった。まあわざわざ隠すほどのことでもないけど。この時間に出ることを心配されたけど、普段からよくやっていることだからなあ。まあ夜歩きに不慣れな若い女子は単独ではやるべきではないね(一部を除いて)。
ひとまず近所のコンビニを数軒巡ると、やはり生の食べ物はきれいさっぱりなくなっていたが、菓子類やカップ麺の在庫の補充は進んでいるところもあった。
鉄道の運行再開も増えてきたので、この時間に歩く人はそのぶん減ってきたが、それでも普段の夜に比べるとこの時間帯は週末でもほとんど人通りはない道路なのになあ、という箇所でも数人で固まって歩く会社帰りの人々を頻繁に見かけるのは珍しい光景。

●12日(土)

0時3分
ひとまず帰宅困難者の開放場所のひとつである、会社からも近い早稲田大学・大隈講堂を観に行くと、座席はほぼ満員で、すでに寝ている人もちらほら。
そこで初めてNHKの地震直後と現在の被災地のニュース映像を大画面で観た。そのときは火災が起こっている様子をよく映していたか。しばらく呆然としたあと、なんだこれ、とすぐには現実のできごととして受け入れ難い画ばかりだった。
20分ほど観て、さらに移動。



1時5分
徒歩で池袋駅へ向かうが(この早稲田・池袋界隈は普段からよく歩いていて、クルマが入れないような裏道も知っているので問題なし。やはり普段から歩いておいて土地勘をより養っておくと心の余裕も生まれるものやねえ)、途中でコンビニや深夜営業しているスーパーがあるとだいたい立ち寄る。店内のやや荒れた様子を観察。野菜・果物といった生鮮食品は意外に残っていた。
普段から携行しているPHSの充電器用の単三乾電池を仕入れ、コンビ二でお湯は使えるのでそれでカップ麺を食べ(文字通り道草を食ったカタチ)、目白通りの下り方面は大渋滞でクルマのブレーキランプが延々目立つのを見やりながら、普段の2倍以上の時間をかけていろいろ観察しながら池袋駅へ向かう。駅に近付くにつれて人も増えてくる。

1時31分
池袋駅東口に到着。タクシー乗り場は九十九折で50人以上の行列ができていて、なぜかはわからないが怒号が飛んでいたりもした。気が急くのはわかるけれども。



1時42分
池袋駅構内に入り、昨夜23時前から運転再開してまだ運行していた西武鉄道の改札口を観察してから、JR改札周辺をぐるっと一周してみる。
あちこちで壁際に新聞紙やJRの旅行商品のパンフレットを敷いて座ったり横になったりしている人がずらずら並び、数百人規模。まあなかにはアルコール類を持ち込んでプチ宴会になっているところもあったが。夏場の台風によって鉄道が一時不通になったときにこういう場面はたまにあるが、しかし池袋歴30年の僕からすると規模的にはこの帰宅難民? ぶりは過去最大だった。でもまあこれだけ先客がいると僕も入り込みやすい。おそらくこの半分くらいは、僕と同じ東武東上線沿線住民という“同士”だろうね(残り半分はJR利用者か)。



2時30分
東武百貨店の入口近くで空いた場所を発見し、僕もそこで横になって駅寝態勢に。久々に、日常の通勤時なので当たり前だが寝袋やツェルトも持っていない状態での想定外の着の身着のまま野宿だなあ、と思いながら就寝。床は冷たくて腰が冷えるのが気になるが、微風のある外よりも断然暖かいのでそこは助かる。偶然にもこのときは(遅まきで今冬から導入した)ユニクロのヒートテックの上下を着ていたので、それも少し助かったか。
ただ、昨夜から引き続き花粉症の症状は容赦なく襲い、このときも鼻水ずるずるで鼻も詰まり、結局はいつも以上に仕事した影響で目もかなり疲れていたので(校正者は目が命)、とりあえず風の避けられる場所で“同士”が多いなかで落ち着いて横になって目を閉じることができて、普段の深夜は容赦なく締め出されてシャッターで閉じられる大都会トーキョーのターミナル駅の一角で堂々と駅寝できることは幸い(一般的には帰宅できないことが問題の状況なのに。それでは幸せのハードルが低いのか?)。

5時0分
でもやはり床の冷たさが気になるのと、余震が度々あって周りの人のたぶん携帯電話からだろうが緊急地震速報のあの警告音が4時前からちょいちょい聞こえるので(ツイッターで確認すると、長野県栄村のほうで震度6弱と大きかった地震のやつか)、4時台は熟睡できずにうつらうつらしていたが、結局は5時に起きる。この頃から東京メトロ(地下鉄)でおそらく有楽町方面の都心の都心から帰ってきて池袋駅で乗り換えのため駅内を移動する人が増えてわさわさしてきたので、起きざるを得ない状況にもなった。
東武東上線の運転再開を改札前の閉められたシャッターの前で待ち構える人が徐々に増える様子も珍しいよなあ、と遠目から寝ぼけ眼で眺める。

6時5分
東武東上線の運転再開が案内され、人の流れが変わるのを見届ける。僕はこのさいだから、ともう少し池袋駅とその周辺を観察するためにまだ残る。
トイレに行くついでに再び駅構内をぐるっと巡ると、どこも大型店舗の新規開店・セールなどの行列待ち後や球場の試合終了後や競馬場の大レース後のような紙類の敷き物や菓子・空き缶ゴミの散乱ぶりで、普段から定宿にしている? ホームレスもそこまで節度なく散らかさないので、清掃する職員もいつも以上に大変そう。ちなみに僕は自分が使ったぶんは自分で片付けた。つまり、そこで寝ていた数百人は駅寝のマナーがなっていないということになるが(雨風がしのげる場所があるだけ幸せに思うべし)、まあそういうことに慣れていない人たちだから、ある程度は仕方ないか。
今回の経験を踏まえて今後、野宿という行為をはじめとする不測の事態で活かすべきサバイバル技術への一般的な理解は深まるのかなあ、とその散乱ぶりを見ながら思った。
地上に上がると、松屋・吉野家・マクドナルドのような馴染みの飲食店はほとんど臨時休業。だが、富士そばだけはなぜか開いていて、偶然にそばの在庫があったのだろうか。店内で行列ができていて足の踏み場がほとんどないくらいに混んでいた。そりゃあ、冷え込む朝に温かいそばは効果絶大だからなあ。

7時31分
JRのいくつかの改札前や改札内にも運転再開を待つ人垣ができていて、というか改札付近にモニターが設置してあってそこでNHKニュースを流しているので、それを観る人も併せて多かった。が、私鉄は動くのになぜJRはまだ動かないのか、早くしろ、という利用客側の無言の圧力はそこかしこで感じた。



8時8分
せっかくだからと駅前でほかにも立ち寄るか、とふと思ったあるところに行ってみたが、そこも臨時休業だったので、眠くもあるのでそろそろ帰途へ、と方向転換。
東武東上線ではなく通勤用の回数券を持っている有楽町線で帰ったが、車内は土曜日朝の下りなのに平日朝のような混み具合で面食らう。東北地方の地震が関東平野のいち地域にまで波及するとは。

9時25分
電車はいつも以上に混んではいるがこの時間になると運行速度はほぼ平常に戻り、ようやく帰宅。
昨日に電話で聞いてはいたことだが、自室の本棚の一部が地震で崩れている様子を目の当たりにすると、やはり凹む(ただ、元々やや難のある棚で、改善の余地はあると常々気にしてはいたので、崩れるかもと覚悟はしていた)。これまで震度4までの地震では崩れなかったが、今回は地元では震度5弱を記録するともうダメか。うーむ。
ひとまず状況把握して、眠いので2時間ほど仮眠してから取りかかる。



22時0分
テレビの報道をザッピングしながらたまに緊急地震速報が出るたびにどきっとしながらも片付けて(ついでに不要物を選別して軽く断捨離も試みた)、でも思ったよりも早く済んで復旧したのは帰宅から約11時間後となった。
片付けて、夕食で、そのあとシャワーを浴びて洗濯もして、ようやく落ち着いたのがこの時間。
まあ崩れたことよりも、人的な致命的な被害がなく、早めに普段の生活に戻れたことが幸い。
ちなみに、こういう全国的な非常事態が発生したときはいつも、被災地の好転を願いつつしばらくはアルコール類の摂取を自粛している。僕的には、屋内ではそんなときに呑みたい気分であってもアルコールに逃げるのは現実逃避でそれこそもっと不謹慎なことだと思うから。



これからどんどん人とモノとお金(と電気とガソリンも?)をかけていかなければならない、特に酷い岩手県~福島県の壊滅的な被災地の惨状に比べればこの都市部の帰宅難民? ぶりなんてたいしたことではなく、とりあえず自分の身近なところはなんとかなった(これから生鮮食料がやや不足するかもしれないという懸案はあるが、自分の周りで気になるのはそのくらい)。
今後は余震と東京電力の「輪番停電(計画停電)」に気を付けながら、今朝時点で東日本全域で30万人超と言われる被災者の生活への対応と、1万人超という安否不明者の捜索と、被災地への外部からの支援を含めた政府(民主党)の対応や自衛隊の災害派動による「激甚災害」への対処と、周りのあれこれを気にすることに注力できるか。


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