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思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

登山者目線というか一般的な目線から、来客の少なそうな時季の野天風呂であっても節度のある入浴を

2012-02-05 18:45:00 | 良識

先月発売の『CYCLE SPORTS』12年2月号を遅まきながら最近読むと、石田ゆうすけ氏の連載「僕の細道」では僕の地元である埼玉県をいつものようにぶつくさ言いながら旅しているし、モノクロページの「実戦!道路交通法規サバイバル」では“軽車両”の乗り手として心得ておくべき行動と態度の指針となり得る興味深い記事だったし、といつになく読み応えのある内容が並んでいた。だがしかしそのなかで、むむむっ、と眉をひそめる記事があった。
それは、「鏑木裕のダートクエストIII 第二十二章」という、(以前に一度覗きに行ったことのある)神奈川県・青葉台の轍屋自転車店の店主の鏑木氏がオンロード偏重のあまたある自転車専門誌のなかにあってオフロード(とりわけ、いわゆる「ダブルトラック」≒林道)の自転車旅にこだわって紹介している連載で、毎号ここも興味深く読んでいる。で、今回は八ヶ岳の本沢温泉の野天風呂「雲上の湯」に入浴しに行く話だった。

取材は昨年? の12月中旬だそうだが(店のブログによると21日(水)みたいね)、仲間と麓からMTBでやや積雪のある林道を上り詰めて野天風呂を目指す、という今回の企画趣旨自体は良いと思う。
が、もう冬に入って気温マイナス8度のなか駆け上がってその目的地に辿り着いていざ入浴、でその最高潮? の入浴中の写真の見せ方がまずいだろ、と率直に思った。具体的には108ページと110ページにある湯船まわりの写真数点のこと。
記事と写真のとおりに4、5人でしっぽり入浴するだけならまだしも、そこに登山用の小型ガスコンロを持ち込んで、湯に浸かりながら湯を沸かしてカップラーメンを食べたり、あらかじめ仕込んでおいたお汁粉を温めて食べたり、という写真もあった。それらの写真の注釈のひとつに「それ(=カップラーメン)を湯船に浸かって食べられるとは」ともあったが、その行為はどうなんだ?

その行為以前に、この記事の最初の掴みとして配置した108ページの大伸ばしの写真のように、野天風呂を完全に貸切状態で雑然としたというか私物化した状態はいかがなものか、と憤った。積雪期、直近では下の写真のように2年前の10年1月中旬に雪模様のなか登山の下山行程の道中に入浴しに行ったこともある、この風呂の愛好者のひとりとしては。



降雪がホントに多いときは自転車なんかでは到底入り込めない、雪山登山経験者が徒歩で膝ラッセル覚悟のうえで接近せざるを得ない状況のときもある野天風呂。まあそんなふうに、より面白い条件になるときもある風呂で、僕はその点も気に入っている。


この野天風呂、標高2150mにあって周りの景色は思いっきり野趣溢れる感じだが、一応はここから少し下ったところにある本沢温泉の管理下の整備された、600円の入浴料も支払うべき有料の外風呂で(でも記事中には料金の説明が抜けていたのも問題かなー。「ちなみに山小屋には内風呂もあるのでご安心を」という注釈はあったけど)、たとえ一時的に撮影のために貸切にできたとしても、ほかの来客の可能性を無視した私物化状態を見せつけるのはどうなんだろうね。
まあ場所が場所だけにそういうふうに羽目をはずしたい気分も、そこまで標高が上がると達成感からいくらか湧き上がるとは思うのでわからなくはないけど。でもべつにここは八ヶ岳の登山事情を知る者からすると“秘湯”でもなんでもない、(たしかに周りの景観はちょいと珍しい)特徴的な露天風呂ではあるが、そこまではずせるものなのか。

社会人としてふつうに考えても、ほかの入浴客が訪れる可能性もある公衆浴場で入浴時に飲み食いするものかねえ。それと同じことだ。まあ旅館などの貸切状態の内風呂で、絵に描いたような盆を浮かべて熱燗をおちょこでたしなむ程度の状況であればまだよいかもしれないが、谷側に開けた場所のここでコンロを持ち込んで調理までするとはやりすぎだよなあ。しかもそれを全国的な月刊の商業誌であからさまに見せるだなんて。僕だってやりたくてもさすがにそこまではやらないぞ。せいぜい缶ビールかワンカップをちびちび呑むくらいに留めておくし、いつでもほかの来客があってもよいように脱衣場所もいくらか整頓したうえで入るわよ。たとえオフレコの入浴であっても。
しかも僕の場合、大学時代のワンゲルの春山合宿登山中にここに初めて入浴したときに湯あたりした経験から、ここではそういう余計なことはやりたくなくて、できるだけ入浴にのみ集中したい、という思いもあるし。

また、この企画の訪問時間は不明だが、一応は12月といえども積雪期の登山をやる人が登山または下山途中に入浴しに来る可能性は(無雪期よりも確率はかなり低いだろうが)ゼロではなくてあるだろうし、もし登山者の立場からこの私物化状態の人々と出遭ってしまうと混浴するのはためらわれる。しかも単独で来た場合や女性連れ、女性グループならば尚更。もし寒いなかここ目当てで行動してきたのに、辿り着いたらこういう雑然とした状態に運悪く出くわしてしまって落胆し、あとから来た人のほうが気まずくなる、というのはちと辛い。
いくら雑誌用の誌面的に映えそうな決めポーズの撮影であっても、ここに行ったことのない人がこの写真を目にすると、12月に限らずいつでもこういうことをやってもよいのかー、と誤解を招きそうだよなあ。
この見せ方によって内輪で“秘湯”に行く愉しみを伝えたかったのかもしれないが、人によっては入浴マナーがなっていない(お気に入りの場所を汚された感覚で見ている)、気分を害する写真にも映る。ものを食べる、それに湯船まわりがごちゃごちゃしている写真とその占有感たっぷりの雰囲気が出ていなければそこそこ良い記事なのに、台無し。

しかも、この調理して食事もできてしまう状況が成立してしまった背景を考えると、12月中旬というと年によってはまだ積雪量は少なくて気温もそんなに下がっていない頃で(ここでマイナス10度以上であれば暖かいほうだ)、まあ撮影日の天気も吹雪というわけでもなくてそこそこ良かったのも幸いだったのか、それでMTBでも本沢温泉まで上れて(元々、無雪期は東麓の松原湖方面から途中までクルマで乗り入れできるくらい道幅は広くて勾配も緩い林道と登山道なので、MTBでも当然行きやすい)、しかも登山者数は1年の四季のなかでも比較的少ない時季のためにこういった撮影がやりやすい、というある意味中途半端に自転車乗りでも気候的にギリギリ難なく上れる頃合にタイミング良く(狙って?)行って、かつ辛うじて食事もできる気温と天候だったのがまた悩ましい。ここは降雪と風が強くてホントに寒いときは上半身裸で長時間のコンロの操作なんてやっている場合ではない場所だから。でもまあ湯船に肩まで浸かって温まって、出て、を繰り返しながらであればできそうか。

この写真、自転車専門誌だから許されるという判断なのかね。編集部の意向なのか鏑木氏の意向なのかはわからんけど。自分が浸かれる湯船を掘るためのシャベルなどの道具を携行して人跡まれな山中に分け入ったり、またはガスマスクが必要で生命の危機は自己責任でなんとか回避するくらい難易度が高いような秘湯中の秘湯にでも行かない限り、ある程度管理された風呂では節度を、意識するよなあ。

この記事の特に写真は、この野天風呂が大好きな登山者にはあまり見られたくないよなあ。まあ自転車専門誌だから自転車に興味のない人には目に付き難く、僕のような登山も自転車も両方かじる者の目にしか留まらないかもだけど。
と締めようと思ったがよく考えると、でもこの場合は一般的な入浴マナーの良し悪しとして、登山者や自転車乗りや露天風呂好きおよびマニア以外にもむしろより多くの人々に見てもらって判断を仰ぐほうがよいのかもしれない。
次号の発売まであと2週間は書店や大きめの図書館に並んでいるから、手にとって確認してみてはー。

なので、サイスポは新年早々に良識を欠いた粗相をやらかした感がある。前々から“カブ”こと鏑木氏の書く記事はおおむね好んで読んでいるし、たまに個人ブログのほうも拝読しているが、今回の記事に限ってはがっかりで、かなり株を落としそうな気がする。
サイスポ、ここ数年は「俺チャレ」企画や読者投稿、それに安東浩正氏をはじめ僕の知り合いもたまに登場するJACC(日本アドベンチャーサイクリストクラブ)関係者の活動もよく取り上げるくらいに同業他誌に比べて旅要素の強い自転車の楽しみ方を伝えているのは良い傾向だが、今回の記事はいただけないので今後の改善を期待したい。


※6日(月)の追記
若干、追記した。
また、ホントにそんなに寒くて雪の多いときに登山者が来るのかね? と疑問視する方のために、比較的手にとりやすい参考資料を挙げておく。

新版 日本雪山登山ルート集
アルペンガイド 八ヶ岳

もちろん、節度と、この時期の雪山登山の用意(知識・装備・同行できる経験者など)があれば、真冬でも積極的に楽しんでもよい風呂だと思う。


※24日(金)の追記
この投稿のURLを添えて、サイクルスポーツ編集部にいち読者の意見として一応送ってみると、先週に丁寧な回答をいただきました。お忙しいなか、回答ありがとうございました。
今後の編集に期待します。

当然ながら、本ブログではほかの媒体からの盗用はありません! 

2007-02-06 23:59:40 | 良識
朝日新聞の先月30日夕刊19面に掲載された富山県立山町の特産品「かんもち」に関する記事で、読売新聞の記事からの盗用が発覚し、2日朝刊34面でその謝罪記事も掲載された。

その件については、もちろん盗用は悪いことだが、当時はその記事を担当したカメラマンは締め切りが迫っていてやむなくそうせざるを得なかったのかな、まあこの1件だけで済めばいいけどな、と思っていたが、その後の調査でこの記事よりも少し前にも同じ人によって2件の盗用が発覚し(読売新聞と新潟日報から)、思わず頭を抱えてしまった。

と言うのも、実際の1月30日の記事というのが、その文字数は見出しを含めても200字にも満たないそんなに大層なものではなく、なんでそのくらいの分量の記事で盗用に至るのか、というのが疑問に思ったからだ。
まあおそらくは日本国民の約半数は名前だけは知っているであろう超有名全国紙の、しかも読者からの注目度が1面とテレビ欄に続いて高い社会面に掲載されるのだから、記事執筆のさいには一般読者にはわかりにくいそれなりの緊張感もあったのだろうが、盗用にまで至るものなのかね。

そのカメラマンは文章を書くのが元々苦手だ、写真撮影が主な仕事で記事執筆からは20年近く離れていた、という朝日新聞側の弁明もあったが、これだけの大新聞では毎年希望職種を問わず入社試験を実施して、新聞記者としての適性をきちんと見極めたうえで入社する人を決めているはずだから、そんな言い訳は通用しない(僕も過去に朝日新聞の入社試験を受験したことがあるから、そのへんの事情はなんとなくはわかる)。しかも全国紙に20年以上も在籍しているのであれば、自分が一度手がけた記事や写真の読者への波及効果やそれらへの責任がより大きくなることはそれなりに自覚できているはずだけどなあ。このカメラマンの諭旨解雇の処分は妥当なところか。その上司の解職・減給もまあ仕方ないかな。

また、そんな大新聞以外にも今日知ったところでは、山梨日日新聞の1月31日の社説でも、神戸新聞と西日本新聞からの一部盗用があったとか。先の柳沢伯夫厚生労働大臣の“産む機械”発言に関するもの。
山梨日日新聞というと、昨年7月30日に拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)を読書欄で紹介していただいた関係もあって、僕個人的にはほかの地域の地方紙以上に特別の思い入れがある新聞社で、そこでも盗用発覚ということでさらにショックである。しかも新聞社の顔とも言える社説でそれをやってしまったというのが余計残念。論説委員長ともあろう人がそういうことをやってしまう世の中になったのか。

僕としては、過去二十数年見て読んでいて慣れ親しんでいる朝日新聞と、個人的にお世話になっている山梨日日新聞という深いかかわりのある(僕にとっての味方である)新聞社2社で不祥事が連続して発生すると、さすがに精神的にちょっとへこむ。(業種は思いっきり異なるが)不二家と同様に、今後の再発予防および信頼回復に特に力を入れていただきたい。

そんなことを踏まえつつ、また先月のテレビのほうの“あるある捏造”も気にしつつ、本ブログの質について改めて考えてみると、他者へのツッコミというか揚げ足取り、ちょっとした引用(もちろん出典名は挙げる)や例え話なんかはこれまでもこれからもよく行なうだろうが、他の媒体からの盗用やウソの記述は一切掲載しない、ということは当然ながら厳重に注意している。そんなことがないように過去の投稿にもヘンなところがないかどうかにも常に目を光らせている。
いくら現在の大半のブログ開設者がそれを趣味気分で創作混じりで行なっていても、大媒体と同様のそれなりの倫理観のもとに行なうべきだとは個人的には思う。そんな当たり前のことをわきまえながら、僕は今後も本ブログを続けていくことにする。
僕は一応は出版業界においてのある意味物事を正すことに努める校正が本職のため、旅でも普段の生活でも物事の線引きについては人一倍どころか人三倍くらいは気にしているつもり。
何事においても自分の周囲からの視線を常に意識しながら、「信用第一」でいきたいものですな。そのへんがしっかりしていないと、各種事象にツッコミを入れるさいにも説得力がなくなるから。

「落書厳禁」の姫路城

2007-01-17 22:00:32 | 良識
14日午前、2007年1月3日の投稿の④にも挙げている、兵庫県姫路市の姫路城を観に行った。

江戸時代初期に造営されてから一度も火災や空襲に遭わずに比較的良い保存状態で現代にまで残っていることや、築城技術においても様々な特徴が見られるため貴重であるということで(17日で地震発生から12年経つ阪神淡路大震災でもほぼ無事だったようね)、1993年12月に日本国内で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されたことが有名だが、観光客がどっと押し寄せる観光名所が苦手な僕としてはこれまでにここに行く機会がなかった。
だが、前日の13日に出がらし紋次郎さんと姫路界隈を歩いたこともあり(そのとき、姫路城より南の街地は空襲に遭った、という話は聴いた)、せっかく久しぶりに姫路に降り立ったんだからいっちょ行ってみるか、午前中なら観光客がまだ少なくて静かに見物できるだろう、と思い、入場開始時間の9時ちょうどに入場して見学した。

ちなみに、前回この入場券売場に来たのは1999年秋の自転車旅の途上で、そのときはここの入場料600円を払おうか払うまいか窓口の前で散々悩んだ挙句、結局は旅の食費を優先させるために入場を断念したことがある。600円というと、やり方によっては1~2日分の食費に充てられるため、現在と同様に当時も貧しかった僕としては文化財の見学と旅を続けるための食事を天秤にかけた場合、どちらかというと後者のほうに重きを置き、旅を完遂させることにこだわっていた、ということ。まあ城見物は歳を取ってあまり動けなくなってからでもできるからね。
でも、そのときに入場を断念した悔しさはずっと残っていて、ようやく今回、僕個人的にはそんな約7年越しの想いもありながら入場し、1時間30分ほどかけて、しかもデジタルカメラを前々日に壊したために撮影なしでメモを取りながら見学した。やっとそのときからの“傷”を埋めることができて、当然嬉しい。

で、この城の特徴については、櫓は27棟、門は15棟、土塀は約1000mもあるくらいに大規模な城郭であること、石垣は一般的な「野面積み」とともに角石には長方形の石を交互に積む「算木積み」であること、鬼瓦や軒丸瓦には様々な紋様の紋瓦があること(池田輝政の「揚羽蝶」の紋様は江戸時代当時にしてはかなり洒落ていると思う)、羽柴秀吉が1580年に入城して築城した当時は石不足のために五輪塔や石棺や老婆から寄附された石臼までも使用していること、昭和31~39年の大規模な解体修理で心柱の下部を樅(もみ)や栂(とが)から檜(ひのき)に根継ぎしたこと、などいろいろ挙げられるが、まあこれは各種媒体、特に地元姫路市の観光案内、城専門の書籍、テレビ『世界遺産』などでよく取り上げられているので僕が改めていちいちそれらについて触れるのは不粋だし面倒なので、ここではそれらの良い点とは違った僕が見学して感じた悪い点についてあえて触れておく。
建物自体については維持管理に力が入っていて、建物内の見学順路の照明も過度に使用しておらずにできるだけ当時の雰囲気を保つことに努めたりもしていて素晴らしいとは思うのだが、簡単に言うと、ここを訪れるほうの入場者がよろしくない。
全国各地、重要文化財などに指定されていて大切に保存すべき城や城跡には「火気厳禁」「禁煙」や「飲食禁止」や、一部の大事な箇所では「撮影禁止」などの注意書きによって入場者にしきりに注意を促しているが、姫路城の場合はそのなかでも特に目立ったのが、「落書厳禁」の注意書きであった。

他地域の城ではあまり見かけない「落書厳禁」がなんで序盤から多めに表示されているのかな? と疑問に思ったが、特に西の丸の渡櫓の内部の白壁で落書きの跡がよく見られた。
それらはやはり床から1m40~60cmほどの人間がものを書きやすい高さに書かれていることが多く、そのあたりには落書きを消すために薄く塗られた漆喰の跡が多く見られた。ただ、それだけでは対処できずにおそらく布拭きだけで対処したところもあるが、そのすべては消しきれずに人の多い観光地ではどこでも例外なくよく見られるくだらない文字や絵がうっすらと残っていた。落書き消しのために部分的に壁の漆喰の色が変わっている様子を遠目から見ると痛々しい。
また、天守閣のなかでは柱に手の爪か何かの道具かで付けられたというか彫られた人為的な傷が結構見られ、城壁の落書きと同様にどこぞのバカ者どもの名前が彫られていたりして、城の内外の造りをいちいち手で触りながら確認するのが好きな僕としては、それらのいたずらを見つけるたびに幻滅する。そんなふうにほかの大多数の見学者の気分を害してまで自己顕示したいものなのだろうか? その安易で幼稚な発想がよくわからん。

なんで日本国民共有の財産であるこの貴重な文化財にこういうアホなことをするのかね。600円の入場料が高い、ということへの腹いせなのだろうか。ホントにこういういたずらを働く輩は、年代も性別も問わず問答無用で島流しに処してほしい気分である。まあ現代ではそれは難しいから、罰金刑(最低100万円以上がいいな)と禁固刑(最低6か月以上だよな)の合わせ技で厳しく処すべきである。まだ物事の分別がついていない幼稚園児・保育園児や小学生くらいの子どもであればそういうことをしても仕方ない、という言い訳も通用させてはならん。
しつけのなっていないそいつら(の親)からも発見次第罰金10万円くらいは徴収すべきである。その年頃で10万円であれば、たとえ“お受験”を通過して私立校に通わせている比較的裕福な家庭の子であっても痛いと思う金額であるだろうから(親にとっては痛くもかゆくもない金額かもしれないが)、これによって自分の過ちの重大さがてきめんにわかるだろう。

しかも世界遺産となった現在の姫路城の場合は日本のみならず全世界に注目される存在となっているのだから、諸外国の方々から日本人の民度も疑われてしまう。以前もチリのイースター島で日本人旅行者によるふざけた彫り跡が発見されたりしたが、こんなバカな(関西人向け)、アホな(関西以外の地域の人向け)いたずらを働くお前らのせいでほかの真っ当な見学者がとばっちりを受けるんだよ、ふざけんな、と強く言いたい。過去に姫路城のような史跡、国民の共有財産に意図的か否かにかかわらず傷をつけたような輩は、仮にその後成長して働き出して、他人から少しは尊敬されるくらいのお金や地位や名誉を得たとしても、自分のことを「社会人」と呼んでも、他人から呼ばれてもならん。死ぬまで猛省しろ。

一応、城内では所々で監視カメラが設置されているが、文化財にそういったものを設置せざるを得ない現状をちょっと寂しく思うが、不特定多数の人間が訪れる場所では仕方ないことなのか。城内には監視カメラのほかにも火災対策(主にタバコだろう)のために消火器や消火栓やスプリンクラーも多数設置されているのだが、それらも含めて考えて、世の中には善い人ばかりがいるとは限らないのだな、と改めて思い、悪い意味で泣けてくる。

それから、城内を見学中にもうひとつ腹立たしいことがあった。天守閣のとある説明書きのある場所で僕がメモを取っていたときのことだが、1、2分かけてその内容をきちんと理解しようと懸命に書き写しているときに、背後から、
「すいませーん」
というほかの男の入場者から声がかかった。が、最初は何がすいませんなのか意味がよくわからなかったので、無視してとりあえずメモを取り終えることを優先させた。
だが、その男はその後も「すいません」とか「ちょっといいですか」などと何回も何回もしつこく言ってくるので、うるせえな、もうすぐ書き終わるんだから静かにしろ、と少しイラッとしながらもメモのほうに集中した。で、それを終えてその説明書きから僕が離れたとたんに、その男はいきなりバシバシとフラッシュを焚きながら写真を撮りまくっていた。
つまり、その場のその瞬間には偶然僕しかいなかったときに、その男が僕に「すいません」などと言っていたのは、やんわりとした表現ではあるがそいつが写真を撮るためには邪魔な存在であるらしい僕に対して、その説明書きの場所から直ちに「どけ」と言っていたようなものである。

写真でもなんでもそうだが、ふつうは自分の興味・関心のある地点に先客がいる場合はその人の撮影などの行為が終わるのを待って、先客がそれを終えてその場所を離れてから自分の行動に移すもんでしょう、先客をわざわざ言葉で促すなんて言語道断、と僕は思っているのだが、どうだろう? その観点から考えると、僕よりもあとから来たその男が、自分のわがまま(写真撮影)を優先させたいがために先客である僕をどかす、先客(僕)の気分を無為に害するという行儀の悪い行為は良識的には間違っている、はず。
やはり超有名な世界遺産ともなると、そこを訪れる人というのは必然的にその冠があるだけで激増し、そのために善い人ばかり来るわけではないから各種いたずらを働く輩と同様にこの男のように良識を疑わざるを得ない輩とかち合う機会も否応なしに増えてしまうのだな、とこれまた悲しい気分になる出来事であった。

それに、貴重な文化財の内部ではそんなにむやみやたらにフラッシュを焚いて写真を撮るもんぢゃないでしょう? と思う。そこはべつに撮影禁止の場所ではなかったので写真を撮るという行為については異論はないが、他所からの一時的な訪問者であっても文化財の保存に協力すべき、という観点から考えるとフラッシュを使いすぎである。フィルムカメラであればもっとISO感度の高いフィルムを使用したり(800とか1600とか)、デジタルカメラであれば感度を高めに設定したり手ブレ補正機能を活用したりストラップをピンと張ってカメラを手元できちんと固定したりして、フラッシュなしで撮れよな、それができなければ撮影を諦めろ、とも思う。プロが媒体での取材のために一時的に仕事として撮影するのであればまあわかるが、素人がそういった暗い場所でほんのちょっとの見学時間のなかで納得のいくものを撮りきるには難があるため、引き際も肝心、と僕は思うのだけど。

そんなこんなで、先の姫路城見学で特に気になった点を挙げてみた。まあすべては訪れる人の良識の問題で、歴史のある文化財を観光資源として活用する場合は地域にかかわらずどうしても発生してしまう永遠の課題なのでどうしようもない部分もある。が、保存する側だけでなく、訪れるほうもあとから訪れる人たちのためにも奇抜な、他人から見ると嫌な(自分がされると嫌な)行動は控える、という意識というか客観性は普段の生活のみならず旅の最中でも誰でも持つべきである。

この1月中旬の日曜日にはほぼ毎年? 姫路城を起終点とする子ども向けの城下町マラソン大会が行なわれていて(今年で16回目だとか)、この日はちょうどその開催日であったためにそれに参加するチビッコとその親や親戚がわんさかいたりして、城前の公園は活気に満ちていた。参加者の大半は地元民であろうこの子たちがこの城の現代においての重要性や諸外国からの注目度を今の時点でどの程度認識しているかはわからないが、自分の家と同様の感覚で城の壁や柱にいたずらを働くような悪い人間にはならないでおくれよ、と願いながら、彼ら彼女らが寒空の下で息を切らせながら懸命に走っている様子を見やりながら、今度は写真を撮るためにここもそんなに遠くないうちに再訪しないとならんよな、と次回の旅への意欲も沸き立たせながら、11時すぎにJR姫路駅への帰途に就いた。

「品格」なんて概念はどこ吹く風、の電車内のパン食い女子高生  

2006-11-13 20:30:35 | 良識
11日夜にフジテレビ系列で放映された特別生番組『たけしの日本教育白書』で、現在の日本人の「品格」について力を入れて考えていたが、先週にそれに少しは関係ありそうな、思わず目を覆いたくなるような出来事に遭遇した、という残念な報告をひとつしておきたい。もちろん100%実話。

8日夜、僕が東京都の池袋駅から勤め帰りにふつうに東武東上線で帰宅したときのこと。帰宅ラッシュがやや一段落した20時頃だったが、準急電車の発車間際は座席は当然ながらすべて埋まっていて、僕は7人掛けのロングシートの前に吊り革につかまりながら立つことにした。混雑率は150%ほどで朝ほどは混んではおらず、車内で立つ人の間隔もまだ新聞が広げられるくらいの余裕があった。
そこに、コンビニエンスストアの袋を持ったひとりの女子高生が僕のあとから乗ってきて、しかもほかにもまだ立つ場所はいくらかあるのにもかかわらず、なぜか僕のすぐ左側に立ってきた。

電車が発車し、僕はふつうに考えごとをしたり、校正仕事で疲れた眼球を休めるために目を閉じたりしていたが、ほどなくして僕の左からガサゴソと袋をいじる音が聞こえ、さらに間髪入れずにバリッ! と何かの袋を破る音も聞こえた。うるさいなあ、なんなんだ? と僕もその音が少し気にはなったが、疲れた目をいちいち開けるのが面倒なのでとりあえず気にしないことにした。
が、それからさらに1分も経たないうちに、モシャモシャと何かを食べる音が断続的に聞こえるようになった。その音を聞いて、ハァ? と疑問に思った僕はそこでいよいよ目を開けて左の女子高生のほうを見ると、なんと菓子パンを食べていやがる。周りにも目の前のロングシートにもほかの乗客がいるのにもかかわらず、だ。

そいつが何の臆面もなくふつうに食べ続けていて、呆れてしまった。ふつうは半径1m以内にほかの乗客が6、7人もいるようなこの状況でものを食べるなんてことはしないだろう、と僕は思ったため、そんな愚行を穏便に食い止めるために僕はその女子高生の食べている様子に無言の圧力をかけようとしばらく目線を送った。が、そいつはそんな迷惑目線を気にする素振りもなく平然とパンを食べ続けている。しかもそのうちに制服のポケットから携帯電話を取り出し、右手でそれをいじりながら、左手にパンを持ちながら食べる格好になった。
食べながら電話でメールか何かを打っていて、次第に電話のほうに気が向くようになったためか口元の動きのほうがおぼつかなくなり、パンくずをボロボロ落とし始めた。ちょうど彼女の目の前には背広姿の30代くらいの男性や40代くらいのおばさんが座っていたが、その足元にパンくずが落ちまくっていても見て見ぬふりをして、触らぬ神に祟りなし、という感じで女子高生とは目線を合わせようとはしなかった。そんな目立つ行為がホントに気にならなかったのかね?

そして、僕がそいつを1分間ほど怪しみながら見続けているとようやく僕のほうに気付いたが、そこで気恥ずかしさからパンを食べるのをやめるのかと思ったら、やめるどころか口元にパンのなかに入っていた白いクリームをつけながら逆に僕を睨み返してきやがった。「何見てんだよ、ウザイな」という反抗的な目線で、さも自分がそこでやっていることが正しいことであるかのごとく。
そして僕とそいつのあいだで30秒間ほどガン(眼)の飛ばし合いが続いたが、それをやめてそいつは再びパンを食べるほうに戻り、その後も一向に恥ずかしがることはなくパンを全部食べきって、再び携帯電話のほうに集中し、僕が降車するひとつ手前の駅で降りて行った。パンを食べていた時間は約7分間か。

そのあいだじゅう、僕としては電車内でパンを食べ続けていることに呆れるのと同時に、両手にパンと携帯電話を持っていて車内の吊り革や手すりにつかまっていないそいつが何かの問題で電車の急ブレーキがかかってよろけたら間違いなく僕のほうに倒れてくるから迷惑なんだよな、こいつはそういう可能性もあることがわかっているのかな? という疑念混じりの憤りもありながら、なんとか声を上げずに我慢した。
我慢した、というのは、車内で声を荒げてうるさくすると周りに迷惑だから、ということもあるが、今のご時世ではそいつに注意すると僕が痴漢呼ばわりされて警察沙汰になりそうだな、ということも連想し、ややひよったというのもある。
でもよく考えると、先に僕が立っているところにあとからそいつが僕の隣に近付いてきたのだから、電車に乗ってきた順番からするとこれは痴漢も何もないのだが。でも一応は我慢した。

だが、我慢するだけでは気が済まないので、そいつが降車してから捕まえて直接注意してやろう、または家に電話させて親を出させて、親に、
「おたくの家庭ではどんなしつけをしているんだ!!」
と説教しようかとも思ったが、もしその親が子どもを過保護に育てていてしかも聞き分けのない「バカ親」だったら、僕のやっていることをストーカー行為だなんだかんだといちゃもんをつけられてこれまた警察絡みの面倒なことになりそうだな、とも考え、結局はそれもやらずじまいであった。
僕としてはそんな愚行をやられてとにかく悔しいが、このように「正義」がきちんと受け入れられない、正直者がバカを見ることは日常・非日常問わず往々にしてあるのが悲しい現実であったりする。

その(埼玉県内では見かけない)ブレザー姿の女子高生も、外見だけを見ると渋谷あたりに棲息するいわゆる“ヤマンバ”のようなひどい格好ではなく、原宿あたりを歩いていれば芸能関係のスカウトにも多く引っかかりそうななかなかの容姿だったが、一見育ちの良さそうなふつうの娘でもそんな愚行を何の疑問もなくやってのける感覚が理解不能である。このようなひと昔前では考えられない、羞恥心もへったくれもないようなことが身近なところでも実際に起こっているのよね。
ただこれは、東京・名古屋・大阪近郊などの人口の多い地域以外の、ロングシートではなく総ボックスシートの単線ディーゼル仕様の“汽車”が走るような地域の方にはピンとこない話かもしれないが、人口の多い地域では鉄道の内部でこのような軋轢がある、ということを小耳に挟んでいただければと思う。

北野武と爆笑問題が進行していた土曜日の番組では、最近連日報道されている小・中学生のいじめや自殺の問題とともに、それなりに成長した大人? の品格を疑うような事例として、図書館の蔵書(公共物)に切り抜きや落書きなどのいたずらを働くこと、たいした病状ではないのにもかかわらずタクシー代わりに救急車を呼ぶこと、火災現場付近で消火活動を見ながらタバコを吸うこと、などの愚行が挙げられていたが、これらと同様に先週の電車内のパン食い女子高生のような事例は、あちゃー、と見ているほうが恥ずかしくなる。
その女子高生に「品格」を問うのはやや早計かとも思うが、仮に自分が座席に座っているところに何の前触れもなくいきなりパンを持った人が立ちはだかってパンを食べ始め、しかも自分の目の前でパンくずをボロボロこぼされたらどう思うか、という逆の立場になったときのことはもう容易に想像することができる年頃だろう。自分が仮にそういったことを目の前でされても気にならない、では済まされない。そんな愚行が嫌いな人だっているのだから。むしろ、自分以外の周りのことを思いやることができる真っ当な後者の人のほうが多いはず、と信じたい。
そんなに空腹でパンを早く食べたいのであれば、せめて車外に出て次の電車を待ちながらか、自分の最寄り駅で降車してからにするために我慢するだろう。パンを食べるタイミングも、ひいてはこの女子高生の良識というか感度も大きくずれている。ヘンな時代になったなあ、ということをこんな行為を目の当たりにして改めて実感させられる。

社会においての羞恥心やら何やらをなんとか矯正できるのは高校生くらいの年頃までで、その機会を逃すと先の事例を平然と犯すようなアホなエセ大人が増え、そんな人たちが子どもを持つと、学校の給食費を払える経済力があるのになんだかんだと理由をつけて払わなくなったり、自分の子が学校内で粗相をすると担任教師に責任転嫁するような「バカ親」が増殖するのだろう。何事においても我慢ができない(忍耐力が弱まった)親や子どもが年々増えていて「学級崩壊」が頻発する最近の学校教育の現場もかなり深刻になっているようだ。
そう考えると、やや困難ではあるがひと昔前の雷親父的な身内ではない第三者の目線からの注意や説教がより必要な時代なのかもしれない。僕が電車内でかち合った先の女子高生にも、警察沙汰覚悟で説教しないといけないよな、と番組を観て改めて思った。実際に迷惑に思っている人がいるのだから、ひよっている場合ではないよな。

上の事例のように、密閉された人口密度の高い公共空間内で周りの目を気にせずにパンをむさぼるような行為に賛同する人ってほかにもいるのかな? もしそういう人がいるのであれば、なぜそういうことをするのかを実際に対面してじっくり問い正してみたいものだ。

ダジャレで持ち帰りを啓蒙

2006-06-15 19:59:55 | 良識
下の写真は、先週6日の丹沢登山の道中で見かけた文言。丹沢は鹿が多いだけに、鹿を使ったダジャレで攻めてきた。



実は丹沢だけでなく、過去にも奥武蔵や上野原あたりの山を歩いている最中にもこんな感じで蛙や熊などの動物を使ったダジャレ看板は結構見かけたのだが(下の写真参照)、毎回見つけるたびにウマイなあ、とテレビ『笑点』のように座布団をあげたくなるくらいに感心する。


2005年7月11日、山梨県・扇山付近



2005年9月13日、埼玉県・伊豆ヶ岳付近


僕は先週の登山のときにも、いつものように歩行中に登山道で特に目に付くゴミがあればそれを拾いながら進んでいったのだが、ほかの山域に比べるとその数は少なかった。なんでこんなにゴミが少ないのだろう? と不思議に思っていたのだが、大倉尾根を下山しているときにある小屋の貼り紙で、神奈川県勤労者山岳連盟が主催する清掃登山を9日前の5月28日に実施していたことを知り、それで登山道が比較的きれいだったのか、と納得した。
まあ丹沢と言うと関東圏の登山者には結構人気のある山域で、そうなると最近の環境問題に敏感な人も多く訪れるだろうから、その意識の高さによってゴミ残しの確率も低くなるのだろう。逆に入山者が少ないアプローチの不便な登山道のほうがまだまだゴミが多く残っていることが多いからね。
おそらく、デイパックにしまい忘れたかポケットに収めていたはずなのに何かの拍子で落ちてしまったであろうボールペンや飴の袋はいくつか拾ったが、それ以外では今回は明らかに捨てる気満々で捨てやがったな、というタバコの吸い殻などの細かいゴミはそんなに多くは見かけなかった。やはり数年前に比べると丹沢を訪れる登山者の環境への意識は良い方向に変わってきたかな、と思い、そこそこ快適な登山が楽しめた。

名言

2006-01-16 17:00:55 | 良識

前回の日常腹立ち度チェックに関連する写真を載せておく。
これは2005年2月に長野県・北八ヶ岳に登山に行ったさいに、高見石小屋のそばで見つけた周辺の地図を記した案内板である。現在地等の情報よりも先にこの言葉のほうが目に入った。まさに名言である。
モノの大小を問わず、場所の雰囲気も気にせずにあちこちにゴミを放っていって、あちこちにゴミが散乱した醜い状態を見たくないと思っている大多数の正常な人たちを不愉快にさせる行為は、世界各地で起こってしまっている無差別テロと同様に、地球上に多くの人が暮らしている現代を生きていくうえで解せない行為である、と僕は思っている。
だから、タバコの吸い殻やらガムの包み紙やら空き缶やら何やらをゴミ箱にきちんと片付けずに無責任に適当に置き去りにしていく「子ども」もしくは「幼稚」な人たちには、そんな大規模のテロ行為を非難する資格はない! といつも思う。事件の大小にかかわらず、やって良いことと悪いことの分別がつく「大人」になってもらいたいものだ。