思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

10月26日付朝日新聞夕刊社会面の「サバイバル登山」は一般にどう受け止められるのか       

2006-10-29 13:36:45 | 他人の旅話
先週のことだが、朝日新聞の2006年10月26日付夕刊14面に、本ブログでもすでに取り上げている本『サバイバル登山家』(みすず書房刊)の著者である服部文祥氏とその登山の一例が写真付きで紹介されていた。これを読んで、登山にあまり興味のない一般読者はどう思うのだろう? というのが気になる。

普段から彼が編集に携わっている山岳雑誌『岳人』の愛読者である僕としては、今回のこの記事についても特に違和感なく面白く読めるし、最近の登山でよく使われるヘッドランプ・ライトやGPSや携帯電話のような近代的な道具をあえて排除しながら山に向かうことの難しさも心得ているつもりだが、改めて読むと山のことをいくらか知っている“山屋”な人でもおそらく舌を巻く登山であろう。
見方によっては“常識外れ”と酷評されかねない彼がこの本で挙げる登り方については、僕も「これが理想の登り方だよな」と思っていて(装備も衣服もできるだけ減らして、より素っ裸に近い状態で分け入る。高所登山も同様)、何かと便利さが加速する今後はこれにより近い登り方、自然への分け入り方を目指すべきだが、実際に行動に移すとなるとホントに難しい。僕も以前にちょっとした日帰りの山歩きを腕時計(カシオ・プロトレック)なしでやったことは数回あったが、それだけでも時計があるとき以上に軽い不安感を覚えることがあった。僕も含めて、やはり現代人は街なかにある便利さや効率の良さに浸りきっていて、その影響で相当なまっているよな、と痛感する。

今月上旬に(拙著『沖縄人力紀行』もお世話になっている)東京都のジュンク堂書店池袋本店で服部氏のトークイベントが開催されたが(僕はその日は北海道にいたので行けなかった)、それに合わせて『サバイバル登山家』が紹介された新聞・雑誌記事のコピーが掲示されていた。今回の朝日新聞の記事によるとこれまでにこの本は30ほどの媒体で紹介され、5回重版したそうだが、たしかにそのくらい注目されるにふさわしい内容である。この本は面白いのはわかっているのだが、熟読するのはやはり来年になりそう。

また、26日のこの記事で僕個人的にもうひとつの目を引いたのは、これを書いているのが角幡唯介記者だということだ。
知っている人は知っていることだが、僕と同年代の角幡くん(とあえて書く)は冒険・探検業界ではかなりの老舗の早稲田大学探検部出身で、中国やニューギニアへの探検で名を馳せたことでも知られ、特に朝日新聞入社直前の2002~2003年にかけては中国・チベット東部からバングラデシュに流れる大河ヤル・ツアンポーの峡谷(大屈曲部)の未踏査部を単独で探検した、という出色の記録も持っている凄い人物である。この探検行の模様を2003年3月に地平線会議で報告しているのだが、僕はこれも聴きに行っている。そもそも、彼がこの探検の前段階で行った沢登りの初単独行が結構大きな滝もある鹿児島県・屋久島の沢というのが凄い。
また、登山や探検に関する発言も服部氏同様にやや激しさがあり、なかなかの論客でもある。

それから、角幡くんが富山支局赴任時代に、黒部川の上流域にあるダムの排砂とそれによって富山湾の漁業へ悪影響が及んでいる問題を丁寧に取材して書いた記事をまとめた本『川の吐息、海のため息 ―ルポ黒部川ダム排砂』(桂書房刊)が今年5月に発売されたのだが(偶然にも発売は『サバイバル登山家』とほぼ同時期)、実は僕はちょうど今この本を読んでいる最中であったりする。やはり新聞掲載が元なので、『岳人』や山岳系冊子『きりぎりす』などに寄稿していた頃や以前あった彼のウェブサイト内の文章よりは一般向けになっていて柔らかくなっているが、社会への問題意識の高さや自身の探検体験を踏まえた自然に対する畏敬の念のようなものはひしひし感じられ、僕もこの本を読んでいて共感できる部分が多い。
今年、富山県から埼玉県内の支局に異動してきた今後も、それを感じられる記事を楽しみにしている、期待の新聞記者のひとりである。

この服部文祥・角幡唯介の両氏は、今後の媒体において登山や冒険・探検や自然環境絡みの記事に関心を寄せる場合、ぜひとも覚えておくべき名前だと思う。彼らの書くものをチェックしていれば、間違いはないはず。それにしても、全国紙の社会面で地平線会議関係の(若手の?)人名がいっぺんにふたりも出たのは驚いた。

ついに信じられる球団になった!? 北海道日本ハム

2006-10-27 00:00:00 | スポーツ
先程、プロ野球・日本シリーズで北海道日本ハムファイターズが中日ドラゴンズに4勝1敗で勝ち、44年ぶり2回目の日本一に輝いたわけだが、パ・リーグのリーグ戦後半の勢いをそのまま持ち込み、勝ちきった。結果的には、今年勝つべくして勝った球団だったかな、と思う。

日ハム就任4年目のヒルマン監督は「シンジラレナ~イ!」と事あるごとに口にしていたが、実際にはそんなことはあるまい。球団および選手を信じ、さらには2004年から移転した北海道のファンを、握手会などの地道なファンサービスで獲得して信頼を得たからこその結果である。

それにしても、今季の優勝への最大の原動力はやはり引退するSHINJOだろう。現在、週刊少年チャンピオンで連載中のマンガ『ドカベン スーパースターズ編』でも最近、今季の日ハムの野球について細かく触れているが、彼の観客を味方につけるプレーの影響は大きい。彼が日ハムに移籍してからの3年間、これまでの北海道民の大半がひいきにしていた巨人の野球にはない奇想天外さに、道産子はみんな良い意味で騙された。まあ21世紀はこんな“常識外れ”の野球、マンガのような展開があっても良いのではないかと思う。だからこそ、水島新司も今季の最近にこの球団に注目したのだろう。
今後しばらくのプロ野球界においてはSHINJOはしばらくは「記憶」にはかなり残る選手だろうことは明白だが、最後の最後に「記録」も残しやがった。ニクイねえ。彼の以前のこのへんの発言で比較対象にされたアメリカのイチローは日ハム優勝という結果を受けて、どう思うのだろう?
これで、SHINJOの攻撃時の敬遠球打ちや守備時の無意味なジャンピングキャッチのような、良い意味でふざけた!? プレーももう観られなくなるのかと思うと、少し寂しく思う。

そのSHINJO効果で、ダルビッシュ、武田久、八木などの他球団に比べても若い投手陣が上手く乗せられたこともある。それに加え、稲葉、中嶋のような他球団で優勝の味を知っている選手が加入したことも大きい。
ただひとつ心残りだったのは、日ハムの旧来の生え抜き選手では小笠原の活躍は当然ながら目立ったが、今シリーズくらいは顔見せ程度でもいいから、現役選手のなかでこの球団を最も熟知している田中幸雄を試合に出してほしかったなあ、とは日ハムファンではない僕でも思った(本拠地がまだ僕にとっては近場の東京ドームにあったときは、日ハムの主催試合を数回観に行ってはいるが)。でもまあ優勝決定後に胴上げされたりしていたから、古くからの日ハムファンも喜びはひとしおだろう。
あとは、現在は対戦相手の中日に移籍してしまったが、長らく日ハムでプレーしていた上田(先日僕が行った長野県松本市の松商学園高出身)の心境も気になる。そうなると、名だたる日ハム・日ハム以前のOBも気になるな。テレビ『サンデーモーニング』の大沢親分(大沢啓二)と張さん(張本勲)の両OBも、今回に限っては日ハムとSHINJOに「あっぱれ」をあげてもよいと思うのだが、29日の放送が楽しみだ。

また、今回のこの北の大地で優勝が決まったという結果を受けて改めて思ったのは、球団名に地域名が入っているのはやはり良いな、ということ。サッカーJリーグでこの試みが上手くいって、現在は地域密着型の応援が浸透しているのだから、そろそろ野球界も全球団とも球団の名称を企業名のみならず地域名入りにするほうが良いはずだ。そのほうがより一体感が増す、というのは札幌ドームのこれまでにない超満員の客入りを観ればわかる。僕が普段ひいきにしている、今季は残念な結果に終わった西武ライオンズもこれは見習ったほうがいいよな。

まあとにかく、今季は日ハムファンの方々には敵ながらおめでとさん、と言いたい。これで僕も旅でよく行く北海道の景気が少しは上向きになるのかな。親会社も今後しばらくは、ハムやチキンナゲットを10パーセント増量どころではなく、2倍にするくらいに振る舞ったり、最近大人気の森本を新キャラクターに据えて(サービスするなどして)販売戦略を立て直しても良いのではないか。
基本的にセ・リーグよりはパ・リーグが好きな僕としては、日ハムが今季のような力をつけてきているというのは大歓迎。来季もできるだけ戦力を維持して(小笠原のFA問題もあるが)、今季のように大盛り上がりになるといいな。



2006年10年5日、北海道旅の途中、札幌市内のカレー店行脚をしていたときに通りかかった、札幌ドーム。このときはまだプレーオフ第2ステージ前の日ハムがソフトバンクホークスに勝って仮にパ・リーグ代表になったとしても、日本シリーズでは第6戦か第7戦までもつれると思っていたから、まさかこの3週間後にここで優勝が決まるとは思っていなかった。
ちなみに、ここでは2004年3月に、日ハムが北海道に移転・SHINJOが移籍したばかりの頃の日ハム主催のオープン戦を1試合観たことがある。そのときはひとりで訪れて入場券売り場で券(1000円)を買おうとした僕に余った招待券を譲ってくれた地元のおじさんも、今回はきっと大喜びだろうなあ。

蝶ヶ岳登山のあとの話

2006-10-25 09:00:44 | 自分の旅話(非日常)
前回の投稿の続き。22日の蝶ヶ岳登山のあとの僕の動きについて、24日の帰宅まで簡単に触れておく。

22日。夕方、同行の先輩はひと足先に下山するため、上高地バスターミナルで見送る。まだ手持ちの時間は1日あったのだが、テント泊は寒いから嫌だ、疲れた、ということで松本駅前のビジネスホテルに泊まるとのこと。ここから僕は単独行動。

その後、すぐそばの小梨平キャンプ場でテント泊(1泊700円)。19時すぎから雨が降り出し、夜半まで断続的に小降り。登山中に降らなくて良かった。気温は前夜よりもやや高めで、思ったよりも暖かく眠れた。

23日。朝、雨はやむが山には雲がかかる。体力と天候が回復すれば焼岳(北峰。2444m)を登ろうかと思ったが、天候待ちで2度寝しているうちにやる気が失せる。で、結局、大正池の散策プラス温泉入湯という再びひよった策に切り替える。

休日ほどは観光客は多くない河童橋の付近で写真を撮りまくり、せっかくなので大正池に行くついでに焼岳登山口への道のりを今後のために下見する。

その途中、「日本アルプス」の名付け親であるウォルター・ウェストンの碑も見ておく。普段はいっぱしの登山者を名乗っているくせに、日本の登山史上でも特に重要な人物のこれを今回初めて見た、というのが少々恥ずかしい。

大正池へ向かう途中、ある場所でニホンザルの群れが活動しているなかを進む。林道のど真ん中を闊歩したり、木に登ったり、道のそばで毛づくろいをしている様子を立ち止まってじっくり見た。特に、夫婦らしき2匹の猿が道から2mくらいのところでいちゃついていたので、しばし写真を撮りまくった。だが、僕が近付いても警戒する様子はなく、人慣れしていた。猿たちと遭遇した場所は秘密。焼岳に登らない代わりに珍しい光景を見ることができて良かった。

そんなことがあり、大正池に到着したのは昼になった。大型観光バスやタクシーが次々に停まり、観光客が数十人単位で下車する。この時間になると平日も休日もない。みんな焼岳や穂高岳方面に向けて写真撮りまくり。客層はやはり大半が50代以上の中高年。おばちゃん集団はやはりここでもうるさく、情緒もへったくれもなくなる。パンプスで歩く若い女子や背広姿の親父なんかを見ると、ああ観光地だなあ、と幻滅する。猥雑な観光客の大群に紛れ込んだここではすぐにでも登山できる格好で歩く僕のほうが場違いな感じになる。上高地という場所の雰囲気を考えると本来は逆だと思うのだが。

そんな集団をあえて避けながら自然研究路を散策。紅葉も良いが、人がほとんどいない冬場にクロスカントリースキーで梓川沿いを周遊するとより楽しいはず、と歩きながら次の旅を夢想というか妄想する。

その後、芥川龍之介、ウェストン、斎藤茂吉、若山牧水、加藤文太郎などの名だたる文人・岳人が昔の釜トンネル開通以前は徳本(とくごう)峠越えして投宿したという由緒ある宿、上高地温泉で午後の外来入浴(600円)の時間を狙って入湯。そんなに大きくはないが露天風呂が気持ちよく、結局は1時間ほど入っていた。

そして、16時前に上高地バスターミナルから下山するためにここに戻ったとたんに急に大雨。やはり登山はやめて正解だった。
松本電鉄の路線バスと列車を乗り継いで夜に松本に着いても雨。

23日の泊まりは松本駅アルプス口(現在整備中)から徒歩15分ほどの川に架かる橋の下でテント泊。駅寝はうるさい若者が目立つため、断念。松本市街は前日までの上高地よりは標高で700mほど下がっているので、とても暖かい。寝袋のみならずテントも使えれば、野宿であっても極楽。

24日午前、小雨と大雨がまだまだ繰り返されるなか、松本バスターミナルから路線バスで市南部の中山霊園に行く。23日じゅうに直帰しようと思えばできたのにしなかったのはこのためだった。

実は、松本市内に僕の親戚の家があり、2006年3月10日の投稿でも触れた神奈川県鎌倉市と同様に、松本は僕にとってはシェルパ斉藤と同様に20年以上前から馴染み深い街だったりする。昨年終了したテレビドラマ『白線流し』シリーズのロケ地の大半に、わざわざ地図で場所を確認しなくても行けるくらいの土地勘がある。正確に数えたことはないが、登山目的も含めてもう松本には50回以上は訪れている、はず。

そんな土地の霊園で親戚3人が永眠しているため、3年ぶりに墓参り。正午前後に霊園にいるあいだだけはなぜか雨はやんだ。墓石と周辺を軽く掃除し、旅の本を出版したことなどの近況報告。登山のような3K的な行為は好まない母系の鎌倉よりも、元々は“山屋”な父系のこちらの一家のほうが(某有名山岳会や登山家とも若い頃に深い付き合いがあったとか)、旅や登山にかなりの理解があるため(山に近い土地で余生を暮らしたかったために東京都内から松本に引っ越した)、報告することは多い。僕はどちらかと言うと、こちらの家系の血を受け継いでいるようだ。
しかし、墓石を離れたとたんにまた雨が降り出す。

1~2時間に1本しか運行していないバスに再び乗り、15時前に松本市内に戻る。前々から気になっていた、女鳥羽川沿いにあるカレーとハンバーグの店「ばくばく亭」に行き、ハンバーグカレー(1200円)をいただく。果物も煮込んだ甘めのルウと手切りミンチ・つなぎは10%・井戸水で調理、の手作りハンバーグとの相性が良い。信州で食というとそばや馬刺しが美味いことで有名だが、僕の場合はいつでもどこでもカレー店にこだわる。松本にも「たくま」「デリー」「メーヤウ」など、僕のような“カレー人”も思わず唸ってしまうくらいのなかなかの店が多い。

その遅い昼食を終えても雨はやまず、時間があれば久々に観光しようと思ったがその気も失せる。松本は最近は市内観光に自転車を積極的に取り入れているが、当然ながら横殴りの雨ではその一環として設けたべロタクシーの出番もない。雨宿りがてら、書店やコンビニエンスストアで立ち読みしまくり。

19時に松本バスターミナル発新宿行きの高速バスで帰ることに。埼玉県から松本に来るときはいつもはJRの普通列車で片道4、5時間かけて移動しているが、たまには30分から1時間おきに運行し、新宿←→松本の所要時間は3時間10分のこのバスの状況を確認しておくか、と久々に乗り込む。平日だからか、約40人乗りのバスに乗客は僕を含めて7人。つまり乗車率20%以下という具合。夏の繁忙期以外でも毎日往復18便も運行していて採算は合うのかな? と気になるが、利用者としては公共交通の選択肢が多いことは助かる。現在は松本からは大阪や金沢や中部国際空港へのバス便もあり、以前よりも充実してきた。

定刻よりも5分早く22時すぎに新宿に到着。都内でも雨。自然味いっぱいの山から下界したというか現実世界の街なかに再び戻ってきたことを寂しく思う登山後特有の憂鬱な心境のなか、帰途につく。大都市に出たとたんにプロ野球日本シリーズの結果が気になりだす。

まだまだ登山の余韻を持ちながら家まですんなり帰れると思ったが、最後にひとつ問題が。池袋からの電車で隣に座った背広姿の会社員風男が、携帯電話を時折音を出しながら延々いじくりまわしやがる。しかも、電車が下るにつれてほかにも座席が空いてきているのにもかかわらず、僕の隣から離れず、うざい。ふつうは先に乗車している僕に気を遣って少しは離れると思うのだが。
電車内での携帯電話の使用(メール・ゲームなども含む)が普段から大嫌いな僕としては、そいつの顔と電話を交互に数回睨んだりわざと足を組んだりしてその愚行を牽制するが、結局はサッカーのマンマークのような状態で僕にぴったり張り付いたまま降車するまで20分ほどいじっていた。ただの嫌がらせなのかもしれないが、とにかく他人が迷惑していることに鈍感なこういう輩は明らかに「社会人」ではないよな、こんな愚行に対しては黙って我慢するのはいいかげんやめて、そろそろ鉄拳制裁しようかな、と考え始めながら、激しく憤りながら帰宅。うるさいこいつのせいで、山行の余韻がぶちこわしである。

それでもなんとか日付が変わる前に帰宅。テントやら寝袋やらザック全体的にやや濡れた荷物の片付けは翌日以降にまわす。

という感じ。予定よりも1日早い帰宅になったが、まあいろいろなものを見ることができて充実した山行だった。出費は装備・食料代も合わせてどんぶり勘定で約1万8000円。青春18きっぷが使えないこの時期では妥当なところか。今度は往復割引きっぷを駆使してもっと安く行きたいものだ。



2006年10月23日、河童橋から徒歩約3分の小梨平キャンプ場内の梓川近くの区画にテントを張ると、朝はテント内からこういう景色が見られる。この日の空模様は前日までと違って微妙だったが、紅葉はちょうど真っ只中の時期のようで、良いものが見られた。仮に風雨が強くて停滞した場合も、そんなときは気持ちも停滞してしまうテント暮らしであってもこの眺めが目の前にあると、なごむだろうなあ。
これでアルコール類が片手にあれば最高ですな。



2006年10月23日、秘密? の場所でニホンザルの群れの活動を見たのだが、なかでも最も見たのがこの3匹の猿。右の2匹が夫婦のようで、お互いに毛づくろいというかノミ取りをしていた。で、左の小猿がどうやら夫婦の子のようだ。こいつは最初に見つけたときは夫婦から4~5m離れたところで1匹で遊んでいたのだが、僕が望遠で数十枚写真を撮りまくっている間に“1匹遊び”に飽きたらしく、結局は3匹で交代しながら毛づくろいをするようになった。僕から2mの距離なのに、この猿たちは逃げる素振りもなく動じなかった。時折、僕に対してカメラ目線を向けてきたりもした。



2006年10月23日、焼岳を背後にした大正池の湖畔というか池畔。こういう景勝地にはつきものの、“カメラ小僧”ならぬ“カメラおじさん”がやはりたくさんいた。山の絵を描くスケッチおじさん・おばさんも結構いた。いわゆる「2007年問題」によって、来年以降は会社勤めを終えたこういう人たちが激増するのだろうか。そうなると上高地周辺も、それ以外の景勝地も、来年以降はより騒がしくなるかも。心穏やかに訪れるなら、今しかないか。



2006年10月24日、松本駅のアルプス口(西口)。駅周辺の整備はこちらも反対側も、9か月前に訪れたときよりもかなり進んでいた。駅の改札口が自動改札に切り替わっていたことも長年この地に通っている僕としては衝撃的であり、昔からのこの駅の雰囲気が損なわれてやや寂しくもある。僕のなかでは、今年の10大ニュースに挙げられるくらいの変貌ぶりである。



2006年10月24日、松本市南部の中山霊園の入口近くに、旧環境庁が整備した長距離自然歩道のひとつである「中部北陸自然歩道」の指導標があった。ここがそのコースの一部に設定されていることは今回これを見て初めて知った。加藤則芳や田嶋直樹と同様に長距離自然歩道にも一家言ある僕としては(大学時代の卒業論文が自然歩道の調査報告のようなものだったため)、ここはいつかは必ず歩いておかねばならん! と思った。今度ここを再訪するときは歩き旅の途中に墓参り、ということになるかもしれない。

計画は徐々に下方修正の飛弾山脈・蝶ヶ岳登山  

2006-10-24 08:00:36 | 登山
21日から22日にかけて、長野県は飛弾山脈・蝶ヶ岳(2677m)を登ってきた(写真参照)。
ここ1か月はなぜか、東京都奥多摩・沢登り、北海道・羊締山と登山づいている。だが実はこれは当初は7月か8月に登るはずだったが、なんだかんだでまとまった休みが取れずに9月下旬に延期し、さらにそれも中旬に沖縄県に行った影響で金銭面の不安から延期することになり、今の時期になってしまった。
しかも、ルートも当初は蝶ヶ岳からこの北の常念岳・大天井岳・燕岳(つばくろだけ)を3~4日かけて縦走するはずだったが、今回、結局は上高地→徳沢→蝶ヶ岳→横尾→上高地という小学生の子どもを連れた家族登山的なかなりやさしい行程になり、雪山登山もたしなむワンゲル上がりの身としてはかなり堕落した山行になってしまった。が、それでも今回は飛弾山脈の登山にこだわりたかった。なぜか。

僕は1994年から4年おき、つまりサッカーワールドカップの開催年には飛弾山脈の山を結果的に登っていて、近年僕のなかでは恒例行事になっているこれを今年も継続したかったから。ちなみに、1994年は大学ワンゲルの夏の合宿で白馬から唐松岳→白馬岳→大雪渓→猿倉を縦走(行程短縮)、1998年は夏に単独で折立から薬師岳・北ノ俣岳を薬師峠小屋定着・往復(行程短縮)、2002年はふたりで簗場→鹿島槍ヶ岳→爺ヶ岳→扇沢を縦走、いう内容だった。
また、なぜ今回はこんなにひよった結果になったかについても触れると、今回もいつもの登山のように単独行のつもりだったが、6年前からたまに山行をともにしている大学ワンゲルのときの先輩に、9月の酒席で今回の登山の話を出したら乗り気で、即決し、また一緒にふたりで行くことになった。

1歳上のこの先輩とは、埼玉県出身、そのためにJ1・浦和レッズサポーター、A型、タバコ嫌い、酒好きなどと共通点が多く、大学卒業後もふたりで飲みに行ったり山に行ったりすることが多い。こういう、1対1(サシ)で向き合える人って多くはいないので、普段から何かと助けられている。ほかの方はこういう密な関係が持てる人って何人くらいいるのだろう?
ただ、この先輩は学生時代は山行でパーティを組むと常に先頭のほうで登り・下りともに対向するほかの登山者とほとんど挨拶も交さずに蹴散らすくらいの激しさというか強さがあったのだが(今考えるとかなり素行の悪い登山者だ)、ここ数年は運動不足などによって膝の調子が悪く、現在では学生当時のワンゲルメンバーのなかでは比較的非力な部類に入っていた僕よりも疲労が蓄積されやすくなり(加齢も影響しているか)、今回の計画も先輩の体調を第一に考えて下方修正することになった。
また、今月上旬に白馬岳や奥穂高岳で悪天(吹雪)に捕まって死者が数名出た、という報道も受けたため、防寒対策の微妙さからもひよった、ということもある。この時期の登山は先のような吹雪の可能性もあるため、装備の選択が難しい。

ちなみに、先輩とふたりでの登山は2000年からこれまた偶然にもちょうど2年おきに継続していて、2000年は冬の山梨県・富士山吉田口(強風のため山頂到達は断念し、8合目まで)、2002年は上にも挙げた夏の長野県・鹿島槍ヶ岳など、2004年は冬に山梨県・大菩薩嶺に行き、今回でふたり山行は4回目になる。なお、2000年の富士山登山については、山岳雑誌『岳人』の2000年5月号(通巻635号)の81ページの読者投稿写真のコーナーに、僕が撮影したそのときの写真がほぼ半ページというかなり良い扱いで掲載されている。図書館などでバックナンバーを“ご覧アレイ”(ごらんあれ。このギャグがわかる人って全国にどのくらいいるのだろうか?)。

で、肝心の登山の結果だが、21日に東京都内から松本→上高地→徳沢でテント泊、22日に徳沢→蝶ヶ岳→大滝山往復で蝶ヶ岳ヒュッテでテント泊、23日は蝶ヶ岳ヒュッテ→蝶槍→横尾→上高地→帰京、のはずだったが、22日に大滝山往復を省略して、徳沢を基点に日帰りでそれ以外の行程を周回した。
と言うのも、先輩は今回の登山のためにテント(ICI石井スポーツ・ゴアライトX)や寝袋(イスカ・エア280)やフリース(ユニクロ)などのほとんどの装備を新調し、装備面では2人組パーティと言うよりは単独行者がふたり揃った、共同装備はガスコンロ(スノーピーク)のみ、という様相になったが、そんな新品装備の数々を駆使しても徳沢の夜の気温0度近い冷え込みが思いのほかこたえたそうで(夜勤開けで寝不足でもあったためか)、徳沢から標高にすると約1100m上がって気温はさらに7~8度以上は下がる蝶ヶ岳ヒュッテでのテント泊なんか無理、22日じゅうに下山したい、ということで当日も計画をまた下方修正した。先輩は以前は冬の八ヶ岳に3季用の寝袋で行くくらいの寒さへの耐性もあったのだが、やはり寄る年波には勝てないのか、と10年ほど前の彼の全盛期を知っている僕としては少々しんみりもした。

でもこの計画変更は結果的には正解で、僕もやや風邪気味で頭痛がひどくて不調だった(独身男2人組も30代になると健康面から何かと問題が発生するようになるな)。しかも22日は日中は快晴だったものの夜は雨になった。
でもまあ日中は360度ほぼ晴れ渡っていて、蝶ヶ岳からは西のほうでは槍ヶ岳~大キレット~北穂高岳~奥穂高岳の相変わらず日本離れした岩稜線、北は常念岳、大天井岳、ほかにも様々な山の眺めを久々に存分に堪能した。
よく考えると、僕は今回が9年ぶり3回目と随分ご無沙汰だった上高地周辺での登山になったが、これまでとは違って秋に来たので、紅葉も楽しめて、反省点はいくつかあるものの予定が延びたのは結果的には良かったのかもしれない。

そんな感じで、僕個人的な恒例行事と、先輩とのちょっとした“お約束”を一挙に片付けることができた、結果的にはなかなかの山行だった。



2006年10月21日、週末の上高地バスターミナルの午後の人出はこんな感じ。登山に最適な夏に限らず、秋の紅葉の時期も登山以外の目的で訪れる旅行者でかなりの賑わいになるのね、と今回この時期に初めて訪れた僕も驚く。大半が旅行会社が用意した大型観光バスで連なって訪れた団体旅行者のようで、人数が揃わないわ! などと旅行会社の添乗員が小旗を持ちながらテンパッている様子も垣間見られた。



2006年10月21日、そんな騒がしい上高地バスターミナルを離れ、夕方、明神から徳沢を目指して移動している途中。相変わらず、梓川と山並みが合わさった景色が良い。ここはホントに日本なのか? と錯覚し、9年ぶりに歩くこの道からの眺めの良さを再確認する。まさに日本が誇れる絶景だ、と断言できる。



2006年10月22日、徳沢キャンプ場から長塀尾根を登る。夜中は氷点下の気温になるこの時期の標高の高い場所では当然ながら霜柱が立ち、ちょっとした水たまりにはこのように薄氷が張る。



2006年10月22日、蝶ヶ岳の最高点(2677m)。雲は少なく、天気は最高。あまりに良すぎてあとが怖いくらい(実際、この9時間後には雨が降り出した)。
ちなみに、山頂などで記念写真を撮影する場合、多くの人はふつうに二本指(ピースサイン)を立てたり、跳躍したり、逆立ちしたりする人が多いが(複数人で写る場合は、組体操や映画『タイタニック』のあの十字のポーズもあるな)、僕の場合はふつうに手の親指を立てるヒッチハイクポーズか、ダチョウ倶楽部が客前に登場するときの「やー!!」か、その時々の流行りモノで決めている。近年では、ゲッツ!(ダンディ坂野)、東MAX!(東貴博。Take2)、命!(ゴルゴ松本。TIM)など。そして今回は、現在は深夜枠のテレビアニメも好調な週刊モーニングの連載マンガ『働きマン』の主人公・松方弘子の決めポーズにした(単行本第1巻の表紙参照)。働かずに山に来ているのにもかかわらず。



2006年10月22日、蝶槍の分岐から横尾に下山。この区間の山道で気になったのが、木の幹に黄色のペンキの印がやたらと多く付けられていたこと。道自体はそんなに迷いやすいわけでもないのに、なぜ余計に付けられているだろうか。ひどいものでは、4~5mおきに付けられている箇所もあった。こういう人工的なものは行き止まりの箇所のみの必要最低限にして、あまり山の雰囲気を壊さないでほしいよなあ。せっかく「自然」を楽しむために登山しているのだから。
これは明らかに山のことがわかっていないヤツの仕業で、悲しくなる。たとえこの付近の小屋の管理者が山道の整備の一環として善意で付けたとしても、これはやりすぎである。これらを見ると、逆に悪意を感じる。

文句の多い紀行文

2006-10-23 21:00:35 | 拙著の情報
拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)が6月に発売されてから4か月経過した。その後、売れ行きはどんな感じなのだろう? と実は書いた本人もよくわからなかったりする。版元によると、詳しい結果が出るのはまだ先のようなので。
書店にほとんど在庫してもらえなくなった現在の販売経路はやはりネット書店が主になるか。一応、僕の手持ち分もまだ数十部あるので通信販売も受け付けていて、先月も知人にその方法で売ることができた。

で、今回の投稿のタイトルは何事かというと、拙著を買ってもらって読んでもらった近い友人が、最近僕に本の感想を、

「文句の多い本だな」

と述べたことにある。
これは僕もたしかにそうだよなあ、簡潔に上手く言い当てているなあ、と褒め言葉ではないにしても感心した。

たしかに拙著のなかでは、沖縄県内の事象では、米軍基地の近年の状況、それに関する日本政府の対応、やんばるの開発による赤土流出、(風雨も結構あって)亜熱帯ゆえにあまり安定していない天候、スーパーの会計の仕方、などに簡単にではあるが疑念を示している。
また、全国的な事象については、クルマの運転者の運転の下手さ加減、自転車乗りの(自転車が「軽車両」であるという)交通法規への認識の甘さ、火の点いたタバコの扱い方、団体旅行者の団体ならではの節操のなさ、(それらを総合すると)現代的な動力や便利さに頼りきって自分の実力以上に調子に乗っていることなど、たしかに世間への文句と言えば文句ばかりである。
まあつまりは、すべて現代を生きる人間全般の、法律だけでは律しきれない「良識」について物申しているということ。もちろん、これには僕も含まれてはいるが、これらの事例を僕の過去の旅の経験と照らし合わせて、反省している。拙著はぶっちゃけると、世間への文句集であり、僕自身の反省文でもある。
それを踏まえてもう少し暮らしやすい、そして旅しやすい世の中になればいいなあ、という願いを本のなかに詰め込んでいるつもりなのだが、すでに読まれた方にはきちんと伝わっているかなあ。

本ブログでも以前に触れたが、僕は元々は寡黙なキャラクターを通していて、表立って文句を言ったり騒いだりわめいたりする柄ではなかったのだが、近年、世の中の様子がどうもおかしいな、(道路交通ひとつを見ても)なんだか以前よりも旅しにくくなったなあ、と実害を被る機会が年々増えつつあることに危機感を覚え、ついに今年、出版およびブログの開設で立ち上がった次第。自分のなかでおかしいと思うことは溜め込まずにおかしいと言うほうが精神衛生上もよろしいようだし、まあ文句と言われようが拙著のような物言いというかツッコミの仕方で今後も本ブログを続けていくつもりではある。
ツッコミと言うと、お笑い芸人で例えるところの、田中裕二(爆笑問題)、上田晋也(くりぃむしちゅー)、品川祐(品川庄司)あたりの理路整然かつ簡潔なツッコミを目指している。でも僕の場合、本ブログの長々とした投稿を見てわかるように、ツッコミを入れるさいの最大の課題は「簡潔」ということだな、というのは常に自覚しているが、これが元々の性格ゆえに改善はなかなか難しい。もちろん、ネット上ではなく今後実際に僕と直接対面する方にも、遠慮せずに同じ体で対峙する。
冒頭の友人の「文句が多い」という意見も、直接聴けたのは良かった。これがネット上で活字として出ると受け取り方が微妙に異なってくるからね。

まあとにかく、拙著をきっかけにより多くの方と対面できればいいな、と最近よく考えている。でもその前に、まだまだ拙著を普及させる運動は続けていかないと。

引き続き拙著をよろしく。

拙著『沖縄人力紀行』の補足3 ヤンバルクイナに、気を付けろ!!

2006-10-20 18:18:16 | 拙著の補足・訂正

2006年9月21日の沖縄「旅行」の投稿でも少し触れたが、本島北部の「やんばる」には、この地域にしか棲息していない固有種で、国指定天然記念物の鳥であるヤンバルクイナが棲息しているのだが、近年は人里に下りてくることがよくあるようで、本島北部の辺戸集落あたりから東海岸の国頭村と東村の境あたりまで、時折、このヤンバルクイナの注意標識が設置されている。拙著にある4年前の自転車による本島一周旅ではそんなに見かけなかったのだが(自転車走行に夢中になると上り坂で目線が下がって、標識を見落としていたのかもしれないが)、先月レンタカーで同じ道路を辿ったときは頻繁に見かけた。

ヤンバルクイナの特徴については拙著の83ページでも簡単に触れたし、まあ最近では動物図鑑のほかにもインターネットの検索で調べるという方法もあるから、情報は年々得やすくなってきている。だがやはり、もっと正確にこの鳥の生態を知りたいのであれば、実際にヤンバルクイナがいる国頭村の「やんばる野生生物保護センター」に行ってみるほうがよいに決まっている。ここは本土で言うところの国立・国定公園内によくあるビジターセンターのような自然学習ができる施設で、ヤンバルクイナの新しい出没情報も掲示してある。僕もここには過去2回行っているのだが、生物に関する図書や資料も充実していて、半日いても飽きない内容はあると思う(まあこれは人それぞれの関心度にもよるが)。やんばるを訪れたさいには一度は行ってみることをおすすめする。

ヤンバルクイナと聞いてあと連想することとしては、以前、ミニモニ。が、
「ヤンバルクイナって、なんなんだー!!」
と歌のなかで叫んでいたが、この生態を本気で知りたいのであれば、こういう場所で勉強していただけると幸いである。
ところで、ミニモニ。の元メンバーのうち現在は2名ほど行方不明のような気がするのだが、今は一体何をしているのだろう……。そのうちひとりは実家周辺の土地柄に不似合いな愛車? のベンツと一緒に引っ込んでいるらしいが。そんなときこそ、こういう大自然のなかに足を運んで、全身を駆使して学習する、という時間を持つこともよいと思うけどなあ。やんばるであれば、一年じゅう観光客でごった返している那覇や北谷ほどは旅する人も多くはないから、顔を指されることもそんなにないだろう。

僕も今後は野生のヤンバルクイナを死ぬまでには一度は生で見てみたいので、やんばるには何回も通うことになるだろう。これまでは海岸沿いの道路を歩いたり走っただけで山のほうはまだ未踏だし。遅くても2~3年以内にはやんばるを再訪してやる! という欲はいつも持っている。

拙著『沖縄人力紀行』の補足2 ルビがやや足りなかったかも

2006-10-20 17:45:31 | 拙著の補足・訂正

拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)を書くうえでひとつ大きく悩んだことに、沖縄県内の地名や事象などを挙げるさいに難読漢字へのルビをどのくらい入れるか、ということがある。また、本文のなかでは方言であるウチナーグチの読み方もいくつか挙げているため、これらの漢字や読み方への関心度というか感度は人それぞれで、それは住んでいる地域によっても違ってくるため(大雑把に考えると沖縄県から距離的に遠い北海道や東北地方の人は特に関心度は低いのでは? という印象がある。もちろん、そうではない沖縄を偏愛する人も少数派ながらいるだろうけど)、ルビを入れるか否かの線引きに結構苦労した。

もちろん、沖縄県が地元のウチナーンチュにとっては読めて当然の言葉ばかりだが、拙著は沖縄県も含めた全国47都道府県に住む人を対象に書いたため、どちらかと言うとそれらを予備知識なしでは読めない人が多いと思ったため、とりあえずは沖縄県を一度も訪れたことのない人から見てすぐにわかるか否か、という見方で判断した。一応、僕の身の回りの友人知人(東京近郊在住)に沖縄旅の話をするときに地名や固有名詞を小出しにして、沖縄県の事象への関心度を調べたりして、そんな第三者的な客観的な回答を参考にもした。

ただ、地名に関しては各出版社から出版されている観光ガイドブックや沖縄本、道路地図、それに統計では県勢(日本国勢図会地域統計版)、最近ではインターネットの検索で調べたりすればある程度はわかると思うので、そんなにルビを入れなくても大丈夫かな? とも思ったが、やはり基本的には本文の流れを考えて、重要度の高いところにはできるだけルビを入れるようにした。
例えば、56ページ14行目では近年、米軍再編で特に注目されている名護市の辺野古(へのこ)、67ページ14行目では、最近の沖縄県内でも特に人気のある観光地である本部町の「美ら海水族館」の美(ちゅ)らなど、昨今の米軍絡みの報道や沖縄ブームによって本土でもよく知られるようになった言葉にはルビを入れているが、そこはまあ全国47都道府県を旅していて数々の難読地名や表記によく触れている僕基準で判断した。

それで、これは前回の投稿の誤字脱字に少し関係するかもしれないが、拙著の出版後に、もう少しルビを入れておけばよかったかなあ、と少々後悔することもあり、今回、ここでちょこっと補足したい。
なかでも特に気になっているのが、50ページ7行目の「読谷山花織」である。これは約600年前から読谷(よみたん)村に伝わる伝統織物のことで、格子柄がいくつか組み合わさってできた花模様が印象的。その模様は30種類以上あるとか。おそらく、沖縄県を旅したことのある人であれば、那覇市の那覇空港2階の土産物店や市内中心地にある国際通りに建ち並ぶ土産物店で、「紅型(びんがた)」、「久米島紬」、テレビドラマ『ちゅらさん』でも重要な小道具となった石垣島の「みんさー織り」などの染物や織物とともに一度はこの幾何学模様を見たことがあるはずだ。しかも、山花織とは限らないかもしれないが、上の写真のように沖縄県内では比較的人通りが多い場所では歩道の路面に幾何学模様を施している様子もいくつか見受けられる(写真は那覇市中心部で、奥の大きな建物は沖縄県庁)。肝心のこの読み方だが、標準語であるヤマトグチ読みでは、

「よみたんざんはなおり」

になるのだが、沖縄県内であればやはりウチナーグチ読みのほうが一般的なようで、「花織」も「はなおり」ではなく「はなうい」と読み、厳密には、

「ゆうたんざはなうい」

と読むことが多いようだ。ただ、一部の資料では「花織」を「はなゆい」というふうにウチナーグチとヤマトグチを混ぜたような読み方もあるようで、そうなると、

「ゆうたんざんはなゆい」

と読むこともあるらしい。これはその道に詳しい人に聞かないとはっきりしたこと言えないのでなんとも難しいため、今回、ルビを入れるのを見送った。まあ脱字と言えば脱字かもしれないが、そうではないと言えばそうではないとも言える。
だが、その後も沖縄絡みの雑誌や書籍を読み漁った結果、やはり沖縄的には2番目の「ゆうたんざはなうい」が妥当かな、と今は思っているので、もし拙著を増刷する場合は沖縄県に敬意を表してルビは地元読みのこれを入れようかな、と考えている。
このように、本土もんが沖縄県の事象を扱うのはかなり大変なのね、と今回本を出版して改めてその難しさを痛感した。

ほかには、もし増刷の可能性があればぜひルビを入れたいな、という地名もいくつかある。
沖縄県の地名に使われる漢字で基本的なところでは新を「あら」、城を「ぐすく」、谷を「たん」、原を「ばる」(「ばる」は九州でも読まれるか)、良を「ら」と読むのだが、それも含めてやや難しそうだな、というものを吟味して判断したつもりだが、プロ野球・中日ドラゴンズの春と秋のキャンプ地である北谷(ちゃたん)や上に挙げた読谷(よみたん)、サッカー現日本代表のFW我那覇和樹(川崎フロンターレ)の出身校がある宜野湾(ぎのわん)なんかはわかりやすいと思ったが、判断にやや迷い、結局はルビを入れなかったのが以下。カッコ書きのページ・行数は初出の場所。ちなみに、すでに拙著を読まれた方はわかるはずだが、ルビは初出のみに入れている。総ルビにするとうるさいし、編集に時間がかかるから。

1.嘉手納 (かでな。44ページ7行目)
2.普天間 (ふてんま。46ページ16行目)
3.残波 (ざんぱ。47ページ5行目)
4.楚辺 (そべ。49ページ1行目)
5.座喜味 (ざきみ。50ページ5行目)
6.許田 (きょだ。56ページ6行目)
7.辺土名 (へんとな。85ページ8行目)
8.金武 (きん。127ページ10行目)
9.与那原 (よなばる。155ページ9行目)
10.玉城 (たまぐすく。158ページ9行目)
11.南城 (なんじょう。158ページ9行目)
12.豊見城 (とみぐすく。180ページ7行目)

1は本土でも米軍絡みの報道でここに飛行場があることがほぼ毎回報じられるので、すでに全国的知られているだろう。最近も、北朝鮮の核実験を受けてかどうかはわからんが、どこかからの攻撃に対抗するための迎撃用の(米軍の)パトリオットミサイルがここに配備されたし。
2も1と同様に近年よく報じられる、米軍再編による辺野古への基地移転の移転元の飛行場がある。このふたつの飛行場をおおまかに分類すると、嘉手納は戦闘機を多数配備しているように大陸方面の有事のさいの前線基地になり、普天間のほうは輸送ヘリコプターが多いように人員・物資輸送などで嘉手納の後方支援的な役割を果たすようだ。このふたつの地名くらいはルビなしで読めてほしい、そしてこれらの自治体のど真ん中に現在も米軍基地が広々と存在していることは全国的に知っておいてほしいよな、と思う。

6と8については、沖縄県内の高速道路である「沖縄自動車道」のインターチェンジが設定されている場所なので、これも特にクルマによく乗る人であればなんとかわかるかな、と思った。ちなみに、許田には59ページでも触れている泡盛「くら」を製造しているヘリオス酒造があり、ここは1961年に県内で初めてラムの製造を始めたそうだ。最近は「TYPHOON」というシークヮサー果汁入りのラムカクテルも製造販売している。

最近ややこしいのが、10と11と12。沖縄県の地名で「城」と表記する場合は基本的には「ぐすく」と読み、人名で表記する場合はふつうに「しろ」と読む。例えば、Kiroroのふたりの名字(ふたりとももう結婚したので、旧姓?)は玉城と金城だが、それぞれ「たましろ」「きんじょう」と読む。だが、地名のときはやはり「ぐすく」になり、同じ玉城という漢字を使っていても「たまぐすく」になる。
しかし、沖縄本島南部の玉城村、知念村、佐敷(さしき)町、大里村が2006年1月に合併してできた南城市は「なんぐすくし」ではなくヤマトグチ読みで「なんじょうし」と読む。なんでこれだけ旧来のウチナーグチ読みではないのかね。本土の影響を受けてのことなのだろうか。これらの町村の合併の詳しい経緯は知らないが、沖縄らしさを少しでも保とうとするのであれば「なんぐすく」のほうが言葉の響きとしては良いと思うのだが。地元住民としてはやや不慣れなこの読み方で納得いっているのかなあ。

まあこんな感じで、拙著のルビの表記についてはやや物足りなさがあるため、補足した。以上の件についてはもし増刷できる場合は変更しようかと思っている。まあこれは拙著の売れ行き次第なのだが、できれば入れたいので売れてほしいな。

拙著『沖縄人力紀行』の補足1 いきなり誤字脱字訂正  

2006-10-15 06:00:39 | 拙著の補足・訂正
最近はなんだかんだと細かい用事が立て込んでいて、しかも先々週に北海道に行ってしまったりしたために旅ネタをじっくりまとめる暇がほとんどないのだが(貧乏暇なし、というやつ)、先月下旬にお知らせした拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の補足もそろそろ始めなきゃなあ、と思い、今日からゆるゆると不定期で始めることにする。
だが、1回目はそんなにゆるゆるはできない、拙著の出版後に発見した誤字脱字の話。ただ、他者の記述からの引用を間違えたとか、人名・店名・地名などの固有名詞を勘違いしたとかいう対外的に特に重要な問題ではなく、僕個人的に納得のいかない表記で、その責任もすべて自分に返ってくるもの。

まず1点目は、191ページの奥付の僕の自己紹介の最終行に本ブログのURLを記載しているのだが、

http://blog.goo.ne.jp/watarureport/

のなかで、後半のreportのeが抜け落ちている。中学生でもわかる簡単な脱字で、いやあホントにお恥ずかしい。これについては編集に使用したパソコンの扱いなどで言い訳したいこともあるが、未練たらしいし、もうすでに出版されてしまっているので、とりあえず報告のみにしておく。
ただ、拙著を買わずとも今すでに本ブログに辿り着いている方、それに僕に近い友人知人や各種媒体にはすでにURLは別途知らせてあるので、これはほとんど意味のない報告ではある。
が、事例はほんの少しかもしれないが、拙著を買ってくださった方や、買わなくても奥付を確認してからその著者の人と成りを判断したい方にとっては(僕も他者の本を買うときには最初は奥付から確認するクチ)、せっかく本ブログに興味を抱いてもらってもURLが間違っていて接続できない、というのはやはりかなり恥ずかしい。面目ない。

最近、インターネットの普及によってURLやメールアドレスを表記する機会が各方面で増えているが、これは今回の誤りのように1文字間違っているだけで、またドットやハイフンやスラッシュなんかがひとつ抜けているだけでも誤りになるので、媒体でこれを扱う場合は難しいよな。より注意が必要であるよ。出版業界においてはこれからの時代は、横文字や英語に強い編集者や校正者が求められるのだろうな。もうすでに「パソコンが使える」というのが雇用時の前提条件になっている感はある。まあこれは出版業界に限ったことではないか。
先週11日に、僕が前々から懇意にしている山と溪谷社が買収額4500万円でインプレスホールディングスの傘下に入ることが公表されたが、そのような時代の流れによって横文字感がより加速していくのは少し寂しい気がする。旧来の漢字かな混じり文と、僕の愛読誌『山と溪谷』『ヤマケイJOY』の明日はどっちだ。

次に、これは本文中の字面のこだわりについてのこと。
2点目は、78ページ11行目に「足元にも及ばない」という表記があるが、この「及」の字を127ページ3行目の「開発および競争力」のようにひらがな表記に統一して「およ」にすべきだった、と残念に思う。

そして3点目は、50ページ6行目の「紅いも」を、56ページ10行目のように「紅イモ」に統一すべきだった。74ページ2行目に「サツマイモ」という表記もあるし。
実は、拙著では野菜や果物に関してはゴーヤーやパイナップルのようにすべてカタカナ表記でいく、という(僕のなかでの)表記の基準を設定している。そのため、「紅いも」という表記はそれに照らし合わせると不適格ということ。

このほかにも僕なりの基準はいくつかあり、ついでに目立つところを補足しておくと、拙著のなかでは動物名がたくさん出てくるのだが、特に陸上のほ乳類については、「匹」で数えられるものはカタカナ、「頭」で数えられるものは漢字で表記している。この分類は一般的な、人間がその動物を両腕で抱き上げられるか否か、で判断している。だから、一般的にはカタカナで表記することが多い砂漠のラクダも、170ページ4行目のように「駱駝」というふうにあえて漢字表記にしている。これはべつに小学館の雑誌『駱駝』からパクっているわけではない。
ただ、鶏と犬に限ってはその基準からは除外している。と言うのも、71ページ15行目の鶏は、豚や牛などと同様に「食用」という意味合いに含めているから。
また、犬については特に113~115ページで人間と犬の関わり方について詳述しているが、最近は室内でも難なく飼える小型犬が流行っていて、トイプードルやミニチュアダックスフントのように成犬になっても人が抱き上げられるものも多い。が、そんな「イヌ」と、ゴールデンレトリバーや土佐犬などの「犬」とを分けて表記するのは面倒だから、漢字表記に統一した。わざわざ分類して、犬だけは浜崎あゆみの飼い犬のように“お犬様”という感じで特別扱いにするのもなんだかなあ、という思いもあった。

このように、本文中の表記(特に名詞)の統一にはかなり神経を使っているのですよ。まあ普段から校正を生業にしている者からするとこんなこだわり方も当然の成り行きである。ただ、本ブログではそういった細かい基準は設けずに表記揃えはあまり気にしないでやや適当に書いているけどね。べつに出版化されるわけでもない自己満足気味の日記のような、自由で自分中心の媒体だから。
現在、出版媒体で活躍する作家やライターの方々は執筆以前の情報収集や取材の段階からこのような細かい表記にまでこだわっていたりするのかな? それとも、そういうやや時間を要する作業は校正・校閲者に任せっきりなのかな?

そんなわけで、とりあえずは以上の3点が筆者としては出版直後から気になっているところである。申し訳ない。
でも、いずれも誤りによって他者に著しく悪影響を与えるわけではなく、すべて自分の身にのみ責任が降りかかってくること(のはず)だから、少しは気楽でいられる。そんなに落ち込むことではない。しかし、最近は「校正者」を名乗っている身としてはやや恥ずかしい誤りだけど。
拙著はすでに出版されて世に流通してしまっているので仕方ない。それに、無名の筆者ゆえに、また少部数出版ゆえに、社会的な影響も拙著の100倍、いや1000倍以上の部数を安定して出版できている人気作家に比べたらほとんどなく、改めて僕の信用が失われるということもないし(現在の僕は失うものは何もないまっさらな状態であったりする)。

ただ、版元からは仮に拙著の現在の在庫がすべて出荷されてはけた場合は増刷をかける、という話は当然あり、そうなると以上の誤りを訂正してから再度製本できるので、なんとか現在の残り分を完売できるように、今後も広報活動を継続していこう! と逆に販促へのやる気が出てきた。本ブログでもこれ以降、拙著の販促のてこ入れの意味合いも込めながら本の補足をしていくことにする。

自転車専門誌『BICYCLE NAVI』No.22(2006/Autumn)の115ページに   

2006-10-10 23:51:53 | 拙著の媒体露出状況
拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)が紹介されている。
今回も自転車に関する情報コーナーの一角にあり、扱いはかなり小さいが、それでも僕が全国の各媒体に宛てて出した広報に反応してくださったことは、無反応の媒体も多々あるなかではホントに喜ばしいことである。『BICYCLE NAVI』編集部および版元である二玄社のみなさん、ありがとうございます。

これは季刊の自転車専門誌なのだが、これで拙著が自転車関連の媒体で紹介されたのは『CYCLE SPORTS』と『funride』(ともに月刊誌。2006年9月号)に続いて3誌め、それらも含めてこれまでに拙著が取り上げられた媒体の総数は合計8つめになるが、これらによって拙著の存在が全国のどのくらいの方々に認識され、実売に結び付いているのだろうか。気になる。

この号の特集は「大人の自転車入門AtoZ」という題名そのまんまの、自転車をこれから始めようという初心者向けの記事が続き、でも「大人の」という冠が付いていることからおすすめの商品紹介なんかでも「大人」な金額の良質なものが並んでいたりもするが、それだけにとどまらず輪行の手法や自転車走行を楽しめるサイクリングロードも紹介していたりして、ソフト面ばかりが大きく扱われがちな自転車特集のなかでハード面もきちんと取り上げていて、うまくまとまっている。
この雑誌を参考にして、趣味・健康・環境など様々な理由によって今後自転車に乗り始める方も多いかと思うが、そのさいは現代社会においての自転車の「楽しさ」よりは「大切さ」に重点を置いて、最近の自転車利用の実情に即した(説教臭い?)内容にした拙著も参考にしていただけると幸いである。

また、二玄社というと元々はクルマ関係の出版物に強く、そこから近年は環境問題などを気にしたりした結果としてあえて(乗り物としての)自転車にも手を広げているのだろうし、この雑誌の読者層を勝手に予測してみても、おそらく経済的には比較的余裕のある人が多いだろう。そうなると今後は自転車に乗ることを趣味的な位置付けにしようと考えている方が多いかと思うが、僕のように「趣味」という生半可な位置付けではなく、旅や普段の生活に必要不可欠な、簡単に言うと現代を生き抜く「仕事」のためのいち手段としてクルマやオートバイのような動力に安易に頼らずに自転車をほぼ毎日フル活用している僕のような“人力派”の人種もいることを、拙著を通してより多くの方々に認識していただけるとなお幸いである。

では、引き続き拙著をよろしく。

「登山の日」の後方羊蹄山の登山はこんな感じ

2006-10-08 09:00:57 | 登山
先週に北海道へ行ったさいに10月3日に、“蝦夷富士”とも呼ばれている後方羊蹄山(以下、羊蹄山)を登ってきた。ちなみに、この日は非公式ではあるが語呂合わせで山岳関係者のあいだでは「登山の日」と称されているが、たしかに天気も良く、絶好の登山日和となった。



比羅夫コースの9合目(約1680m)を登る僕。左後方は倶知安の街並み。ただ、このときは前夜のJR倶知安駅の駅寝であまり安眠できずにやや寝不足で、身体がいつも以上に重く(まあ普段から人並み以上に重いが)、JR比羅夫駅から歩き始めてからここまでで5時間30分以上かかっている。ちょっと遅いペースだったかな。
この辺りが森林限界で、本家・富士山の6合目付近(約2400m)のような様相。



羊蹄山最高点(1898m)に達したのが15時30分頃とかなり遅い時間になったため、西日のなかで東のほうに目を向けると、“影富士”ならぬ“影蝦夷富士”が広がっていた。登山の基本からは大きく外れた登頂時間だったが、このときは天候悪化の兆しは見られなかったし、こういう現象を見ることができたのは逆に良かったことなのかもしれない。



羊蹄山頂にある一等三角点(1895m?)。中央後方の尖がりの最高点(1898m)よりはやや低い位置にある。これらの山頂付近は想像していたよりも岩山という感じで、本家・富士山の日本最高点(3776m)よりも自然味があった。お鉢巡りをするときは山頂付近にはちょっとした岩場もあるが、長野県の八ヶ岳や飛騨山脈よりは道は明瞭で、遠くからの見た目よりは歩きやすい。単調な樹林帯歩きよりは数段楽しめる。



翌4日、前夜に下山した京極町のバス停で野宿してから早朝に、前日に登った羊蹄山を仰ぎ見る。このときは早朝から霧が出ていたため、ちょこっと幻想的な雰囲気があった。



京極町の湧水ふきだし公園の湧水。旧環境庁が選定した「名水百選」と、北海道が指定した「北海道遺産」のひとつに挙げられている。実は僕は1999年秋の自転車旅の途中にここに立ち寄っていて、今回、7年ぶり2回目の訪問になる。ここの湧水量の多さは相変わらず圧巻で、全国の名水巡りが趣味の僕としても、100か所以上行ったなかでも五指に入るくらいの名水、と認めている。朝6時台から地元の人がポリタンクや大きなペットボトルを、台車を利用したりして何個も持参して水を汲んでいた。取水口はたくさんあってどこからでも汲めるので、全国各地の湧水量の少ないところでよくある「水汲み行列」ができるということもない。その許容範囲の広さがまさに北海道。


ちなみに、以下は他人から見るとどうでもよい話だが、実は僕は羊蹄山については20年前の小学5年生の頃から思い入れがあるため、ようやく今回登頂できていつもの登山以上に嬉しく思う。と言うのも、その頃の学校の図工の時間に絵を描くときの題材として山を選択し、羊蹄山の写真を参考に絵を描いた、ということがある。
この年頃で山を描くとなると一般的には、山梨県と静岡県にまたがる日本最高峰・富士山(3776m)を、しかもその山頂付近に雪が被った(秋から初冬の)状態のものを描くことが多いが、当時からひねくれ者の僕としてはそんなありきたりな絵を描くのが好きではなく、ほかの山の資料に当たっていたとき、北海道のこの羊蹄山を発見した。この山は独立峰ゆえに富士山に山容が似ていて、そんなことから地元では「蝦夷富士」と呼ばれていることもこのときに初めて知った。
羊蹄山の写真を見ると富士山とはちょっと違うが、それと同様に威風堂々という感じの山容で、そこそこ描きやすくもあり、羊蹄山のことがいっぺんに気に入ってしまった。と同時に、いつかはこの山に登ってやる! という目標も立てた。ただ、本ブログでも以前に触れたが、小学生当時の僕は家庭環境からほかの同級生よりは山を登る機会は多かったが苦手で、まだ今のように自ら積極的に山に向かうという感じではなかった。だが、こと羊蹄山に限っては「必ず登りたい!」という感情が不思議と沸き立ってきた。これは日本人であれば大概の人は目指す本家の富士山よりもその順番は先で、そんな日本最高峰よりも僕のなかではいち早く登っておくべき山である、と認識した。
近年も、僕の北海道での初登山はぜひ羊蹄山を、と思っていたが、2005年にちょっとした成り行きの変化から、初登山は利尻島の利尻山になってしまったが(ホントは羊蹄山もその前に登るつもりだった)、昨年の続きということで今回登山した。

で、今回、20年越しの目標がようやく達成されたわけだが、実際に登ってみて、独立峰だけにさすがに登山口から山頂(およびお鉢)への登りと下りの距離と標高差は本家・富士山と同様に大きくてかなり疲れたが(お鉢巡りの距離と火口の大きさも富士山とほぼ同じ)、それでも登り甲斐のある山であった。深田久弥が日本百名山に選定したのもよくわかる。
とりあえず今回、羊蹄山の雰囲気はある程度は掴めたので、今回登りで辿った比羅夫コースと下りで辿った京極コースのほかにも、喜茂別コースと真狩コースの2ルートもあるから、再訪するときはこれらのコースも上り下りして、ほかの季節にも再訪して、特に積雪期の登山もやってみたい。日本に明治時代後期にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ中佐がこの山を訓練のために冬に登ったときもスキーを利用したと聞くし(登ったあとの滑降重視だったのかな?)、そうなるとこの山の本領は実は冬にこそあるのではないか、とも思っている。
今後も本家・富士山と同様に何回も訪れることになる山であろう。

意外と暖かい、スープカレー寄りの秋の北海道 

2006-10-05 09:00:12 | 自分の旅話(非日常)
2006年10月1日、今回の北海道旅のなかでいくつかのスープカレー店を訪れたが、なかでも僕が最も気に入ったのが、札幌市北区北18条の「ぐゎらん洞」のぐゎらチキ天850円。和風スープであっさりとした味で、パッと見はただの野菜スープという感じだがもちろん辛味もある。舞茸の天ぷらが載っていることも珍しく、カレースープと揚げたての天ぷらのサクサク感が同時に楽しめるのが面白い。僕個人的には、今回の北海道滞在中のほかの日に巡った人気店「木多郎」や「アジャンタ」のカレーよりも好き。


実は、10月1日から5日の予定で北海道に来ている。「いる」というのは、まだあと数時間は札幌市内に滞在するからで、この投稿も街が本格的に動き出す前のJR札幌駅西口から送信している。

10月上旬の北海道は意外と暖かく、よく晴れた日中は気温20度を超え、直射日光も強く、街なかを歩いて移動していると汗をかいたりもする。無風時は半袖Tシャツ1枚でも行動できる(まあこれは個々人の体脂肪量にもよるけど)。よって、北海道にいるのにもかかわらず少し日焼けした。
秋の北海道はこれまでに9月前半と11月前半にも訪れたことはあるが、今の時期はどちらかと言うと9月寄りで、北海道の観光適期は6月と10月と言われるように、たしかに観光にはちょうど良い時期かもしれない。野宿するにも適温で、ダウン製3季用の寝袋では暑いくらいだ。

で、今回、北海道に何をしに来たかというと、特に細かい予定やどうしても行っておきたい場所というのはなく(札幌を訪れるのも今回で4年連続7回目)、札幌市内のスープカレー店巡りの続きをやりたいなあ、あとは天気が良ければまだ登っていない後方羊締山(しりべしやま=羊蹄山・ようていざん。1898m)を登りたいなあ、ということくらいしか考えていなかった。
結局、羊締山には3日に日帰りで登り(頂上近くの避難小屋利用で泊まりがけでも行ける)、西から東に縦走した。ただ、出発地の倶知安には3日じゅうには帰着できず、下山後にそこから東の京極町のバス停で野宿したけど。
山の天気は1999年の秋に自転車旅で通りかかったときよりもかなり良く、眼下の眺めも360度ほぼ開けて、南東の支笏湖なんかも見えたりして存分に楽しめた。雪もまだ降っておらず、紅葉はもう始まっているけどやや早かったかな、という感じだった。

ちなみに、今回この日程になったのは、先日も報じられたように航空業界では1日からJAL(日本航空)の経営統合によって、旧JALと旧JAS(日本エアシステム)の業務が一本化されたり、これまでは双方の会社ごとに分かれて機内業務をこなしていた乗務員がひとつの機に同乗し始めたりしたが、それを記念して発売された「スペシャルバーゲンフェア」という5日間限定の格安運賃設定に便乗したということ。
今回の運賃は羽田空港←→新千歳空港間の往復で15600円! という安さで、通常のバーゲンフェアよりも安いのであれば特に予定がなくてもとりあえずどこかに行くしかないでしょう! ということで、やや軽いノリで来てみた次第。僕もJALのこの策略にまんまと引っかかってしまったクチ。
ただ、北海道をもっときっちり旅するには1週間以上の時間が欲しいから、今回は札幌から近い地域のみの小旅となった。一応、札幌と倶知安の往復のあいだに小樽にも7年ぶりに立ち寄った。小樽は以前に比べると良くも悪くもかなり観光客に迎合した街になってしまったなあ。

これからあと約半日は、札幌市内でスープカレー店に2軒行ってみようかと思っている。時間と所持金に余裕があればそれこそ1日5、6軒巡りたいところだが、僕の普段からの経済力を考えるとなかなか難しいな。今日の2軒を含めると5日間でスープカレー専門ではないカレー店と合計で9軒行ったことになる。というかなりそう。
経済力というと最近、飲食店評論や食のガイドブック執筆・テレビ出演などで勢いのある若手評論家の来栖けいは6000軒以上の店を食べ歩いたと言うが、そのぶんの費用は20代中盤のあの歳でどう工面したのかね? と僕との食の経済格差をちらっと考え、少しうらやましく思ったりもする。

また、最近は札幌市内に100軒以上あると言われるくらいに加熱しているスープカレー店は、そのぶん競争というか変化もかなり激しく、僕が今回あらかじめ狙っていたいくつかの店でも、土地の再開発などで場所を移転したり、店主の都合で閉店したりして、空振りに終わって食べられなかった店もいくつかあった。もちろん、売り切れというかスープ切れで終了という店もあった。
定休日や営業時間が変更されるなんていうのは日常茶飯事のようで、「マジックスパイス」や「木多郎」のような経営が比較的安定していて全国的にも店名が知られている人気店以外の店を訪れる場合は、1、2年前に発行されたガイドブックはあまり役に立たなかったりする。北海道を毎回訪れるたびに情報収集する必要がある。札幌の書店では毎年、スープカレー店の新しいガイド本が出回っているようだ。

まあそんなこんなで、相変わらず野宿しながらの4年連続8回目の北海道旅は果たせたのだが、まだいくらか残り時間があるので、新千歳空港を離陸するまで目一杯楽しみたい。


※2006年10月31日の補足

事後報告をすっかり忘れてしまったが、この北海道旅のなかで訪れたカレー店は結局、9軒ではなく8軒だった。で、以下にその8軒を、僕個人的に良かった順に上から並べてみる。

1. ぐゎらん洞
2. 木多郎
3. KUFUU
4. スパイスボックス
5. ガリオン
6. アジャンタ・インドカリ店
7. ミルチ
8. 天竺

3と5は小樽市内で、それ以外は札幌市内にある。
5と7以外がスープカレーのみ、またはスープカレーが主体の店。
以上の店名を挙げただけで店の場所がわかる内地在住の人ってどのくらいいるのだろうか? まあそれはともかく、僕的にカレーの味以外の面(内外装、接客、机周りの掃除の行き届き具合など)も考えて総合的に判断したのが以上の結果である。
で、2006年10月27日の投稿に挙げた札幌ドームの写真をなぜ5日に撮っていたかというと、この近くに「南家」という店があり(札幌市営地下鉄東豊線・福住駅から徒歩圏内)、5日はここに行きたかったのだが運悪く臨時休業中だったため、空振りに終わった。新千歳空港に戻る前にここに行けていれば正味4日間で9軒だったのだが、そのために今回は8軒止まりで終わったのであった。
来年以降もできる限りの道内(主に札幌市内)のカレー店を巡ってやる! とカレーを食べるときは毎回常に北の方角を強く意識している。