アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の五拾 忠治処刑の詳細の壱

2013年11月20日 | 近世の歴史の裏側

 

惣右衛門の手記より

 

とうとう忠治も、関所破りの罪名を主罪として、江戸時代後期の

掟の通りに、破った大戸の関所で「於其処磔」となった。

裁きを受けた江戸から、はるばる中山道を上って、豊岡から更に

信州街道に入り、室田~三ノ倉~権田~萩生~大戸へと送られる

事になった。この間の準備や処刑のための刑場設備などに主として

当った大戸宿のの幹部であった惣右衛門が、事詳しく当時の、

経過の記を遺している。原本は、旧吾妻郡吾妻町大戸の佐藤げん

さんが所蔵している。三冊あり、一冊は表紙に

「時于嘉禾三庚戌年十二月廿一目 罪科之儀者傑

            御仕置御用向勤方諸掛 扣」とあり、

紙数は表紙とも十七枚て、左頁下隅が破損して一部読みにくい。

刑場の仕事は、浅草の頭弾左衛門と頭車善七によって

行われる事になっていたので、忠治の処刑も同じ方法を採った。

地元大戸宿の惣右衛門が直接の責任者となり、高崎、安中、

板鼻方面の頭と連絡して準備を進めた事がわかり、

貴重な資料である。

この記録を原本のまま此処に記して、その状況を知る事にする。

                        

 作家、塩見鮮一郎氏が、「弾左衛門の謎」「資料 浅草弾左衛門」

など全六巻他、「車善七」全三巻など多数の著書が、現代人の

知り得ない裏社会の実態を知る上で非常に参考になります。

又、隆 慶一郎氏の「吉原御免状」「花と火の帝」なども、

当時の幕府裏社会を丹念に調査し且つ克明に、描写しており

無学な我は非常に、興味深く学ばせて戴いております。

 

                 続く