アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の五拾弐 忠治処刑の詳細の参

2013年11月22日 | 近世の歴史の裏側

 

依て人足御借(貸)披下候様小頭方へ頼頼入候の処、小頭申候様は、

時分柄ゆへ早々談事相済、綴方の吉皆々立帰へり人足無之故、

下小屋長吉方に居合候者借遺申候由ニて、下小屋の者借請、

其より帰へり、水沼又□、権田村市六同道ニ而相戻、其段御役元へ申上、

場所の義は百姓人足ニ而拵へいたす。

 

 年の暮であっ為に、方々から集っていた人足もそれぞれ帰ってしまったので、

下小屋にいたものだけを集めて大戸に戻り、処刑場は地元の村民の人足で

造る事にしたと私は解釈するが、惣右衛門の手記より読み取れることは、

頭と頭の影響力が如何に強く当時の社会に於いて其独占力は

計り知れなく且つ知識、教養が高く独占していた仕事は重要で不可欠あったと、

私は考えるのですが、其れは是までの記載内容をご覧戴いた方の解釈に委ねます。

 

                         続く


真説 国定忠治 其の五拾壱 忠治処刑の詳細の弐

2013年11月22日 | 近世の歴史の裏側

 

時寛永三庚戌年十一月晦日、

御支配林部善人左衛門様御手代価仕置場御見分有之、

同十二月十三日当宿御役人市郎左衛門様方より仕置場開発いたし候由披抑渡奉畏候て

立帰へり、其より直に手下才蔵引連れ、板鼻宿小頭(註、板鼻のを取締る役)方へ

差越し候。道筋いしづ橋前ニ而板はなより廻状参り、

則いしづより告人に出合候て廻状披見いたし、回じやう持参にて板鼻小頭方へ

参全相催、右御仕置に付江戸浅草より

御出役有□□被仰渡候段、逐一承知いた□右場所手伝の処、

役元より被申付候。(□は、判読不能部分)


註、の全国の総元締は浅草の弾左衛門


以上の如く、統制のとれていた支配頭からの通達が、

早くも上州の組へも届いていた事が判る。その指示によって、

板鼻の小頭が動き、さらに別に現地へ十一月晦日についた岩鼻代官の

手代から地元なるが故に大戸宿の惣右衛門に対しても直接刑揚施設

その他の指示が、あったのである。

両方からの指示で惣右衛門は計画に移ったわけである。

                 

                        続く


真説 国定忠治 其の五拾 忠治処刑の詳細の壱

2013年11月20日 | 近世の歴史の裏側

 

惣右衛門の手記より

 

とうとう忠治も、関所破りの罪名を主罪として、江戸時代後期の

掟の通りに、破った大戸の関所で「於其処磔」となった。

裁きを受けた江戸から、はるばる中山道を上って、豊岡から更に

信州街道に入り、室田~三ノ倉~権田~萩生~大戸へと送られる

事になった。この間の準備や処刑のための刑場設備などに主として

当った大戸宿のの幹部であった惣右衛門が、事詳しく当時の、

経過の記を遺している。原本は、旧吾妻郡吾妻町大戸の佐藤げん

さんが所蔵している。三冊あり、一冊は表紙に

「時于嘉禾三庚戌年十二月廿一目 罪科之儀者傑

            御仕置御用向勤方諸掛 扣」とあり、

紙数は表紙とも十七枚て、左頁下隅が破損して一部読みにくい。

刑場の仕事は、浅草の頭弾左衛門と頭車善七によって

行われる事になっていたので、忠治の処刑も同じ方法を採った。

地元大戸宿の惣右衛門が直接の責任者となり、高崎、安中、

板鼻方面の頭と連絡して準備を進めた事がわかり、

貴重な資料である。

この記録を原本のまま此処に記して、その状況を知る事にする。

                        

 作家、塩見鮮一郎氏が、「弾左衛門の謎」「資料 浅草弾左衛門」

など全六巻他、「車善七」全三巻など多数の著書が、現代人の

知り得ない裏社会の実態を知る上で非常に参考になります。

又、隆 慶一郎氏の「吉原御免状」「花と火の帝」なども、

当時の幕府裏社会を丹念に調査し且つ克明に、描写しており

無学な我は非常に、興味深く学ばせて戴いております。

 

                 続く

 


真説 国定忠治 其の四拾九 判決に対する承諾の請け書

2013年11月19日 | 近世の歴史の裏側

 

此処までが、忠治の二人の妾であったお徳、おまちをはじめ

忠治と関係の深い田部井村の名主宇右衛門などに対するものであるが、

前にも記したように、これは判決に対する承諾の請け書であるから

判決書そのものではない。ただ、判決書はあくまでも申渡す形式に

なっているだけで、これはその趣旨を再びここに記して、申渡された

判決に承服することを言ったものである。犯則の結果は、まちと、徳は

「押込み」、忠治が病気になった時に、賄賂を贈りに逃してくれるように

運勤した時に働いた国定村の次郎右衛門と八寸村の七兵衛は、

「所追放」、同じくその賄賂を受取り、木崎宿の道案内左三郎に渡した

世良田村の幸助は「過料三貫文」、それを受取った道案内の木崎宿の

左三郎と馬太郎は、左三郎「軽追放」、馬太郎は「江戸十里四方追放」、

忠治の妾まちを、忠治の弟友蔵の籍に入れ、また忠治が中気になった時

これを面倒見てかばった国定村の村役人であった叉兵衛、助兵衛、

勇右衛門、和古は、叉兵衛「過料五貫文」に、助兵衛外三人は、

「過料三貫文」まちの兄庄八は、妹を忠治の妾としたということで

「過料三貫文」、田部井村 名主西野目宇右衛門は「死罪」、

その妻ゆうと子の宇三郎は「急度お叱り」、田部井村役人の長右衛門、

平八、伝右衛門は、宇右衛門の家へ忠治を隠したことを知らかったと

いうことで「急度お叱り」。国定村の清五郎は忠治一味の博徒であり、

発病した忠治を隠したこと捕方買収などの罪で重い「遠島」(島流し)、

喜代松は死後であったので「中追放」の判決のまま執行無という事であった。

 

各自を詳細に取り調べた様子が内容で判るが、以上の事からは、国定忠治が

後に、侠客として飢饉の時などに人々を助けた記載などは一切無のである。

仮に有ったとすれば、郷里では、助命嘆願運動したといわれている。

菩提寺養寿の貞然法印をはじめ、固定村の名主、十五カ村の人々

壱百二十余名のほかに、越後、常陸、下野の者も助命運動をし、

願書が百を越えた(「国定忠治真伝」)という。

しかし、忠治自身は他の関係者の罪を一人で背負い込み、

あえて言いのがれや反論をしなかった。

一切を引き受けて罪に服したと言われているので、其れを

考慮したのではないか、お上にもお情けは有ったのだから

 

 

                        続く

 

 

 

 


真説 国定忠治 其の四拾八、其外の連累者への判決文請書

2013年11月16日 | 近世の歴史の裏側

 

 

重科可被仰付候。仍而御請証文差上申上所如件。

 寛永三戌年十二月二十六日

           松平誠丸領分

              上州佐位郡国定村

               百 性 次郎右衛門

                百性友蔵厄介之積

                同人大方へ別に加へ有候

                     ま ち

               名主  叉 兵 衛

               組頭  助 兵 衛

          勇 右 衛 門            

                   和   吉

               右惣代 助 兵 衛

             平岡鐘之助知行

                  同州五目牛村

                  百姓仲右衛門妻女

                     と く

 

               村役人惣代

               組頭  伝 兵 衛

             平岩七之助知行

              同郡田部井村

               百姓  庄  八

            名主宗右衛門女房

  ゆ  う

               同人伜 宇 三 郎

               組頭  平   八

                   長右衛門

                   伝右衛門

               右惣代 平   八

渡辺鋳太郎知行

             同郡勢多郡八寸宿

               百姓  七 兵 衛

世良田御宮御神領

 同国新田郡世良田村

名主   幸   助

              村役人惣代

              百姓代  常   吉

水野図書知行 

同国木崎宿  左 三 郎

  馬 太 郎

            宿役人惣代

組頭   長右衛門

 

御奉行所様

 

 今回までの、請書の解りやすい説明ついては、次回以降に、

 

                     続く



スズキ ジムニーを、契約しました、価格は?

2013年11月15日 | Weblog

 先月、事故で廃車になった。

ジムニーの購入契約を済ませました。

今度で、LJ20-2型から数えて7台目ですが、

私自身は、日本で唯一の、ラフロードカーと思っています。

ランクル、パジェロなどAUVは、多くありますが何れも

オフロードカーで、砂浜を含めて走破性の優れた車は、

現在、ジムニー以外には有りませんが、

ただし、高速走行は苦手です。

妻が、運転に慣れた車ですので、同じ車種にしました。

なを、購入価格は下記の通りですが、

他店と比較検討する事無く、友人の薦めてくれた。

みどり市の、スズキアリーナで飛び込みで決めました。

なを、まだ妻が運転を怖がっていますので来春納車にしました。

先日亡くなった母が、相手に儲けて貰う事も、世の中では、

必要と言っていましたので、値引きの交渉は、

一切致しませんでしたが、軽自動車で利益率は低いのですが

二桁値引きで価格には満足しています。

もう10年前後FMCは、していませんので完成度は抜群で

改良に改良を加えた車は、日本では他に有りません。

燃費は、8k/L前後ですが、それだけのジムニーは価値あるのですから




真説 国定忠治 其の四拾七、其外の連累者への判決書

2013年11月13日 | 近世の歴史の裏側

 

一、喜代松儀、同国神谷村地内外三ケ所、其外所々野田、

  山林等に於て、無宿忠次郎並に国定村清五郎外三人貸元と

  成り、博奕等相催候節に、名住所不在もの共一同手合に加り

  猶ほ忠次郎病気に付候節は、右清五郎任申、国定村次郎右

  衛門外一人申合、所々世話いたし被候始末方不屈に付、申

  追放可被仰付之処、病死いたし候間其旨可被存段仰渡候。

一、右之外、御吟味に付被召出候もの、多は不埓の筋も無之

 御構無御座候段被仰渡候。

  右被仰渡之趣一回承知奉畏候。且過料銭は三日之内、青山

  銀平様え可相納旨被仰渡、是又承知奉畏候。若御背候はば

 

                         続く

 


伊勢崎市小菊の里は、今日が最高

2013年11月11日 | Weblog

今朝の、小菊の里は、最高の眺めですよ、

極暑の夏から、メンバーの方がボランテアで、此処まで育てた結果です。

この数に、圧倒されますね。

此処は、伊勢崎市で標高が一番高く、頂上は168mですので、

此れは、販売用です。

日本一は数あれど、此れに勝る物無と、私だけが思っています。

伊勢崎市役所は、約標高55メートルですから、100m以上高い所に有ります。

一株ずつ、丹精込めて育てた小菊です。

この夏から、秋にかけてのゲリラ豪雨の爪痕があります。

まさに、天高く妻肥ゆる秋

小菊の里が、通学路これに勝る物無、この学生が後に也きっと良い思い出になるでしょう。

 


真説 国定忠治 其の四拾六、宗右衛門への判決書

2013年11月09日 | 近世の歴史の裏側

 


一、宗右衛門儀、無宿忠次郎は、所々悪事いたし、兼て御召

 捕方厳敷御手配相成候者之段乍弁罷在、懇意を結ば候以来

 出人為致、其上同人儀村内溜井浚に事寄、人足溜と名付、

 小屋場取立博奕為相催呉候はゞ、てら銭の内を以て、右浚

 方割合出金可致旨申聞候を、如何之節と被存承受、夫々対

 談取極め、忠次郎より差出候分は、其頃村方小作地所拉致

 し居候同人弟同国国定村友蔵より出金之姿に村方へは申成

 置、横行に小屋場補理、日々博突為致。迫而右入用とて十

  七両請取、猶は忠次郎任頼同村久八外一人方にても博奕為

  相催、殊に又八方にて相催候節は、御取締御出役御手配有

  之候趣承り、忠次郎え及内通為逃去、右為謝礼金二両貰受

  剰へ同人儀村方最寄立廻り居候趣相聞候趣を以て、御出役

  道案内之者共行衛御探索方談受候節、忠次郎御召捕相成候

  ては、右体同人申合如何之所業に及び候次第も有之犯科難

  逃、右は忠次郎身分打隠行衛不相知体に仕成置、万一其砌

  御穿鑿厳敷、隠遂候儀難相成次第にも至り候はば、此方の

  手順を以て家内引寄差押候趣に申立候ばば一廉の働にも相

  成、其身之罪科は宥免可相成と事を両端に量り、道案内之

  者には品能及挨拶置、忠次郎儀兼而妾回様に致し置候まち

  を呼寄申賺し、竊に忠次郎を家内引囲置、其節土産の由に

  て差送候金二両貰受、猶ほ同人貯有之体を見受、飯米をも

  為買入、又は捕方御手配無之様御取締御御出役え取成貰候

 入用に候杯申成し、猶叉金五両欺取候段、各々役儀をも相

  勤候身分別而之義、右始末不届に付死罪被仰付候間、共段

  可存段被仰渡候。

 

 宗右衛門が、なぜ死罪に成ったか、人足溜と名付、小屋場取立博奕

 為相催、謝礼金二両貰受、金五両欺取が重要ですね。

 公共事業を利用して農民に違法な博奕に加えてインチキ博奕で

 不法に得た利益に加え収賄、詐欺、忠治を隠匿した事が重要なります。

 

                           続く