わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神の子について(中編)

2010-09-28 10:07:47 | 癒し
    (前日の続き)

 そりゃあ肉体人間ですからね、叩きながら痛みが来ますよね、

想いも来ます、寄って来ます。でもそれを上まわって倍して、

神様が私たちを愛して下さるということを思ってるから恐くも

何ともない。痛みなんて何でもないですよ。痛みというのは、

私は皆さんからのプレゼントだと思ってるね。

 だからね、晩年に色々痛んで痛んで、自分の奥さんだけには

本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、まあ声あげなきゃ

しょうがなかったけども、でも痛いから恨むということじゃ

ないですね。

 それよりもっと深いところで、私が神様に愛して

いただいてる。で、皆さんも神様に愛してもらってる同じ生命

だということが分かってるから、恨みっこないですよ。

 痛みなんてものはね、受けてしまってそれを浄めてゆけば、

上がっていってね、光になっちゃうんです。業というものも

そうなんですね。


 ただ、人間というのは、肉体というものといっしょに暮ら

してますからね。狭い箱なんだけども肉体というのは。

 だけど、肉体もって生きる以上は、やっぱりそれを大事に

してやらなきゃいけないというところもあるでしょ。

 可愛がってやらなきゃいけないというとこありますよね。

 だから、養いながら、又、そこに把われないというのもね、

非常に難しいことなんです。私が言いましたでしょ、いいこと

にも悪いことにも把われるなというのはね、それは真理なんだ

けど、そういう気持ちで祈ってゆけば、私がという気持ちを

向こうに受けとってもらって、神様に受けとってもらって、

そして、ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。

 どういう働きが自分に出来るんだろうかとか、私はこれだけ

しか出来ないとか、色々自分を限定してやっていくと、もう

本当にほんの小っちゃな働きしか出来ないけども、そうでは

なく、神様に預けてしまって何でもやらせていただきますと

言うと、あの人がこんなことが出来るかなあというような

ことが出来ますよ。それがね神様の不思議なところ。

 神様の奇跡というのは本当はそういうことですねえ。神様の

奇跡というものを、皆いやしというものに求めるけれども、

本当は、人間の中に限りのない神様のエネルギーがあって、

そのエネルギーに動かされて、喜んで、あるいは無意識に

動いていく時に、我々の生命というものは喜んで、深くなって、

大きくなって、いつの間にかすごいところにいたとか、

いつの間にかすごい事をやらせていただいたとか、それこそ

奇跡でしょうね。


 人間というものは、いつも言いますようにね、この肉体の

五尺何寸の体だけじゃないんですね。いつも言いますでしょ。

 宇宙のように大きくもなれば、針のように小っちゃくもなる。

 もう融通無碍、それが人間の生命の本来なんですね。それが

神様に抱きとられている。神の子の本質はそういうもの

なんです。無碍なんです。ゆるしですね。そういうものを我々は

いただいて毎日を生きてる。

 だから、この真理というものは、本当に悟って明るくなった人

ならば、私でなくったってどんな人でも言いますよ。誰だって

言います。キリストだって釈迦だってこれを言ったしね。

 あるいは、今生きてる宗教者で明るい所へ行ってる人と

いうのは、絶対にここを言いますね。ここへ向かって皆が

ゆけるんですよ。何故ならば、皆が神様の器だから、神様の

子供だから。


 もう今日はね、何とか速く喋ろうというのをね、ゆっくり

喋ってね。でないと聴きとれないでしょ。原稿にも出来ない

から、ゆっくり喋ってますけどね。あんまり速くってね、

私のいつもの喋り方は迷惑かけてるからね。これの倍位の、

あるいは三倍位の速さで若い時喋ったと思いますね。

 五倍かな?高橋君なんか聴きとれなくってね、いらいらして、

本当にあの頃は録音技術も悪かったしねえ。私も

言いたかったしねえ。そしたら、五井先生聞き取れません

とかね。何言ってるんだか分からなかったけど、先生の情熱

だけ分かったとかね。後で言われてがっかりしたりして、

そういうことがありましたけどね。

 だけど、今私はゆったりしてますよ。向こうの世界という

ものは、本当にもう何の不安もないでしょ。安心だけでしょ。

 そういう意味でゆったりしてる。大安心の中へ帰ってきてる。

 その大安心というものは、こっちへ来ようと来まいと皆の

中にあるんだから、その大安心の中に抱かれた時に、ふっと皆

神の子になる。


 その神の子というのは、もひとつ言えば、意識しようと

しまいと、皆神の子なんだから。

 神の子というのは、特別に選ばれたとか、そういうものじゃ

ありませんよ。偉くなったとか、そういうことじゃないんですよ。

 心を素直にして、祈り心で神様を呼んで、そうして毎日

気持ちを豊かにして、明るく生きる。その時に皆神の子に

なるんです。


 私たちは、特別なんだとか、私達は五井先生に抱かれてるんだ

とか、神様の大愛の中にいるんだとか、だから、私達は他の人

よりも、もっともっと祈りを知ってるんだとか、そういうものを

高慢といいます。遜らなければいけません。遜るところが

ないとね、人間というのはどうにもなってゆかないんです。

 それこそさっき言った座からね落ちてしまいます。遜って、

そうして自分を低くして。

 ただ神様だけが絶対の愛でしょう。そこへ任せて生きて

ゆかないとね。そのことによって、あなた方の中にある

眠ってる、とてつもない力もエネルギーも、可能性も出て

くるんですよ。そのことによってのみ出てくるんです。

 分かりますか。それ以外に出てくるものは我なんですよ。


 決してね、才能とか力とか個性とか、そういうものを

否定はしません。それは神様から送られて来た贈り物

なんだから、それはそれでいいんです。だけれども、自分の

力でもってこれが出来たとかね、あの人の我を押さえつける

のに往生したとか、そう想っちゃうと後で苦しくなりますよ。

 皆同じ生命なんですね。だから、さっき言ったけども、

悪口言われて、やっぱりありがとうございます。足を踏まれて

ありがとうございます。と言えるところまで自分を精進させて

いく。出来る出来ないは問題じゃないんです。そういう風に

言える自分をいつか出して下さい。何生かかっても出して

下さい。その為に祈らせて下さい。そういう風に想うこと。

 そういう風に祈ること。それを目指すことね。それが我々の

領土を広くしてゆく。神の子の光を深くしてゆく。輝かして

いくということなんですね。皆に仕えるんですよ。皆に奉仕

するんです。

 我々の生命というものはね、我々だけのもんじゃない。皆の

もんですよ。世界人類の、人の為のもんでしょ。


 だから、どこでどんな風に私達は使われてゆくか分から

ないんです。使ってもらえるか分からないんです。それをね、

私はこういう風に生きたいんです。こういう風に叶えて下さい

と、そりゃあ幾分かありますよ。全部神様事で、神様の言う

まんまなんていったら、もう皆パニックになっちゃうからね。

 そこのところはちゃあんと守護霊さんだって守護神さん

だって、きっちりと分かってます。ちゃんとその辺は、採算が

とれてるんですね。


 だけど、決しておもい間違いをしてはいけないのは、我々の

生命というものは、神様から分かれて来ているけれども、

しかし、だからといって、高慢になって、我々は神様が付いて

いるから、何を言ったって業は消えるんだ、何をしたって我は

受けとってもらえるんだと思って、努力するということを

忘れたら、これはもうとてつもないことなんです。


 本心の座というものは、そういうもんじゃない。本心の座

というものは、そこも全部つき抜けて、空になって溶けてね、

解放されて、明るくなる、そういう座が本心の座ですね。

 それをやっぱり思わなければ。それを修行してゆくのが

この世の中の修行です。そこを目指してゆくのが祈りですね。

 さっきも言ったように、だから、祈りというのはね、何でも

放り込んでもいいんですよ。色々言ってもいいんですよ。

 あれが欲しいこれが欲しいと、色々言っても構わない。ただ

構わないけど、絶対に、神様がそれをどんな風に叶えるかと

いうのは、そこのところは任せてしまわないと。

 私達の想い描いたことからは、うんとかけ離れた答えが

返ってくる時がやっぱりあるんですね。


 その時に、どうしたら神様から離れないで、祈ってゆけるか

というのが、これが人間にとってはものすごい難題なんです。

 私と神様の祈りだけじゃあ、とてもじゃないけどやって

いけない。だから、世界平和の祈りがあって、神の子人間

というね、生長の家のああいうものをずっと噛み砕いて、

そうして、いい所だけを、透き通った所だけをとって、無理の

ないように、背伸びのないように、本質だけをとってね皆に

教えた。その平和の祈りがあるんですよ。


 だから、業だって我だってね、色んな人間が出していく

余分な想いだって、否定はしません。だけども、その色んな

我の上にあぐらをかいて、業の上にあぐらをかいて、弱いから

仕方がないんだじゃあやっぱりね、精進ということは出来

ないんです。釈迦が死ぬ時に、汝ら比丘よ精進せよと

言ったでしょ。我々は我々の本質を知って、その本心の座に

近づくように、光に近づくように、一瞬間でも長く光に

なる為に、我々自身の為にも、他の人たちの為にも、光に

なって動くことが出来るように、はたを楽にすることが

出来るように、働くということはそういうことですよね。

 愛をもってはたを楽にする。その為に祈るんです。その

為に光を望むんです。


 その事をおもい間違えしないで。決してへんな選民意識が

神の子じゃありません。

             (以下翌日に続く)








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