BSで放送されたBS歴史館やTHE歴史列伝などを観るとつくづく上杉鷹山は素晴らしい人間だということが分かる。
上杉鷹山は
細井平洲から次の言葉を学ぶ。
「民を視ること傷めるが如し」
つまり、領民と痛みを自分のことのように共有せよ。飢えている人がいたとき
自分が飢えている境遇のように接しろとういうことだ。
その教えを守り、鷹山は領民や城内の武士に一汁一菜や木綿の服を命じたときは
自分も同じように質素な食事、粗末な衣服を断行して、大倹約令の流布に努めた。
当時米沢藩は16万両の借財があるにもかかわらず、5000人の武士が暮らしていた。
会津藩120万石時代の古き慣習をそのまま踏襲していたのだ。
武士自ら土地を耕し、半士半農の生活を断行し米の増産も図り
それぞれの石高も7分の一に下げて暮らすよう命令し大改革にのりだす。
そして100万本植樹計画と称し、漆・楮・桑の木をそれぞれ100万本づつ植えさせた。
最初漆から採った油で作った蝋が6700両の収益をあげる。
しかし西日本から安価で質のいい櫨蝋が台頭してきたのだ。
たちまち漆蝋は駆逐され多くの借財だけが残った。
そこで鷹山は上書箱を設置して、農民・商人・武士問わず広く意見を募ったのだ。
その意見をもとにさらに多くの桑の木を植え、無償で各家に配り養蚕に励み
ただ生糸を売るのではなく、絹織物としてうれるよう殖産に努めたのだ。
越後の小千谷縮の職人に学び
機織りは武家の女性が担い研究し米沢織を完成させた。
その中でも縦糸に生糸を横糸に苧麻糸を使って織った軽い夏服「透綾」がヒットした。
この米沢織の成功をきっかけとして、長年ふくれあがった債務30万両を完済したのである。
その他の功績として鷹山は、過去の飢饉を教訓に備籾蔵(義倉)に20年間で15万俵を蓄える
計画を立て、米を借りた利息は村の農民のものとなった。
また両親が病気の時は、たとえよそに嫁入りしたとしても郷里に戻って
両親の看病をして良い、そのときは仕事も休んで良いという福祉制度も作った。
鷹山自ら実父の秋月種美を30日間看病し、養父の重定が重病の時も寝食を忘れ80日間看病するという
親孝行の鑑だった。
食べ物にも注目した鷹山だった。
「養魚答問」にはお濠や池に鯉を飼育し藻を竹に結んで水深45cm沈めよと具体的に書いた。
海がなく蛋白源におとる米沢藩の民の栄養源としたのだ。
また「かてもの」という食物の手引書を莅戸善政(のぞきよしまさ)に命じて作らせた。
飢饉の際にむやみやたらに野草を食べて中毒死する領民が多かったのを教訓として
矢尾板栄雪・江口元沢・水野道益の3名に食料となる動植物の研究をさせ
本草学者の佐藤忠陸に意見を尋ね、莅戸善政に赤湯温泉で執筆させた。
全部で1575冊作って配ったという。
イノシシは厚さ2,3寸 長さ6,7寸に切って灰をまぶして梁にかけておけば
数十年もつという風に具体的に書かれている。
また山野草の「イタドリ」の記述は、よく茹でてかてものとして混ぜ炊いて食べるとなっている。
今ではよほどのことがないと食べない、「ハハコグサ」や「ハンゴウソウ」、「ハシバミ」、「いぬびえ」
「つゆ草」、「ドロノ木」、「いちび」などの野草と食べ方も書いてある。
ハハコグサ
つゆ草
ハシバミの実
とにかく鷹山のエピソードは多いが、お忍びで村を視察し、急な雨で稲刈りが進まず困っている老婆を
自ら助ける優しさも持ち合わせていた。
今も米沢の人たちは上杉鷹山を鷹山公と呼称し慕い続けている。