桜に思う 2
さくらに思う 1 2009/2/27 ↓
http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/07a096d2d485cff74934ef2b1b9b65d5
某民俗学学者の花見に関するエッセーを読んだ。
それは、桜という植物の分布は広いが、その花見の文化圏は日本に限られるといったものであった。
花を観賞する仕法が日本的だとおっしゃるのだ。
ほほう・・・。
桜は 韓国の鎮海というところが世界一美しく数多いことは熟知の通りだが、日本のような花見はないのか・・・?
花を生け 盆栽を作り 花を愛する日本文化は優れたとした上で、桜への過熱的な花見と、某先生にはうつるらしい。
よその家の生け花や、野生の花に無関心な人たちが桜の満開の下に席を先取りしてまで宴会をする人たちに、冷ややかな感情を投げかけておられた。
まず花を愛する心「美覚」を高め、美的生活を定着させるべきだと考えておられる毅然としたエッセーは、エッセーとしては好ましく感じる。
だが、たとえエッセーとはいえ 書物を多く出版されている偉大な先生の影響力は大きい。
研究者は難しい立場にあるのだなと、ふと感じた。
某先生は『花見の本質へ戻って考えてほしい。』と、結んでおられた。
では、花見の本質とは、一体何か。
古くは『古事記』にも、花見の様子は残されていると知人に聞いた。
また、宮田登氏などの記述では、山の神に酒を捧げ、食べ物をともにするといったような内容も書かれていた。
春になって桜の木に降りてきた神様を料理と酒でもてなし、人間も一緒にそれをいただくことが、花見の本来の意味と記されていたことを思い出す。
つまり一言で言うと、花見の元々の由来は、古代 神と考えられていた山に入り、どんちゃん騒ぎすることに意義があるとも言えるのかも知れない。
では何故『桜』なのか。
日本人は桜の花を稲の花に見立てて、秋の収穫の占いをしていたという。
つまり桜によって五穀豊穣を願ったとも言えるのではないか。
山の神に咲いた満開の桜。
枯れ木が赤白(桃色)に染まる。
日本人も『赤』『白』という色も特別に感じていたはずである。
血潮、女性・・・。
さすれば 五穀豊穣に加えて 不老長寿、子孫繁栄をも無意識に願っていたと考えても、おおむね間違いではないかも知れない。
桜は花も葉も幹も生活に使える恵みの植物とも言える。
桜は枯れ木に花を咲かせ、一気に花を落としたかと思うと、新緑。
厳しい生活に生きる山間の生活者にとって、桜は希望の植物だったような気がしてならない。
私は中国の雲南省や韓国の鎮海などでは花見に似たような祭りや神事や習慣などがあるのではないかと、勝手に考えている。
現に雲南省では桜ではなく菜の花の季節には花祭りが祝われるという。
雲南省といえば菜の花の棚田をも思い浮かべる。
菜の花祭りといえば五穀豊穣につながるのだろうから、意味合いとしては、日本の花見に通じる部分があると思われる。
だが、主婦の無学の私には、全く確証が持てない。
どなたかご存じの方がございましたら、教えていただけましたら嬉しいです。
追記 (乱鳥) |
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2009-03-22 23:59:45 |
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そうか・・・、やはり そうだったんだ!
戦後韓国は桜が日本帝国の象徴物に類似した内容は 植民地云々の形をとって、私も『桜に思う1』で記録していたように思う。
桜の木を切った『殺桜現象』から転じたナショナリズムだったのだな。 つまり『民俗』ではなく『民族』の方向から考えられていたのだ。
やはり素晴らしい先生だ! 尊敬に値する方だ。 |