今年が始まったと思ったら、もう12月、年末だ。寒さがつのり、街路樹の枯れ葉を踏みながらダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで歩く。今は銀杏の明るい黄色い葉が、きりっと冷えた青空に映え、まぶしく見える。桜の落葉は朱色やオレンジ、山吹色など暖色のグラデーションで目を楽しませてくれる。もみじの燃えるような紅色もいいが、私は銀杏と桜の紅葉が特に好きだ。
毎年この時期になるといろいろな想いが湧き起こる。もう1年、やっと1年…。昨年夫と別居し、年末年始は結婚して初めて実家でのんびり過ごすことが出来た。私は結婚するまではあまり実家に寄りつかなかったが、結婚後に夫との厳しい生活を経験した後は、やたら実家に帰りたくなった。静かな父親、鬱陶しいくらいおしゃべりな母親、そして30代になってから、やっとそんな母親と普通に、あるいは負けずにおしゃべりできるようになった私。今度の年末年始も実家に帰ろう。心ゆくまで眠って、ぼーっと過ごそう。
かつて私は家にいるのが嫌でたまらなかった。早く家を出て暮らしたいと思っていた。過干渉で簡単に侵入してくる母親、マイペースで静かな父親。私は父親は好きだったのだが、母親の過剰な世話焼きと狂気を感じさせる心配性ぶりに、頭がおかしくなりそうだった。私が小学生のときも母親の心配性が鬱陶しくしんどかった。しかし私が中学生になったとき、更にその過干渉と病的心配性振りに拍車がかかった。そのころ、全国的に中学校は荒れており、校内暴力などがマスコミに注目されていたときだった。私の中学も「不良・非行少年少女」と呼ばれる生徒がおり「校内暴力」があった。私の母親の心配はピークに達した。私がぐれないように、不良の友人ができないように、悪い遊びを覚えないように、徹底して干渉、監視した。
友人との交換日記や私自身の日記を盗み見、そして「あなたの考えていることはわかるのよ」とそれみよがしに言う。ちょっと不良っぽいと近所で噂されていた友人から電話がかかってくると(その頃はダイヤル式黒電話で、一家に一台という時代だった)、その電話を取り次いだ母親が、電話に出ている私に向かって「会っちゃダメよっ!」と大声で叫ぶ。母親と一緒に買った私服のスカートなのに、「やっぱり丈が長すぎる」と知らない間にスカートを短く切ってしまった母親(当時はスカート丈が長いのが不良でしたから…しかしこんな制服ファッション、今や化石?)。そして、私の帰りがちょっと遅くなると、私の友人宅あちこちに電話をかけまくる母親。私はこの母親の尋常でない干渉振りに気がおかしくなりそうだった。どんどん侵入してくる母親に反抗し、ひたすら口をきかずにいることが、自分を守る術だったのだ。私は私を理解しない母、私に侵入する母、自分の価値観で私を縛ろうとする母、私を支配する母、自分の思うとおりにいかないと激しく私をなじり説教し続ける母…そんな母を恐れ、憎悪した。本当の私を認め理解してくれない母が、悲しかった。同時に私から見て狂気にも似た母親の行動を恐れ、母親を刺激しないようにと、言いたいことも言えずにぐっと我慢して黙っていた。そんな想いを私は随分長い間抱えていた。
母親から見たら、私という娘は何かと反抗し、むっつりと黙り込み、いつも難しい顔をしているかわいげのない憎らしい娘だったと思う。
思えばモラ夫はそんな母親に似ていた。尋常でない過干渉と支配と。
そんな母親と少しずつ話しができるようになったのが、私が就職して家を出て一人暮らしを始め、しばらくしてからだった。自分も生活することの大変さを知り、家庭を切り盛りする母親の苦労を少しだけ察することが出来てから、やっと母親と話せるようになった。ただ、その頃は母親が少しでもうるさいことを言うと、私は非常に感情的に反応した。かつて言葉で言い返せなかった、感情を出せなかったことを取り返すかのように。
しかし、母業は大変だ。今の私の年齢で、母親はちょうど中学に上がった頃の私を育てていた。偉いな~。もし私に娘がいて、反抗されまくったら「キィ~~~ッ!!」と怒り狂ってばっかりいるだろう。母は、自分の器で、そのときによかれと考えたことで必死に子育てをしていたのだろう。母も不安と恐れを抱きながら。
娘に嫌われても憎まれても、私を育てた母。
私はようやく、母への憎悪が、いつのまにか私から離れ消えていたことを感じるのだ。でもね、今の距離がいいんだろうな~、と思う。一緒に暮らしたらきっと大変。親子も適当な距離があったほうがいい。そうして、お互い思いやれる時がたまにあるといい。
今年も実家に帰ろう。そして、こたつで寝っ転がって、モラ夫といるときは決して観なかった紅白歌合戦でものどかに観ながら親とおしゃべりしよう。親がみかんを食べる横で、親は飲めないお酒を「飲み過ぎちゃだめよ~」と母親に干渉されつつ、ひとりで飲みながら。
毎年この時期になるといろいろな想いが湧き起こる。もう1年、やっと1年…。昨年夫と別居し、年末年始は結婚して初めて実家でのんびり過ごすことが出来た。私は結婚するまではあまり実家に寄りつかなかったが、結婚後に夫との厳しい生活を経験した後は、やたら実家に帰りたくなった。静かな父親、鬱陶しいくらいおしゃべりな母親、そして30代になってから、やっとそんな母親と普通に、あるいは負けずにおしゃべりできるようになった私。今度の年末年始も実家に帰ろう。心ゆくまで眠って、ぼーっと過ごそう。
かつて私は家にいるのが嫌でたまらなかった。早く家を出て暮らしたいと思っていた。過干渉で簡単に侵入してくる母親、マイペースで静かな父親。私は父親は好きだったのだが、母親の過剰な世話焼きと狂気を感じさせる心配性ぶりに、頭がおかしくなりそうだった。私が小学生のときも母親の心配性が鬱陶しくしんどかった。しかし私が中学生になったとき、更にその過干渉と病的心配性振りに拍車がかかった。そのころ、全国的に中学校は荒れており、校内暴力などがマスコミに注目されていたときだった。私の中学も「不良・非行少年少女」と呼ばれる生徒がおり「校内暴力」があった。私の母親の心配はピークに達した。私がぐれないように、不良の友人ができないように、悪い遊びを覚えないように、徹底して干渉、監視した。
友人との交換日記や私自身の日記を盗み見、そして「あなたの考えていることはわかるのよ」とそれみよがしに言う。ちょっと不良っぽいと近所で噂されていた友人から電話がかかってくると(その頃はダイヤル式黒電話で、一家に一台という時代だった)、その電話を取り次いだ母親が、電話に出ている私に向かって「会っちゃダメよっ!」と大声で叫ぶ。母親と一緒に買った私服のスカートなのに、「やっぱり丈が長すぎる」と知らない間にスカートを短く切ってしまった母親(当時はスカート丈が長いのが不良でしたから…しかしこんな制服ファッション、今や化石?)。そして、私の帰りがちょっと遅くなると、私の友人宅あちこちに電話をかけまくる母親。私はこの母親の尋常でない干渉振りに気がおかしくなりそうだった。どんどん侵入してくる母親に反抗し、ひたすら口をきかずにいることが、自分を守る術だったのだ。私は私を理解しない母、私に侵入する母、自分の価値観で私を縛ろうとする母、私を支配する母、自分の思うとおりにいかないと激しく私をなじり説教し続ける母…そんな母を恐れ、憎悪した。本当の私を認め理解してくれない母が、悲しかった。同時に私から見て狂気にも似た母親の行動を恐れ、母親を刺激しないようにと、言いたいことも言えずにぐっと我慢して黙っていた。そんな想いを私は随分長い間抱えていた。
母親から見たら、私という娘は何かと反抗し、むっつりと黙り込み、いつも難しい顔をしているかわいげのない憎らしい娘だったと思う。
思えばモラ夫はそんな母親に似ていた。尋常でない過干渉と支配と。
そんな母親と少しずつ話しができるようになったのが、私が就職して家を出て一人暮らしを始め、しばらくしてからだった。自分も生活することの大変さを知り、家庭を切り盛りする母親の苦労を少しだけ察することが出来てから、やっと母親と話せるようになった。ただ、その頃は母親が少しでもうるさいことを言うと、私は非常に感情的に反応した。かつて言葉で言い返せなかった、感情を出せなかったことを取り返すかのように。
しかし、母業は大変だ。今の私の年齢で、母親はちょうど中学に上がった頃の私を育てていた。偉いな~。もし私に娘がいて、反抗されまくったら「キィ~~~ッ!!」と怒り狂ってばっかりいるだろう。母は、自分の器で、そのときによかれと考えたことで必死に子育てをしていたのだろう。母も不安と恐れを抱きながら。
娘に嫌われても憎まれても、私を育てた母。
私はようやく、母への憎悪が、いつのまにか私から離れ消えていたことを感じるのだ。でもね、今の距離がいいんだろうな~、と思う。一緒に暮らしたらきっと大変。親子も適当な距離があったほうがいい。そうして、お互い思いやれる時がたまにあるといい。
今年も実家に帰ろう。そして、こたつで寝っ転がって、モラ夫といるときは決して観なかった紅白歌合戦でものどかに観ながら親とおしゃべりしよう。親がみかんを食べる横で、親は飲めないお酒を「飲み過ぎちゃだめよ~」と母親に干渉されつつ、ひとりで飲みながら。
私にも、そんな時期がありました。
でも、親は親、どんな親でも自分の親は他にはいないのですよね。
私はどちらかと言えば、母が本当に大好きで、最近までしょっちゅう母とは買い物などに出歩いて、兄弟のような、親友のような本当に大好きな母でした。
父はあまり育児に関心のない人だったので、
内心、話しかけづらい感じの亭主関白な昔の頑固親父と言う感じの人でした。
ちょうど夫からのモラ真っ只中のとき、母が本当に急な死で亡くなって、家族の輪がおかしくなりました。更にモラはひどくなり、私はズタズタでした。
亡くなった家族に対する気持ちっていうのは、どうにもできないつらさがあります。
つらいとか悲しいとか、そんな言葉で片付けられる気持ちではなかったですね。
今は父を大事に週1回は必ず、母のお墓参りに行き、実家に足を運んでいます。
親孝行したいときに親はなし、本当だと思います。
ご両親が揃われておられるウメさんがうらやましいです。ご両親がご健在の間にそのようなお気持ちになられて良かったですね。
ご両親、大事にされてくださいね。
お母さんのことで、辛い思いをされたのですね。
うちの場合は、父親が過干渉で境界線を平気で乗り越える自己愛の強い人であり、
母は人を傷つけても全く自分は気づかない冷たい性格でありがとうとごめんなさいを言わない人でした。日記を読んだのは母だったわ~。
そういう実家が嫌で結婚して離れたつもりだったのに、しかたなく舞い戻ってきているすみれです。
私は結婚して夫からモラという傷を受けたので、実家のその雰囲気は耐えられず、大変苦労しました。今は父が倒れてこの家を離れたので、大分楽になりました。母は私がプラスのストロークを送ることで、日常は大分マイナスのことを言わなくなりましたが、でも、ひどい毒を撒き散らす日もあるので、そういう日は避難します。毒にあたるから。
>親子も適当な距離があったほうがいい。そうして、お互い思いやれる時がたまにあるといい。
本当にそうですね。
ウメさんの年末年始が穏やかでありますように、祈ってますね。
やまさん、こんばんは!
今日は一段と寒くなりましたね。
私は、親にはいろいろと複雑な想いを抱き続けてきましたが、
もし親がいなくなったら、ぽっかり穴が空いたような
拠り所というか、自分の根っこがなくなるような
気持ちになるのではないかと思います。
やまさんが言われるように、親がいる間に落ち着いた気持ちになれて
よかったと思います。
私ができるせめてもの親孝行は、
たまに帰省して元気な顔をみせることくらいですが
そんなとき、親とごく普通のおしゃべりができること、
そんな時間がありがたいです。
やまさんの言葉だからこそ、何だか身にしみます。
ありがとうございました!
ウメより
☆すみれさんへ
すみれさん、こんばんは!
うちの母親は「私は正しい」という人でした。
日記を盗み見たことを母に講義しても
平然と「子どものことを知るのは当たり前っ!」と
ヒステリックに怒鳴っていましたよ。
今でも言うのですよ。
私が仕事なんかでうまくいった出来事を話すと
「さすが私の子」「私の教育がよかったから」って。
いつも自分、自分です。
昔だったらそんな言葉を聞くとすぐ切れてましたが、今では
「お母さんはいつも自分の手柄なんだね~」
「どっちかっていうと、そこはお父さん似だと思うけどね」と
聞き流せています。
すみれさんも苦労されているのですね。
親ってホントに難しいですよね。
でも、すみれさん自身が親への対応を工夫しようとしているのは
すごいことだと思います。
私は親を責めるばかりで、なかなか自分が変われませんでしたから…。
今は親と離れているからいい距離感ですが、
これが一緒に暮らしたら、どうなるか未だ自信ないです。
だから、たまに帰っておしゃべりするのがいいですね。
年末年始は、飲んだくれて頭を麻痺させます(笑)!?
すみれさん、いつもありがとうございます~!
ウメより