こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

2007-06-17 22:25:08 | モラハラエッセー(離婚後)
 先日仕事のことで他の会社に出向いたとき、昔の職場時代にある仕事で少しの間だけ一緒になったヨモギさんと出会った。「もしかしてヨモギさん?」「あれ?ウメさん~!お久し振り~!」「やっぱりヨモギさんだったんだ~!お元気でした?」「何とかね~。ウメさんは今どこにいるんですか~?」
 彼女は私と同い年で、個人的にはほとんど話したこともなく、その時も仕事上の話しで終始した人だった。彼女はその後2回ほど転職し、現在の会社に2年前就職したと言った。私達は、昔出会った頃のことを懐かしみ、ロビーでひとしきり立ち話をした。私は彼女の面白おかしい転職話しに大笑いしたが、その時ふと彼女が言った。

「ウメさん、昔会った頃は全然笑わなかったね」
 私ははっとした。

「そうだった?私ってそんなに笑わなかった?」「うん。全然笑わない人だと思った。今みたいな感じではなかったよ」「あの頃は仕事がしんどかったからね~…」と言いながら、突如モラハラに苦しんでいたときのことがまざまざと蘇り苦々しい思いが湧き起こってきた。同時に、彼女にあの頃の私を見透かされたような気がして、複雑な居心地悪さを感じた。

 そう、彼女と会った時、私はモラ元上司から散々モラハラ被害を受け、ついには分所に異動(左遷)させられたのだった。その分所に彼女は仕事のことで訪れたのだった。あの頃の私は職場モラハラと元夫からのモラハラで、心身ともにモラ毒に冒され、どす黒い澱が常に心にあった。見えない暴力によって虐げられる恐怖、先の見えない真っ暗な日々…。出勤の時も、帰るときも私はいつも暗い表情をしていた。どうしてこんな人生になってしまったのだろう、と思いながらも、そこから逃れることもできず、逃れる術も考えられずに重い体を引きずるようにしていた日々。過去の記事『透明な鎖』でも述べたが、どうしてこんな自分になってしまったのか、どうしてこんなに絶望的な人生を送っているのかわからなかった。
 それでもせめて仕事の時は明るく振る舞わなくては、とも思っていたのだがこの頃は、もう自分の中の限界だったのだろう。分所に左遷されてまで、愛想笑いもする気力もなくなってしまったのかもしれない。そんな私の暗い表情を彼女は印象的に覚えていたのだ。

 あの頃の私はそんなに暗い顔をしていたんだ…。

 今の私は自分でも自覚するくらいよく笑うようになった。ひとりの生活でも穏やかさを感じ、道端の花々や新緑の匂いに季節の豊かさを感じ、自分だけのためにもおいしい料理を作って出来栄えに喜び、好きなときに友人と会いその時間をゆったりと楽しんでいる。その心のゆとりは、きっと顔に現われているのだろう。そして以前の私とは全く違う雰囲気を醸し出していることだろう。
 そういえば少し前にも同じようなことを言われたのだった(『残像』)。かつての職場の後輩が私の会社に訪れたとき、「なんだかウメさん、雰囲気が変わりましたね」と言ったのだ。その時は、それ以上意味を深く聞くこともなかったのだが、多分そういうことなのだと思う。

 ヨモギさんと最初に出会ったのは、もう6年も前のことになる。もうそんなに時が経ったのだ。あの頃は本当に辛かった。いや、辛いというか自分を失った心が抜け殻のようになっていた。その空虚な心を埋めようとしても、ただあるのは惨めさと絶望と無気力と憎しみだけだった。

 あの頃、今の生活が待っているなんて、夢にも思えなかった。想像もできなかった。
 あれから6年もたったなんて。こんな日がくるなんて…。
 ああ、なんてことだろう。人生は、きっと変えられる。自分が変えるのだと信じれば…。

 仮死状態だった私のこころが、息を吹き返している。モラハラから離れたことで、いろいろなところから力を得、こころが生き生きと動いている。穏やかな毎日を獲得したことで、自分を守り生かしている。

 笑えなかった私…よく生き延びたね。。。



本当の孤独とは

2007-06-06 22:16:50 | モラハラエッセー(離婚後)
 今日、仕事のことで本社に出向き用事を済ませて帰ろうとしたら、営業から帰ってきたばかりの先輩胡桃さんにばったり会った。「あら、ウメさん今日はどうしたの~?」「A企画のことで資料を届けにきたんです」「急いで帰らなくてもよかったら、ちょっとだけお茶飲まない? 私も喉かわいたし~」というお言葉に甘えて、休憩室でコーヒーを入れてもらった。
 胡桃さんは、もう40才過ぎているが、3才と7才の子持ち。だが、だんなさんが家のことも協力的なので、仕事を続けている、うらやましいキャリアウーマンだ。
 
 コーヒーを飲みながらなぜか老後の話しになった(最近こんなんばっか!)。「私の知り合いの男性で、仕事はばりばりだけど結婚もしないでひとりでいる人がいるんよね~。でも家事もけっこう自分でできるし自分なりに生活楽しんでるから、あんまり人付き合いしなくても平気って言ってるんよ。でもそれって寂しいんじゃないかと思ってたんやけど…」
 ひたすら聴き入る私。
「私なんて、子どものママ友から仕事関係から、夫の家族から、いろんな関係があって、ちょっとややこしいけど、その方が年取っても寂しくないんじゃいかって私は思ってたわけ。でも年取ったらそうそう出かけるのもおっくうになるし、人間関係ややこしいのはかなわんし。もしかしたらひとりで楽しめる人の方が、年取ってひとりになっても全然平気で暮らしていけるのかもしれへんね~」
 そこではじめて私は大きくうなずいた(←自分を思った・笑)。
「むしろ、ひとりでもそれなりに生活を自分で楽しんでる彼の生活スタイルの方が、老人になっても全然平気なんじゃないかな~、なんて思っちゃった。きっと年取ってもひとりで何かと楽しんで暮らせる気がする~」
「そうですよね~、私もそう思いますよ~~」強くうなずく私(爆!)。

 高齢者の自殺やうつが問題になっていた頃、東北のある地区に住む高齢者達に、自殺を考えたことがあるとか、うつ症状の有無に関する調査結果を聞いたことがある。家族と暮らしている高齢者と、独居の高齢者とどちらが自殺が多かったか。

 答は専門家の予想を超える衝撃的なものだった。
実は、家族と同居している高齢者の方が自殺率がずっと高かったのである。
 この調査では、家族の中で遠慮し、孤立し、居場所を失う高齢者がいた。身内の中にいながら孤立を感じるよりもひとり生活を好きに送っている人の方が、うつも自殺も少なかったのだ。

 家族の中の孤独。夫婦の中の孤独。
身内の中にいる孤独はまた厳しいものがあることを、私は身をもって知っている。
「家族こそ理解し合える、支え合える」という幻想。「夫婦だからこそわかりあえる」という幻想。
 家族だから、誰よりも厳しく、きつく、怒りを、恨みをぶつけてしまう。夫婦だからこそ、「理解しないおまえが悪い」と、あからさまに憎しみをぶつけ、自分の思いや期待を相手に押しつけようとする。そして自分の欲求を満たさない相手(妻or夫or子or親)が悪いんだ、自分の言うことを聞かない奴は、懲罰を与えるのが当然だ、と、そこは世にも残酷な拷問部屋となってしまう。外には届かない悲鳴、心の叫び。そして、『家族なのだから、いつかはわかりあえるはず』『夫婦なのだから、理解し合わなければいけない』『家族なのだから我慢しなければいけない』、という呪縛に苦しみ、徐々に自らを失う苛酷な日々。

 もちろん、温かい家族も多いだろう。お互いに喧嘩したり泣いたりしながらも、思いやり、お互いが支えとなり、家族はいい、としみじみ噛みしめる家族。家族への賛歌、母親への思慕は歌になり文学になり、心の拠り所となる。

 しかし…家族でいること自体がとても苦しく、お互いが無理している家族も多い。暴君がいて、他の家族はじっと我慢している、という場合もある。絶えず怒りに怯え、顔色を窺いながら息を詰まらせる夫婦、親子がいる。

 ひとりで生きる力があるのなら、苛酷な環境からは一刻も早く離れた方がいい。家族の欲望を優先して、自分の魂が息も絶え絶えになっているのなら、思い切って飛び出してみるといい。
 はじめはひとりでいることの不安に戦くかもしれない。寂しさに打ちひしがれるかもしれない。
 しかし、すぐにひとりで生活する平安に気づくはずだ。誰も自分を脅かさない。誰も自分を責めない。誰も自分を攻撃しない。誰も自分を蔑まない。
 それがどんなに、自分の糧になることか。縮こまっていた自分が大きく伸びをし、肺いっぱいに酸素を取り込むことができるか。

 ひとりでいることは、実はまったく怖くない。将来のことを考えたりすると、不安になることはある。これからひとりで生きていけるのだろうか、という不安もある。しかし、常に誰かに脅かされる日常はない。
 2人でいるほうがよっぽどコワイ。家族で過ごすことのほうが、よっぽど苦しい。

 15才から家を出、結婚して夫のモラハラに遭った私の結論だ。

 でもそれでいいのだと思う。家族は万能じゃない。家族も人間だ。そして人間は不完全だ。親だって、夫だって、それぞれの人生を歩み、自分の理解できる範囲でしか、ものごとを捉えられなかったのだ。自分の尺度でしか解釈できなかったのだ。それを当然のことと思って、相手も当然わかると思って、押しつけただけだったのだ。単に自分の器の中にある狭い知識の中から、勝手に判断して、相手にぶつけただけだったのだ。
 それをわからせようとしても、無理がある。理解しようとしても、わかりあえない。自らがわかろうと一方通行でなく、お互いが、相手に心を開かなければ無理だ。

 求められない家族だったら、離れればいい。わかりあえない夫婦だったら、離れればいい。いつまでも固執し、いつまでも執着し、いつまでも変えようとし、いつまでも恨みを持ち続けると、自分の魂が死んでしまう。

 私は自分で生きることができるのだ。他人からの応援を受けながら、自分も時に応援しながら、自分の力で生きていくことができる。そう信じればできる。
 
 
 私達は、生きていける。信じよう、自分の可能性を。自分の力を…!