こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

人との距離感

2007-10-21 23:19:52 | モラハラエッセー(離婚後)
 先日、ネットで料理関連のことを調べていたら「腹六分」という言葉が目にとまった。何かと思って検索してみたら、「人付き合いは腹六分」という言葉だった。これは「オーラの泉」というテレビ番組の中で美輪明宏が話していた言葉らしい。私はこの手の番組は殆ど観たことがないが、この言葉には惹かれるものがあった。
 意味は、「他人に対する感情(喜びも怒りも)を『腹六分』に押さえておけば、自分自身も必要以上にそれらに振り回されることなく、周りとの関係を良好に保つことができる」ということらしい。また、他人のいいところだけを見ればいい、ということでもあるそうだ。それは夫婦であろうが、友人であろうが同じだというのだ。
 ただもう少しこの言葉を調べていたら、どうも出典は福沢諭吉らしい。福沢諭吉は「人付き合いは腹六分目」と言い、人と深すぎる付き合い方をせず、適度な距離感をもって様々な人たちと平等につきあったという。

 人付き合いは腹六分…そうか、それでいいんだ。その言葉がすとんと腑に落ちた。

以前私は、親しい人ほど、距離が近い相手ほど、相手のことを疑わず10割理解することは無理だろうが、8~9割方は理解しなければと、受け入れなければと思いこんでいたところがあった。それが相手への誠実さを表すための姿勢だと思いこんでいた。
 だから、私は一度心を許した友人との関係は、よもや裏切られることなどあるまいと疑うこともなく、一度信頼した友人が例え泥棒になろうとも私はいつまでも友人だ、という確固たる思いがあった。

 そして、元夫に対しては、「お互い認め合って結婚したのだから、お互いの信頼は揺るぎないはず」と信じていた。お互いが結婚相手と決めたからには「その関係は変わらないはず」と思いこんでいた。
 だから私は、元夫から怒りをぶつけられても、罵倒されても、「これはきっと機嫌が悪かったから」「親からの虐待体験の傷ゆえに過剰反応するんだ」と、お人好しにも思いこんでいた。いくら夫婦だからといっても、言っていいことと悪いことがあると思うが、そんなことにも気づかず、いつも私自身へ悪意をもって攻撃されているとは思えず、「短気だから」とか何かと理由を付けて受け流していた。そう思えた頃はまだしあわせだったかもしれない。それとも都合の悪いものには蓋をするという、私の無意識の習性がそう思わせたのだろうか…。

 モラハラ加害者にとっては都合のいい受け取り方をする私の気質や雰囲気があったせいか、私は結婚してから、元夫以外の人からも同じような被害を受けた。いずれも最初は親しい間柄となり、私はその関係を露ほども疑わずにいたら、無防備の私に不意打ちをかけてきたのだ。そして私はその不意打ちをただ甘んじて受けた。信じていたから。まさか信頼関係のある私達の間にそんなことがあるなんて思えなかったからだ。

 しかしそういう関係もありえるのだ。私はもっと柔軟に当たり前に感じなければならなかった。理不尽な言動、不愉快な態度、どんな理由であれ、そのような行為を他人に向けるというのは、誰が誰に対してもおかしなことなのだ。たとえどんなに近しい人であれ、身内であれ、感じることを麻痺させてはいけないのだ。

 親しい人との関係が揺るぎないと思いこんでいた私のこころの奥底には、もしかしたら親しい人は私を裏切るはずがない、私を嫌うはずがない、私に悪意を持つはずがない、そして私の望むような関係になるのだという、コントロール欲求があったのかもしれない。
 どんな人でも私の意志に関係なく、様々なことを思い巡らせ、時に思いがけない状況になり、そして変化する。それが当たり前なのだ。
 私は他人に変わらない永遠を求める。変わらない信頼、変わらない好意。しかし私自身はどうなのだろうか。他人に求めるように私は変わらないのか?相手に対する私の感情、思考に変化はないのか?私は他人には変わらない忠誠心を求めたが、相手の要求に応えられなかったとき、私は誠実に相対したのか?素直に「それはできない」と言わずに、ただ笑ってその場をごまかし、やり過ごそうとはしなかったのか?

 モラハラ加害者は、自分を120%理解させることを相手に求める。自分の思うように、望むように、欲求するまま、まるで相手は自分と一心同体のように感じなければいけないし、それを感じられない相手は、加害者にとって激しい怒りの対象になる。
 多分、人は相手を理解すること、あるいは自分を理解してもらうことを9割以上求めたら、そこには支配と束縛しかなくなってしまうのかもしれない。

 腹六分くらいがちょうどいいのだろう。ちょっと寂しいくらいが、ちょっと嬉しいくらいでいいのだ。相手の存在を侵害せず尊重できる関係なのかもしれない。私はそれではいけないのかと思いこんでいた。それでいいんだ。腹六分のつきあいが、相手を侵害せず私を支配させず、お互いに依存しすぎず、それぞれの存在に責任を持った関係なのだろうと、今だから実感できる。

 なんだか楽になった。



過去、そして今

2007-10-08 12:25:43 | モラハラエッセー(離婚後)
 先日住宅街を歩いていたら、金木犀の香りに、ふと木々を仰いだ。今年の秋は暑いと思いながらも朝晩の気温はぐっと下がり、日も短くなってきた。空にはいわし雲、夜は虫の音も聞こえる。

 この10月、元夫から脱出して丸3年になった。離婚してからは約8ヶ月だが、物理的にも精神的にも元夫から離れられたのは、3年前だ。
 必死の思いで決断した別居だったが、どこかで夢のようでもあった。別居を夢想しながらネットで賃貸情報を検索し、「こんなところがいいかな」なんてあてもなく考えていた。夫への不満を溜め込み、恐怖や憎悪が暴発しないよう押さえ込みながらも、この現実が変わるなんて思えなかったし、自分が変えられるなんて信じられなかった。そんな私が一片の光を見いだしたのは、ネットで綿々と綴られる、顔も知らぬ女性達の吐露した夫婦間の苦悩だった。夫からのDVやモラハラへの告発、そして敢行の末、次々と報告される別居や離婚。「皆、すごいな…」私の硬直した心が動き始めた瞬間だった。それでも実際に動き出すまでには相当な時間を要したが、少しずつ現実を変えようとするエネルギーが自分の中に湧き起こってきたのは確かなことだった。

 そしてついに元夫の一言から、奮起して自分を駆り立て別居準備を始めたのだったが(『賽は投げられた』)それでも心のどこかで「本当に別居できるのだろうか」と思っていた。不動産屋に行ったときも、段ボールに自分の物を詰めているときも、どこかで「これは現実なんだろうか」と自分のしていることを夢のように感じていた部分もあった。ややもすると立ち止まり考え込みそうな自分に、必死にハッパをかけ「止まっちゃダメだ。考えないでとにかくするんだ」と言い聞かせ続けた。そして、10月の澄んだ青空の広がったある日、私は元夫と生活した場所に背を向け、ともに過ごした時間を絶ったのだった。
 あのような覚悟と決断は、私の人生上でも滅多にないことだろうと思う。結婚ですら、こんなに思い詰めなかった気がする。

 別居後は堰を切ったように、自分の心情や元夫の様々なモラハラ行為、そして言いたくても言えなかった元夫への思いの丈を掲示板やブログで綴ってきた。そこで同じ闘いを続けていた方々、顔も知らぬ方々から、たくさんの、本当にたくさんの温かい共感と力強い励ましをいただき、モラハラで受けた傷から流れる血を止め、癒していただいたからこそ、自分自身を取り戻し、落ち着いて自分の生活を日々送ることができていると思っている。

 あれから3年、だんだん私の中で結婚生活の記憶が遠のいていく。私はずっとひとりで生活していたのではないか?と錯覚するくらいだ。
 ただ、かつて元夫からのモラハラによって、叩きつけられ踏みにじられ切り裂かれた心の後遺症はやはりある。テレビや映画で、恋愛ものや夫婦、家族の葛藤が描かれるドラマは殆ど観なくなった、というより観られなくなった。元夫が好きだったプロ野球の試合もまったく観ないし、何回もプロ野球ニュースなんて出てくると不愉快になることがある。たまに何かのきっかけで、元夫への怒りややりきれなさが沸々と湧き起こってくるときもある。そんな時、ああ、私は元夫と生活していたんだ、と思い知らされるのだ。それも仕方のないことだ。事実なのだから。
 たまにそんな気持ちになっても、今の生活は変わらないし揺るがない。穏やかで安心で安全、自由である。

 かつて元夫と生活していたときは絶えず不穏、恐怖、危険、服従だった。あのまま元夫と生活していたら恐ろしい事件が起こったような気がする。夫婦や親子間に溜め込まれていた恐怖と憎悪が、容量を超えはじけ飛んだときの凄惨さを、世の中のニュースは流し続けている。あまりに痛ましく、残酷な現実だ。
 現実を変えるためにできることとは、恐怖の存在や場所自体を変えようとしたり破壊することではなく、その人や場から離れて自分の安全を守ることから始まるのだと思う。

 ひとりの暮らしは、特に「素晴らしい!」と絶賛するようなものでもなく、淡々と日々が過ぎていく。誰かが何かをしてくれるわけでもないので、自分で生活を作っていく。ゴキブリだって自分でとらなければいけない。楽しみも自分で作り、小さな出来事を喜ぶのも自分の感性しだいだ。ときに家族のいない寂しさを感じることもある。でも何よりも、穏やかで安心で安全、自由だ。そのありがたみは心底痛感するし、私が私自身でいることのできる大切な条件だと思う。
 もう金輪際、恐怖と憎悪にまみれた生活は送りたくない。もう二度と。
 

 今日もどこかで脱出している人がいる。自らの人生を取り戻すために決意している人がいる。どうかその後の歩みが守られますように…心から祈りたい。