先日、ネットで料理関連のことを調べていたら「腹六分」という言葉が目にとまった。何かと思って検索してみたら、「人付き合いは腹六分」という言葉だった。これは「オーラの泉」というテレビ番組の中で美輪明宏が話していた言葉らしい。私はこの手の番組は殆ど観たことがないが、この言葉には惹かれるものがあった。
意味は、「他人に対する感情(喜びも怒りも)を『腹六分』に押さえておけば、自分自身も必要以上にそれらに振り回されることなく、周りとの関係を良好に保つことができる」ということらしい。また、他人のいいところだけを見ればいい、ということでもあるそうだ。それは夫婦であろうが、友人であろうが同じだというのだ。
ただもう少しこの言葉を調べていたら、どうも出典は福沢諭吉らしい。福沢諭吉は「人付き合いは腹六分目」と言い、人と深すぎる付き合い方をせず、適度な距離感をもって様々な人たちと平等につきあったという。
人付き合いは腹六分…そうか、それでいいんだ。その言葉がすとんと腑に落ちた。
以前私は、親しい人ほど、距離が近い相手ほど、相手のことを疑わず10割理解することは無理だろうが、8~9割方は理解しなければと、受け入れなければと思いこんでいたところがあった。それが相手への誠実さを表すための姿勢だと思いこんでいた。
だから、私は一度心を許した友人との関係は、よもや裏切られることなどあるまいと疑うこともなく、一度信頼した友人が例え泥棒になろうとも私はいつまでも友人だ、という確固たる思いがあった。
そして、元夫に対しては、「お互い認め合って結婚したのだから、お互いの信頼は揺るぎないはず」と信じていた。お互いが結婚相手と決めたからには「その関係は変わらないはず」と思いこんでいた。
だから私は、元夫から怒りをぶつけられても、罵倒されても、「これはきっと機嫌が悪かったから」「親からの虐待体験の傷ゆえに過剰反応するんだ」と、お人好しにも思いこんでいた。いくら夫婦だからといっても、言っていいことと悪いことがあると思うが、そんなことにも気づかず、いつも私自身へ悪意をもって攻撃されているとは思えず、「短気だから」とか何かと理由を付けて受け流していた。そう思えた頃はまだしあわせだったかもしれない。それとも都合の悪いものには蓋をするという、私の無意識の習性がそう思わせたのだろうか…。
モラハラ加害者にとっては都合のいい受け取り方をする私の気質や雰囲気があったせいか、私は結婚してから、元夫以外の人からも同じような被害を受けた。いずれも最初は親しい間柄となり、私はその関係を露ほども疑わずにいたら、無防備の私に不意打ちをかけてきたのだ。そして私はその不意打ちをただ甘んじて受けた。信じていたから。まさか信頼関係のある私達の間にそんなことがあるなんて思えなかったからだ。
しかしそういう関係もありえるのだ。私はもっと柔軟に当たり前に感じなければならなかった。理不尽な言動、不愉快な態度、どんな理由であれ、そのような行為を他人に向けるというのは、誰が誰に対してもおかしなことなのだ。たとえどんなに近しい人であれ、身内であれ、感じることを麻痺させてはいけないのだ。
親しい人との関係が揺るぎないと思いこんでいた私のこころの奥底には、もしかしたら親しい人は私を裏切るはずがない、私を嫌うはずがない、私に悪意を持つはずがない、そして私の望むような関係になるのだという、コントロール欲求があったのかもしれない。
どんな人でも私の意志に関係なく、様々なことを思い巡らせ、時に思いがけない状況になり、そして変化する。それが当たり前なのだ。
私は他人に変わらない永遠を求める。変わらない信頼、変わらない好意。しかし私自身はどうなのだろうか。他人に求めるように私は変わらないのか?相手に対する私の感情、思考に変化はないのか?私は他人には変わらない忠誠心を求めたが、相手の要求に応えられなかったとき、私は誠実に相対したのか?素直に「それはできない」と言わずに、ただ笑ってその場をごまかし、やり過ごそうとはしなかったのか?
モラハラ加害者は、自分を120%理解させることを相手に求める。自分の思うように、望むように、欲求するまま、まるで相手は自分と一心同体のように感じなければいけないし、それを感じられない相手は、加害者にとって激しい怒りの対象になる。
多分、人は相手を理解すること、あるいは自分を理解してもらうことを9割以上求めたら、そこには支配と束縛しかなくなってしまうのかもしれない。
腹六分くらいがちょうどいいのだろう。ちょっと寂しいくらいが、ちょっと嬉しいくらいでいいのだ。相手の存在を侵害せず尊重できる関係なのかもしれない。私はそれではいけないのかと思いこんでいた。それでいいんだ。腹六分のつきあいが、相手を侵害せず私を支配させず、お互いに依存しすぎず、それぞれの存在に責任を持った関係なのだろうと、今だから実感できる。
なんだか楽になった。
意味は、「他人に対する感情(喜びも怒りも)を『腹六分』に押さえておけば、自分自身も必要以上にそれらに振り回されることなく、周りとの関係を良好に保つことができる」ということらしい。また、他人のいいところだけを見ればいい、ということでもあるそうだ。それは夫婦であろうが、友人であろうが同じだというのだ。
ただもう少しこの言葉を調べていたら、どうも出典は福沢諭吉らしい。福沢諭吉は「人付き合いは腹六分目」と言い、人と深すぎる付き合い方をせず、適度な距離感をもって様々な人たちと平等につきあったという。
人付き合いは腹六分…そうか、それでいいんだ。その言葉がすとんと腑に落ちた。
以前私は、親しい人ほど、距離が近い相手ほど、相手のことを疑わず10割理解することは無理だろうが、8~9割方は理解しなければと、受け入れなければと思いこんでいたところがあった。それが相手への誠実さを表すための姿勢だと思いこんでいた。
だから、私は一度心を許した友人との関係は、よもや裏切られることなどあるまいと疑うこともなく、一度信頼した友人が例え泥棒になろうとも私はいつまでも友人だ、という確固たる思いがあった。
そして、元夫に対しては、「お互い認め合って結婚したのだから、お互いの信頼は揺るぎないはず」と信じていた。お互いが結婚相手と決めたからには「その関係は変わらないはず」と思いこんでいた。
だから私は、元夫から怒りをぶつけられても、罵倒されても、「これはきっと機嫌が悪かったから」「親からの虐待体験の傷ゆえに過剰反応するんだ」と、お人好しにも思いこんでいた。いくら夫婦だからといっても、言っていいことと悪いことがあると思うが、そんなことにも気づかず、いつも私自身へ悪意をもって攻撃されているとは思えず、「短気だから」とか何かと理由を付けて受け流していた。そう思えた頃はまだしあわせだったかもしれない。それとも都合の悪いものには蓋をするという、私の無意識の習性がそう思わせたのだろうか…。
モラハラ加害者にとっては都合のいい受け取り方をする私の気質や雰囲気があったせいか、私は結婚してから、元夫以外の人からも同じような被害を受けた。いずれも最初は親しい間柄となり、私はその関係を露ほども疑わずにいたら、無防備の私に不意打ちをかけてきたのだ。そして私はその不意打ちをただ甘んじて受けた。信じていたから。まさか信頼関係のある私達の間にそんなことがあるなんて思えなかったからだ。
しかしそういう関係もありえるのだ。私はもっと柔軟に当たり前に感じなければならなかった。理不尽な言動、不愉快な態度、どんな理由であれ、そのような行為を他人に向けるというのは、誰が誰に対してもおかしなことなのだ。たとえどんなに近しい人であれ、身内であれ、感じることを麻痺させてはいけないのだ。
親しい人との関係が揺るぎないと思いこんでいた私のこころの奥底には、もしかしたら親しい人は私を裏切るはずがない、私を嫌うはずがない、私に悪意を持つはずがない、そして私の望むような関係になるのだという、コントロール欲求があったのかもしれない。
どんな人でも私の意志に関係なく、様々なことを思い巡らせ、時に思いがけない状況になり、そして変化する。それが当たり前なのだ。
私は他人に変わらない永遠を求める。変わらない信頼、変わらない好意。しかし私自身はどうなのだろうか。他人に求めるように私は変わらないのか?相手に対する私の感情、思考に変化はないのか?私は他人には変わらない忠誠心を求めたが、相手の要求に応えられなかったとき、私は誠実に相対したのか?素直に「それはできない」と言わずに、ただ笑ってその場をごまかし、やり過ごそうとはしなかったのか?
モラハラ加害者は、自分を120%理解させることを相手に求める。自分の思うように、望むように、欲求するまま、まるで相手は自分と一心同体のように感じなければいけないし、それを感じられない相手は、加害者にとって激しい怒りの対象になる。
多分、人は相手を理解すること、あるいは自分を理解してもらうことを9割以上求めたら、そこには支配と束縛しかなくなってしまうのかもしれない。
腹六分くらいがちょうどいいのだろう。ちょっと寂しいくらいが、ちょっと嬉しいくらいでいいのだ。相手の存在を侵害せず尊重できる関係なのかもしれない。私はそれではいけないのかと思いこんでいた。それでいいんだ。腹六分のつきあいが、相手を侵害せず私を支配させず、お互いに依存しすぎず、それぞれの存在に責任を持った関係なのだろうと、今だから実感できる。
なんだか楽になった。