こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

雪の降る夜

2005-12-29 00:37:28 | 日々の想い
 今年の冬は冷え込みが厳しく、あまり寒くない私の地域でも12月に雪が降った。空に雪が舞う。雪は私にとって非日常の世界に連れていってくれる。雪が降るといつまでも、いつまでも見とれてしまう。私が見る世界を、白く染めてくれる雪。汚い物もそっと包んでくれる雪。腐敗をそっと凍結させてくれる雪。

 私が子どもの頃は、よく雪が積もった。雪合戦、雪だるま、かまくら、そして雪にコンデンスミルクをかけたかき氷ならぬ雪氷。雪が降ると、そんなお楽しみに心躍ったものだった。そして空から絶え間なく降りてくるぼたん雪に私は見とれていた。じーっと見ていると、雪に乗って空に吸い込まれそうな気持ちになった。
 「手袋を買いに」という絵本がある。そこで子狐が雪と出会い、驚き戯れる描写が印象的だ。また、宮沢賢治の「雪渡り」では、雪の上を歩く「キシリキシリ」とか「キックキック」という音が頭に残った。先日降った突然の雪。どんどん降り積もり、私は出勤途中の道に積もった新雪の上を歩いた。キックキックと音がし、懐かしい物語を思い出した。

 私は一時雪国に住んでいたことがある。しんしんと降り積もる雪。何もかもが白く覆われていく。長い長い冬の季節。毎日雪が続くと、灰色の空からまるで灰が降ってくるようで迫り来る雪に息苦しさを感じた。あの時ほど春を待ちわびたことはない。雪国に住む人々にとって冬は本当に厳しい季節だ。道路の両脇にできる雪の壁、玄関や窓が壊れないように雪囲いを作る。水道管が凍結しないようにする、そして日々欠かせない雪かき。そこまで生活に迫り来る雪は、きれい、というより圧迫感だけがあった。
 そして突然の青空。まぶしく輝く銀世界。目に突き刺さるような光。そんなとき、私は友人と一緒に近くの地元の人たちが利用するスキー場に行った。春が近づくと、少しずつ晴れ間も多くなる。積もった雪がぽたりぽたりと溶けていく様子に春の喜びを感じたものだった。

 結婚して夫と生活を始めたこの土地でも、1~2月にはたまに雪が降った。雪が舞う中、夫と雪を楽しみながら散歩をしたこともあった。また、夫がひとりで見つけてきたマンションに引越さざるを得なかった時、引越しの当日は冷たい霙が激しく降っていた。霙の中の荷運び。重い雲がたれ込め、霙に濡れた段ボール箱が室内に運び込まれる。私は寒さに震えながら段ボールを雑巾でぬぐった。暗く重い天候はこの先の生活を暗示しているような気がしたものだった。そして引越し後の夫との生活は常に冬だった気がする。厳冬だったり、雹が降ったり、暖冬かと思ったら吹雪に心身凍りつく…と言ったような。私にとっての春は、夫から離れることだった。夫と生活をしていたとき、どんなに春を待ちわびたことか。私の心が晴れやかになる日は来るのだろうか…?そう感じていた。
 時間が経てば、そのうちに季節は移り変わる。しかし夫との生活は待っていても変わらなかった。季節は冬のままだった。私は自分で、太陽を取り戻すために南方向への脱出計画をおぼろげながら夢想し始めていた。それが具体化するまでにはもう少し先になったのだが。
 
 雪降る夜、私は懐かしさを感じながら外を見る。私の生活に、もうモラが入り込むことはあり得ない。モラ夫と過ごした日々が、遠くなっていく。こんな日がくるなんて。こんな心穏やかに、ひとりで暮らせるなんて、こんな日を私は作れたんだ。悲しいけれど、ほっとする。不安だけれど、自信も出てくる。今、私に向かって「最低最悪人間だ!」と言う人は誰もいない。誰も。

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 年の瀬も押し迫ってまいりました。この1年、皆様にとってどんな年でしたでしょうか。私は、モラ夫と別居して1年が過ぎました。心の平安を取り戻し、ビクビクすることなく穏やかに暮らしています。『できないことを数えるよりも、今自分ができることを、ささやかでもいいから行動すること』、そう自分に言い聞かせています。
 このブログはまた年明けから再開させていただきます。いつも読んでいただいている皆様、どうか良いお年をお迎え下さいますように…!


私の怒りマグマ

2005-12-22 23:19:12 | モラ脱出への道
 思えば私は随分辛抱強い性分だったと思う。長い間夫からのモラハラ攻撃にも耐え続けてきたというか、感じないようにしてきたのだ。しかし結婚7年目になり、私の中では我慢を通り越し、無気力になり、投げやりになり、そして沸々と怒りが湧き出てきた。
 夫と一言も会話を交わさない日々、夫の冷徹な表情、虫けらでも扱うような態度。こんな夫にどう思われようと、もうどうでもよくなってきたのだ。ここまで無視され、夫から嫌われているのに、どうして私がいつもご機嫌伺いしなければいけないのだ!

 既に以前からしていることだが、私も必要最低限のことしか言わなくなった。無理に話すのはもうやめた。そして自分の部屋で1人で寝た。
 夫から「おまえは本当に最低だな」と言われれば、「そう、私サイテーの人間だから」と答え、「おまえはバカか」と言われれば、「そう、バカだからわからないの」と答えた。つまり、夫の言うことに反応するより、オウム返しで同調することにした。すると夫は「自分で言うな」とあきれて、ますます何も言わなくなり、私はその分楽になった。
 例えば夫が連絡なく帰りが遅くなり、私が作った夕飯を「いらない」と言う。以前の私だったらがっかりした顔をして、もったいないから夫のおかずはラップをして冷蔵庫にしまっていた。しかし、その時の私は夫の目の前で、そのおかずをバサーッとゴミ箱に捨てた(もったいなくて心が痛むのでありますが…)。つまり私も夫に「NO」という何らかの意思表示を表そうとしたのだ。

 私が何かを夫に問いかけても、返事もなく出かけていった朝、私は怒りがこみ上げ、洗ったばかりの夫のワイシャツを出し、足で何度もぐりぐりと踏みにじり床に叩きつけた。ひとしきり足蹴にした後、ワイシャツにアイロンをかけた。冷えた心でアイロンをじっくりとあてた。ある時は、夫がいなくなってから、夫のカバンや雑誌を蹴りまくり、踏みつけた。物にでも当たらないと、私の怒りは収まらなくなっていた。

 夫と会話のない毎日、そしてまたつまらないことで夫が恐ろしい形相をして私に文句を言った。私は一応夫の気が済めばと思い謝ったが、今度は私の気が済まなくなっていた。目のくらむような怒りとひりひりする後頭部。しかし夫に怒鳴りつけるような勇気はない。私は夕食の片づけの後、台所の包丁をひとそろい出した。そして水道の水をタラタラと垂らしながら砥石を置き、ゆっくりと包丁を研いだ。シャーッ、シャーッと包丁を研ぐ。切れ味を指先で確かめながら、一本、そして一本と研いでいった。その時の私は静かな怒りに燃えていた。とても冷ややかな顔をしていただろう。私は包丁を研ぎながら思う。これで夫を刺したらどうなるんだろう。でも、と私は思う。私の人生が終わりになるだけだ。私の名前が新聞に載る。そして親や友人は驚き悲しむだろう…そう、こんな奴のために私も、そして他の人も不幸にしてはいけない…。そんなことを考える。そのとき、夫はさすがに静かだった。私を横目で見て、そそくさと自分の部屋に引っ込んでいた。夫が私の異様な雰囲気を感じてくれたら、私はそれで満足だった。

 このように、私は怒りが溜まると物に当たるようになった。といっても、やはり夫が恐かったので、夫がいないとき、夫の物を蹴りまくっていた。そして夫がいるときには話さない、オウム返し、そしてたまに包丁研ぎを行った。こんなことする自分も、自分で恐いなあ、と思ったが怒りがなかなか収まらなかった。

 また、夫が突然事故にでも遭って重傷で入院してくれないかなあ。あるいは昇天してくれてもいいのに、と物騒なこともよく思った。とにかく夫から逃れたかった。しかし私が逃げるというより、夫を何とかしたかったのだ。「そこまで思ってしまう私自身は何なんだ、そう思うくらいだったら離れた方がよっぽど建設的なのに…」と自分自身に苦笑したりもした。同時に家庭内での殺人事件を思った。こうやって逃れることもできないと追いつめられ、視野狭窄に陥り、犯行に及ぶのだろう。私も我を忘れてしまったらどうなるかわからないな…。自分の狂気を見せられたときでもあった。

 しかし私は夫に怒りを感じつつ、夫に怯えていた。そしてそんな自分も腹立たしかった。私は少し夫との事情を知る友人に、夫への怒りが止まらないことを話した。「このままじゃあ、私が夫を殺すか、夫が私を殺すかまでになるかもしれない」と。友人は静かに言った。「そこまでして一緒に暮らす意味あるの?ないんじゃないの?」と。

 そうだ。私は怒りながら夫に執着していたのかもしれない。私のささやかな反抗で夫が変わるとでも思っていたのだろうか。いや、変わらない。変わりっこないことは、何度も何度も嫌というほど思い知らされたではないか。

 私はこのまま怒りを抱えて、どうなるのだろう…。やはり夫と離れた方がいいのか…。そんな思いがぐるぐると巡っていた。


経済的嫌がらせ

2005-12-17 21:18:23 | モラル・ハラスメント
 結婚当時、夫は私に「僕の給料は全部渡すから、その中でやりくりしてくれ」と言った。
私はその中から夫へのお小遣いを渡し、私がパートで得た少しの収入は貯金に回すことにした。しかしすぐに夫から「小遣いが少ない」とクレームがついたので、家計簿を付けていた私は、その内訳を見せ、夫の小遣いの使い道について改善を求めたが夫は文句を言うばかりであった。夫は自分の給料の他に、親から譲り受けた不動産を持っており、その家賃収入もあった。しかしそのことは「結婚前の財産だからおまえには関係ない」と、言われた。夫はその収入プラス給料が入るのに、お金が足りない、とほざいた。

 そのうち「おまえの生活費の計算はどうなっているんだ」と、すぐに経済管理の主権を握った。そして生活費として数万を渡された。その額では2人の食費や生活雑費、クリーニング代などを捻出することができない。しかも夫は自称美食家で、それなりの材料を使わないと食事に満足しなかった。私は自分のパート収入も生活費に充てたが、それでかつかつの状態だった。後に私はパートから常勤になったが、夫はその分私に生活経費を出すよう要求した。

 そして、夫の希望で不本意ながら引越すことになり、新しいマンションで生活することになった。夫は恐い顔で言った。「おまえも働いているんだから、それ相応の負担するのが当然だろう?」と。夫は月々の家のローンと固定資産税、各保険費用は自分で出すと言った。しかしローンは月々9万円くらいだった。各種保険だって月2万円程だ。夫のボーナスは繰り上げ返済のために多少は使っているものの、夫の給料は私の約3倍以上だった。だからローン返済なんてどうってことないのだ。
 あとの生活費は全部私が払うことになった。マンションの管理費や車の駐車場代、光熱水費、新聞代、電話代、インターネット代、ほとんど夫が見ているケーブルテレビ代や衛生放送代、食費や生活雑費、クリーニング代等々は私の給与から支払うことになった。ようは、私の給料をほぼ全額使い尽くすようにし向けられたのだ。私がパートの安月給の時も、常勤になった時も、私が一時期失業したときすらそれを自分が払おうか、なんて言うことはなかった。私の退職金は生活費でほとんど消えた。

 経済制裁によって、私は精神的に惨めさを増し、イライラしていじましい心境に追いつめられた。服も買えず、大型スーパーの安売り時やフリーマーケットで何かいい物はないかと探した。季節が変わり、特に冬物をクリーニングに出さなければならないときには泣きたくなるくらいだった。夫は自分の分はカシミアのコートやブランドのスーツ、スェードのジャケットなどを購入していた。それをクリーニングに出すと、デラックス扱いを勧められ、数万くらいになってしまうのだ。私は自分の分のコートをクリーニングに出すのは、数ヶ月先にしなければならなかった。また、夫は牛肉を好み、安い肉では満足しないため、「ステーキが食べたい」「すき焼きが食べたい」などというと、はらわたが煮えくりかえった。おまえが一人で食べてこいっ!!と叫びたかった。

 結婚したら、一人暮らしのときより生活が楽になると思っていた。夫の給料の額はよかったし、それと少ないながらも私の給料を合わせれば、ゆとりある生活ができるはずだった。しかしそれは見事に裏切られた。私は一人暮らしの時よりも、金銭的な苦しさを感じた。

 夫はといえばもう好き放題だった。不動産収入プラス自分の給与を含めると月70万くらいになっただろうか。その中から、前妻の子どもへ仕送り5万、マンションローン9万、各種保険2万くらい、年に一度の固定資産税数万を払えばすべて自分の小遣いだ。それなのに、「お金が足りない」と言っていた。夫は本当に自分の好きなようにお金を使っていた。服もブランド、高価な香水、マッサージ、職場関係者で飲むときには後輩に気前よく奢ったりする。ひとりで高級なレストランに行き、高い料理を頼み、そこのシェフと懇意になりたがる。そしてそこに友人を連れて行く。ようはええ格好しいなのだ。また、働く男どもの託児所と言われるスナックにもよく言っていた。そこのママにちはほやされることが嬉しいらしい。

 そんな夫を横目で見ながら、私は夫への怒りを募らせていった。好き放題の夫。収入がありながら、なんで私はこんな貧しい思いをしなければならないのだ。同じ家に住む夫婦とは思えなかった。私はまるで夫に裕福な生活をさせるための奴隷だった。少ない給料のほとんどを生活費に使わざるを得ず、服も買えず、買い物には10円差に悩む日々。このギャップは何なんだ。

 20代の女性達がどうやってブランド品を買えるのか、本当に不思議だった。皆、そんなに給料がいいのだろうか。ほかの主婦達はどうしているのだろうか。あんな高価な化粧品などどうやって買っているのだろう。それとも私の生活だけが異常なのだろうか。

 そして、お金が無くてすぐクリーニングに出せなかった夫のジャケットが、夫に見つかり「おまえが長いことクリーニングに出さないから俺は鬱になった。おまえは妻の役割をまったく果たしていない」と罵られた。私はお金がないことを訴えたが「嘘つき」呼ばわりされただけだった。
 私の中で怒りのマグマがゆっくり蠢いていた。

期待しないこと

2005-12-10 23:53:58 | モラル・ハラスメント
 夫が鬱と診断されてからは、モラハラも陰を潜め、何とか落ち着いた生活を送っていた。夫も欠かさず安定剤を飲んでいるせいで、激しい感情の起伏はなくなった。些細なことで不機嫌になるときもあったが、以前に比べると短時間で収まって何とか会話できるようになったので、私もだいぶ安心できるようになった。

 しかしだからといって、夫の性格が変わるわけではないので、そこを忘れないようにしないと酷い目に遭うということもよくわかった。夫は精神的には落ち着いてきてはいるものの、性格や考え方が良くなるわけではないのだ。
 夫が笑っているからといって、こちらもつい口が軽くなると、日本語の使い方がおかしいとか、意味がわからないとか、いろいろ言い出すので、なるべく余計なことは言わないように心がけた。あくまでも夫の話に相づちを打つ、夫の話に合わせて一言意見を言う、くらいにとどめることが懸命であった。また、私の職場の話とか私自身にまつわる話は極力しないようにした。ついうっかり話してしまうと、冷たい反応が返ってきてこちらが嫌な思いをするだけだから、話すとしたら、夫に関係があるときだけ、必要最低限の連絡事項だけ伝えることにした。
 私が夫に話す内容についてこんなに気を遣っているにもかかわらず、夫は機嫌がいいと、自分が話したいことを話した。職場の話でも行きつけの喫茶店の話でも、一緒に飲んだ女性の話でもなんでもする。でも私の話は聞きたくないのだ。
 
 夫は基本的に他人(特に妻)に関心がないということがよくわかった。自分に興味のないことをいろいろ言われても煩わしいし、面白くもないようだった。なにせ相手の気持ちに添う、ということができないし、相手の話に合わせることもできない。そして神経過敏で被害妄想的なので、無防備に話なんてうっかりできない。私が異性の話をすると過剰反応し、嫉妬妄想が起こる。私の世間話にも興味はないのだ。

 私は、それまで夫婦は分かり合わなければ、と勘違いしていたが、分かり合うことなんてできないのだとつくづく思い知らされた。夫は、妻は自分をちっとも理解していない、と思っているし、私も夫は私を理解していない、と思っている。お互いがそう思っているのだ。私はそんなものだとあきらめるようになった。だって夫は私を理解する気なんてないのだから、それをむりに理解させようとしても悪循環を生じさせるだけであろう。お互い期待しないのが一番なのだ。期待するとお互い期待通りにいかないのは当然で、怒りがわき起こる。特に夫みたいな難しい人の期待に応えることは不可能であるし、私のささやかな期待も夫にとっては非常に負担らしい。

 私は夫に対してどんなことでも期待しないようになった。
 例えばささやかなたわいのない日常会話。一緒に買い物に行くこと、旅行に行くこと、夫が言ったこと、例えばどこどこにハイキングに行こう、明日は2人で出かけよう、という言葉。夫はこういうことを言いながら次の瞬間は気分が変わっている。結局言ったことが実現したのは今まででごくわずかだ。それに対して文句を言うと、すぐへそを曲げて不機嫌になり、暴言が始まる。期待するとひどい目に遭うのはこちらなのだ。馬鹿を見るのはいつも私だ。もう夫の言うことには期待しないことが一番なのだ。夫はそれで私ががっかりすることなんてどうでもいいのだ。常に自分の気分が優先でなければ気が済まない。そして常に不安定でそれを指摘されると理不尽な怒りを表明するだけだ。夫は話のできない人なのだ。話のやりとりをしながら折り合いを付けるなんてことはとてもできない。
 結婚生活の中で私から夫に要求したことはほとんどない。要求すると、夫は命令されたように思って不機嫌になるだけなのだ。また、その要求に答えようと変に力み、一方的な行動になってこちらが嫌な思いをするだけになる。何も期待しない方が、こちらも気が楽だ。たまに相手がいいことをしてくれると、それはたまの、滅多に起こりえない宝くじに当たるようなラッキーなのだ。それが続くわけではない。常に気まぐれなのだ。それをこちらがよく認識しておかないと、大変なことになるのだ。
私はこのように、よくよく自分に言い聞かせた。

期待しないこと、当たらず触らずに夫と過ごすことを肝に銘じた私だったが、これが私の夫婦生活だと思うと本当に寂しかった。本音が言えない夫婦なんて虚構じゃないか。この結婚生活は何なんだ。私はこんな生活を求めていたんじゃないのに。

母親への想い

2005-12-03 00:14:34 | 私のこと
 今年が始まったと思ったら、もう12月、年末だ。寒さがつのり、街路樹の枯れ葉を踏みながらダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで歩く。今は銀杏の明るい黄色い葉が、きりっと冷えた青空に映え、まぶしく見える。桜の落葉は朱色やオレンジ、山吹色など暖色のグラデーションで目を楽しませてくれる。もみじの燃えるような紅色もいいが、私は銀杏と桜の紅葉が特に好きだ。

 毎年この時期になるといろいろな想いが湧き起こる。もう1年、やっと1年…。昨年夫と別居し、年末年始は結婚して初めて実家でのんびり過ごすことが出来た。私は結婚するまではあまり実家に寄りつかなかったが、結婚後に夫との厳しい生活を経験した後は、やたら実家に帰りたくなった。静かな父親、鬱陶しいくらいおしゃべりな母親、そして30代になってから、やっとそんな母親と普通に、あるいは負けずにおしゃべりできるようになった私。今度の年末年始も実家に帰ろう。心ゆくまで眠って、ぼーっと過ごそう。

 かつて私は家にいるのが嫌でたまらなかった。早く家を出て暮らしたいと思っていた。過干渉で簡単に侵入してくる母親、マイペースで静かな父親。私は父親は好きだったのだが、母親の過剰な世話焼きと狂気を感じさせる心配性ぶりに、頭がおかしくなりそうだった。私が小学生のときも母親の心配性が鬱陶しくしんどかった。しかし私が中学生になったとき、更にその過干渉と病的心配性振りに拍車がかかった。そのころ、全国的に中学校は荒れており、校内暴力などがマスコミに注目されていたときだった。私の中学も「不良・非行少年少女」と呼ばれる生徒がおり「校内暴力」があった。私の母親の心配はピークに達した。私がぐれないように、不良の友人ができないように、悪い遊びを覚えないように、徹底して干渉、監視した。
 友人との交換日記や私自身の日記を盗み見、そして「あなたの考えていることはわかるのよ」とそれみよがしに言う。ちょっと不良っぽいと近所で噂されていた友人から電話がかかってくると(その頃はダイヤル式黒電話で、一家に一台という時代だった)、その電話を取り次いだ母親が、電話に出ている私に向かって「会っちゃダメよっ!」と大声で叫ぶ。母親と一緒に買った私服のスカートなのに、「やっぱり丈が長すぎる」と知らない間にスカートを短く切ってしまった母親(当時はスカート丈が長いのが不良でしたから…しかしこんな制服ファッション、今や化石?)。そして、私の帰りがちょっと遅くなると、私の友人宅あちこちに電話をかけまくる母親。私はこの母親の尋常でない干渉振りに気がおかしくなりそうだった。どんどん侵入してくる母親に反抗し、ひたすら口をきかずにいることが、自分を守る術だったのだ。私は私を理解しない母、私に侵入する母、自分の価値観で私を縛ろうとする母、私を支配する母、自分の思うとおりにいかないと激しく私をなじり説教し続ける母…そんな母を恐れ、憎悪した。本当の私を認め理解してくれない母が、悲しかった。同時に私から見て狂気にも似た母親の行動を恐れ、母親を刺激しないようにと、言いたいことも言えずにぐっと我慢して黙っていた。そんな想いを私は随分長い間抱えていた。
 母親から見たら、私という娘は何かと反抗し、むっつりと黙り込み、いつも難しい顔をしているかわいげのない憎らしい娘だったと思う。

 思えばモラ夫はそんな母親に似ていた。尋常でない過干渉と支配と。

 そんな母親と少しずつ話しができるようになったのが、私が就職して家を出て一人暮らしを始め、しばらくしてからだった。自分も生活することの大変さを知り、家庭を切り盛りする母親の苦労を少しだけ察することが出来てから、やっと母親と話せるようになった。ただ、その頃は母親が少しでもうるさいことを言うと、私は非常に感情的に反応した。かつて言葉で言い返せなかった、感情を出せなかったことを取り返すかのように。

 しかし、母業は大変だ。今の私の年齢で、母親はちょうど中学に上がった頃の私を育てていた。偉いな~。もし私に娘がいて、反抗されまくったら「キィ~~~ッ!!」と怒り狂ってばっかりいるだろう。母は、自分の器で、そのときによかれと考えたことで必死に子育てをしていたのだろう。母も不安と恐れを抱きながら。

 娘に嫌われても憎まれても、私を育てた母。
 私はようやく、母への憎悪が、いつのまにか私から離れ消えていたことを感じるのだ。でもね、今の距離がいいんだろうな~、と思う。一緒に暮らしたらきっと大変。親子も適当な距離があったほうがいい。そうして、お互い思いやれる時がたまにあるといい。

 今年も実家に帰ろう。そして、こたつで寝っ転がって、モラ夫といるときは決して観なかった紅白歌合戦でものどかに観ながら親とおしゃべりしよう。親がみかんを食べる横で、親は飲めないお酒を「飲み過ぎちゃだめよ~」と母親に干渉されつつ、ひとりで飲みながら。