こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

なんだったのだろう

2007-07-21 19:15:38 | モラハラエッセー(離婚後)
 先日の台風が過ぎたあたりから蝉の声が聞こえ始めた。そして街路樹周辺にある植え込みの葉に、蝉のさなぎの抜け殻を見つけた。子どもの頃、雑木林の中でよく蝉の抜け殻を見つけて集めたものだ。それをカーテンにつけて遊んだことを思い出す。

 離婚して5ヶ月が過ぎた。離婚する前から別居生活を長く送っていたせいか、特に生活の変化もなく、私はずっとひとり暮らしをしていたのではないかと錯覚するくらいだった。元夫も以前の住居から引越していったので、住んでいる地域も私の家から電車で1時間ほどの距離になり、生活圏が重なることもなくなった。結婚生活を思い出すことも少なくなっていた。

 昨晩は職場で少し残業をしていた。いい加減疲れて頭が回らなくなり、帰ることにしたら同僚も帰る、ということで一緒に駅まで歩くことになった。外は暗くいつの間にか雨が降り出していた。私達は置き傘を手に取り、職場を後にした。雨の中、同僚とおしゃべりしながら歩いていたら、駅の近くにあるおいしいパン屋さんに寄ると言うので、「じゃあついでに私も買にいくわ~」といつもとは別の通りに入って歩いた。道行く人々は、傘を差している人もいたが、急な雨に濡れながら歩いている人もいた。
 もうすぐ商店街にさしかかるというとき、うつむいて濡れながら歩いている男性がこちらに向かって歩いていた。顔を見て、ドクンと心臓が鳴った。元夫ではないか!?私は傘を持ち直し、同僚の話にうなずきながら歩いた。男性はそのまま私達の横を通り過ぎていった。途端に同僚の声が聞こえなくなってしまった。

 …あれは元夫だったような気がする…多分、元夫だ…生きているんだ…大きなカバンを持っていたが、多分趣味であるスポーツをしようと仕事帰りにわざわざ来たのだろう(以前に元夫はその駅の最寄りにある、あるスポーツ教室に行っている、と話していた)。金曜日の夜にこうして歩いているのなら、今もひとりで生活しているのだろう…元夫は私に気づいたのだろうか…いや、気がつかなかったみたいだった…でも気づいても知らん顔していたのかもしれない…私のように…

 めまぐるしくいろいろな思いが頭の中を駆けめぐった。何かすごく変なもやもやした気分が私の心を覆った。突然同僚の声が耳に入った。「ウメさん、どう思う?あれじゃあ仕方ないよね」「え?あぁ~、ごめん、ちゃんと聞えなかった、もう一度話してくれる?」同僚はいぶかしげに私を見つつも再度話してくれた。そしてパン屋さんに行き、それぞれ別の方向の電車に乗った。

 私はひとり、電車の中で複雑な感情を覚えていた。元夫とは、結婚生活を送っていたのだ。かつて非常に親密な関係であり、家族であったのだ。元夫からのモラハラに苦しみながらも、私は元夫に食事を作り、洗濯をし、同じ屋根の下で暮らしていた時期があったのだ。
 それがこうやって街で偶然見かけても、声もかけずにすれ違う他人になっている。これは一体なんなんだろう?
 あの結婚生活はなんだったのだろう?2人で過ごし、積み重ねた時間はなんだったのだろう?元夫のモラハラはなんだったのだろう?一体なんのために結婚したのだろう?その生活があたかも初めからなかったような、元夫とのこの関係はなんなのだろう?
 次々と湧き起こる問いと苦々しい想い…。

 私達は本当に赤の他人になったのだ…。かつての親密なつながりがぶっつりと切れる、その経験の厳しさを、改めてまざまざと突きつけられたあの一瞬だった。

 家族のつながりを断ち切るような別れは残酷だ。離婚、死別、断絶、失踪…。それでも人は生きていく。血を吐くような苦しみ、あるいはいまだのたうち回るような痛みとともに生きていく。
 それでもいつか、時が流れていつか…血は止まり痛みが和らぐ時がくる…。そしてきっと、悲しみを乗り越え、生きていくことができる。そしてその時、自分を支えてくれるたくさんの力を感じることができるのだろう。私は力を得、私自身を取り戻すことができる。苛酷な体験を糧として、きっとよりよい人生を創っていくことができるはず。

- そう信じて、自分を信じて生きること

 そんな私のこころの声が聞こえた。



しあわせとは

2007-07-05 23:19:02 | モラハラエッセー(離婚後)
 ある知人がふと言った言葉。「私の考えるしあわせとは、死ぬ直前まで歩けることです」と。私は密かに衝撃を感じた。「歩ける」ことは今の私には当たり前のことで、それができるからといって、歩けるだけでしあわせと感じることはほとんどなかったからだ。

 その知人は寝たきりになった高齢者の介護の仕事をしていた。寝たきりになった老人の怒り、あきらめ、苛立ち、嘆き、無気力、絶望を嫌というほど感じ、投げつけられてきた。そして寝たきり老人を介護する家族の苦悩。それを見ていると、つくづく「歩ける」ことがどんなにしあわせなことかが、骨身に染みるという。

 「しあわせ」という感覚とは何なのだろう。多分「満ち足りた」とか「喜び」という感覚に近いのかもしれない。そしてそれはその時々の文化や社会状況によって作られる感覚なのかもしれない。

 若い女性に向けられる「しあわせメッセージ」は、きれいになって恋愛し、意中の男性と結婚することだ。何十種類もある女性用雑誌の中身は判で押したようにファッションとお化粧とダイエットと恋愛、そして習い事で溢れている。それは「若い女性はきれいでかわいく装えば、男性にもてる」裏を返せば「女性はきれいにかわいくしていればよい。専門知識や社会情勢など知らない方がいい。ましてや政治なんかに関心は持たないでいい。いつも男性にとってきれいでかわいい、料理上手で少々無知で、男につくす女でいたほうがお得」というメッセージなのだ。以前、女性向け雑誌の中には政治や社会情勢に関する記事を盛り込んだものもあった。ただその雑誌はいつの間に消えていた。

 私はといえば、残念ながらファッションに走るお金もセンスもプロポーションもなかったが、やはり10代~20代の頃は恋愛が高い関心事のひとつでもあった。友人と会えば「誰か好きな人できた?」「彼氏は?」という話題で盛り上がった。そしてそれは20代を越えると結婚相手という要素を含むようになる。運命の人=結婚相手=しあわせ という図式である。
 もちろん、生物学的には人間という種が存続するためには子孫が必要だ。自然界と同じく自分の遺伝子を残すためには、少しでも生きていく上で有利な条件の相手(人間の場合は、健康で頭脳優秀で財力があり人間社会を生きる上で有利な条件を兼ねている人)を選ぼうとするだろう。それは動物だって同じようなものだ。しかし人間には、そこに社会的価値観が加わるのだ。「しあわせ」という価値観が。

 皮肉なことに、私の結婚相手は遺伝子を残す上での有利な条件はあった。即ち健康で頭脳優秀で財力があったのだ。過去の結婚歴では子どももあり(ということは子どもを作れるということ)、少々年上だったので、社会的な地位もあった。そういう生物学的意味においての選択はよかったのかもしれない。しかし実際は自然界のようにはいかなかった。
 
 社会的意味を賦与された「しあわせ」を実現しようと、私もどこかで焦っていたのかもしれない。結婚すればしあわせになれる。特に恋愛結婚だったらお互いが求める相手と一緒になるのだからしあわせになって当然…。お互いにどんな思惑を抱いているかも意識できないまま結婚したのかもしれない。
 多分、元夫も私も原家族で得られなかったものを相手に求めた。元夫は自分の頭の中だけに存在し、そして自分の欲求を即満たし、限りなく自分を許し与える理想の母親像を求めた。そして私はありのままの自分を受け止め理解してくれる両親像(特に母親)を元夫に求めた。相手に求める手段はこれまた社会的な影響を強く反映していた。つまり元夫は私に理想の母のように完璧な家事と世話を求め、私は元夫を理解し世話することで私に感謝し私を受け入れる人格を元夫に求めたのだ。

 そしてそれは実りのない闘いと奪い合いの始まりだった。

 元夫と付き合っていた頃、そして暮らしていた頃もしあわせな感覚はあった。しかしそれは麻薬のような感覚だったのかもしれない。積み重ねも連続性もない一瞬のしあわせ。そのしあわせは、モラハラという絶望から身を守る一瞬の麻薬だった。元夫が優しくしてくれればそれは麻薬となって、その後のモラハラも何とか耐えられたのだ。
 しかしその麻薬も耐性と効力が徐々に失われていく。もう夫の優しさという麻薬も与えられなくなり、自分の願いを叶えない妻に向けられたむき出しの憎悪に晒されたとき、私は「しあわせ」の幻影をついに見失ったのだ。

 そしてひとりになった時、「しあわせ」の幻影が様々な夫婦、家族を苦しめていることに気づくのだ。ニュースは夫婦や家族間の虐待や殺人を絶えず流し続けている。ネットでは夫婦や家族問題のブログが溢れている。私達は一体何を求めているのだろう?

 独身であれば結婚すればしあわせと思う。夫婦だけの生活が続くと子どもができればしあわせと思う。子どもがひとりできればひとりではかわいそう、2人目ができればもっとしあわせだと思う。そしてこどもや夫の世話に追われれば、独身は気楽でしあわせ、と思う。年老い介護される我が身を嘆き「ぽっくり死ねればしあわせ」と思う。
 もっとお金があればしあわせなのにと思い、持ち家があればしあわせと思う。もっとやせればしあわせと思い、きれいであればしあわせになれるのに、と思う。
 そして夫さえ暴力(モラハラ)を振るわなければしあわせなのに、と思い、夫が浮気さえしなければしあわせだったのに、と思う。

 果たしてそうなのだろうか?多分私達は現実から目を逸らすために、「もし~だったらしあわせなのに」と思いこんでいるのではないだろうか。多分その時々に置かれた状況によってしあわせの形は変化する。その時々の社会情勢によってしあわせは微妙に操作されている。

 私は、今しあわせだ。やりがいのある仕事を持ち、贅沢しなければ生活できる収入がある。落ち着ける住居があり、ゆったりくつろげる時間を持っている。おいしいものを料理して味わい、ともに楽しめる友人もいる。そして私を脅かす存在はいない。

 奇妙なことに、私はひとりでいることがしあわせなんて感じていいのだろうか、という感覚を持ったこともある。男性とペアでないとしあわせと言えないのではないか?と。それもある種の社会通念に縛られた価値観なのだろう。

 私達はもっと心を自由にして、自分の感覚に正直になっていいのだと思う。こうでなければしあわせになれない、と思いこむ必要もない。

 しあわせを感じるとは、自分自身の心の在りようなのだろう。そして「しあわせ」とは特別なものでなく、「歩く」と同じように、ごく当たり前のできごとなのかもしれない。「普通」の感覚がしあわせということなのかもしれない。


 そんなことを思いながら、今日1日無事に過ごせたことに感謝。