こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

事件名?

2007-03-03 15:10:30 | 離婚に向けて
 先日、役所の休日窓口で提出した離婚届を受理したという通知がきた。「あなたからの戸籍届出については、下記の通り受理されましたのでお知らせします。」という前文、そして手続済みの内容が記載されていたが…。
 1 受理年月日     平成19年2月24日
 2 事件名        離婚届
 3 届出人氏名     ○○ モラ雄
                 ○○ ウメ
 4 届出事件本人氏名 ○○ モラ雄
                   ○○ ウメ
 この書類を見た直後は「事件名」という項目に違和感を覚えた。離婚って事件扱いされるのか~、戸籍を変更することは事件なのか?日本では、離婚は事件扱いか?事件を届出た私に何か?とエスカレートする思考。ただ後から冷静に考えてみたら「事件」という言葉は「事」の「件」、つまり「ある事柄について」、ともいえる。私の中にある日常用語の「事件」は、犯罪絡みや悪い出来事、という意味でインプットされていたことと、やはり人生初体験の出来事に少々ナーバスになっていたこともあるだろう…とつい過剰反応してしまった自分に苦笑いした。

 ただこれで夫と私は他人になったのだ。これから彼は元夫であり、もう今後私の人生史上には殆どかかわることのない他人となった。街中にいるただのヨレヨレのおっさんとなったのだ(爆)。といってもまだ離婚したという実感がない。別居して2年以上が経ち、私の生活上から元夫の気配は随分前に無くなっていた。離婚届けを提出したが、今の生活の場も穏やかな毎日も変わらず進む。そう思ったら、実は別居したその日に、もう物理的な離婚は果たしていたんだ、とも思う。私の場合は、離婚に向けて心の整理をつけるまでに時間が必要だったのだろう。結婚や離婚は、個人的な要素だけではなく社会的な影響力も含まれている。私自身の中にあった元夫への嫌悪と恐怖、そして微かな愛着と夫婦として過ごしてきた時間を整理していくこと、そして周囲からの目、親との葛藤、仕事への影響、ひとりで生きていく事への覚悟等の問題とも向き合って考える必要があった。

 そして離婚後の姓をどうするか、という問題も少し悩んだ。旧姓に戻る方もいれば、結婚の時の姓を使う方もいる。私はどうしようか…。
 ここでは社会的な影響をまず考えた。私は結婚で姓を変えると同時に新しい土地に住み、そこでの仕事もある程度キャリアを積むことができた。今の仕事では、ひとつの職場のみならず、あちこちの関連会社とかかわりがあり、時々単発で別の仕事を依頼される場合もある。そこで姓名を変えたら今の定着した関係が、ややこしいことになるだろう。また姓を変えることで私生活を干渉されることも憂鬱だった。こんな時女性は大変だと思う。男は結婚しようが離婚しようが何も変わらず、周囲からは何もわからず仕事に支障もない。
 また、姓名を変えることになると様々な免許や資格、書類などもいちいち手続きしなければならないことも非常に面倒だった。自動車の免許、パスポート、加入している保険、仕事関連の国家資格、職場の事務にも手続きし、給与が振り込まれる銀行の通帳も、自分の職場以外の仕事関係の名義も、債権者登録も、大家さんにも?…職務経歴や業績も姓名が変わると他人の業績のように感じられる。これらの煩雑な手続きをするだけで、エネルギーが枯渇してしまいそうだ…。

 それから、以前の姓名に戻ることにも自体にも抵抗があった。過去の自分に戻るような気持ちになるからだ。たまに「あなたは何歳の自分に戻りたいと思う?」なんていう話しになることがある。「また二十歳に戻ってやりなおしたい」とか「ぴちぴちの10代に戻りたい」という人もいるが、私はもう過去の自分には戻りたくない。親や社会に向かう葛藤が苦しかった10代にも、20代の頃の自信がなく若気の至りで恥ずかしいことをしていた自分にも戻りたくない。戻るというのではなく、単に20代になる、だけでもイヤだ。また同じ事を繰り返すと思うと、またあの未熟で苦しい道のりを考えるだけでしんどい。
 今私自身が実感していることは、年を経るたび、精神的には段々楽になっていくことだ。自分に対して、周囲に対してもあまり神経質にならず、ゆとりを持ってかかわることができるようになった。もちろん、結婚生活においては大変な思いをし、別離という選択を決断することになった。仕事でも、信じられないようなモラハラに遭い、転職を余儀なくされた。逆境の最中にいたときには、この土地に来たこと自体が間違いだったのではないかと、人生最悪最低だと感じるくらい辛い毎日だった。しかし様々な出会いとその支えによって少しずつ酷い状況から抜け出し、今現在はいい職場に恵まれ自分の望む仕事をし、生活も穏やかで自分なりにささやかな幸せを感じながら毎日を送っている。
 改めて思い起こすと、結婚後の30代は本当に波瀾万丈だった…と思う。そんな激しい日々?を乗り越えて、今いる自分は案外好きだ。姓名がどうであろうと私は私で変わらない。
 そう思い「離婚の際に称していた氏を称する届(これまたややこしい言い回しの書類なのね…)」にも記入をして離婚届と共に提出した。


 自分だけの戸籍、自分だけの生活。う~ん、随分すっきりしたな~
 今、私は誰に気兼ねすることもなく、誰かに合わせることもなく、本当の私を受け入れ、私自身を生きている、という気がする。これからの私はどうなっていくのかな。どう変化し年を重ねていくのかな。。。
 それがちょっぴり楽しみでもある。



決着

2007-02-24 16:52:48 | 離婚に向けて
 朝、ゆっくりと目覚めた。カーテンを開けると陽の光と暖かさが部屋を満たす。天気予報によると今日はまた寒くなるようだった。のんびりと新聞を見た後、しばらく放置していた離婚届を取り出し、テーブルの上に広げた。記入に間違いがないか、各欄をチェックする。
 証人欄は、先日父親の見舞いに行った際、弟夫婦に記入してもらった。それも母親が病室にいる間、弟夫婦の車の中でこっそり記入してもらったのだが、何か秘密めいた親には言えない行為をしているようで、思わず苦笑いだった。弟も母親の性格をよく理解しているので、その辺は意見することなく、サラサラと済ませてくれた。
 その後、他の自治体にあった戸籍謄本も取り寄せ、書類はそろっていた。

 離婚届けを提出する際、間違いが無いようにと、平日市役所に提出し確認したかったのだが、仕事も忙しく休みを取ることもできない状況だったため、休日受付の窓口に提出することにした。
 いよいよこれを提出する日が来たんだな、と思う。心は静かだった。

 バスに乗り市役所に向かった。建物の正面玄関に回ると休日のため閉まっていたが、休日窓口の案内が矢印で示されていた。窓口に行くとおじいさんともいえるお年の守衛さんがいた。この人に渡して大丈夫なのか?と不安になるが「書類を提出したいのですが」と言った。「何のですか?」「離婚届です」「ああ~、そうですか、わかりました」と言ってくれたのだがそれでも私は大丈夫だろうな~、と思いつつ書類を渡す。「これで間違いはないでしょうか」と確認するが、守衛さんは書類を眺め「大丈夫でしょう。もし何かあったら役所から連絡が行きますから。これは今日預かって月曜日に手続きされますからね。今は12時35分、この時刻に確かに受け取りましたから。」と言われた。といっても守衛さん、あなたその時刻どこにも記録する気配がないんですけど…(^^;)
 そしてあっけなく役所を後にした。大丈夫かな~と一抹の不安が残るが、とにかく提出した。

 相変わらず心は静かだった。
 今まで存分に悩み苦しみ悲しみ右往左往し、何かある度に、こころがざわつき波立つ度に、ブログを通してあれこれと皆さんに聴いていただいた。一歩踏みだし、また一歩下がりしながらも、いつのまにか心は前に進んでいたようだ。この過程を十分噛みしめ様々な方と言葉を交わし、心から納得し自分で決断したからこそ、心静かにこの日を迎えられたのだと思う。
 公園で子どもが笑い、追いかけっこをしている。夫婦がおしゃべりしながら歩いている。行き交う人々の中を、私はゆっくり歩いた。商店街を抜け、私は神社に向かった。
 
 夫との生活があまりにも辛く、精神的にもかなり追いつめられていたときに通った厄除け神社。神社でいくらお願いしても、それが現実を変えるなんてことは思いもしなかったが、ただ、行って震えながら手を合わせずにはいられなかったあの時(『戦慄』)…。鳥居をくぐり、ゆっくりと拝殿への階段を上った。
 あの時の自分を想った時、思わず涙がこみ上げてきた。私はこうやって、神社に来たんだ…。そして別居し、この神社のそばで自分なりの暮らしを送ることができている。私は手を合わせ、目を閉じた。

 神さま、ありがとう。これからもどうか私をお見守りください。

 いつどんな時も、どんなことがあっても、私は私。必要以上に私を苦しめないように、私がごくあたりまえに、笑ったり、楽しんだり、泣いたり、怒ったり、不安になったり、喜んだり、していけますように。もう誰からも必要以上に支配され抑圧されることがありませんように。

 皆さんの温かい共感と励ましを力に、今日を迎えることが出来ました。
 ありがとうございました。

一歩一歩

2007-02-12 22:45:25 | 離婚に向けて
 先週は休みを取り、父親の手術に立ち会い予後を見守った。年寄りへの手術は酷だ。この前まで普通に生活していたのに、検査で癌が見つかり自覚症状もないまま元気な姿で手術室へ入った。そしてその後はぐったりだ。まさにスパゲッティ症候群。首や腕や背中点滴が3つも4つも刺さり、おまけに尿道にカテーテルで、手術した後病人になってしまった。筋力も急激に落ち、医者や看護師から「寝たままでなく上体を起こしたり歩いたりしないと回復が遅くなる」と言われ、上体を起こそうとするものの術後の傷が痛くて(痛み止めは点滴されているものの)気力も萎えてしまうらしい。父親はすっかり参ってしまった。肺の機能も落ち、水が溜まりつつあると言われ「深呼吸して」と言われるが、呼吸するたびに傷が痛い父親にはただの拷問的言葉だったらしい。父親が顔を歪め「そんなこと言われてもできないよ」「あんたたちにはわからないんだよ」と看護師に言うたび、こちらもはらはらしていた。しかし主治医に「このままでは肺気腫になり人工呼吸器が必要になってしまう。そうなると寝たきりになりますよ」と言われ、家族も焦って父親に「深呼吸して」「少しでも体を起こして」と言うが、父親は「もう今日はいい」と苛立つだけだった。

 こんな状態を見ながら、人間の尊厳とは?と思ってしまう。父親はもうかなりの年齢だ。そこで自覚症状もないまま検査で癌が見つかった。そして悪い物を取り除こうと手術する。しかし、良くなるために手術したのに、その後合併症や体力消耗で健康な部分が失われ、寝たきりになってしまったら…まるで病人になるために手術したことになってしまう。それだったら、たとえ検査で癌が見つかっても、そのままにして通常の生活を続けて生活の質を保ち、いよいよ悪くなってきたら痛み止めを打ちながら穏やかな最後を迎えた方がいいのでは、と思ってしまった。悪い物を取った方がいいからと手術したら、後のダメージが酷いまま寝たきりになって、何本ものチューブにつながれ、おむつをされ、尿道カテーテルを差し込まれ、何の楽しみも見いだせない苦痛の日々を送るよりもよっぽどいいのではないかと思ってしまう。
 しかし、いずれも術後のことはわからないのだ。もしかしたら良くなって寿命が延びるかもしれないし、逆にダメージが強く寝たきりになりチューブで生かされるという非人間的な生活になるかもしれない。手術しない方が健康でいられる期間が長いかもしれないし、そうでないかもしれない。医療はひたすら治療を勧めるだろう。しかし本人も家族も、いったい何がいいのか悩み、選択した後も苦しみ続けるのだ。

 モラ夫との結婚生活も少し似ているのかもしれない。もう少し自分ががんばったら、努力したら、夫は優しくなるのではないか。もう少し様子を見たら、夫も気づいてくれるのではないか。良い方向へ変わるのではないか…。
 もしかしたら夫は変わらないかもしれない。酷くなる一方だ。一緒に生活することが苦痛だ。自分がなくなってしまいそうだ。自分らしい人生ってなに?夫と仲良く生活したいと思っているのに、どうしてこんなに苦しいのか?もう離れた方がいいのかもしれない。でも離婚したら、私は生活できるだろうか?離婚して果たして自分らしく生きていけるのだろうか?

 いったい自分はどんな選択をしたらいいのか…その後が予想もつかないため、ほんとうに悩んでしまう。しかしあまりに苦しく、あまりに自分を殺すような状況は、自分が望む方向ではないように思う。
 自分がどうしたらいいのか。選択できる力を持つために、ありとあらゆる情報収集をし、同じような体験を持つ方々からの知恵を学ぶべきだと思う。そのことには貪欲にならなければならない。なぜなら他人に人生を支配されるのではなく、自分で自分の人生を生きる力をつけるために!

モラハラ同盟の大ママさんからお知らせです。*************************************

みなさまへ

2月13日、14日の2日に渡り、TBSの報道番組「イブニングファイブ」にて
モラハラの特集が放送されます。弁護士の荘司雅彦先生、カウンセラーの中尾英司さん、そして被害者の方たちの生証言により構成されています。
http://www.tbs.co.jp/eve5/

時間は17:30頃から10分~12分程度ですが、その日のニュース状況により、日にちも含めて大きく変わることがあります。残念ながら一部の地域では放送していません。

TBS報道部スタッフの方々は、本当に真剣に取り組んでくださいました。
まだモラハラを知らず苦しんでいる方たちが、言葉を知ることで救われますように。

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 私はといえば…父親の見舞いにきた弟夫婦に頼んで、こっそり離婚届にサインしてもらった。母親にも言おうと思い、ちらっと「離婚しようかな~」と言った。すると母親は「まだいいじゃない」と言う。「だっていい人が出来たらどうするの?」「いい人?いるの?」「いないけど」「じゃあ、できたときすればいいじゃない」と言われた。あくまで離婚に抵抗のある母親。しかし離婚は私の問題だ。私は母親はほっとくことにした。そうだよ。母親に相談しても、今までろくな事がなかったはずだ。いつも批判されいちゃもんつけられていたのだ。そう、今まで通り報告すればいいのだ。これは私の人生だ。

 近々役所に提出に行く予定だ。複雑だけど、他人の意のままでなく、自分の人生を生きたい私の選択だ。もう十分苦しみ努力し、熟慮した。もういいよ。もういいんだよ…ね!



悲しみにさようなら

2007-02-04 22:11:18 | 離婚に向けて
 夫のモラハラに耐えられず、自分を見失い狂気の淵に足をかける直前に、はっと我に返り、夫のもとから離れた。そして別居して2年以上が経過した。別居後、1年くらいは平和な日々を送りながらも、様々な感情に揺り動かされていた。そんな想いをブログに綴りながらも、皆様から共感と励ましをいただき、それを糧に自分を保っていた。そして誰からも脅かされない、静かで安全な毎日を送っていることが当たり前になり、この生活が普通なのだと実感できるようになった。私は日常的には夫のことを思い出すこともなくなり、のびのびとした心情で過ごしていた。
 別居生活を続けながらも、夫とは婚姻関係を保ったまま、月日が経っていた。別居した直後は、夫と話すことも、顔を見ることすら恐怖を覚え、どんな接触もしたくなかったので、当分別居状態を続けようと思っていた。別居に全エネルギーを使い果たした私にとって、まだその先のことを考える余裕すらなかったのだ。とりあえず離れて普通に呼吸することが必要だったのだ。

 そして、なんとか別居は成功して生き延びたのだが、ある意味別居したことは私の人生史上の中での挫折だった。私の本当の、心の底からの願いは、夫と日々を慈しみ合う結婚生活を積み重ねることだった。私は夫と仲良く暮らしたかったのに。あんなに笑い合ったこともあったのに、あんなに優しさを分かち合い、心から共に生きたいと思っていたのに…どうして?私は自分の人生を夫と築いていこうと一大決心をして結婚した。見知らぬ土地に住み、新しい職場を探し、夫の親族や友人達ともいい関係を作ろうと努力した。夫のモラハラから自分を守るためとはいえ、別居が自分の人生を守るための正当な手段だったとはいえ、モラハラは治ることがないと心底思い知らされたとはいえ、不本意ながらも実行せざるを得なかった別居だった。私はまだまだ自分の運命を受け入れることができなかったのだ。
 もうひとつは世間の目である。友人関係はまだしも、仕事関係者に知られることに抵抗があった。仕事への評価と重ねられることを恐れたのだ。周りは私を結婚の失敗者として見るだろう。夫との人間関係を築けなかった女、夫をうまく立てられなかった女、夫から蔑まれた女、性格的に問題のある女、子どもも作れなかった(出来なかったのだが)女、負け犬になった女、ひとりになった惨めな女…そんな好奇心と詮索の目で見られることがたまらなく嫌だった。離婚した理由を皆に説明できるわけもなく、ただ勝手に想像されて、思いこまれた目で見られることが嫌だった。
 そして、別居は楽な関係だった。夫から攻撃も受けず、平和な毎日を送りながらも世間には「結婚している」ポーズをとれる。日本の社会において『妻の座』はなんと生きやすいアイテムだろう。私はそれを失うことも恐れていた。

 ただそんな想いも抱きながら、やはり私はもう夫と生活できないこともよくわかっていたのだ。戻る可能性のない婚姻関係は虚構だ。苦渋の選択の末、離婚を決断した勇気ある方々との交流は、少しずつ私の心を解きほぐしていった。皆、その時その時に一生懸命考え、なすべきことを選択し、行動してきたのだ。皆も夫とその日常を愛そうと希望に満ちて結婚したのだ。でもどんなに努力してもどうしようもない現実があって、別の道を模索しなければお互いが生きていけないような状況に追いつめられ、そして苦悩の末、離婚という道を選んだのだ。それが新たな自分を生きる一歩となることを確信して。
 爽やかに自分を生きている方々の姿は、私に勇気と希望を与えてくれた。

 そして私は夫に離婚届けを郵送した。いつ反応があるか、しばらく放置されるのかと思っていたら、先週あっけなく返送されてきた。郵便受けを見てどきっとした私だった。封筒を開けると、「離婚に同意する」という夫の短い手紙と離婚届が入っていた。離婚届には夫のサインと印鑑が間違いなく押してあった。私はそれをじっと見つめた。「やった~!」という気分にはとてもなれなかった。むしろ、夫がさっさとサインして返送してきたことに虚しさを感じたほどだった。
 これで私は夫を失うのだ。夫の人格というより、夫という家族を、自らが望み欲し共に人生を歩みたかった家族を失うのだ。結婚生活約7年半に込めた私の想いが、夫との時間が、本当にきっぱりと消えていく…。
 モラルハラスメント・ブログのまっち~さんが、以前の記事で「離婚はお葬式に似ている(明日)」と言われていたが、本当にその通りだと思った。慈しみ育んできたものを葬る儀式。私のブログには、夫からモラハラを受けたことばかり書いてある。あれほど夫を恐れ、嫌悪し、もう生活を共にはできないとわかっているのに、やはりいざとなれば、こんな重苦しい気分になってしまった。
 その上、こんな時に父親が入院したことも重なり、何もかもが失われるような錯覚に囚われ、暗い淵をただのぞき込んでいるような精神状態になってしまった。


 今日になって、やっと夫がサインした離婚届を広げ、自分の欄に記入した。2人名前を連ねた婚姻届を出したことを思い出す。タメイキ…。
 離婚届けを記入するにあたり、証人2人の署名がいるので弟夫婦に記入してもらおうと、ついさっき電話をかけた。「実はさ…」というと弟が「どうしたの?」と聞く。「お願いがあって」「何?」「実はもう離婚しようと思って」。私はちょっともったいつけて暗い声で言った。弟の驚いたリアクションを想像していたら、あっけなく「ああそう。それがいいよ」と弟はどうってことないよ、というように答えた。「今の状態続けてても意味ないじゃん。サイン?ああ、いいよ」と、今日の夕ご飯は?肉じゃが?ふ~ん、みたいなごく普通な感じで答えた。
 なんだかそれを聞いていたら、すっと心が軽くなった。最後になると、いろいろと思ってしまうけれども、やっぱりこれでよかったんだ。あのまま結婚生活を続けることは不可能だった。続けてたら、どちらかがどちらかを殺していた(身体的、精神的双方の意味で)。古い言い方だけれど、結婚生活が私の人生の全てではない。その経験を、その喜びを、その苦痛を、その悲しみを糧にして、また私自身の人生を築いていけばいいのだと、今はぼんやり思っている。

 離婚届は弟夫婦にサインしてもらえば完成する。本籍のある自治体から戸籍謄本を取り寄せて、近々離婚手続きに行く予定だ。その前に父親の手術にも立ち会わなければいけない。

 これも私の人生だ。いざとなると、つい深刻に考えすぎてしまう。自分で自分を縛り幻にすがるのはもうやめよう。こう思えるまでも時間が必要だったのだ。
 
 大丈夫。きっと越えられる。一歩一歩、前へ…!



final count downなるか?

2007-01-24 22:53:51 | 離婚に向けて
 半年前、私は市役所へ離婚届をもらいに行った。その時、私はまだ自分自身の中で、離婚する気持ちの準備はなかったのだが、とりあえずその気になったらいつでも出せるようにと、書類を取りに行くことを思い立ったのだった。もしかしたら、自分の気持ちを一歩後押ししたかったのかもしれない。
 私は市民課の階へと上った。離婚を受け付ける窓口は、入り口から一番奥にあった。受付は30代くらいの男性だった。私はすぐ書類を渡してくれるものだと思っていたので、「離婚届の書類を下さい」と男性に伝えた。すると男性は疑わしそうな顔で私を見つめ、書類を一揃え持って目の前に並べた。「今調停中ではないですか?」「ご主人も了承済みですか?」「お子さんはいますか?」「名前は旧姓にするのですか?」…次々に質問する男性に私は驚き、「はぁ」とか「いいえ」と答えることで精一杯だった。書類もらうのに、こんなに言われることがあるのか、と思った。男性は何か怒っているような感じだった。表情が淡々としていたので私がそう感じただけかもしれないが。誰だってこんなことしたくないと思いながらするんだよ、お兄さん。そう言いたくなった。
 家に帰ってまじまじと離婚届を見た。これは何だろう、どうしてこんなものを手に入れなければならなかったんだろう…。そして書類を封筒に入れ、引き出しにしまった。

 そして、先日夫から電話があった2日後、私は長い間引き出しにしまい込んでいた封筒を出し、中の書類をテーブルの上にのせた。
 今は夫と別居しているから、普段の生活上でモラハラ被害は受けない。だから平和な生活が永遠に続くと錯覚してしまう。夫からの影響もないし、周囲の人たちにも結婚しているポーズをとりながら気楽に生活できる。それはある意味楽なことだ。
 しかし、夫に何かがあったら…病気や事故、はたまた失業なんてしたら、今の生活に影響がでるかもしれない。夫から何らかの要求があるかもしれない。以前も夫から意味不明な電話があったりして、肝を冷やしたばかりだ。しかも今回も、事務的な用事での電話すら恐ろしくて受話器を取ることができなかった。同じ籍に入っている限りは、いくら生活の場が離れていても私と夫は夫婦なのだ。

 そして、もう決して一緒に住むことも、時間を過ごすこともない夫婦…夫が倒れたって何もしたくないし、夫と同じ墓にも絶対に入りたくない。そんな関係に意味があるのだろうか。

 確かに夫のモラハラから逃れるためには、まず別居し自分の安全を確保することが先決だった。絶望の毎日だった中、一筋の希望を見いだしてからは長い長い時間かけて別居への準備(物質的にも心理的にも)をし、まずは夫から離れて生活することをめざすことにエネルギーを注いだ。そして別居を果たし、しばらくは心のエネルギーが満ちてくるまで、自分をいたわることが必要だった。私の心がはがれそうな瘡蓋だらけの頃は、ちょっとしたことでも涙が出たり、怒りが湧き起こったり、深い喪失感に苦しんでいたので、夫婦関係について他人から意見されることにはとても耐えられなかったと思う。その頃私が必要としていたのは、温かい共感だった。
 ただ、その後年単位の時間が流れ、精神的にもようやく落ち着き、このひとりの生活が当たり前に思えるようになった。加えて、先日夫からの電話のことでモラ被害に遭った方々とも話しながら、もうその時が来たのかもしれない、と感じた。
 かつては夫と過ごしてきた時間が、結婚のために新しい土地に住み、夫との関係を築こう努力してきた日々が無になることに耐えられなかった。結婚はある意味人生において重大な決断だ。自分はその決断を誤ったとは認めたくなかったこともある。
 しかし今になってみるともはや離婚は夫との生活を惜しむというより、親や世間から下手に干渉されたくない、というところで引っかかっているだけだった。

 もういいのかもしれない。
 もう、夫との生活が戻ることはあり得ない。何度も何度も夫との時間、あの場面、お互いの関係を繰り返し思い起こしてきた。そして様々な自分の想いを繰り返し語り、いろいろな方に聴いてもらった。そうやって、今日まで私は生きてきた。
 そう、例え親が何かを言っても、周囲が噂をしても、私の生活は何ら変わることはない。そう、今のまま仕事をし、ひとりの時間、友人との時間を楽しめばいいのだ。
 縁を切ることで、モラ夫とは他人となり、私はまた新たな人生を歩むことができる。新たな出会いもたくさんあるだろう(いい出会いという意味で女も男も!)。私は誰にも気兼ねなく、堂々と生きていけばいいのだ。
 
 
 そして今日、私は夫に離婚届を郵送した。
 さて、吉と出るか凶と出るか…