私は大都市の郊外にある新興住宅地で子ども時代を過ごした。長女として生まれ、下には弟。多分どこから見てもごく普通の4人家族だった。両親とも、出身はそれぞれ遠い地方の田舎町だったが仕事の都合で転居してきた。住んでいた新興住宅地にはそんな夫婦がたくさんいたようだ。
私は早生まれだったせいか、幼稚園の頃からのんびりしていた。運動会では「よ~いどん!」でもぼーっと立ちつくし、先生に背中を押されて走ったり、連絡ノートに「お弁当を食べるのが遅いのでもう少し早く食べられるようにしてください」なんて書かれたりしていたらしい。特定のいじめっ子3人組にもよく泣かされていた。しかしいじめられるのに、けろっとしてまた一緒に遊んでいたりという脳天気さもあった。
小学生くらいの頃からだっただろうか。母親の口うるささを意識し始めたのは。母親は何かと私に小言を言った。「早くしなさい」「勉強しなさい」「どうしてこうなるの?」「こうしてはいけません」…。そして私が思うようにならないと、母親は私を自分の目の前に正座させ、きつい口調で延々と説教をした。そのとき私はいつも「何で怒っているのだろう…。わからないけどとにかくこのお説教をやり過ごそう…」そう考え、私はよく空想に耽りながら長い時間を耐えていた。いつしか母親は「わかったの?わかったわねっ!」と言い、「はい」と答える。たまに母親が「あなたはほんとにわかってるの?黙ってないで何かいいなさい」と言ったが、一言返せば大声で反論されお説教が長引くこともわかっていたので、とにかくこの嵐が過ぎ去るまでじっと沈黙して下を向いていた。
私はモラ夫から長時間罵倒されているとき、ふと子どもの頃のこの場面を思い出したりした。なんか似ているな~、と。
このようにいつも文句を言われていたので、私は母親にほめられたことがほとんどなかった。だからたまに他人からほめられると、どんな顔をしていいのかわからなかった。どうせお世辞だろうと、ずっと思っていた。よその大人からほめてもらっても困ったような顔をしていた私は、かわいげのない子どもだっただろうと思う。
母親は非常に干渉的だった。うるさく言う割に、私が家庭科の宿題ができないでいると「見ていられない」とばかりに、教材を取り上げて縫ってしまったりした。
私が中学になるとそれが酷くなった。私の中学時代は、非行や校内暴力が問題になっており、そのことで母親は自分の子がそうならないように、と心配したのだろうと思う。しかしその当時の私にとって、母親の心配する姿は、狂気に近いものを感じたのだ。
私の日記や友人との交換日記を平気で盗み見、そのことについて抗議すると「親が子どものことを知ろうと思うのは当然でしょ」と悪びれもなく言い放った。私の友人に対しても母親は「いい友人」「悪い友人」と分類しており、悪い友人から電話などがあると電話で話している私のそばに来て「早く切りなさいっ!」「約束しちゃダメ!」とヒステリックな声をあげた。成績の良い優秀な子として近所で評判の友人に対しては態度が違い電話では「ウメと仲良くしてね」と猫なで声をだした。私はそんな母親に心底嫌悪感を抱いた。
また、私がある私服のスカートをはいたら、そばにいた母親が「やっぱりそのスカート丈が長いからやめなさい」と言った。しかし私は「長くないよ」とそのまま外に出ようとした瞬間「そんな長いのやめなさいっ!切り裂いてやるっっ!!」と恐ろしい形相で叫んだ。私は母親が狂ってしまうのではないかと恐ろしかった。そして数日後、そのスカートを見たら丈を短く切ってあった。私はぞっとした。
私の友人達にも母親のうるささは知れ渡っていた。門限にも厳しかった母親を心配し「ウメ、もう帰った方がいいんじゃない」と友人は気遣ってくれた。ある日友人宅でどうしても、もう少し遊んでいたかった私は母親に「友人と勉強しているんだけど、もう少しきりのいいところまでやりたいんだけど…」と電話したら「そう、いいわよ」とあっさり認めた母親。こんな見え透いた嘘でも勉強という一言で変貌する母はやっぱりおかしい…。そのこともまた恐怖感を抱かせる一因となったものの、私は母親を怒らせないよう、母親が納得するような小さな嘘をつくようにもなっていた。
もうひとつ、母親は弟をとても可愛がっており、私はいつも弟と差をつけられていると感じていた。今ならそんなことも分かるのだ。男兄弟をもつ友人達は「明らかに母親は私と弟(兄)を差別していたよ~」と言う。母親としては平等に扱っているつもりなのだが、どうしても異性をひいきしてしまう。それは仕方のないことなんだと、今は理解している。 しかし私が子どもの頃は納得いかなかったのだ。
私は母親のいいつけを守り、欲しいものも我慢し、嫌いな食べ物も食べられるよう努力した。しかし弟は違った。欲しいものは欲しいと主張し、母親はそれを買い与えた。そして弟は嫌いな食べ物は絶対に食べなかったので、弟だけが特別に代替献立が用意されたりした。母親に「聞いて聞いて」と甘え、私が話していても横から話しをさらってしまい母親もそれを止めようとはしなかったので、私は次第に無口になっていった。(母親が弟に注いだ情熱には、父親も私も知らなかった仰天エピソードがいくつもあるほどだ。)
ある日母親が私を正座させた。私は「また何を怒られるんだろう」と縮こまっていたら、「あなたは何でいろんなことをしゃべってくれないの…」と泣いたのだ。私はびっくりした。どうしてって…お母さんが聞いてくれないからじゃないの…。そう思ったが言えなかった。
そんなこともあり、私は小学生から家ではあまりしゃべらない子どもになっており、中学になってからは母親の干渉も過激になっていったため、家の中ではほとんど口をきかなかった。それが母親の侵入から自分を守る術でもあったのだ。しかしそのことがまた母親の不安を煽ったのであろう。
本当は、私は母親に大声で怒鳴り、けんかをしたかった。しかしそれは恐くてできなかった。なぜなら、そうしたら母親が本当に狂ってしまうのではないかと思ったからだ。それくらい母親の干渉ぶりは度を超していた。母親が何とか正気を保っていられるように、私は極力母親を刺激しないようにした。そしてわずかばかりの反抗は口をきかないことでもあった。
このときの習性が夫との生活でも発揮されてしまったような気がするのだが…。
私は早生まれだったせいか、幼稚園の頃からのんびりしていた。運動会では「よ~いどん!」でもぼーっと立ちつくし、先生に背中を押されて走ったり、連絡ノートに「お弁当を食べるのが遅いのでもう少し早く食べられるようにしてください」なんて書かれたりしていたらしい。特定のいじめっ子3人組にもよく泣かされていた。しかしいじめられるのに、けろっとしてまた一緒に遊んでいたりという脳天気さもあった。
小学生くらいの頃からだっただろうか。母親の口うるささを意識し始めたのは。母親は何かと私に小言を言った。「早くしなさい」「勉強しなさい」「どうしてこうなるの?」「こうしてはいけません」…。そして私が思うようにならないと、母親は私を自分の目の前に正座させ、きつい口調で延々と説教をした。そのとき私はいつも「何で怒っているのだろう…。わからないけどとにかくこのお説教をやり過ごそう…」そう考え、私はよく空想に耽りながら長い時間を耐えていた。いつしか母親は「わかったの?わかったわねっ!」と言い、「はい」と答える。たまに母親が「あなたはほんとにわかってるの?黙ってないで何かいいなさい」と言ったが、一言返せば大声で反論されお説教が長引くこともわかっていたので、とにかくこの嵐が過ぎ去るまでじっと沈黙して下を向いていた。
私はモラ夫から長時間罵倒されているとき、ふと子どもの頃のこの場面を思い出したりした。なんか似ているな~、と。
このようにいつも文句を言われていたので、私は母親にほめられたことがほとんどなかった。だからたまに他人からほめられると、どんな顔をしていいのかわからなかった。どうせお世辞だろうと、ずっと思っていた。よその大人からほめてもらっても困ったような顔をしていた私は、かわいげのない子どもだっただろうと思う。
母親は非常に干渉的だった。うるさく言う割に、私が家庭科の宿題ができないでいると「見ていられない」とばかりに、教材を取り上げて縫ってしまったりした。
私が中学になるとそれが酷くなった。私の中学時代は、非行や校内暴力が問題になっており、そのことで母親は自分の子がそうならないように、と心配したのだろうと思う。しかしその当時の私にとって、母親の心配する姿は、狂気に近いものを感じたのだ。
私の日記や友人との交換日記を平気で盗み見、そのことについて抗議すると「親が子どものことを知ろうと思うのは当然でしょ」と悪びれもなく言い放った。私の友人に対しても母親は「いい友人」「悪い友人」と分類しており、悪い友人から電話などがあると電話で話している私のそばに来て「早く切りなさいっ!」「約束しちゃダメ!」とヒステリックな声をあげた。成績の良い優秀な子として近所で評判の友人に対しては態度が違い電話では「ウメと仲良くしてね」と猫なで声をだした。私はそんな母親に心底嫌悪感を抱いた。
また、私がある私服のスカートをはいたら、そばにいた母親が「やっぱりそのスカート丈が長いからやめなさい」と言った。しかし私は「長くないよ」とそのまま外に出ようとした瞬間「そんな長いのやめなさいっ!切り裂いてやるっっ!!」と恐ろしい形相で叫んだ。私は母親が狂ってしまうのではないかと恐ろしかった。そして数日後、そのスカートを見たら丈を短く切ってあった。私はぞっとした。
私の友人達にも母親のうるささは知れ渡っていた。門限にも厳しかった母親を心配し「ウメ、もう帰った方がいいんじゃない」と友人は気遣ってくれた。ある日友人宅でどうしても、もう少し遊んでいたかった私は母親に「友人と勉強しているんだけど、もう少しきりのいいところまでやりたいんだけど…」と電話したら「そう、いいわよ」とあっさり認めた母親。こんな見え透いた嘘でも勉強という一言で変貌する母はやっぱりおかしい…。そのこともまた恐怖感を抱かせる一因となったものの、私は母親を怒らせないよう、母親が納得するような小さな嘘をつくようにもなっていた。
もうひとつ、母親は弟をとても可愛がっており、私はいつも弟と差をつけられていると感じていた。今ならそんなことも分かるのだ。男兄弟をもつ友人達は「明らかに母親は私と弟(兄)を差別していたよ~」と言う。母親としては平等に扱っているつもりなのだが、どうしても異性をひいきしてしまう。それは仕方のないことなんだと、今は理解している。 しかし私が子どもの頃は納得いかなかったのだ。
私は母親のいいつけを守り、欲しいものも我慢し、嫌いな食べ物も食べられるよう努力した。しかし弟は違った。欲しいものは欲しいと主張し、母親はそれを買い与えた。そして弟は嫌いな食べ物は絶対に食べなかったので、弟だけが特別に代替献立が用意されたりした。母親に「聞いて聞いて」と甘え、私が話していても横から話しをさらってしまい母親もそれを止めようとはしなかったので、私は次第に無口になっていった。(母親が弟に注いだ情熱には、父親も私も知らなかった仰天エピソードがいくつもあるほどだ。)
ある日母親が私を正座させた。私は「また何を怒られるんだろう」と縮こまっていたら、「あなたは何でいろんなことをしゃべってくれないの…」と泣いたのだ。私はびっくりした。どうしてって…お母さんが聞いてくれないからじゃないの…。そう思ったが言えなかった。
そんなこともあり、私は小学生から家ではあまりしゃべらない子どもになっており、中学になってからは母親の干渉も過激になっていったため、家の中ではほとんど口をきかなかった。それが母親の侵入から自分を守る術でもあったのだ。しかしそのことがまた母親の不安を煽ったのであろう。
本当は、私は母親に大声で怒鳴り、けんかをしたかった。しかしそれは恐くてできなかった。なぜなら、そうしたら母親が本当に狂ってしまうのではないかと思ったからだ。それくらい母親の干渉ぶりは度を超していた。母親が何とか正気を保っていられるように、私は極力母親を刺激しないようにした。そしてわずかばかりの反抗は口をきかないことでもあった。
このときの習性が夫との生活でも発揮されてしまったような気がするのだが…。
お母様との関係、うちと似ています。友達から母のことを怖がられていたとこも^^;大変だったんですね。そんなに過干渉にならなくても子供ってちゃんと育つと思うのですけどね・・・
両親が揃って普通に住む家があって・・・それでも何故機能不全家族に陥ったのか。やり方はどうであれ自分を育ててくれた親を悪く思う自分が嫌でその感情にけりをつけたい一心で色々心理学の面から社会的な面からと色々リサーチしてきました。「毒になる親」まだ全部読んでいないですが、あの本を知って楽になりました。親もまた完璧人間じゃないんだとわかるだけでも違いますね。
hachibe-さんのお母様も似ているところがあったのですね。
いや~、うちの母親は異常な心配性でした。
っていうか、強い不安症というか。
私もその後、少々おかしくなりまして(^^;)
自分の心理状態や親子関係について
いろいろと調べました。
30も過ぎてからですかね…
親も不完全な人間だったんだな~、なんて
思えるようになったのは。
私もそれで楽になってきましたよ。
親に自分を理解してもらおうなんていう
不毛な努力はもうすっかりあきらめました~(^^)
ウメより
「波動の法則」という本が出始めた時、「意志と意識の集合体」が肉体を借りて生まれてくる
と著者の講演会で聞きましたが、どんな縁で親子になったんでしょうね。
世界中の誰もが、見放しても自分だけは子供の味方でいたい。そんな親です。
異常な心配症、不安症はうちと同じです。
私の母もそんな気質の持ち主でした。
母は舅、姑、小姑達にいじめられながら
私と妹を守り、育てました。
父はモラハラではなかったけれど、手を貸さないタイプ。一切見て見ぬフリの男。
母のみが、いつも矢面に立たされもがき苦しみ
ながら、がんばっていました。
そんな私も結婚して父と似たような人と結婚して
満たされない日々を送っています。
そごく辛い時、別れて実家に帰りたいと言っても
母はけっして許してくれませんでした。
私も自分の人生を振り返る時、よく母との関係
を思い出します。
母は好きだれど、母のようには生きたくない。
父のように生きられれば楽だといつも思います。
とりとめもなくすいません。
又、お邪魔します。
夫さんの成育歴も「似てる!」と思いましたが
今回の記事で「母親は同じ人?」と思ってしまいした。
親の気に入るように振舞ったり、
弟(4歳下)とは違う子どもらしさをアピールしてみたり。
家庭の中で「ここの家の子ども」でいさせてもらうために
ありとあらゆる努力をしました。
母親の鬼のような形相は今でも憶えています。
(私が4歳くらいの時)
このときの自分自身の行動・言葉は
少し前の、夫に対する努力する私とリンクします。
こんな生育歴がモラを呼んだんですね。
今更ながら、哀しくなります。
知って欲しい事は無視
どうでもいい事は異常に執着する
結局自分の基準でしか生きられない
その基準から外れる事は自分の基本を揺るがされる恐怖なんでしょうね
完璧を求めすぎる親
子供は自分の一部となり、離れていても一体化をしてしまう
子供が犯した汚点は自分の汚点となる恐怖
全てが白か黒かで支配されてしまっている
ちょっと前の私のようです
お母様の気持ちが手に取るように分かる分かる自分が恐い気がしました
子供は自分の分身じゃない
今日も心に刻もうと思いました
考えさせられました
聞かせてくれてありがとう
親子って難しいですね。
特に子どもは母親への思いが強いから…
親は自分を正しく理解すべき、と思ってますし
母親は「私はわかっている」と自分の理解できる範囲で
子どもを知ったように思っている。
私の母親の場合、それはいつも
条件付だったように感じます。
私は子どもを持てなかったので、いつも
子どもの立場になってしまうのですが、
もし自分が母親になったらと思うと
どうなっていたのやら…コワイ気もします。
源平かずらさんの想いが切ないですね。。。
子どもはいつもそう願っているのだと思います。
親は最後まで自分の味方だと…。
ウメより
あんずジャムさんのお母様も
私の母親と似ているところがあったのですね。
そして苦労されていたのですね。
私も母親のようにはなりたくないと
いつも思っていました。
そして、父親のような男性がいいと…。
しかしそれがこんなことになってしまいましたが…。
私がモラ夫との関係を思うとき、
両親との関係が深く影響していることを
思い知らされます。
それでも、今は母親とは違う人生を歩めている自分が
ちょっと嬉しい気もしていますし、
母親と似ている部分を感じ、「ま、しゃ~ないな」と
思う自分もいます。
親子関係って複雑ですよね。
またいらしてくださいね。
ウメより
そうなんですか~。
あかねさんも弟さんがいらっしゃる…
私と共通項がけっこうおありなのですね。
私はよく思いましたよ。
私は母親のいいつけを守ってがんばっているのに
母親の言うことをよく守らない弟が
なんでこんなにひいきされているのか?と。
私は母親に愛されていないのか?と。
こんな想いがモラ夫に反映されたのではないかと
いろいろ考えました。
出会ってしまったものはもう変えようがないのですが
自分を振り返るきっかけになったと思って
今度は自分のために、明るい未来をつくれると
いいですよね!
ウメより
わたしも、「底意地が悪い」だの「性格が暗い」だの、夫から罵声を浴びせられて、家のなかにいたたまれず、ベランダの隅にうずくまって泣いていたとき、「あ、いまのこの気持ちは、子供のころ感じていた気持ちとおなじだ」と思ったものです。
母親から、「強情っぱり」だの「かわいくない」だのとののしられ、わたしの存在そのものまで否定されていましたから。
それにしても、モラというのは、人の弱点を嗅ぎつけて、いちばん痛いところを突くのがじつにうまいですね~。