こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

ある便り

2007-08-27 23:56:25 | モラハラエッセー(離婚後)
 私達は様々な人間関係の中で、いい関係を結ぶこともあれば、腹のさぐり合いのような関係もあろうし、時には折り合えない関係もあるだろう。そして、怒ったり傷ついたり悲しんだりする関係もあるだろう。
 私も多くの人たちと、いろんな関係や状況を体験してきた。人との出会いに恵まれ、沢山支えられたし、もちろん不愉快な関係もあった。

 原家族との関係は別として、私には、他人との関係で酷く傷つきのたうち回った経験が3度ある。ひとりは元夫。ひとりは元上司。いずれもこのブログ上で掲載しているモラハラの加害者達だ。
 そしてもうひとりはある友人だ。

 この友人は、仕事の取引先の会社に勤めていた派遣社員だった。数年前、たまたまある仕事で一緒になった。年齢が同じだったこともあり、以前夢中になった音楽や趣味の話しが一致して盛り上がり、その後、連絡を取り合って会うようになった。その友人とはいろいろな話しをした。家に泊まりに行ったこともあった。連れだってコンサートにも行った。私はその友人を心から信頼していた。

 しかしある時ひょんなことから、彼女は私から得たあまり公にできない仕事関係の裏情報を、自分の会社の同僚や上司に得意げに話していたことが発覚した。彼女の会社は私の職場の取引先であり、お互いの会社の情報については、慎重に取り扱わなければならない。些細なことから、信頼関係がこじれ、職場に損益をもたらすかもしれないのだ。
 私は彼女の軽率なおしゃべりに青ざめ、「そのようなことはやめて欲しい。私は友人だからこそ信頼して伝えたのであって、他人には伝えてほしくない。ましてや仕事関係者には話すことについてはルール違反ではないか」と、やんわり抗議した。
 しかし彼女は、その抗議の意味が理解できなかった。「お互いの職場を思って、必要な情報だから気を付けて伝えた」と言ったのだ。

 私はそのような考え方に心底驚いた。そして彼女は、個人的な関係における話しに対して、公私混同してしまう人だということがわかったのだ。仕事への姿勢も、価値観も違うのだろう。人間関係の持ち方も、実は私とは全く違うのかもしれない。そう思い至るまでも随分な時間を要したが。

 結局、私は仕事上の成り行きから、彼女の所属する会社の上司へ、「軽率に情報を(友人を介して)流してしまったこと」に対して謝罪に行ったのだ。それは非常に恥ずべき事であり、私自身の信用問題にかかわることだった。彼女が詫びるべき問題だったにもかかわらず、なぜ私がこんな屈辱的な思いをしなければいけないのだ…。私はその後、その会社に対してしばらく気まずく憂鬱な思いをもちながら仕事せざるを得なかった。
 しかし彼女はその深刻さに気づかず、またいつものように私に笑顔を向け、いつものように付き合おうとしたのだ。
 私はもう彼女に笑顔は向けられなかった。ただ不信感だけが膨らんでいった。一度は信頼しきっていた友人に対する自分の思いにも自己嫌悪を抱いた。できればまた仲良くつきあいたい、という気持ちもあったがもう無理だった。
 その相反する思いに自分自身も長い時間苦しんだし、友人からメールが来ても連絡をとらなかった。そのことすら苦渋の判断だった。

 いつしかその友人とは疎遠になったのだが…。
昨日、彼女が私のケータイにメールしてきた。私は慎重にそのメールを読んだ。彼女からの内容は、久し振りだということ、思い起こせば気になることをしてしまったこと、それを謝りたいし、友人としてまた会いたい、というものだった。

 あれから2年近くになるのに…彼女も気にしていたのか、と一瞬思った。同時に、当時のやりとりがまざまざと思い浮かび、不愉快な思いがどこからか湧き起こってきた。
 あの時、私の立場をまったく配慮しなかったあなたの言動に、どんなに驚き不快にさせられ、苦しめられたか…。
 会って話そうか、という気にもなりかけたが、すぐに会うのはやめようと思った。もう相手に合わせる必要はない。不信感を心のどこかに抱きながら、友人づきあいはできない。
もう私は誰に対しても無理することはないんだ。自分を押し殺す必要もないんだ。


 私が最も傷つけられたこの3人の共通点は、出会った頃は魅力的で好印象な人物だったこと。そして親密な関係となり、私自身が一度は心から信頼していること。
 それが…安心しきっていたら、背中からいきなりナイフでざっくりと切り裂かれるような仕打ちを受けるのだ。それはとても信じがたい出来事なので、なかなか受け入れられないが、恐るべき仕打ちはその後何度も繰り返されることになる。そして私は感じることが怖くなるのだ。あんなに親密な関係だった人からこんな仕打ちをうけるはずがない。これは現実じゃない。またいつものように優しい笑顔を向けてくれるはず…、と。


 最初から印象が悪ければ、不快な思いをさせられてもそれは当然のこととして受け止められる。思い入れがない人相手だったら、仕方がないとあきらめられる。

 この経験から私は思う。人を最も深く残酷に傷つけることは、信頼しきっている人物から、まるで信じがたい想像すらしなかった状況に貶められ、打ちのめされ引き裂かれるような仕打ちを受けることである、と。

 そう、世の中にはそのようなことをする人もいるんだ。私が悪いから相手が豹変するのではなく、相手自身がもつ問題のために、このような混乱し矛盾した言動を平気で行うのだ。これは私の問題じゃない。相手の問題だ。
 私は、変だと感じたら、その感覚に正直になればいい。私が傷ついたら、それは真実なのだから、感じないふりをしなくてもいい。


 仕方ないよ。そんな関係もある。でも私が気がついたなら、そんな関係はもういらない…。そんな関係をもってしまったことを責めるのではなく、気づいたら離れればいい。そう、私はいつだってそこから離れることができる。私はいつでも自由に選べるのだ。
 そうなんだよ、ね







「今」を生きるということ

2007-08-09 23:55:33 | モラハラエッセー(離婚後)
 私達はこの世に生を受けた瞬間から、自分の時間を生きている。意識しないまま時間を感じ、泣き、要求し、笑い、怒り、満たされてきた。それはすべて自分のものだった。
 そして自分を意識し始めた頃から、他者の存在を知り他者によって生かされている自分も発見する。そこから他者の欲望、他者の要求を自分の時間に組み込もうとしながら、それが自分の望みと拮抗する矛盾に苦しむことになるのだ。

 私が元夫と生活していた頃、私の頭の中は常に元夫で一杯だった。なぜか。

 例えば私が元夫と話したい、と思い話しかける。そうすると元夫は「おまえの日本語はおかしい」「俺がテレビを見ているのがわからないのか?」「そんなつまらない話しはどうでもいい」と反応する。すると、私はそのことで頭がいっぱいになってしまうのだ。ちゃんとした日本語を話さなくては…こういう言い方で大丈夫だろうか(まず言いたいことを復唱する)。今はテレビとか新聞を見ているから黙っておかなくては。この話題は話したら嫌がられるかもしれない…。こんな思いに囚われ続けることになる。

 この料理はおいしいし私も好きだ。だから夕食に作ろう、と思って夕食を用意する。すると元夫は「なんだこれ、まずそうだな」「食べたくない」「臭いが変、いらない」「俺にこんなモノを食わせる気か」と拒絶反応が返ってくる。するとまた私の頭はそのことでいっぱいになってしまう。このメニューで大丈夫だろうか…なるべく夫の好みのメニューを作ろう…。また怒るだろうか…。不機嫌になって怒鳴るかもしれない…。

 今日は職場の忘年会があり、元夫に帰りが遅くなることを了承してもらった。でもその時の元夫は不機嫌な顔をしていた。忘年会の最中も夫の顔色が頭に浮かび時計ばかりが気になってしまった。とても盛り上がっているが、そろそろ帰らないと元夫が大変なことになる。先に帰らせてもらおう…。

 このように、モラ元夫は私がよかれと思うこと、やりたいと思うことをことごとく否定することで、モラ元夫自身の考えや感情に私が支配されるようにし向けた。その方法は功を奏し、私は何をするにもまず元夫が何を考えるか、何が好みか、どのようにすれば機嫌を損ねることがないか、ということで常に頭をいっぱいにしていた。そしてそうすることで、元夫の機嫌を良くし、元夫からの愛情を受けようとしていたのだ。しかし、それを喜んでするのではなく、元夫への恐怖から、何とか元夫が怒らないように、と怯えながら元夫の望むものを必死に探っていたのである。

 
 私は元夫と生活しているときは、常に元夫のことに時間を費やしていた。何をするにも、どんな時間を過ごすにも、「夫だったらどう思うだろうか。こんなこと言ったら怒るだろうか」「出かけたいけど、夫が反対するだろうからあきらめよう」「夫はこの料理を食べてくれるだろうか」「また夫が無視した…なんでだろう」「こんな時間になってしまった…夫にまた怒られる」「夫はなぜ怒るのだろう」「夫にいつ話しかけよう…」「夫の足音が怒っている…どうしたら機嫌が戻るのだろう」
 こうして、私は自分の時間の殆どを、元夫のために使っていた。私は次第に自分を見失い、自分をおざなりにし、不毛な夫との関係に自分の時間を消耗していた。自分の時間…それは自分の人生だった。そう、私は自分の人生を自分のためにではなく、夫への愛情のためにでもなく、元夫から与えられる恐怖を必死でコントロールするために消耗していた。元夫の過去の言動を気にし、今日の言動に怯え、明日の言動について想像し不安になり…そう、私はまったく私自身のために時間を使えず、私自身を生きることができなかったのだ。だからもちろん、私自身の感情も想いも、希望も…押し殺し蓋をしていた。

 人は様々な人との関係の中で生きている。多分自分のためだけに時間を使っている人は殆どいない。家族のために時間を使い、仕事のために時間を使い、友人と過ごすため自分の時間を使う。しかしそれは、自分自身も必要としている時間なのだ。家族と心地よい生活を送るために自分と家族の分の料理を作る、家の中を掃除する。仕事のために時間を使っているのは、自ら選んだその仕事を通してお給料をもらって生活し、自分が社会で役割を持ち、仕事を通した様々な人間関係の中で自らが成長するため、でもある。誰かのために生きている、と言う時には、その人自身がその誰かを必要としているから、自ら欲しているから、その『自ら』を生きているのだ。
 それがもし、その『自ら』がなく、全く他者の欲望、他者への恐怖で自分が全く望まないのにロボットのように動かされているとしたら…あるいは自ら望んでいるのだと錯覚させられているとしたら…その行き先には自らの魂の死が待っている。
 私がモラ元夫と生活していた最後の方では、私の魂はかなり末期症状を呈していた。元夫の意味不明な不機嫌、罵詈雑言、に戸惑い、苦しみ、何とかいい関係を取り戻そうと努力したものの、私自身は繰り返されるモラハラにすっかり疲弊していった。そして常に暗い表情になり、常に怯え、恐怖に突き動かされながら日々を送り、そのうちに私自身の中にも夫への憎しみが生まれ、増幅し殺意をも抱いた。その先は破滅しかなかった。自分を見失うとは、ほんとうに恐ろしいことだ。


 先日、私は友人夫婦と一緒に花火を見た。少し前から約束をし、仕事が終わってから友人宅に向かった。そして友人夫婦と花火を見ながら、興奮し、手を叩き、花火への感動を思い思いに言い合い、食事をしながら時間を忘れて世間話をした。
 その時改めて思ったのだ。私は心から望んでこの場にいるのだ、と。誰に気兼ねもせず、誰に怯えることもなく、友人とともにこの時間を楽しんでいる。これが私自身の時間を生きる、ということなのだ、と改めて強く実感した。そうだ、思い返せば私は元夫と別居して以来、少しずつ自分の感覚を取り戻し、「私」が望むことを少しずつ実現していったのだった。そこで、はじめて自らを生きる、ということが少し理解できた気がするのだ。

 他人と過去は変えられない、と言う。変えられるのは自分と未来だ、と。
 過ぎ去った昨日のことはいくら思ってもどうしようもない。明日だって、実際に明日がくるかわからない。私達は常に「今」しか生きられないのだ。その「今」を精一杯生きるしかない。だから今、自分なりにできることをすることが大切である。それが明日へつながっていくのだ、とある人が話していた。これはお釈迦様の教えらしいが…。
 やはり自分自身を生きている、という感覚がなければ「今」を実感できないように思う。よりよい「今」を生きるには、「自分」が主体でなければならない。誰かのことで頭がいっぱいだったり、常に未来ばかり不安に思っていたり、過去のことばかり思っていても、それは「今」を生きていることにはならない。

 私達は「今」しか生きられない。その「今」は、常に私達の手の中にある。「今」はいくらでも変えられる。そして「今」はいつも私自身のものなのだ。
 モラやそのしがらみと離れた今、心から自分自身の「今」を感じている。

絶えず恐怖に怯える「今」、あるいは他人のことで頭をいっぱいにして「今」を生きるのか。自分で行動し満足し誰からも脅かされない「今」を生きるのか。
 
 そしてきっと誰もが自分の「今」を生きることがきる。気づきさえすれば…