思えば私は子どもの頃から、いつも我慢をしていたような気がする。半ばそれが習慣づいてしまったような、そうしなければいけないと思っていたような節がある。
私は両親の第一子だ。ただ正確に言うと、母親は私を産む前に一度流産していたらしい(このことは父親から聞いた。母親は自分から流産については一切言わなかった)。だから私が産まれるまでにはきっと普通以上の神経を遣ったことだろう。そしてよく言われることだが、第一子は若い親にとって初めての子育てなので、つい過剰に構い過ぎたり心配しすぎたりしてしまうらしい。私もその影響を多分に受けたと思う。
幼い頃、私は母親に何を言われていたのだろう。よく覚えていない。だがいつの頃からか、母親は年子で産まれた弟にかかりきりで、私に対して「しっかりしなさい」とか「こうしちゃだめ」ということをよく言っていたような気もする。こんな光景はどこの家庭にもあることだと思うのだが…。
いつの頃からか私はいつも我慢をしていた。特に思い出すのはトイレだ。幼稚園児だった私は、おしっこがしたくなってもいつも我慢していた。いつもぎりぎりになるまで我慢しているのだ。そして我慢できなくなり、トイレに走るが間に合わずよくそそうしてしまった。それがとても恥ずかしかったのだが、どうしても我慢しすぎてしまうのだ。その癖で便秘症にもなった。ついつい我慢してしまい、子どもの頃、1週間くらい出ないことはざらだった。母親は「あなたがもっと小さいときも便秘症でね。よく浣腸したわ」と言った。幼児の頃から我慢していたのか、私は…。この便秘症に後々まで苦しめられた。
欲しいものを我慢することも当たり前だった。食事のおかずも、まず嫌いなものから食べ、最後に好きなものを食べた。母親に何かが欲しいとねだっても、「我慢しなさい」と言われ続けた。私は時に泣いたりしたが、すぐあきらめるようになり欲しいと言わない子どもになっていた。お年玉をもらっても、親が「貯金しなさい」と言えばまったく使わず親の言うまま貯金した。洋服も私の好みは却下され、親がよかれと思うデザインや柄のものを与えられた。おやつも親がよかれと考えるものだけを食べさせられた。例えばスナック菓子禁止だったので、子どもの頃は家でスナック菓子を食べたことがなかった。他の家に遊びに行った時だけ口に入る憧れのお菓子だったのだ。
母親が怒っているとき、私は口答えもせずに黙って説教を受けた。母親の説教は長かった。何だかわからないが延々大きな声で私をなじるのだ。私は正座して母親の説教を受けながら何度も気が遠くなるように感じた。ある時などは、絨毯の上に正座して延々説教を聞いていたら、その絨毯が突如果てしなく広がっていくような錯覚に捕らわれ、驚いて泣いたことがあった。意識が朦朧とし、幻視を見たのだろうか?あれは不思議な感覚だった。そして私は母親が説教し始めると、空想を始め、その中で遊ぶようになっていた。そうすると母親が何を言っても遠くの音としか聞えず、少しでも辛さを紛らすことができた。
この癖は、元夫が私に向かって延々怒鳴っていたときにも発揮された。私は黙って聞く振りをしながらいつも別のことを考えていたのだ。そうしてモラストレスを緩和させていたように思う。
(ちなみに弟は私とまったく逆だった。欲しいものを手に入れるまで泣きわめき、好きなものは真っ先に食べ、嫌いなものを平気で拒絶した。お年玉をもらうと、それですぐ自分の欲しいものを買い、母親がそれをたしなめると暴れた。弟に甘い母親に私はいつも怒りを感じていた。)
そして私はいつの間にか、家では殆ど話さない無口な子どもになっていた。母親が「ピアノを習えば」と言えば「やってみる」と答えた。「そろばん習った方がいいわよ」と言われれば「そうかな」と言うとおりにした。そして習い事をし、練習をしても、心からやりたいと思っていないので、なかなか上達しなかったし、それを母親に責められ苦しかった。
私は自分が何を欲しているのか、何がしたいのかよくわからないときが多かった。それがまた私を不安にさせたが、それを表に出してはいけないと思っていた。何があっても我慢しなければならない。嫌なことがあってもそれを顔に出してはいけない。そう思い続けた私は、一見落ち着き動じない子になっていた。周囲の大人は「ウメちゃんは落ち着いているわね~」「しっかりしてる」と言い、友達は「ウメはいつも冷静だね」「慌てないよね」と言った。当時、私も自分ってそういう性格なのかなと思っていたが、後から考えれば全然違うのだった。心の中ではいつも不安でどうしていいかわからなかったが、それを我慢して見せないだけだったのだ。何かあれば動揺しても、行動に出せずただ固まっていただけだったのだ。そうやっていつも平気な振りをしていた。冷静な振りをしていた。
だから私は自分の考えや行動に自信が持てなかった。自分の意見をもつ、ということがよくできなかった。他の人たちの言うことをいつも客観的なふりをして聞いていたが、実は自分の判断や考えがわからず、うまく表現できなかったのだ。
それは話し方にも現われた。単なるおしゃべりの時はまだいいのだが、改まって自分のことを話すとき「こんなこと言っていいんだろうか…」と絶えず心のどこかで不安に思いながら話すものだから、小さい声でもごもご話してしまうのだ。相手はよく聞えず「え?」と言うと、私はますます自信がなくなってしまい「いや、なんでもない」と言ってしまうことも度々あった。
中学生の頃になると反抗期も相まって、ますます母親と話さなくなり、また母親の過干渉がたまらなく嫌になり心が壊れそうになる寸前、家から脱出した(『母からの脱出』)。家から離れることによって、いろいろなことを自分でしなければならなくなったため、随分鍛えられ自分を取り戻していったと感じる。しかしこの我慢の傾向は、後々の人間関係で少なからず影響を及ぼした。一番発揮したのは、やはり元夫との生活だろう。私は元夫との生活で、こんなに自分の課題が噴出するとは思いもしなかったのだ。
自分の家族との関係が、元夫に投影されていたな、と思うことは多々ある。それは今思うと笑えるくらいだ。象徴的だったのは、元夫と私の母親の誕生日が同じだったこと…。それを初めて知ったときは運命だと思ったが、それは…呪いだった(爆!)
やれやれ…
今、私は我慢しない大人になった。子どもの頃よりわがままになった。辛抱がきかなくなった。
おかげでベンピが治った…(爆)!
私は両親の第一子だ。ただ正確に言うと、母親は私を産む前に一度流産していたらしい(このことは父親から聞いた。母親は自分から流産については一切言わなかった)。だから私が産まれるまでにはきっと普通以上の神経を遣ったことだろう。そしてよく言われることだが、第一子は若い親にとって初めての子育てなので、つい過剰に構い過ぎたり心配しすぎたりしてしまうらしい。私もその影響を多分に受けたと思う。
幼い頃、私は母親に何を言われていたのだろう。よく覚えていない。だがいつの頃からか、母親は年子で産まれた弟にかかりきりで、私に対して「しっかりしなさい」とか「こうしちゃだめ」ということをよく言っていたような気もする。こんな光景はどこの家庭にもあることだと思うのだが…。
いつの頃からか私はいつも我慢をしていた。特に思い出すのはトイレだ。幼稚園児だった私は、おしっこがしたくなってもいつも我慢していた。いつもぎりぎりになるまで我慢しているのだ。そして我慢できなくなり、トイレに走るが間に合わずよくそそうしてしまった。それがとても恥ずかしかったのだが、どうしても我慢しすぎてしまうのだ。その癖で便秘症にもなった。ついつい我慢してしまい、子どもの頃、1週間くらい出ないことはざらだった。母親は「あなたがもっと小さいときも便秘症でね。よく浣腸したわ」と言った。幼児の頃から我慢していたのか、私は…。この便秘症に後々まで苦しめられた。
欲しいものを我慢することも当たり前だった。食事のおかずも、まず嫌いなものから食べ、最後に好きなものを食べた。母親に何かが欲しいとねだっても、「我慢しなさい」と言われ続けた。私は時に泣いたりしたが、すぐあきらめるようになり欲しいと言わない子どもになっていた。お年玉をもらっても、親が「貯金しなさい」と言えばまったく使わず親の言うまま貯金した。洋服も私の好みは却下され、親がよかれと思うデザインや柄のものを与えられた。おやつも親がよかれと考えるものだけを食べさせられた。例えばスナック菓子禁止だったので、子どもの頃は家でスナック菓子を食べたことがなかった。他の家に遊びに行った時だけ口に入る憧れのお菓子だったのだ。
母親が怒っているとき、私は口答えもせずに黙って説教を受けた。母親の説教は長かった。何だかわからないが延々大きな声で私をなじるのだ。私は正座して母親の説教を受けながら何度も気が遠くなるように感じた。ある時などは、絨毯の上に正座して延々説教を聞いていたら、その絨毯が突如果てしなく広がっていくような錯覚に捕らわれ、驚いて泣いたことがあった。意識が朦朧とし、幻視を見たのだろうか?あれは不思議な感覚だった。そして私は母親が説教し始めると、空想を始め、その中で遊ぶようになっていた。そうすると母親が何を言っても遠くの音としか聞えず、少しでも辛さを紛らすことができた。
この癖は、元夫が私に向かって延々怒鳴っていたときにも発揮された。私は黙って聞く振りをしながらいつも別のことを考えていたのだ。そうしてモラストレスを緩和させていたように思う。
(ちなみに弟は私とまったく逆だった。欲しいものを手に入れるまで泣きわめき、好きなものは真っ先に食べ、嫌いなものを平気で拒絶した。お年玉をもらうと、それですぐ自分の欲しいものを買い、母親がそれをたしなめると暴れた。弟に甘い母親に私はいつも怒りを感じていた。)
そして私はいつの間にか、家では殆ど話さない無口な子どもになっていた。母親が「ピアノを習えば」と言えば「やってみる」と答えた。「そろばん習った方がいいわよ」と言われれば「そうかな」と言うとおりにした。そして習い事をし、練習をしても、心からやりたいと思っていないので、なかなか上達しなかったし、それを母親に責められ苦しかった。
私は自分が何を欲しているのか、何がしたいのかよくわからないときが多かった。それがまた私を不安にさせたが、それを表に出してはいけないと思っていた。何があっても我慢しなければならない。嫌なことがあってもそれを顔に出してはいけない。そう思い続けた私は、一見落ち着き動じない子になっていた。周囲の大人は「ウメちゃんは落ち着いているわね~」「しっかりしてる」と言い、友達は「ウメはいつも冷静だね」「慌てないよね」と言った。当時、私も自分ってそういう性格なのかなと思っていたが、後から考えれば全然違うのだった。心の中ではいつも不安でどうしていいかわからなかったが、それを我慢して見せないだけだったのだ。何かあれば動揺しても、行動に出せずただ固まっていただけだったのだ。そうやっていつも平気な振りをしていた。冷静な振りをしていた。
だから私は自分の考えや行動に自信が持てなかった。自分の意見をもつ、ということがよくできなかった。他の人たちの言うことをいつも客観的なふりをして聞いていたが、実は自分の判断や考えがわからず、うまく表現できなかったのだ。
それは話し方にも現われた。単なるおしゃべりの時はまだいいのだが、改まって自分のことを話すとき「こんなこと言っていいんだろうか…」と絶えず心のどこかで不安に思いながら話すものだから、小さい声でもごもご話してしまうのだ。相手はよく聞えず「え?」と言うと、私はますます自信がなくなってしまい「いや、なんでもない」と言ってしまうことも度々あった。
中学生の頃になると反抗期も相まって、ますます母親と話さなくなり、また母親の過干渉がたまらなく嫌になり心が壊れそうになる寸前、家から脱出した(『母からの脱出』)。家から離れることによって、いろいろなことを自分でしなければならなくなったため、随分鍛えられ自分を取り戻していったと感じる。しかしこの我慢の傾向は、後々の人間関係で少なからず影響を及ぼした。一番発揮したのは、やはり元夫との生活だろう。私は元夫との生活で、こんなに自分の課題が噴出するとは思いもしなかったのだ。
自分の家族との関係が、元夫に投影されていたな、と思うことは多々ある。それは今思うと笑えるくらいだ。象徴的だったのは、元夫と私の母親の誕生日が同じだったこと…。それを初めて知ったときは運命だと思ったが、それは…呪いだった(爆!)
やれやれ…
今、私は我慢しない大人になった。子どもの頃よりわがままになった。辛抱がきかなくなった。
おかげでベンピが治った…(爆)!