こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

我慢の子

2007-03-31 22:06:05 | 私のこと
 思えば私は子どもの頃から、いつも我慢をしていたような気がする。半ばそれが習慣づいてしまったような、そうしなければいけないと思っていたような節がある。

 私は両親の第一子だ。ただ正確に言うと、母親は私を産む前に一度流産していたらしい(このことは父親から聞いた。母親は自分から流産については一切言わなかった)。だから私が産まれるまでにはきっと普通以上の神経を遣ったことだろう。そしてよく言われることだが、第一子は若い親にとって初めての子育てなので、つい過剰に構い過ぎたり心配しすぎたりしてしまうらしい。私もその影響を多分に受けたと思う。
 幼い頃、私は母親に何を言われていたのだろう。よく覚えていない。だがいつの頃からか、母親は年子で産まれた弟にかかりきりで、私に対して「しっかりしなさい」とか「こうしちゃだめ」ということをよく言っていたような気もする。こんな光景はどこの家庭にもあることだと思うのだが…。

 いつの頃からか私はいつも我慢をしていた。特に思い出すのはトイレだ。幼稚園児だった私は、おしっこがしたくなってもいつも我慢していた。いつもぎりぎりになるまで我慢しているのだ。そして我慢できなくなり、トイレに走るが間に合わずよくそそうしてしまった。それがとても恥ずかしかったのだが、どうしても我慢しすぎてしまうのだ。その癖で便秘症にもなった。ついつい我慢してしまい、子どもの頃、1週間くらい出ないことはざらだった。母親は「あなたがもっと小さいときも便秘症でね。よく浣腸したわ」と言った。幼児の頃から我慢していたのか、私は…。この便秘症に後々まで苦しめられた。
 欲しいものを我慢することも当たり前だった。食事のおかずも、まず嫌いなものから食べ、最後に好きなものを食べた。母親に何かが欲しいとねだっても、「我慢しなさい」と言われ続けた。私は時に泣いたりしたが、すぐあきらめるようになり欲しいと言わない子どもになっていた。お年玉をもらっても、親が「貯金しなさい」と言えばまったく使わず親の言うまま貯金した。洋服も私の好みは却下され、親がよかれと思うデザインや柄のものを与えられた。おやつも親がよかれと考えるものだけを食べさせられた。例えばスナック菓子禁止だったので、子どもの頃は家でスナック菓子を食べたことがなかった。他の家に遊びに行った時だけ口に入る憧れのお菓子だったのだ。
 母親が怒っているとき、私は口答えもせずに黙って説教を受けた。母親の説教は長かった。何だかわからないが延々大きな声で私をなじるのだ。私は正座して母親の説教を受けながら何度も気が遠くなるように感じた。ある時などは、絨毯の上に正座して延々説教を聞いていたら、その絨毯が突如果てしなく広がっていくような錯覚に捕らわれ、驚いて泣いたことがあった。意識が朦朧とし、幻視を見たのだろうか?あれは不思議な感覚だった。そして私は母親が説教し始めると、空想を始め、その中で遊ぶようになっていた。そうすると母親が何を言っても遠くの音としか聞えず、少しでも辛さを紛らすことができた。
 この癖は、元夫が私に向かって延々怒鳴っていたときにも発揮された。私は黙って聞く振りをしながらいつも別のことを考えていたのだ。そうしてモラストレスを緩和させていたように思う。

(ちなみに弟は私とまったく逆だった。欲しいものを手に入れるまで泣きわめき、好きなものは真っ先に食べ、嫌いなものを平気で拒絶した。お年玉をもらうと、それですぐ自分の欲しいものを買い、母親がそれをたしなめると暴れた。弟に甘い母親に私はいつも怒りを感じていた。)
 
 そして私はいつの間にか、家では殆ど話さない無口な子どもになっていた。母親が「ピアノを習えば」と言えば「やってみる」と答えた。「そろばん習った方がいいわよ」と言われれば「そうかな」と言うとおりにした。そして習い事をし、練習をしても、心からやりたいと思っていないので、なかなか上達しなかったし、それを母親に責められ苦しかった。

 私は自分が何を欲しているのか、何がしたいのかよくわからないときが多かった。それがまた私を不安にさせたが、それを表に出してはいけないと思っていた。何があっても我慢しなければならない。嫌なことがあってもそれを顔に出してはいけない。そう思い続けた私は、一見落ち着き動じない子になっていた。周囲の大人は「ウメちゃんは落ち着いているわね~」「しっかりしてる」と言い、友達は「ウメはいつも冷静だね」「慌てないよね」と言った。当時、私も自分ってそういう性格なのかなと思っていたが、後から考えれば全然違うのだった。心の中ではいつも不安でどうしていいかわからなかったが、それを我慢して見せないだけだったのだ。何かあれば動揺しても、行動に出せずただ固まっていただけだったのだ。そうやっていつも平気な振りをしていた。冷静な振りをしていた。

 だから私は自分の考えや行動に自信が持てなかった。自分の意見をもつ、ということがよくできなかった。他の人たちの言うことをいつも客観的なふりをして聞いていたが、実は自分の判断や考えがわからず、うまく表現できなかったのだ。
 それは話し方にも現われた。単なるおしゃべりの時はまだいいのだが、改まって自分のことを話すとき「こんなこと言っていいんだろうか…」と絶えず心のどこかで不安に思いながら話すものだから、小さい声でもごもご話してしまうのだ。相手はよく聞えず「え?」と言うと、私はますます自信がなくなってしまい「いや、なんでもない」と言ってしまうことも度々あった。

 中学生の頃になると反抗期も相まって、ますます母親と話さなくなり、また母親の過干渉がたまらなく嫌になり心が壊れそうになる寸前、家から脱出した(『母からの脱出』)。家から離れることによって、いろいろなことを自分でしなければならなくなったため、随分鍛えられ自分を取り戻していったと感じる。しかしこの我慢の傾向は、後々の人間関係で少なからず影響を及ぼした。一番発揮したのは、やはり元夫との生活だろう。私は元夫との生活で、こんなに自分の課題が噴出するとは思いもしなかったのだ。
 自分の家族との関係が、元夫に投影されていたな、と思うことは多々ある。それは今思うと笑えるくらいだ。象徴的だったのは、元夫と私の母親の誕生日が同じだったこと…。それを初めて知ったときは運命だと思ったが、それは…呪いだった(爆!)

 やれやれ…

 今、私は我慢しない大人になった。子どもの頃よりわがままになった。辛抱がきかなくなった。
 おかげでベンピが治った…(爆)!



母親への想い

2005-12-03 00:14:34 | 私のこと
 今年が始まったと思ったら、もう12月、年末だ。寒さがつのり、街路樹の枯れ葉を踏みながらダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで歩く。今は銀杏の明るい黄色い葉が、きりっと冷えた青空に映え、まぶしく見える。桜の落葉は朱色やオレンジ、山吹色など暖色のグラデーションで目を楽しませてくれる。もみじの燃えるような紅色もいいが、私は銀杏と桜の紅葉が特に好きだ。

 毎年この時期になるといろいろな想いが湧き起こる。もう1年、やっと1年…。昨年夫と別居し、年末年始は結婚して初めて実家でのんびり過ごすことが出来た。私は結婚するまではあまり実家に寄りつかなかったが、結婚後に夫との厳しい生活を経験した後は、やたら実家に帰りたくなった。静かな父親、鬱陶しいくらいおしゃべりな母親、そして30代になってから、やっとそんな母親と普通に、あるいは負けずにおしゃべりできるようになった私。今度の年末年始も実家に帰ろう。心ゆくまで眠って、ぼーっと過ごそう。

 かつて私は家にいるのが嫌でたまらなかった。早く家を出て暮らしたいと思っていた。過干渉で簡単に侵入してくる母親、マイペースで静かな父親。私は父親は好きだったのだが、母親の過剰な世話焼きと狂気を感じさせる心配性ぶりに、頭がおかしくなりそうだった。私が小学生のときも母親の心配性が鬱陶しくしんどかった。しかし私が中学生になったとき、更にその過干渉と病的心配性振りに拍車がかかった。そのころ、全国的に中学校は荒れており、校内暴力などがマスコミに注目されていたときだった。私の中学も「不良・非行少年少女」と呼ばれる生徒がおり「校内暴力」があった。私の母親の心配はピークに達した。私がぐれないように、不良の友人ができないように、悪い遊びを覚えないように、徹底して干渉、監視した。
 友人との交換日記や私自身の日記を盗み見、そして「あなたの考えていることはわかるのよ」とそれみよがしに言う。ちょっと不良っぽいと近所で噂されていた友人から電話がかかってくると(その頃はダイヤル式黒電話で、一家に一台という時代だった)、その電話を取り次いだ母親が、電話に出ている私に向かって「会っちゃダメよっ!」と大声で叫ぶ。母親と一緒に買った私服のスカートなのに、「やっぱり丈が長すぎる」と知らない間にスカートを短く切ってしまった母親(当時はスカート丈が長いのが不良でしたから…しかしこんな制服ファッション、今や化石?)。そして、私の帰りがちょっと遅くなると、私の友人宅あちこちに電話をかけまくる母親。私はこの母親の尋常でない干渉振りに気がおかしくなりそうだった。どんどん侵入してくる母親に反抗し、ひたすら口をきかずにいることが、自分を守る術だったのだ。私は私を理解しない母、私に侵入する母、自分の価値観で私を縛ろうとする母、私を支配する母、自分の思うとおりにいかないと激しく私をなじり説教し続ける母…そんな母を恐れ、憎悪した。本当の私を認め理解してくれない母が、悲しかった。同時に私から見て狂気にも似た母親の行動を恐れ、母親を刺激しないようにと、言いたいことも言えずにぐっと我慢して黙っていた。そんな想いを私は随分長い間抱えていた。
 母親から見たら、私という娘は何かと反抗し、むっつりと黙り込み、いつも難しい顔をしているかわいげのない憎らしい娘だったと思う。

 思えばモラ夫はそんな母親に似ていた。尋常でない過干渉と支配と。

 そんな母親と少しずつ話しができるようになったのが、私が就職して家を出て一人暮らしを始め、しばらくしてからだった。自分も生活することの大変さを知り、家庭を切り盛りする母親の苦労を少しだけ察することが出来てから、やっと母親と話せるようになった。ただ、その頃は母親が少しでもうるさいことを言うと、私は非常に感情的に反応した。かつて言葉で言い返せなかった、感情を出せなかったことを取り返すかのように。

 しかし、母業は大変だ。今の私の年齢で、母親はちょうど中学に上がった頃の私を育てていた。偉いな~。もし私に娘がいて、反抗されまくったら「キィ~~~ッ!!」と怒り狂ってばっかりいるだろう。母は、自分の器で、そのときによかれと考えたことで必死に子育てをしていたのだろう。母も不安と恐れを抱きながら。

 娘に嫌われても憎まれても、私を育てた母。
 私はようやく、母への憎悪が、いつのまにか私から離れ消えていたことを感じるのだ。でもね、今の距離がいいんだろうな~、と思う。一緒に暮らしたらきっと大変。親子も適当な距離があったほうがいい。そうして、お互い思いやれる時がたまにあるといい。

 今年も実家に帰ろう。そして、こたつで寝っ転がって、モラ夫といるときは決して観なかった紅白歌合戦でものどかに観ながら親とおしゃべりしよう。親がみかんを食べる横で、親は飲めないお酒を「飲み過ぎちゃだめよ~」と母親に干渉されつつ、ひとりで飲みながら。

体の異変

2005-11-05 20:27:34 | 私のこと
 夫の不機嫌や無視に怯える日々が続く。私は常に憂鬱な気分に苛まれ、難しい顔をしていた。仕事をしていても重い気分がとれずお客さんに笑顔を向けることも苦痛だった。嫌なことは重なるもので、その頃、モラ上司から嫌がらせを受けており、それも憂鬱な種だった。そして退社の時間が近づくと手が震え冷や汗が出た。夕食のことを思うと恐怖で頭がしびれるようだった。

 ある日髪の毛をさっぱりさせようと、美容室に行った。シャンプーをした後、カットするために美容師さんが頭の上の髪をピンで留めたとき、いきなり「お客さん、知ってましたか?」と聞く。「何がですか」と応えると、言いにくそうに、「こことここ、髪が抜けているんですよ…」と話した。「え?」と言って鏡を見ると、右のこめかみ部分と、後頭部に丸く白い肌が見えた。これは分け目じゃなかったの?え?と自らに問いながら今一度鏡を見ると、やはりハゲている。えーーー!?これってもしかして円形脱毛症ってやつ??私はショックだった。美容師さんが「わからないように、髪の毛が被さる形でカットしておきましたから」と言ってくれたが、「はい」と返事をしつつ衝撃を受けていた。家に帰ってから髪の毛をかきあげ、鏡を何度も見た。やはり二カ所ハゲている。
 普段、私の髪の手入れは自然乾燥とワックスですませていたので、まったく気づかなかった。
 それにしても私は元来、楽天的な性格だと思っていたので、悩みやしんどさが体に現れることはないだろうと勝手に思いこんでいた。まさか自分が円形脱毛症になるとは…!信じられなかった。これはいったいいつ治るのか。もっとハゲるのではないかと不安が増大する。

 夫が帰ってから、思わず私は夫に訴えた。「円形脱毛症になったんだよ、ほら、見て」と見せると、いつもなら冷たい返事をする夫がぽつりと「俺のせいかな」とつぶやいた。それにも驚いた(いつもなら無視するのに…?)。
 俺のせいだとおもっているんだったら、ちっとは日頃の態度を反省しろ~~!!と叫びたくても叫べずに夫の前で黙っていた。

 実は以前から別の症状が出ており、それも気になっていた。ここ数年、ずっと不正出血が続いていた。この手の病院に行くのは気がすすまず、なかなか足を運ぶことが出来ずにネットで情報を集めては「私のは大したことはないだろう」と自己診断していた。しかし徐々に不正出血量が多くなり、生理時の出血も不安になるほど増えていた。ちょうどその頃、友人が子宮癌になったことも知り、他人事ではないと青ざめ、漸くおしりに火がつき病院に足を運んだのだった。
 検査の結果、不正出血はホルモンバランスが崩れている結果で、重大な病気ではないということだった。医者が言うには、私はストレスが婦人科系に現れるらしい。そして一つの診断が下された。子宮筋腫が3つできている、ということだった。今は手術の必要はないが、要観察で筋腫の成長を抑える薬をしばらく飲み続けることになった。また出血の増量は筋腫が原因で、ある程度は様子をみるしかない、と言われた。

 これについては、以前に夫に伝えていたのだが、夫は例のごとくあまり関心を示さなかった。私はそんな夫の態度に怒りを覚え、『私が癌になっても夫には相談しないで、突然入院あるいは突然死んでやる!』と不穏なことを思ったものだった。
 しかしこれまた驚いたことに、夫は自分の友人には私の筋腫のことを相談していたらしい。あるとき、その友人から夫あてに電話がかかってきた。私が夫の不在を伝えると「奥さん、大丈夫?この前あいつから電話があって奥さんのこと心配していたよ」と話した。私は仰天した。私の前ではほとんど同情たる態度を見せなかったのに、友人には何だ!心配しているだって?!夫が体を求めてきたときに、「今不正出血があってできない」と言ったら、私に向かって「俺としたくないからそんなこと言うんだろう!」と鬼のような顔をして怒鳴った夫が…。妻の体の心配より、自分の欲求を解消させることしか頭になかった夫が!電話を切った後、更なる不信感と溜息しかでなかった。

 とにかく子宮筋腫、円形、と続いたため夫も少しは何かを感じたらしい。その後1ヶ月くらいは穏やかな態度の夫だった。私はこんな日々が続きますように…と願っていた。

空を見上げて

2005-10-23 15:56:04 | 私のこと
 青く澄んだ空に映える銀杏並木(時にはムッとするような銀杏の臭い)、金木犀の香り、そんな秋の空気が好きだ。
 この前とてもきれいな夕焼けを見た。山肌に沿ってきらめく橙色の光、群青色の垂れ幕が空を覆い始め、そのコントラストの中、三日月と金星が浮かんでいた。涙が出るほど、吸い込まれそうにきれいな空だった。

 私は辛い気持ちになるとよく空を見上げた。10代後半の頃、自分への嫌悪感や将来への不安、母親との葛藤、大人への不信感と甘え、友人や恋愛関係での葛藤などで精神的に不安定になるとよく空を見た。特に夜空の星を見上げた。「宇宙から見たら私なんてちっぽけなもの」「神さま、私はどうしたらいいの?」などと空に語りかけていた。私は特定の宗教を信じているわけではないが、自分の意志ではない何か大きな存在が(それが神さまという名でも、偉大な存在でもいいのだが)あるのではないかと思っていた。自分がなぜこの時代に、日本に、ある特定の地域に、この親の元に生まれたのかは、当然だが私の意志とは一切かかわりがない。偶然の出会い、偶然の出来事の連続で導かれているように感じることもよくあった。もちろん、そこには私の意志も行動も介在するわけだが、まったくが私の思い通りに行くわけはなく、後から考えると「そのときうまくいかないように見えても、これは必然だったのか?」とか、「この出会いがなかったら人生もっと違っていた。この出会いで私は生かされた」なんて思うこともあったのだ。といっても、これも自分の都合のいい意味づけかもしれないが。
 だから私はどこにいるとも知らない、何か自分を超えた大きな存在に向かってよく語りかけた。解決の道が告げられるわけもないのだが(当たり前!)そうやってしばらく星に向かっていろいろ考え事をしていると心が落ち着いた。たまに流れ星を見ると何かいいことがある予兆ではないかと心慰められることもあったものだ。

 結婚した後も、私はよく星空を見上げた。夫から罵倒され心が真っ暗になったとき、夫が寝静まった後、夫を起こさないように細心の注意を払いつつ、ベランダに行きそこの手すりにもたれて星空を見上げた。「この生活はいったい何なんだろう」「夫はどうして怒ってばっかりいるのか」「私はどうしたらいいの?」と星空に語りかけた。そんなとき、誰かから教えてもらった「神はその人が耐えられないような試練は与えない」という聖書の言葉をよく思い出した。「きっとこれは私の試練なんだ」「人生の修行なんだろう」「でも神さまは耐えられないような試練は与えないというから、きっと私は大丈夫」「明日になればこの状況も変わるかもしれない」と必死に自分に言い聞かせた。

 夫のモラハラがどんどん酷くなり、ぼろくそめちゃくちゃに言われ、絶望的な気持ちになったある日、私は眠れず夜中にベランダに出た。満月が光っていた。私は思わず「おとうさーん、おかあさーん…」とつぶやいていた。その瞬間どっと涙があふれ、しばらく止まらなかった。
 私はそんな自分に驚きもしていた。私は10代後半からずっと家を出たいと渇望していた。過干渉の母親に耐えられず、その葛藤で随分苦しい思いをしてきたからだ。だから働き初めてからすぐ家を出、一人暮らしを長くしてきた。ホームシックになるなんてこともまったくなかったのだ。それなのに、あのときは思わず親を呼んでいた。きっとその時の私は、夫から力を奪われ、無力な赤ん坊のような心境だったのかもしれない。自分を守ってくれるはずの夫はただ私を痛めつけるだけだった。だから私は迷子になってひとりぼっちになり、不安におののく子どものように親の庇護を求めたのだろうか。

 この前、夜道を帰りながら空を眺めた。半月が浮かんでいた。
 「私はこれからどうなるのかな」「こうやってずっとひとりで生活していくのかな」「ひとりで生きていくことができるかな…」そんなことを考えた。

 そして、モラ夫との生活は人生最大の試練だったように思うので、「どうかお願いだから、もうこれ以上の辛い試練は与えないでくれ~…」と私は空に向かってつぶやいていた。     

夫への想い

2005-10-17 23:06:46 | 私のこと
 このブログでは、夫へのモラハラ振りを暴露している。それは私自身が他の方々のモラハラ体験をネット上で知り、非常に励まされ力を得たこと、そしてブログであれば誰にも言えなかったモラハラについて伝えられること、そして自分の体験を整理すると共に他の方々の励みにもなればと思う気持ちから始めたことである。ブログというのはある意味不思議なメディアだ。私は誰にも言えなかったモラハラ体験を、匿名ブログというメディアを通して不特定多数の方に公開している。そして最も近い夫から得られなかった「共感」を、最も遠い、顔も知らぬ方々から励ましや共感をいただく不思議。

 私は親にも親しい友人にも、夫のモラハラを詳しくは言えなかった。夫のモラハラ振りはあまりにも私の想像を超え、モラハラを受けた私自身がとても受け入れ難かったからだ。このことが現実とも思えなかった時期が長かった。また、私の夫がそのような恐ろしい存在だと身近な人には言えなかったのだ。なぜなら、私自身が夫と幸せな結婚生活を築けなかったという負い目や、お互いの関係を維持できなかったことに対して努力不足と評価されることの恐れ、そして私がそんな変な夫を選んでしまったのかという劣等感と、私自身があまりに惨めな存在として貶められていることを知られたくなかった。

 私は、夫から本当に酷い仕打ちを受けたと思っている。結婚して、最愛の伴侶になろうと思いきや、最悪の同居人となった。夫は私を散々こき下ろし、未だかつて私の経験してこなかった、最低最悪の人間関係となった。誰にも言われたことのない、冷酷非情な言葉を夫から投げつけられた。そして、その罵詈雑言により、私は夫から見たら史上最低人間になりはてた。私がもっていた人間関係の中で、ここまで暴言を吐かれた関係は夫のみである。こんなに冷酷無比に、ありったけの憎悪を込めてぼろくそ言われたのは、夫との関係だけである。

 しかし私は夫が言うように、最悪最低人間だったのか?私はそうではないと思っていた。
 私は私なりに、自分の意志を持ち人生を生きてきたと思う。信頼のおける友人もおり、結婚前から仕事もしていたし、結婚後、新しい土地に住みながらもすぐ職場を見つけた。仕事に対してはそれなりにやりがいを持ち、責任あるポジションにも着き、少しずつ親しい人間関係を作っていった。私はある程度、人生に自己肯定感を持っていた(持てない部分もあったが)。
 それなのに、私は夫からはいつも「NO」を言われていたのだ。
 
 私は夫が好きだった。ユニークで優しかった夫。私に料理を作ってくれ、私に心温かいプレゼントをしてくれ、私が昼寝をしていたら毛布をかけてくれた夫、私の仕事を応援してくれた夫、私の友人をもてなしてくれた夫、一緒にお酒を飲みながらおしゃべりした夫、おいしいレストラン連れて行ってくれた夫、感情的だったけど感激屋だった夫…。
 結婚前は特に楽しい時間が多かった。たまに癇癪があっても、私が抗議すればすぐ夫は謝り、それも楽しい思い出だったのだ。

 結婚した後、それが徐々に変わっていった。毎日の生活はいつしか夫の顔色を窺う日となった。生活の時々でモラル・ハラスメントが続発し私は混乱するばかりだった。私は鋭い言葉の刃で傷つけられながらも、「きっと私の思い過ごしかもしれない」「たまたま機嫌が悪かったんだろう」「私がもう少し努力すればいいのだろう」[夫は生まれ育った家庭環境が大変だったから、仕方ない。夫も苦しんでいるんだ」「私も不完全な人間で、至らないことがたくさんある」「夫は優しいときもあるし」とある時まで思い続けた。しかしあまりにも酷い攻撃を受け、私は帰宅恐怖に陥り、生きているのさえ辛くなってきた。
 「明日死んでもいい」「ここで自動車がつっこんでくれれば」とも思ったし、発作的にマンションから飛び降りたくなったこともある。夫に責められ「そんなに私が悪いなら、私がいなくなればいいんでしょう?私が死ねばいいんでしょう?」とさえ思った。
 どうしていいかわからなかった。私が努力してもしても夫は不満だった。そして冷たい目で私を見た。あんな冷たい目…私はいつか夫に殺されるのではないかと感じた。ある親しい友人に冗談交じりで言ったことがある。「私が殺されたら、まず夫を疑ってね」と。
 そして結婚生活8年目で私はこころの限界が来たことを悟った。もう長い間夫婦らしい会話も思いやりも全くなかった。ただ冷たい憎しみの空気が室内に漂うばかりだった。私ももう何をする気力もなかった。もうとにかく夫の気配を感じないところに行きたいとの思いばかりだった。夫も私に対して憎しみの目を向け、私も夫への憎悪が募り、このままではいつかお互いに殺すか殺されるか、という事態にまでなってしまうのではないかという危機感が非常に高まっていた。ここで何とかしなければ、私はもう自分で無くなる、自分を本当に見失ってしまう…!

 そして私は死にものぐるいで脱出した。一見穏やかな脱出劇となったのだが、私は当日まで必死だった。これを成功させなければ、もう私は本当に壊れてしまう…!
 
 別居は実現した。今は夫から殆ど連絡はない。現在はまだ別居中なので夫の籍には入っているのだが、すぐ住民票も移した。もう100%、夫と生活する可能性はない。だから早く離婚すればいいのだろう。しかしまだ夫とは接触したくない。話したくもない。姿も見たくない。下手に刺激して、今の私の平和な生活を脅かしたくない。
 そして、あの結婚まで夫と積み重ねた日々、親しい人達だけを招いて行った心温まる手作りの結婚式、苦しみながらも何とか生きてきた結婚生活…私の想いが詰まったこれらの日々が、離婚によってすべて無になってしまうような虚しさと深い喪失感。それを思うと、私はただただ、立ちつくしてしまうのだ。

 まだまだ私のこころのかさぶたは柔らかくて、やっと血が止まったばかりで、ちょっと突かれるとすぐ破けてしまう。こうしてブログを書きながら、思わず涙がこみ上げてきてしまう。この涙は何なのか。夫の優しさと残酷さとに翻弄された混乱と虚しさ、モラハラで叩きのめされた孤独と絶望、夫と結婚生活を築けなかった深い喪失感、私の人生が全く否定された苦しみのせいなのか。
 本当は、夫と笑ったり怒ったり、泣いたり楽しんだりして、一緒に暮らしたかった。お互い生の歴史を一緒に刻みたかった。お互い慈しんで生きていきたかった。でもそれはもう叶わぬ夢。それを何度も何十回も、嫌と言うほど突きつけられた。もうあの恐怖は二度と、二度とごめんだ。あんな奈落の底に落とされるような悲しみも、血を吐くような苦しみも、泣き出したくなるようないたたまれない焦燥感も、2人でいることの厳しい孤独も、絶望も、もう二度と味わいたくない。もう二度と…。