こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

麻痺

2006-10-01 00:05:42 | モラハラが生まれた背景とは
 子どもの頃にはあまり自覚がなかったのだが、後になって私は随分母親の顔色を窺っていたんだと思い起こすようになった。母親が受け入れられる話しを注意深く選び、受け入れられそうにない話しは絶対にしなかった。本当はいろんな話しをしたかったのだ。もっといろいろなことを聴いて欲しかった。
 しかし、母親にとって受け入れられないことを話したら、どうなることか。過剰に反応し、ヒステリックになり「そんな話しをするな」「そんなこと考えるな」と否定するか、なかったことにするか、である。恋愛や彼氏について母親に相談したり、話したりすると言う友人がいた。私は驚愕した。そんなことを話して聞いてくれる母親が世の中にいたんだ!?そんな話しは母親には絶対タブーだった。

 母親は、特に性に関することにはひどく拒絶的反応を示した。例えば家族でテレビを見ている。そのドラマや映画の中でベッドシーンが出そうになると、即座にチャンネルを変えた。私は子ども心に、こういうことはいけないんだ、と思うようになっていた。
 あれは確か私が小学3年生の頃だ。友人と2人で、住宅地のはずれにある空き地で遊んでいた。すると、中年の男がいつのまにか立っていて、「あっちの方に子猫がいたよ」と遠くを指さした。私と友人は男と一緒に子猫を見に行くことにした。男について雑木林の方まで歩いたがなかなか見つからない。私は不安になってきた。友人に帰ろう、と声をかけようとしたところで男に腕をつかまれた。そして下着の中に手を入れられたのだ。私はびっくりして手をふりほどき、無我夢中で走った。友人のことも忘れてしまった。すると後ろから友人も走ってきた。「早く逃げよう!」そして私達は必死になって住宅地へ戻った。私達は無言だった。友人も同じ事をされたのだろう。私は思わず友人を置き去りにして走り出したことにひどく罪悪感を抱いた。このことは2人の秘密となった。私達はその後、この事件についていっさい話し合うことはなかった。

 私は、家に帰った後しばらく呆然としていた。母親はいつものように夕食の支度をしていた。
 怖い。またあの男に会ったらどうしよう。あれは何だったんだろう。でもこのことを母親には言えない。言っちゃいけない。言ったら私が怒られるだけだ。私は母親が忌み嫌うようないけないことをされてしまったんだ。悟られてはいけない。いつものように振る舞わなくては…。
 そして私は感情を麻痺させた。

 私は嫌なことがあると、感情を麻痺させ、何でもないように振る舞うようになっていた。母親がヒステリックに長々と説教をする時も、こころを麻痺させていた。無表情に座りながら、頭の中では違うことを考えるか、思考停止状態になっていた。
 私は他の大人から、よく「落ち着いた子だ」とか「動じない子」と言われていた。そう、何かあっても私はいつも落ち着き払っているように見えた。しかし実際は、感じないようにしていただけだったのだ。感情を麻痺させ、何でもない出来事なんだと思いこむことでやり過ごそうとした。麻痺させていたから、とっさに言い返すとか、怒りや悲しみの感情を表出させるということもできなかった。ただ固まっている状態なのだから。
 だから、もし危険な出来事に遭遇しても、私はとっさに叫ぶことができるだろうか、と心配になるときがある。思考停止状態になり、固まっているだけなのではないだろうか、と思ってしまうのだ。

 以前CAP(子どもへの暴力防止プログラム)の講演を聞きに行ったことがある。そこでは、もし大人から嫌だと思うこと(性暴力など)をされそうになったら、お腹の底から「おー」と声を出して逃げる、ということを話していた。そして、何人かの参加者が実際にその声を出して体験する時間があった。それを見た瞬間、私の目から涙が溢れた。あの忌まわしい事件の時に、声も出せなかった自分を思い出した。こんなふうに教えてもらっていたら…。また講演では、もし被害に遭ってしまったら信頼できる大人に話すこと、聞いた大人は子どもを責めたりせずにしっかり受け止め信じること、等の話しがあった。
 私は誰にも言えなかった。親にも。誰にも。親に言っても優しく受け止めてくれるなんてことは考えられなかったし、多分親は被害にあった私を責めるだけだっただろう。「知らない人についていったからだ。もう二度とそんなところに行ってはだめ」と。私はただ、いけないことをされた悪い自分、と思いこんでいただけだった。

 今こうしてブログに綴っていたら、泣けてきた。我慢していた子どもの私。怖かった思いを封印してしまった子どもの私。そんな我慢がいろんなところで発揮されてしまったよね…。


 もう我慢するのはやめよう。怖いことは怖いと、悲しいことは悲しいと、嫌なものは嫌と、感じたことをしっかり意識しよう。私はきっと、私自身を守ることができると信じて…。



母親への怒り

2006-09-23 23:22:16 | モラハラが生まれた背景とは
 こうして高校は、親元離れた寮生活を送ることになった。寮は個室がなかったので、同室者との関係で苦労したり、生活上の規則など、面倒なこともあった。それでも私は母親から離れたことで、随分気が楽になっていた。他の友人はホームシックになったりしていたが、私は全くならなかった。私が寮付の高校に進学できたのは、神さまが私を救ってくれたからだと思っていた。そうでなければ私は心が病んでいただろう。そのくらい母親との生活はきつかった。
 また、私が新鮮だったのは、寮では自分で自分の行動の責任を取らなければいけない、ということだった。『自分で自分の行動の責任を取る』これは多分当たり前のことだとも思うのだが、今まで私の母親は、いつも侵入的に私の世話を焼いていた。私がぐずぐずしていると、脇から私のやることを奪い取った。例えば家庭科の宿題でパジャマ作りが出た。私が放置しているとさっさと母親が縫ってしまった。「見ていられない」と。私が部屋をちらかしていると、母親はさっさと片付けた。ご丁寧に机の引き出しをくまなく探り、友人との交換日記まで覗いた。お陰で私は家では何もしないだらしない娘になっていた。
 それが、寮では自分で自分のことをしなければならなかった。ある日、私は朝のんびりしていたせいで遅刻しそうになり、慌てて制服に着替え、洋服を脱ぎっぱなしで床に散らかして登校した。授業が終わり、自分の部屋に帰ると服はそのまま散らかっていた。私は恥ずかしくなり慌てて片付けた(もし家だったら母親がさっさと片付けている)。このようなことがあったことから、私は自分に責任をもって行動できる力を養ったのだと思う。家にいたら私は何もできないまま大人になっていただろう。うまくいかないことはそれこそ他人のせいにしていたかもしれない。

 高校も夏休みや冬休みなど長期休暇があり、その時には帰省した。すると、母親は久々の再開に喜び、いつになく優しかった。私はそれが嬉しかったものだ。たまにあえば母は優しい。しかし夏休みも終盤になるといつもの口うるさい母親になっており、辟易しながら寮に戻ったものだった。

 こうして、高校生活では母親とたまにしか会わなかったので、私は母親との問題を棚上げしていた。母親との関係は、大方解決したのではないかと錯覚するほどだった。
 (母親は私が寮生活を送っていた間、すべてのエネルギーを弟に注いだようだ。弟への過保護過干渉が度を超し、弟は一時ぐれ、警察に補導されたりしていた。)

 問題は高校を卒業後に起こった。
 卒業後、私は実家に戻り、家から大学に通うことになった。そして母親との生活を再開。私は以前より更なる息苦しさを感じるようになる。中学生の頃からぐっと我慢していた母親への怒りが一気に噴出したような感じだった。母親にちょっと触られただけで全身の鳥肌が立った。些細なやりとりで感情が溢れて止まらなくなり、母親の前で大声を上げ泣いた。母親への怒りと愛着で心が引き裂かれそうになっていた。そして過食気味になったのだ。食べても食べても満たされない。私はよくお菓子類を買い込んで自分の部屋で密かに食べていた。お腹がいっぱいなのに、口寂しくつい口に入れてしまう。ついに10キロくらい太ってしまった。これではいけない、このままでは私がだめになってしまう…。私はなるべく家から離れていようと、土日はバイトを入れることにした。また、長期の休みなどはペンションに住み込みのバイトに行った。スキー場にあるペンションの住み込みバイトは大変だったが楽しかった。お料理を教えてもらったり、空いている時間にはスキー場で滑らせてくれたして、仕事以外でも楽しむことが出来た。こうしてなんとか大学生活を終え、就職する。職場は家から2時間ほどかかったが、通勤できる距離だったので、少しの間は家から通っていた。

 就職し、お給料をもらったとき、私は少し心が軽くなった。今まで親に文句を言いながらも親の世話にならなければ生きていけないという矛盾に自分自身苦しめられてきた。それが、お給料をもらうことで、家に生活費として3万入れ、あとは自分の自由に使えることが、親への罪悪感を軽減させたのだ。この経験から経済的自立は自分にとって、とても大切だと実感する。
 そして私は何とかひとり暮らしをしようとした。母親に「ひとり暮らしがしたい」と言ったら、「女の子のひとり暮らしはあぶないからダメ」と即座に否定された。職場は家から通える範囲だったが通勤時間に2時間かかり、朝の恐るべきラッシュで通勤ノイローゼにもなりかけていた。そのとき、弟がある専門学校に通うことになったが、その学校が私の職場の近くでもあったので、それを理由に弟と同居するという条件で親を説得し、家から脱出することが出来た。

 弟との同居はこれまたいろいろと大変で、兄弟ですら同居は苦労するんだと身に染みた。弟とは基本的に仲はよかったのだが、弟が彼女をつれこむようになってからは非常に疲れてしまった。そのことに文句を言う母親と、彼女の母親との間に入ったりしながら、姉の監督不行届みたいに責められることが耐えられなかった。その後、弟とも別々に暮らすようになり、やっと私はひとり暮らしができるようになったのだ。それ以後は親とはずっと離れて生活している。寮生活時代を加えたら、親から離れて生活する年月のほうが長くなった。

 30代になって、ようやく母親と普通にしゃべれるようになった。それは母親に私自身をどんなに理解してもらおうと思っても、無理だということを何回も何回も突きつけられたからだった。いつも母親流の解釈で断罪され、それでまた怒りが湧き起こる。もう無理なんだ…。母親を変えることはできない…。母親の受け入れられる範囲の話しをしよう、と思った頃から憎しみの呪縛から少しずつ解かれていった。時折母親から我慢ならない発言を投げつけられるときがある。それに対しても文句を言うことが出来るようになってきた。お互いに年取ったこともあろう。
 しかし、母親と同居しようとはもう思わない。新幹線と在来線を乗り継いで5時間くらいのこの距離が、私と母親を平和に保つ距離なのだ…そう思う。

 こうして母親との問題はそれなりに沈着していったと思っていたが、実は別の方向へ転化されてしまっていた。

 私は夫との関係に、母親や父親との関係を投影していたのだった。



母からの脱出

2006-09-17 12:32:17 | モラハラが生まれた背景とは
 母親というのは、子どもにとって時別な存在なのだろう。子どもは自分を生み、育て、守り、受け入れてくれる存在が母親だと思っている。私も、母親とは常に私を受け入れ、私をありのまま理解してくれるものだと思いこんでいた。それなのに、母親は常に私の気持ちを無視して自分の思い通りに育てようとし、母親の求める理想の子ども像にあてはめようとし、それに応えられなかったら私は「悪い子」として断罪される。母はよく私が思い通りにならないと「私はそんな子に育てた覚えはない」と言い、よそ様から私がほめられると「私の躾が良かったからだ」と言った。いつも母は自分のことだけだった。母はどうして私を受け入れてくれないの?どうしてそのままの私を理解してくれないの?どうして母は自分の都合のいいところしか私を見てくれないの?どうして私の境界線を越えて侵入しようとするの?
 中学生のとき、私はそんな思いでいっぱいだった。また当時『母源病』という本を見つけた。母親の過干渉や、間違った教育熱が、子どもに喘息をおこさせたり精神不安定にさせるという本だった(今私は、この概念には少々問題があると考えている)。そこで母親の行動はやはり間違っている、と確信をも抱いた。とにかく私は母親の過干渉と監視に、自分が飲み込まれないように必死だった。家では極力口をきかなかった。とにかく母親に背を向け、自分を防御していた。そして怒りと悲しみで心をいっぱいにしていた。そんな私の姿に不安を感じた母は、ますます私に干渉しようとしていた。お互いに険悪な関係が続いていた。

 家では口もきかなかった私だったが、外では活発だった。友人と遊んでいると、家での苦しみを忘れることができた。小学生の時は、公園や近くの広場や雑木林でよく遊んだ。その頃の環境も私を助けてくれたと思う。同じ学年の友達が近所にたくさんおり、外から「あそぼ~」と大声をあげると家から飛び出してきた。雑木林で虫をとったり、広場でケイドロや缶蹴りをしたり草野球をしたりと、とにかくよく遊んだ。また、中学生の頃は部活動を通しての友人、クラスでも仲良しができ、よく遊んだ。
 このことから、私は友人とはかけがえのない宝だといつも感じていた。家族だけの関係だったら、私は崩壊していただろう。こうして友人がいたからこそ、支えられ生きていくことができたんだと、よく思っていた。
 だから、夏休みなどの長期の休みは嫌いだった。家にいる時間が長くなるからだ。母親と長い時間一緒にいるのは耐えられなかった。

 そして中学時代も後半になってから、私は母親の存在に耐えられなくなっていた。これは思春期の特徴として、もともと不安定になりやすい年齢だったこともあるだろう。反抗期ということもあっただろう。校内暴力や非行で荒れたあの時代に、中学生の子どもを抱えた母親は不安で仕方なかったこともあるだろう。
 しかし、その頃の私にとって、母親は私に侵入し、私を混乱させ、私を断罪し、私が窒息しそうになるにもかかわらず、理想の型に無理矢理娘をおしこめようとする存在だった。母は私を守るどころか飲み込み、破壊しようとしているように感じた。私は本当に気がおかしくなりそうだった。

 中学3年生になり、母親は進路のことで更にピリピリしてきた。内申書に響くようなことを書かれないように、また高校は世間で「いい」と言われているところに進学できるように、執拗に言うようになった。
 私はぼんやりと考えた。このままこの家から高校に通うのか。そして何となく息苦しい人生を過ごしていくのか、と。家を出たかったが、まだ自活もできない私の年齢では無理だろう。しかし自分がこのまま正気を保っていられる自信もなかった。
 そんなある日のこと、父親の親戚が家に来た。親たちが親戚と話している中で私の進路についての話題が出た。母親は「娘はどこがあっているのか悩んでいるんですよ」と言った。「うちの近くにある高校もなかなかいいですよ」と親戚。母親は「でもここからは遠くて通えませんね」と言うと「そこは寮もあるんですよ」と答えた。
 襖ごしに話しを漏れ聞いていた私は「寮」という言葉に反応した。寮、いいかもしれない。この家から離れられる!

 その夜、父親が「こんな高校もあるらしいよ」と説明してくれた。私は即座に「行ってみたい」と答えた。母親は黙っていたが複雑な表情だった。
 その頃は、今のようにパソコンもなく、ネットで検索して探すなんて事はできない時代だ。地元の高校に行くしかないと思っていた私は、乏しい情報の中で得た一縷の望みにすがった。母親は最後まで渋ってはいたが、親戚が近くにおり、何かの時には面倒をみてくれる、という条件に受験を認めてくれた。父親が後押ししてくれたことも大きかった。

 私はその高校を受験し、合格通知を得た。家から離れて生活することに不安はなかった。とにかく狂った母親のもとから離れられることが嬉しかった。

 私は人生最初の脱出を果たしたのだった。

                      しかし同じ事繰り返す私って…(苦笑)

私と母との関係

2006-09-03 00:41:30 | モラハラが生まれた背景とは
 私は大都市の郊外にある新興住宅地で子ども時代を過ごした。長女として生まれ、下には弟。多分どこから見てもごく普通の4人家族だった。両親とも、出身はそれぞれ遠い地方の田舎町だったが仕事の都合で転居してきた。住んでいた新興住宅地にはそんな夫婦がたくさんいたようだ。

 私は早生まれだったせいか、幼稚園の頃からのんびりしていた。運動会では「よ~いどん!」でもぼーっと立ちつくし、先生に背中を押されて走ったり、連絡ノートに「お弁当を食べるのが遅いのでもう少し早く食べられるようにしてください」なんて書かれたりしていたらしい。特定のいじめっ子3人組にもよく泣かされていた。しかしいじめられるのに、けろっとしてまた一緒に遊んでいたりという脳天気さもあった。
 小学生くらいの頃からだっただろうか。母親の口うるささを意識し始めたのは。母親は何かと私に小言を言った。「早くしなさい」「勉強しなさい」「どうしてこうなるの?」「こうしてはいけません」…。そして私が思うようにならないと、母親は私を自分の目の前に正座させ、きつい口調で延々と説教をした。そのとき私はいつも「何で怒っているのだろう…。わからないけどとにかくこのお説教をやり過ごそう…」そう考え、私はよく空想に耽りながら長い時間を耐えていた。いつしか母親は「わかったの?わかったわねっ!」と言い、「はい」と答える。たまに母親が「あなたはほんとにわかってるの?黙ってないで何かいいなさい」と言ったが、一言返せば大声で反論されお説教が長引くこともわかっていたので、とにかくこの嵐が過ぎ去るまでじっと沈黙して下を向いていた。

 私はモラ夫から長時間罵倒されているとき、ふと子どもの頃のこの場面を思い出したりした。なんか似ているな~、と。

 このようにいつも文句を言われていたので、私は母親にほめられたことがほとんどなかった。だからたまに他人からほめられると、どんな顔をしていいのかわからなかった。どうせお世辞だろうと、ずっと思っていた。よその大人からほめてもらっても困ったような顔をしていた私は、かわいげのない子どもだっただろうと思う。

 母親は非常に干渉的だった。うるさく言う割に、私が家庭科の宿題ができないでいると「見ていられない」とばかりに、教材を取り上げて縫ってしまったりした。
 私が中学になるとそれが酷くなった。私の中学時代は、非行や校内暴力が問題になっており、そのことで母親は自分の子がそうならないように、と心配したのだろうと思う。しかしその当時の私にとって、母親の心配する姿は、狂気に近いものを感じたのだ。
 私の日記や友人との交換日記を平気で盗み見、そのことについて抗議すると「親が子どものことを知ろうと思うのは当然でしょ」と悪びれもなく言い放った。私の友人に対しても母親は「いい友人」「悪い友人」と分類しており、悪い友人から電話などがあると電話で話している私のそばに来て「早く切りなさいっ!」「約束しちゃダメ!」とヒステリックな声をあげた。成績の良い優秀な子として近所で評判の友人に対しては態度が違い電話では「ウメと仲良くしてね」と猫なで声をだした。私はそんな母親に心底嫌悪感を抱いた。
 また、私がある私服のスカートをはいたら、そばにいた母親が「やっぱりそのスカート丈が長いからやめなさい」と言った。しかし私は「長くないよ」とそのまま外に出ようとした瞬間「そんな長いのやめなさいっ!切り裂いてやるっっ!!」と恐ろしい形相で叫んだ。私は母親が狂ってしまうのではないかと恐ろしかった。そして数日後、そのスカートを見たら丈を短く切ってあった。私はぞっとした。
 私の友人達にも母親のうるささは知れ渡っていた。門限にも厳しかった母親を心配し「ウメ、もう帰った方がいいんじゃない」と友人は気遣ってくれた。ある日友人宅でどうしても、もう少し遊んでいたかった私は母親に「友人と勉強しているんだけど、もう少しきりのいいところまでやりたいんだけど…」と電話したら「そう、いいわよ」とあっさり認めた母親。こんな見え透いた嘘でも勉強という一言で変貌する母はやっぱりおかしい…。そのこともまた恐怖感を抱かせる一因となったものの、私は母親を怒らせないよう、母親が納得するような小さな嘘をつくようにもなっていた。

 もうひとつ、母親は弟をとても可愛がっており、私はいつも弟と差をつけられていると感じていた。今ならそんなことも分かるのだ。男兄弟をもつ友人達は「明らかに母親は私と弟(兄)を差別していたよ~」と言う。母親としては平等に扱っているつもりなのだが、どうしても異性をひいきしてしまう。それは仕方のないことなんだと、今は理解している。 しかし私が子どもの頃は納得いかなかったのだ。
 私は母親のいいつけを守り、欲しいものも我慢し、嫌いな食べ物も食べられるよう努力した。しかし弟は違った。欲しいものは欲しいと主張し、母親はそれを買い与えた。そして弟は嫌いな食べ物は絶対に食べなかったので、弟だけが特別に代替献立が用意されたりした。母親に「聞いて聞いて」と甘え、私が話していても横から話しをさらってしまい母親もそれを止めようとはしなかったので、私は次第に無口になっていった。(母親が弟に注いだ情熱には、父親も私も知らなかった仰天エピソードがいくつもあるほどだ。)
 ある日母親が私を正座させた。私は「また何を怒られるんだろう」と縮こまっていたら、「あなたは何でいろんなことをしゃべってくれないの…」と泣いたのだ。私はびっくりした。どうしてって…お母さんが聞いてくれないからじゃないの…。そう思ったが言えなかった。

 そんなこともあり、私は小学生から家ではあまりしゃべらない子どもになっており、中学になってからは母親の干渉も過激になっていったため、家の中ではほとんど口をきかなかった。それが母親の侵入から自分を守る術でもあったのだ。しかしそのことがまた母親の不安を煽ったのであろう。
 本当は、私は母親に大声で怒鳴り、けんかをしたかった。しかしそれは恐くてできなかった。なぜなら、そうしたら母親が本当に狂ってしまうのではないかと思ったからだ。それくらい母親の干渉ぶりは度を超していた。母親が何とか正気を保っていられるように、私は極力母親を刺激しないようにした。そしてわずかばかりの反抗は口をきかないことでもあった。

 このときの習性が夫との生活でも発揮されてしまったような気がするのだが…。




モラ夫を選んだ私とは?

2006-08-26 15:23:29 | モラハラが生まれた背景とは
 今まで夫について考えてきたが、今度は自分自身について振り返ってみようと思う。

 モラ夫と出会ってから、結婚した、あるいはお付き合いしたというプロセスは、人それぞれだろう。偶然出会ったという人や、以前から気になっていたとか、紹介されてたまたま、という人もいるかもしれない。それぞれのモラ夫は、出会ったときどのような印象を他人(後にお付き合いする異性)に与えるのだろうか。そしてそのどこに、惹かれるのだろうか。
 私がモラ夫と出会ったのは偶然だった。仕事の研修で、たまたま出会ったのだ。しかし私は彼の熱心な話し方、知的でありながら気さくな感じに惹かれた。そして私から知り合いになろうと近づいた(このときお付き合いすることは全く考えてはいなかったが)。

 私自身は異性を好きになるとき、ある傾向に惹きつけられる自分を何となく感じていた。やんちゃで皆を惹きつける魅力をもちながら、どこか脆さを感じさせる男。あるいは知的で鋭い感性を持っていながらも、ドジで手のかかる男。
 中学の時は、暴走族に片足つっこんだ不良少年と付き合っていた。高校の時に付き合っていた年下の男の子は、かっこよく振る舞うのだが、実は不器用で脆いところがあった(後に心病んでいたらしい)。その後、何人かの人に惹かれるが、ワーカホリックタイプや、いいなと思うと既婚者だったりで(既婚者と分かれば早々にあきらめましたよ)、どうもうまいこといかなかった。

 そう、私は以前から共依存傾向にあった。問題ある男性を好きになる女性について書いた『愛しすぎる女たち』(ロビン・ノーウッド著 落合恵子訳 読売新聞社)がある。夫と付き合っていた頃、この本を読んだ。その頃、依存症について興味があり関連の本をよく読んでいたのだ。そして夫に何気なくこの本の話しをし、夫も読みたいと言ったので貸したことがあった。夫は読んだ後私に「ウメちゃんは“愛しすぎる女”なんじゃないの?」と言ったのだ。私は「そうかな~」と応え、やっぱり私もそうなのかな?と思いつつその深刻さにまだ思い及ばなかった。私は既に夫と付き合っていた頃、このような知識は多少あったのに、それは実際の自分自身にとっては殆ど役に立たなかった。自分が実感しなければなかなか理解できないということなのだろう。
 それから、夫と付き合うまでは異性とのお付き合いの中で、それほど酷い目に遭うということもなかったので、共依存という文字や日本語としての説明は理解できても、本当の意味がまだよくわかっていなかった。

 共依存…他人の問題にかかわり世話焼きをすることで、自分の存在を確かめ、存在価値を見いだそうとするのだ。これもまた自分の心の穴を他人によって埋めようとするものなのだ。

 モラ夫との生活を経て、モラル・ハラスメントの意味を知り、私は自分の共依存性を強く意識するようになった。結婚前に感じた、私の夫に対する意識を単純化して表してみる。こんなことを思っていたのだ。私は。
「夫はいろいろと苦労しているし問題もありそう。でも夫もそんな自分を何とかしたいと言っている。また、私とだったら本当の結婚生活ができると言っている。お互いの愛があれば、きっとどんな困難も乗り越えられる。私も心を広く持って、夫に愛情を注ぐことできっと夫も変わることができる」
 こうして私は波瀾の予感を覚えつつも、チャレンジしようとしたのだ。
(こんなチャレンジは私の人生最初で最後にしたいものだ…(- -;))

 結婚後、夫は「おまえが…」「おまえのせいで…」と、常に主語を「おまえ(私)」にして私をコントロールしようとした。そして、私は「夫さえ変われば…」「夫がもっと優しければ…」「夫が怒りさえしなければ…」と主語を夫にして何とか夫を変えようとした。今考えてみると、夫も私もお互いに相手を変えようと、コントロールゲームをしていたように思う。夫は私を監視し何かと文句をつけ罵声を浴びせて思い通りにしようとし、私は夫を常に窺い、夫を怒らせないように夫の機嫌をとるようにして夫を変えようとした。そして夫が静かだったり、機嫌良く過ごしていると「私の努力が実った」と自分のコントロール力を過信してしまう。
 実りのないコントロール合戦…。

 私はどこで共依存性を身につけたのだろうか。なぜモラ夫を選び、このような結婚生活を送ることになったのだろうか。

 次回は私自身が生まれ育った過程を遡ってみたいと思う。