こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

母親への怒り

2006-09-23 23:22:16 | モラハラが生まれた背景とは
 こうして高校は、親元離れた寮生活を送ることになった。寮は個室がなかったので、同室者との関係で苦労したり、生活上の規則など、面倒なこともあった。それでも私は母親から離れたことで、随分気が楽になっていた。他の友人はホームシックになったりしていたが、私は全くならなかった。私が寮付の高校に進学できたのは、神さまが私を救ってくれたからだと思っていた。そうでなければ私は心が病んでいただろう。そのくらい母親との生活はきつかった。
 また、私が新鮮だったのは、寮では自分で自分の行動の責任を取らなければいけない、ということだった。『自分で自分の行動の責任を取る』これは多分当たり前のことだとも思うのだが、今まで私の母親は、いつも侵入的に私の世話を焼いていた。私がぐずぐずしていると、脇から私のやることを奪い取った。例えば家庭科の宿題でパジャマ作りが出た。私が放置しているとさっさと母親が縫ってしまった。「見ていられない」と。私が部屋をちらかしていると、母親はさっさと片付けた。ご丁寧に机の引き出しをくまなく探り、友人との交換日記まで覗いた。お陰で私は家では何もしないだらしない娘になっていた。
 それが、寮では自分で自分のことをしなければならなかった。ある日、私は朝のんびりしていたせいで遅刻しそうになり、慌てて制服に着替え、洋服を脱ぎっぱなしで床に散らかして登校した。授業が終わり、自分の部屋に帰ると服はそのまま散らかっていた。私は恥ずかしくなり慌てて片付けた(もし家だったら母親がさっさと片付けている)。このようなことがあったことから、私は自分に責任をもって行動できる力を養ったのだと思う。家にいたら私は何もできないまま大人になっていただろう。うまくいかないことはそれこそ他人のせいにしていたかもしれない。

 高校も夏休みや冬休みなど長期休暇があり、その時には帰省した。すると、母親は久々の再開に喜び、いつになく優しかった。私はそれが嬉しかったものだ。たまにあえば母は優しい。しかし夏休みも終盤になるといつもの口うるさい母親になっており、辟易しながら寮に戻ったものだった。

 こうして、高校生活では母親とたまにしか会わなかったので、私は母親との問題を棚上げしていた。母親との関係は、大方解決したのではないかと錯覚するほどだった。
 (母親は私が寮生活を送っていた間、すべてのエネルギーを弟に注いだようだ。弟への過保護過干渉が度を超し、弟は一時ぐれ、警察に補導されたりしていた。)

 問題は高校を卒業後に起こった。
 卒業後、私は実家に戻り、家から大学に通うことになった。そして母親との生活を再開。私は以前より更なる息苦しさを感じるようになる。中学生の頃からぐっと我慢していた母親への怒りが一気に噴出したような感じだった。母親にちょっと触られただけで全身の鳥肌が立った。些細なやりとりで感情が溢れて止まらなくなり、母親の前で大声を上げ泣いた。母親への怒りと愛着で心が引き裂かれそうになっていた。そして過食気味になったのだ。食べても食べても満たされない。私はよくお菓子類を買い込んで自分の部屋で密かに食べていた。お腹がいっぱいなのに、口寂しくつい口に入れてしまう。ついに10キロくらい太ってしまった。これではいけない、このままでは私がだめになってしまう…。私はなるべく家から離れていようと、土日はバイトを入れることにした。また、長期の休みなどはペンションに住み込みのバイトに行った。スキー場にあるペンションの住み込みバイトは大変だったが楽しかった。お料理を教えてもらったり、空いている時間にはスキー場で滑らせてくれたして、仕事以外でも楽しむことが出来た。こうしてなんとか大学生活を終え、就職する。職場は家から2時間ほどかかったが、通勤できる距離だったので、少しの間は家から通っていた。

 就職し、お給料をもらったとき、私は少し心が軽くなった。今まで親に文句を言いながらも親の世話にならなければ生きていけないという矛盾に自分自身苦しめられてきた。それが、お給料をもらうことで、家に生活費として3万入れ、あとは自分の自由に使えることが、親への罪悪感を軽減させたのだ。この経験から経済的自立は自分にとって、とても大切だと実感する。
 そして私は何とかひとり暮らしをしようとした。母親に「ひとり暮らしがしたい」と言ったら、「女の子のひとり暮らしはあぶないからダメ」と即座に否定された。職場は家から通える範囲だったが通勤時間に2時間かかり、朝の恐るべきラッシュで通勤ノイローゼにもなりかけていた。そのとき、弟がある専門学校に通うことになったが、その学校が私の職場の近くでもあったので、それを理由に弟と同居するという条件で親を説得し、家から脱出することが出来た。

 弟との同居はこれまたいろいろと大変で、兄弟ですら同居は苦労するんだと身に染みた。弟とは基本的に仲はよかったのだが、弟が彼女をつれこむようになってからは非常に疲れてしまった。そのことに文句を言う母親と、彼女の母親との間に入ったりしながら、姉の監督不行届みたいに責められることが耐えられなかった。その後、弟とも別々に暮らすようになり、やっと私はひとり暮らしができるようになったのだ。それ以後は親とはずっと離れて生活している。寮生活時代を加えたら、親から離れて生活する年月のほうが長くなった。

 30代になって、ようやく母親と普通にしゃべれるようになった。それは母親に私自身をどんなに理解してもらおうと思っても、無理だということを何回も何回も突きつけられたからだった。いつも母親流の解釈で断罪され、それでまた怒りが湧き起こる。もう無理なんだ…。母親を変えることはできない…。母親の受け入れられる範囲の話しをしよう、と思った頃から憎しみの呪縛から少しずつ解かれていった。時折母親から我慢ならない発言を投げつけられるときがある。それに対しても文句を言うことが出来るようになってきた。お互いに年取ったこともあろう。
 しかし、母親と同居しようとはもう思わない。新幹線と在来線を乗り継いで5時間くらいのこの距離が、私と母親を平和に保つ距離なのだ…そう思う。

 こうして母親との問題はそれなりに沈着していったと思っていたが、実は別の方向へ転化されてしまっていた。

 私は夫との関係に、母親や父親との関係を投影していたのだった。



母からの脱出

2006-09-17 12:32:17 | モラハラが生まれた背景とは
 母親というのは、子どもにとって時別な存在なのだろう。子どもは自分を生み、育て、守り、受け入れてくれる存在が母親だと思っている。私も、母親とは常に私を受け入れ、私をありのまま理解してくれるものだと思いこんでいた。それなのに、母親は常に私の気持ちを無視して自分の思い通りに育てようとし、母親の求める理想の子ども像にあてはめようとし、それに応えられなかったら私は「悪い子」として断罪される。母はよく私が思い通りにならないと「私はそんな子に育てた覚えはない」と言い、よそ様から私がほめられると「私の躾が良かったからだ」と言った。いつも母は自分のことだけだった。母はどうして私を受け入れてくれないの?どうしてそのままの私を理解してくれないの?どうして母は自分の都合のいいところしか私を見てくれないの?どうして私の境界線を越えて侵入しようとするの?
 中学生のとき、私はそんな思いでいっぱいだった。また当時『母源病』という本を見つけた。母親の過干渉や、間違った教育熱が、子どもに喘息をおこさせたり精神不安定にさせるという本だった(今私は、この概念には少々問題があると考えている)。そこで母親の行動はやはり間違っている、と確信をも抱いた。とにかく私は母親の過干渉と監視に、自分が飲み込まれないように必死だった。家では極力口をきかなかった。とにかく母親に背を向け、自分を防御していた。そして怒りと悲しみで心をいっぱいにしていた。そんな私の姿に不安を感じた母は、ますます私に干渉しようとしていた。お互いに険悪な関係が続いていた。

 家では口もきかなかった私だったが、外では活発だった。友人と遊んでいると、家での苦しみを忘れることができた。小学生の時は、公園や近くの広場や雑木林でよく遊んだ。その頃の環境も私を助けてくれたと思う。同じ学年の友達が近所にたくさんおり、外から「あそぼ~」と大声をあげると家から飛び出してきた。雑木林で虫をとったり、広場でケイドロや缶蹴りをしたり草野球をしたりと、とにかくよく遊んだ。また、中学生の頃は部活動を通しての友人、クラスでも仲良しができ、よく遊んだ。
 このことから、私は友人とはかけがえのない宝だといつも感じていた。家族だけの関係だったら、私は崩壊していただろう。こうして友人がいたからこそ、支えられ生きていくことができたんだと、よく思っていた。
 だから、夏休みなどの長期の休みは嫌いだった。家にいる時間が長くなるからだ。母親と長い時間一緒にいるのは耐えられなかった。

 そして中学時代も後半になってから、私は母親の存在に耐えられなくなっていた。これは思春期の特徴として、もともと不安定になりやすい年齢だったこともあるだろう。反抗期ということもあっただろう。校内暴力や非行で荒れたあの時代に、中学生の子どもを抱えた母親は不安で仕方なかったこともあるだろう。
 しかし、その頃の私にとって、母親は私に侵入し、私を混乱させ、私を断罪し、私が窒息しそうになるにもかかわらず、理想の型に無理矢理娘をおしこめようとする存在だった。母は私を守るどころか飲み込み、破壊しようとしているように感じた。私は本当に気がおかしくなりそうだった。

 中学3年生になり、母親は進路のことで更にピリピリしてきた。内申書に響くようなことを書かれないように、また高校は世間で「いい」と言われているところに進学できるように、執拗に言うようになった。
 私はぼんやりと考えた。このままこの家から高校に通うのか。そして何となく息苦しい人生を過ごしていくのか、と。家を出たかったが、まだ自活もできない私の年齢では無理だろう。しかし自分がこのまま正気を保っていられる自信もなかった。
 そんなある日のこと、父親の親戚が家に来た。親たちが親戚と話している中で私の進路についての話題が出た。母親は「娘はどこがあっているのか悩んでいるんですよ」と言った。「うちの近くにある高校もなかなかいいですよ」と親戚。母親は「でもここからは遠くて通えませんね」と言うと「そこは寮もあるんですよ」と答えた。
 襖ごしに話しを漏れ聞いていた私は「寮」という言葉に反応した。寮、いいかもしれない。この家から離れられる!

 その夜、父親が「こんな高校もあるらしいよ」と説明してくれた。私は即座に「行ってみたい」と答えた。母親は黙っていたが複雑な表情だった。
 その頃は、今のようにパソコンもなく、ネットで検索して探すなんて事はできない時代だ。地元の高校に行くしかないと思っていた私は、乏しい情報の中で得た一縷の望みにすがった。母親は最後まで渋ってはいたが、親戚が近くにおり、何かの時には面倒をみてくれる、という条件に受験を認めてくれた。父親が後押ししてくれたことも大きかった。

 私はその高校を受験し、合格通知を得た。家から離れて生活することに不安はなかった。とにかく狂った母親のもとから離れられることが嬉しかった。

 私は人生最初の脱出を果たしたのだった。

                      しかし同じ事繰り返す私って…(苦笑)

「モラといた日々」と「モラのいない日々」 ~『モラルハラスメント・ブログ』共同企画~

2006-09-09 16:27:04 | モラル・ハラスメント考
 私は夫と生活していた頃、非常な孤独感を抱いていた。家の中では、いつ爆発するかもしれない夫に、びくびくしながら過ごしている私。思いも寄らないことで夫は罵詈雑言の嵐を私に浴びせ、ただただ凍りつきうなだれて嵐が去ることを待っていた私。こんな夫の姿を、そして虐げられている私の姿を誰にも言えなかった。夫との関係を何度立て直そうとしたことだろう。夫の笑顔が見たくて、どんなに笑いかけ、ご機嫌を窺い、夫の望む生活を送ろうとしたことだろう。しかし、それは残念ながら功を奏さなかった。
 絶望し崩れ落ちそうだったあるとき、ネットで『モラル・ハラスメント被害者同盟』を知った。私は目を見張った。このエピソードも、あれも、それも、うちの夫と同じだ!と。その瞬間、私は孤独ではなくなった。それ以来、私は同じ体験をもつ仲間に会いに『モラハラBBS』をよく訪れた。投稿を読み、似たような苛酷な体験に涙した。私は自分の置かれている立場がはっきりわかった。そして私は自分自身を取り戻すために脱出した(詳細はこのブログを最初から読んでいただければと思います)。
 その後私は、『モラハラBBS』に投稿を始め、モラハラ被害を受けた方々と言葉を交わすようになった。パソコンからの文字でも、温かい共感が溢れていた。そこを通して、まっち~さん(モラルハラスメント・ブログ)や宇砂子さん(宇砂子の七転び八起き)と知り合った。お二人と交わした言葉がどんなに私を慰め、私を支え、力づけたことか。このお二人の勧めでその後私もブログを始め、多くの方々と言葉を交わしながら、自分自身を振り返り癒しと力をいただいている。
 この度の共同企画をきっかけとして、モラハラを受け苦しんでいる多くの方々に、気づきがもたらされ、厳しい孤独から抜け出すことができますよう願っています。

〈 夫と生活していたときの日常とは…ある1日 〉
 朝、起きて洗顔し、洗濯機のスイッチを入れる。着替えてから朝食を作る。そして夫を起こす。何度か声をかけるがなかなか起きないため、私は先に朝食をとる(私も働いていたので朝は1分1秒が惜しかった)。そして夫に再度声をかけるとやっと起きてくる。そのままテーブルにつくが、すでに冷めたトーストをひとくちかじり「これいらない」と冷たい視線を投げる。「もう一回焼き直そうか?」「いい。」私は夫の怒りオーラに緊張しつつ自分の食器を流しに運ぶ。そして出勤の支度をすると、夫はトーストだけ残し朝食を食べ終わり新聞を読んでいる。夫の食器も流しに運び、洗う(時間がないからと流しに食器を残すと大変なことになる)。時間を気にしつつ洗濯物を干し、ばたばたと支度して私は暗い気分で出勤。

 夕方…そろそろ退勤時間が気になってくる。早く今の仕事を終わらせなければ…手が震え、血の気が引く。17時15分。いてもたってもいられなくなり、「お先に失礼します」と退勤。他の同僚の視線に気が引ける。そしてスーパーに直行し、夕食の買い物をする(夫は冷凍食品やインスタントは大嫌いだったので、常にその日に購入)。ああ、どうしよう、今日のメニューが頭に浮かばない。手が震え、心臓の鼓動が速くなる。時間を気にしながらとにかく食材を選び、急いで家に帰る。すると夫が既に帰ってきている。「ただいま。すぐ作るからね」と座る間もなく、料理を始める。
 「今日の夕食は何?」「豚の生姜焼き」「時間かかるのか?」「30分くらいで作るから」「おい、俺は6時に夕食を食べたいんだよ。わかっているだろ?…今すぐ食べられるものを買ってこい!!いますぐにだ!!」鬼のような顔をして怒鳴る夫。私は涙をこらえてまたスーパーに走る。しかし買ってきた総菜はまず食べない。
 それか、夫はイライラして夕食を待っている。私は恐怖で震えながら夕食を作り、食卓に並べる。夫は「はあ~~~っ」と溜息をつく。そして乱暴に音を立てて箸を置いたり、お茶碗を置いたりする。そしてわざと大きなゲップをしたり、溜息を吐く。「お酢とって」「お茶!」と言い、そのたびに私はテーブルを立つ。そして私は小さくなって下を向き、惨めな気持ちで黙って食べる。夫は食べ終わった後も怒りオーラを放っている。
 私はとにかく夫を刺激しないように、顔色を窺いながら夕食の片づけを始める。夫はテレビを見て笑い出した。よかった…機嫌が直ってきた。私はほっとする。「梨があるけど食べる?」と話しかけると「おお」と上機嫌な返事。私はちょっと嬉しくなり梨をむき、だした。夫と私はテーブルにつき梨を食べる。「これ甘くておいしいね」「そうだね」返事ひとつにも細心の注意を払いながら私は答える。以前うっかりそのままおしゃべりしていたら、夫がいきなり怒りだしたのだ。「おい、その日本語は何だ。おまえと話してるとほんとにイライラするんだよ。どうしてそんな話ししかできないんだ?あぁ?だいたいおまえはだなあ…」と始まってしまった。それ以来極力おしゃべりしないようにしてきた。
 その後デザートのお皿を片付け、お風呂を入れる。夫がお風呂に入っている間、洗濯物を取り込み、たたんでしまう。ワイシャツにはアイロンをかけておく。その後私は自室に閉じこもり、本を読んだりパソコンを触ったりしているが、その間も夫が廊下を歩く音、ドアを閉める音に耳をそばだたせ、夫の機嫌を推し量っている。
 夜も更け、もう寝ようと思った頃夫が「おい、ちょっとここに来て」とリビングから私を呼ぶ。急に私の動悸が激しくなる。また…何だろう…。テーブルに座ると夫が「おまえ、まだ気がつかないのか?」「何を?」「俺はずっと我慢していたんだ。おまえが気がつくまで」「…。」「俺が何に怒っているのかわからないのかっ!?そうだろうな、おまえは鈍感だからなっ!!」夫の罵声は酷くなった。夫の罵詈雑言…私がいかに家事をおろそかにしているか、私がいかにダメ人間であるかを強調し、徹底して蹂躙する。私はただただうなだれて凍りつき、小さな声で「すみません」「ごめんなさい」「気を付けます」を繰り返す。2時間も経った後、ようやく夫は「まあ、俺も言い過ぎた。でもおまえもしっかりしてくれよ」と言い、やっと解放された。午前2時…。明日も仕事…私は真っ暗な気持ちで布団に入った。なかなか眠れなかった…。

 こんな日々に、私は疲れ果て、絶望と抑うつ的な気分に覆われていた。円形脱毛症にも悩まされた。私が受けた一番のダメージは、夫の前で卑屈になり惨めに打ちひしがれた自分自身の姿だった。私はもっと楽天的で前向きな性格だった。しかし夫の前ではオドオドし、びくびくし、顔色を見、足音に怯え、卑屈になり、機嫌を窺い、ぼろくそな罵詈雑言を浴びせられても黙っている。この私は何?私はこんな自分のまま夫との生活を送り、こんな惨めな私のまま生きていくのか?これでは私が可哀想すぎるよ!!
 そして私は夫と別の生活を送る決意を固めたのだ。

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 現在は別居という形のままひとり暮らしを送っている。
ささやかな幸せ』を読んでいただければと思う。
 私は夫と離れて、やっと自分を取り戻した。本当は夫と一緒に私を生きていきたかった。しかしそれは、私自身を生きることができない生活だということがやっと理解できたのだ。私が死んでしなうような生活からは離れればいい。そして、本当の自分を生きればいいのだ。それがどんなにしあわせなことか、私はやっとわかった気がする。

 私がまっち~さんのブログに初めてコメントを入れたのは、平原綾香の「ジュピター」のことについてだった。その英語版と和訳したこの歌詞を読み、私は自分自身をもっと信頼しよう、と思ったのだ。私が感じる嫌なこと、恐いこと、悲しいことを我慢して見ない聞かないふりをしないで、もっと自分のこころの声を聴き、それに応えていこう、としみじみ思ったのがこの歌詞だ。
 このブログを読んでくださった方に贈ります。
どうか、ご自身のこころの声を聴き、その正直な声を大切にしてください。その声は必ずやあなた自身を生きる道へ導くことと思います。

『The voice ~“Jupiter”English Version~(対訳)』

いつも私は自分の心に耳を傾ける
どうすれば良いかわからない時
何にも確信を持てない時
私は自分の心の声を信じる

だから、あなたが道に迷って
天使や救いの手が欲しいとき
すべてがあなたの肩に掛かっているように感じるとき
ただあなたの心の声を信じなさい

いつも私は自分に耳を傾ける
何も感じることができないとき
自分の強さを何処にも見つけることができないとき
私は自分の心の声を信じる

私の中の…

時々、人生は思いもしない方へ行ってしまう
そして、それが何処に行き着くかは分からない
それは戦い 誰もあなたの代わりはできないし
何一つ自分が思ったようにはならない

でもあなたがなすべきことの答えを
探し求めているときも
もうこれ以上何も見る必要はない
ただあなたの心の声を信じなさい

いつも私は自分の心に耳を傾ける
何も見えないとき
何も確信を得られないとき
私は自分の心の声を信じる

すべてがあなたの肩に掛かっているように感じ
自分の進むべき道を探しているとき

いつも私は自分の心に耳を傾ける
何も感じることができないとき
自分の強さを何処にも見つけることができないとき
私は自分の心の声を信じる

私達は皆、心に葛藤がある
疑いで頭が一杯になっているとき
良い助言もあなたを迷わせてしまう

いつも私は自分の心に耳を傾ける
どうしたら良いのかわからないとき
何にも確信を持てないとき
私は自分の心の声を信じる
いつも私は自分の心に耳を傾ける
何も感じることができないとき
自分の強さを何処にも見つけることができないとき
私は自分の心の声を信じる

私の中の…



私と母との関係

2006-09-03 00:41:30 | モラハラが生まれた背景とは
 私は大都市の郊外にある新興住宅地で子ども時代を過ごした。長女として生まれ、下には弟。多分どこから見てもごく普通の4人家族だった。両親とも、出身はそれぞれ遠い地方の田舎町だったが仕事の都合で転居してきた。住んでいた新興住宅地にはそんな夫婦がたくさんいたようだ。

 私は早生まれだったせいか、幼稚園の頃からのんびりしていた。運動会では「よ~いどん!」でもぼーっと立ちつくし、先生に背中を押されて走ったり、連絡ノートに「お弁当を食べるのが遅いのでもう少し早く食べられるようにしてください」なんて書かれたりしていたらしい。特定のいじめっ子3人組にもよく泣かされていた。しかしいじめられるのに、けろっとしてまた一緒に遊んでいたりという脳天気さもあった。
 小学生くらいの頃からだっただろうか。母親の口うるささを意識し始めたのは。母親は何かと私に小言を言った。「早くしなさい」「勉強しなさい」「どうしてこうなるの?」「こうしてはいけません」…。そして私が思うようにならないと、母親は私を自分の目の前に正座させ、きつい口調で延々と説教をした。そのとき私はいつも「何で怒っているのだろう…。わからないけどとにかくこのお説教をやり過ごそう…」そう考え、私はよく空想に耽りながら長い時間を耐えていた。いつしか母親は「わかったの?わかったわねっ!」と言い、「はい」と答える。たまに母親が「あなたはほんとにわかってるの?黙ってないで何かいいなさい」と言ったが、一言返せば大声で反論されお説教が長引くこともわかっていたので、とにかくこの嵐が過ぎ去るまでじっと沈黙して下を向いていた。

 私はモラ夫から長時間罵倒されているとき、ふと子どもの頃のこの場面を思い出したりした。なんか似ているな~、と。

 このようにいつも文句を言われていたので、私は母親にほめられたことがほとんどなかった。だからたまに他人からほめられると、どんな顔をしていいのかわからなかった。どうせお世辞だろうと、ずっと思っていた。よその大人からほめてもらっても困ったような顔をしていた私は、かわいげのない子どもだっただろうと思う。

 母親は非常に干渉的だった。うるさく言う割に、私が家庭科の宿題ができないでいると「見ていられない」とばかりに、教材を取り上げて縫ってしまったりした。
 私が中学になるとそれが酷くなった。私の中学時代は、非行や校内暴力が問題になっており、そのことで母親は自分の子がそうならないように、と心配したのだろうと思う。しかしその当時の私にとって、母親の心配する姿は、狂気に近いものを感じたのだ。
 私の日記や友人との交換日記を平気で盗み見、そのことについて抗議すると「親が子どものことを知ろうと思うのは当然でしょ」と悪びれもなく言い放った。私の友人に対しても母親は「いい友人」「悪い友人」と分類しており、悪い友人から電話などがあると電話で話している私のそばに来て「早く切りなさいっ!」「約束しちゃダメ!」とヒステリックな声をあげた。成績の良い優秀な子として近所で評判の友人に対しては態度が違い電話では「ウメと仲良くしてね」と猫なで声をだした。私はそんな母親に心底嫌悪感を抱いた。
 また、私がある私服のスカートをはいたら、そばにいた母親が「やっぱりそのスカート丈が長いからやめなさい」と言った。しかし私は「長くないよ」とそのまま外に出ようとした瞬間「そんな長いのやめなさいっ!切り裂いてやるっっ!!」と恐ろしい形相で叫んだ。私は母親が狂ってしまうのではないかと恐ろしかった。そして数日後、そのスカートを見たら丈を短く切ってあった。私はぞっとした。
 私の友人達にも母親のうるささは知れ渡っていた。門限にも厳しかった母親を心配し「ウメ、もう帰った方がいいんじゃない」と友人は気遣ってくれた。ある日友人宅でどうしても、もう少し遊んでいたかった私は母親に「友人と勉強しているんだけど、もう少しきりのいいところまでやりたいんだけど…」と電話したら「そう、いいわよ」とあっさり認めた母親。こんな見え透いた嘘でも勉強という一言で変貌する母はやっぱりおかしい…。そのこともまた恐怖感を抱かせる一因となったものの、私は母親を怒らせないよう、母親が納得するような小さな嘘をつくようにもなっていた。

 もうひとつ、母親は弟をとても可愛がっており、私はいつも弟と差をつけられていると感じていた。今ならそんなことも分かるのだ。男兄弟をもつ友人達は「明らかに母親は私と弟(兄)を差別していたよ~」と言う。母親としては平等に扱っているつもりなのだが、どうしても異性をひいきしてしまう。それは仕方のないことなんだと、今は理解している。 しかし私が子どもの頃は納得いかなかったのだ。
 私は母親のいいつけを守り、欲しいものも我慢し、嫌いな食べ物も食べられるよう努力した。しかし弟は違った。欲しいものは欲しいと主張し、母親はそれを買い与えた。そして弟は嫌いな食べ物は絶対に食べなかったので、弟だけが特別に代替献立が用意されたりした。母親に「聞いて聞いて」と甘え、私が話していても横から話しをさらってしまい母親もそれを止めようとはしなかったので、私は次第に無口になっていった。(母親が弟に注いだ情熱には、父親も私も知らなかった仰天エピソードがいくつもあるほどだ。)
 ある日母親が私を正座させた。私は「また何を怒られるんだろう」と縮こまっていたら、「あなたは何でいろんなことをしゃべってくれないの…」と泣いたのだ。私はびっくりした。どうしてって…お母さんが聞いてくれないからじゃないの…。そう思ったが言えなかった。

 そんなこともあり、私は小学生から家ではあまりしゃべらない子どもになっており、中学になってからは母親の干渉も過激になっていったため、家の中ではほとんど口をきかなかった。それが母親の侵入から自分を守る術でもあったのだ。しかしそのことがまた母親の不安を煽ったのであろう。
 本当は、私は母親に大声で怒鳴り、けんかをしたかった。しかしそれは恐くてできなかった。なぜなら、そうしたら母親が本当に狂ってしまうのではないかと思ったからだ。それくらい母親の干渉ぶりは度を超していた。母親が何とか正気を保っていられるように、私は極力母親を刺激しないようにした。そしてわずかばかりの反抗は口をきかないことでもあった。

 このときの習性が夫との生活でも発揮されてしまったような気がするのだが…。