こうして高校は、親元離れた寮生活を送ることになった。寮は個室がなかったので、同室者との関係で苦労したり、生活上の規則など、面倒なこともあった。それでも私は母親から離れたことで、随分気が楽になっていた。他の友人はホームシックになったりしていたが、私は全くならなかった。私が寮付の高校に進学できたのは、神さまが私を救ってくれたからだと思っていた。そうでなければ私は心が病んでいただろう。そのくらい母親との生活はきつかった。
また、私が新鮮だったのは、寮では自分で自分の行動の責任を取らなければいけない、ということだった。『自分で自分の行動の責任を取る』これは多分当たり前のことだとも思うのだが、今まで私の母親は、いつも侵入的に私の世話を焼いていた。私がぐずぐずしていると、脇から私のやることを奪い取った。例えば家庭科の宿題でパジャマ作りが出た。私が放置しているとさっさと母親が縫ってしまった。「見ていられない」と。私が部屋をちらかしていると、母親はさっさと片付けた。ご丁寧に机の引き出しをくまなく探り、友人との交換日記まで覗いた。お陰で私は家では何もしないだらしない娘になっていた。
それが、寮では自分で自分のことをしなければならなかった。ある日、私は朝のんびりしていたせいで遅刻しそうになり、慌てて制服に着替え、洋服を脱ぎっぱなしで床に散らかして登校した。授業が終わり、自分の部屋に帰ると服はそのまま散らかっていた。私は恥ずかしくなり慌てて片付けた(もし家だったら母親がさっさと片付けている)。このようなことがあったことから、私は自分に責任をもって行動できる力を養ったのだと思う。家にいたら私は何もできないまま大人になっていただろう。うまくいかないことはそれこそ他人のせいにしていたかもしれない。
高校も夏休みや冬休みなど長期休暇があり、その時には帰省した。すると、母親は久々の再開に喜び、いつになく優しかった。私はそれが嬉しかったものだ。たまにあえば母は優しい。しかし夏休みも終盤になるといつもの口うるさい母親になっており、辟易しながら寮に戻ったものだった。
こうして、高校生活では母親とたまにしか会わなかったので、私は母親との問題を棚上げしていた。母親との関係は、大方解決したのではないかと錯覚するほどだった。
(母親は私が寮生活を送っていた間、すべてのエネルギーを弟に注いだようだ。弟への過保護過干渉が度を超し、弟は一時ぐれ、警察に補導されたりしていた。)
問題は高校を卒業後に起こった。
卒業後、私は実家に戻り、家から大学に通うことになった。そして母親との生活を再開。私は以前より更なる息苦しさを感じるようになる。中学生の頃からぐっと我慢していた母親への怒りが一気に噴出したような感じだった。母親にちょっと触られただけで全身の鳥肌が立った。些細なやりとりで感情が溢れて止まらなくなり、母親の前で大声を上げ泣いた。母親への怒りと愛着で心が引き裂かれそうになっていた。そして過食気味になったのだ。食べても食べても満たされない。私はよくお菓子類を買い込んで自分の部屋で密かに食べていた。お腹がいっぱいなのに、口寂しくつい口に入れてしまう。ついに10キロくらい太ってしまった。これではいけない、このままでは私がだめになってしまう…。私はなるべく家から離れていようと、土日はバイトを入れることにした。また、長期の休みなどはペンションに住み込みのバイトに行った。スキー場にあるペンションの住み込みバイトは大変だったが楽しかった。お料理を教えてもらったり、空いている時間にはスキー場で滑らせてくれたして、仕事以外でも楽しむことが出来た。こうしてなんとか大学生活を終え、就職する。職場は家から2時間ほどかかったが、通勤できる距離だったので、少しの間は家から通っていた。
就職し、お給料をもらったとき、私は少し心が軽くなった。今まで親に文句を言いながらも親の世話にならなければ生きていけないという矛盾に自分自身苦しめられてきた。それが、お給料をもらうことで、家に生活費として3万入れ、あとは自分の自由に使えることが、親への罪悪感を軽減させたのだ。この経験から経済的自立は自分にとって、とても大切だと実感する。
そして私は何とかひとり暮らしをしようとした。母親に「ひとり暮らしがしたい」と言ったら、「女の子のひとり暮らしはあぶないからダメ」と即座に否定された。職場は家から通える範囲だったが通勤時間に2時間かかり、朝の恐るべきラッシュで通勤ノイローゼにもなりかけていた。そのとき、弟がある専門学校に通うことになったが、その学校が私の職場の近くでもあったので、それを理由に弟と同居するという条件で親を説得し、家から脱出することが出来た。
弟との同居はこれまたいろいろと大変で、兄弟ですら同居は苦労するんだと身に染みた。弟とは基本的に仲はよかったのだが、弟が彼女をつれこむようになってからは非常に疲れてしまった。そのことに文句を言う母親と、彼女の母親との間に入ったりしながら、姉の監督不行届みたいに責められることが耐えられなかった。その後、弟とも別々に暮らすようになり、やっと私はひとり暮らしができるようになったのだ。それ以後は親とはずっと離れて生活している。寮生活時代を加えたら、親から離れて生活する年月のほうが長くなった。
30代になって、ようやく母親と普通にしゃべれるようになった。それは母親に私自身をどんなに理解してもらおうと思っても、無理だということを何回も何回も突きつけられたからだった。いつも母親流の解釈で断罪され、それでまた怒りが湧き起こる。もう無理なんだ…。母親を変えることはできない…。母親の受け入れられる範囲の話しをしよう、と思った頃から憎しみの呪縛から少しずつ解かれていった。時折母親から我慢ならない発言を投げつけられるときがある。それに対しても文句を言うことが出来るようになってきた。お互いに年取ったこともあろう。
しかし、母親と同居しようとはもう思わない。新幹線と在来線を乗り継いで5時間くらいのこの距離が、私と母親を平和に保つ距離なのだ…そう思う。
こうして母親との問題はそれなりに沈着していったと思っていたが、実は別の方向へ転化されてしまっていた。
私は夫との関係に、母親や父親との関係を投影していたのだった。
また、私が新鮮だったのは、寮では自分で自分の行動の責任を取らなければいけない、ということだった。『自分で自分の行動の責任を取る』これは多分当たり前のことだとも思うのだが、今まで私の母親は、いつも侵入的に私の世話を焼いていた。私がぐずぐずしていると、脇から私のやることを奪い取った。例えば家庭科の宿題でパジャマ作りが出た。私が放置しているとさっさと母親が縫ってしまった。「見ていられない」と。私が部屋をちらかしていると、母親はさっさと片付けた。ご丁寧に机の引き出しをくまなく探り、友人との交換日記まで覗いた。お陰で私は家では何もしないだらしない娘になっていた。
それが、寮では自分で自分のことをしなければならなかった。ある日、私は朝のんびりしていたせいで遅刻しそうになり、慌てて制服に着替え、洋服を脱ぎっぱなしで床に散らかして登校した。授業が終わり、自分の部屋に帰ると服はそのまま散らかっていた。私は恥ずかしくなり慌てて片付けた(もし家だったら母親がさっさと片付けている)。このようなことがあったことから、私は自分に責任をもって行動できる力を養ったのだと思う。家にいたら私は何もできないまま大人になっていただろう。うまくいかないことはそれこそ他人のせいにしていたかもしれない。
高校も夏休みや冬休みなど長期休暇があり、その時には帰省した。すると、母親は久々の再開に喜び、いつになく優しかった。私はそれが嬉しかったものだ。たまにあえば母は優しい。しかし夏休みも終盤になるといつもの口うるさい母親になっており、辟易しながら寮に戻ったものだった。
こうして、高校生活では母親とたまにしか会わなかったので、私は母親との問題を棚上げしていた。母親との関係は、大方解決したのではないかと錯覚するほどだった。
(母親は私が寮生活を送っていた間、すべてのエネルギーを弟に注いだようだ。弟への過保護過干渉が度を超し、弟は一時ぐれ、警察に補導されたりしていた。)
問題は高校を卒業後に起こった。
卒業後、私は実家に戻り、家から大学に通うことになった。そして母親との生活を再開。私は以前より更なる息苦しさを感じるようになる。中学生の頃からぐっと我慢していた母親への怒りが一気に噴出したような感じだった。母親にちょっと触られただけで全身の鳥肌が立った。些細なやりとりで感情が溢れて止まらなくなり、母親の前で大声を上げ泣いた。母親への怒りと愛着で心が引き裂かれそうになっていた。そして過食気味になったのだ。食べても食べても満たされない。私はよくお菓子類を買い込んで自分の部屋で密かに食べていた。お腹がいっぱいなのに、口寂しくつい口に入れてしまう。ついに10キロくらい太ってしまった。これではいけない、このままでは私がだめになってしまう…。私はなるべく家から離れていようと、土日はバイトを入れることにした。また、長期の休みなどはペンションに住み込みのバイトに行った。スキー場にあるペンションの住み込みバイトは大変だったが楽しかった。お料理を教えてもらったり、空いている時間にはスキー場で滑らせてくれたして、仕事以外でも楽しむことが出来た。こうしてなんとか大学生活を終え、就職する。職場は家から2時間ほどかかったが、通勤できる距離だったので、少しの間は家から通っていた。
就職し、お給料をもらったとき、私は少し心が軽くなった。今まで親に文句を言いながらも親の世話にならなければ生きていけないという矛盾に自分自身苦しめられてきた。それが、お給料をもらうことで、家に生活費として3万入れ、あとは自分の自由に使えることが、親への罪悪感を軽減させたのだ。この経験から経済的自立は自分にとって、とても大切だと実感する。
そして私は何とかひとり暮らしをしようとした。母親に「ひとり暮らしがしたい」と言ったら、「女の子のひとり暮らしはあぶないからダメ」と即座に否定された。職場は家から通える範囲だったが通勤時間に2時間かかり、朝の恐るべきラッシュで通勤ノイローゼにもなりかけていた。そのとき、弟がある専門学校に通うことになったが、その学校が私の職場の近くでもあったので、それを理由に弟と同居するという条件で親を説得し、家から脱出することが出来た。
弟との同居はこれまたいろいろと大変で、兄弟ですら同居は苦労するんだと身に染みた。弟とは基本的に仲はよかったのだが、弟が彼女をつれこむようになってからは非常に疲れてしまった。そのことに文句を言う母親と、彼女の母親との間に入ったりしながら、姉の監督不行届みたいに責められることが耐えられなかった。その後、弟とも別々に暮らすようになり、やっと私はひとり暮らしができるようになったのだ。それ以後は親とはずっと離れて生活している。寮生活時代を加えたら、親から離れて生活する年月のほうが長くなった。
30代になって、ようやく母親と普通にしゃべれるようになった。それは母親に私自身をどんなに理解してもらおうと思っても、無理だということを何回も何回も突きつけられたからだった。いつも母親流の解釈で断罪され、それでまた怒りが湧き起こる。もう無理なんだ…。母親を変えることはできない…。母親の受け入れられる範囲の話しをしよう、と思った頃から憎しみの呪縛から少しずつ解かれていった。時折母親から我慢ならない発言を投げつけられるときがある。それに対しても文句を言うことが出来るようになってきた。お互いに年取ったこともあろう。
しかし、母親と同居しようとはもう思わない。新幹線と在来線を乗り継いで5時間くらいのこの距離が、私と母親を平和に保つ距離なのだ…そう思う。
こうして母親との問題はそれなりに沈着していったと思っていたが、実は別の方向へ転化されてしまっていた。
私は夫との関係に、母親や父親との関係を投影していたのだった。