こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

final count downなるか?

2007-01-24 22:53:51 | 離婚に向けて
 半年前、私は市役所へ離婚届をもらいに行った。その時、私はまだ自分自身の中で、離婚する気持ちの準備はなかったのだが、とりあえずその気になったらいつでも出せるようにと、書類を取りに行くことを思い立ったのだった。もしかしたら、自分の気持ちを一歩後押ししたかったのかもしれない。
 私は市民課の階へと上った。離婚を受け付ける窓口は、入り口から一番奥にあった。受付は30代くらいの男性だった。私はすぐ書類を渡してくれるものだと思っていたので、「離婚届の書類を下さい」と男性に伝えた。すると男性は疑わしそうな顔で私を見つめ、書類を一揃え持って目の前に並べた。「今調停中ではないですか?」「ご主人も了承済みですか?」「お子さんはいますか?」「名前は旧姓にするのですか?」…次々に質問する男性に私は驚き、「はぁ」とか「いいえ」と答えることで精一杯だった。書類もらうのに、こんなに言われることがあるのか、と思った。男性は何か怒っているような感じだった。表情が淡々としていたので私がそう感じただけかもしれないが。誰だってこんなことしたくないと思いながらするんだよ、お兄さん。そう言いたくなった。
 家に帰ってまじまじと離婚届を見た。これは何だろう、どうしてこんなものを手に入れなければならなかったんだろう…。そして書類を封筒に入れ、引き出しにしまった。

 そして、先日夫から電話があった2日後、私は長い間引き出しにしまい込んでいた封筒を出し、中の書類をテーブルの上にのせた。
 今は夫と別居しているから、普段の生活上でモラハラ被害は受けない。だから平和な生活が永遠に続くと錯覚してしまう。夫からの影響もないし、周囲の人たちにも結婚しているポーズをとりながら気楽に生活できる。それはある意味楽なことだ。
 しかし、夫に何かがあったら…病気や事故、はたまた失業なんてしたら、今の生活に影響がでるかもしれない。夫から何らかの要求があるかもしれない。以前も夫から意味不明な電話があったりして、肝を冷やしたばかりだ。しかも今回も、事務的な用事での電話すら恐ろしくて受話器を取ることができなかった。同じ籍に入っている限りは、いくら生活の場が離れていても私と夫は夫婦なのだ。

 そして、もう決して一緒に住むことも、時間を過ごすこともない夫婦…夫が倒れたって何もしたくないし、夫と同じ墓にも絶対に入りたくない。そんな関係に意味があるのだろうか。

 確かに夫のモラハラから逃れるためには、まず別居し自分の安全を確保することが先決だった。絶望の毎日だった中、一筋の希望を見いだしてからは長い長い時間かけて別居への準備(物質的にも心理的にも)をし、まずは夫から離れて生活することをめざすことにエネルギーを注いだ。そして別居を果たし、しばらくは心のエネルギーが満ちてくるまで、自分をいたわることが必要だった。私の心がはがれそうな瘡蓋だらけの頃は、ちょっとしたことでも涙が出たり、怒りが湧き起こったり、深い喪失感に苦しんでいたので、夫婦関係について他人から意見されることにはとても耐えられなかったと思う。その頃私が必要としていたのは、温かい共感だった。
 ただ、その後年単位の時間が流れ、精神的にもようやく落ち着き、このひとりの生活が当たり前に思えるようになった。加えて、先日夫からの電話のことでモラ被害に遭った方々とも話しながら、もうその時が来たのかもしれない、と感じた。
 かつては夫と過ごしてきた時間が、結婚のために新しい土地に住み、夫との関係を築こう努力してきた日々が無になることに耐えられなかった。結婚はある意味人生において重大な決断だ。自分はその決断を誤ったとは認めたくなかったこともある。
 しかし今になってみるともはや離婚は夫との生活を惜しむというより、親や世間から下手に干渉されたくない、というところで引っかかっているだけだった。

 もういいのかもしれない。
 もう、夫との生活が戻ることはあり得ない。何度も何度も夫との時間、あの場面、お互いの関係を繰り返し思い起こしてきた。そして様々な自分の想いを繰り返し語り、いろいろな方に聴いてもらった。そうやって、今日まで私は生きてきた。
 そう、例え親が何かを言っても、周囲が噂をしても、私の生活は何ら変わることはない。そう、今のまま仕事をし、ひとりの時間、友人との時間を楽しめばいいのだ。
 縁を切ることで、モラ夫とは他人となり、私はまた新たな人生を歩むことができる。新たな出会いもたくさんあるだろう(いい出会いという意味で女も男も!)。私は誰にも気兼ねなく、堂々と生きていけばいいのだ。
 
 
 そして今日、私は夫に離婚届を郵送した。
 さて、吉と出るか凶と出るか…



呪縛からの解放に向けて

2007-01-17 22:25:23 | 離婚に向けて
 先日、自宅の電話が鳴った。私は電話機に駆け寄りナンバーディスプレイを見た。
 約半年前にモラ夫から奇襲を受けて以来(『奇襲』)、ナンバーディスプレイを設置した。今はメールやケータイがあるので、自宅に電話は滅多にかかってこないが、たまにかけてくるのは親や、友人のみだった。その時も親がかけてきたのだろうと思い込みディスプレイを覗くと…覗くと…モラ夫だった!!
 うっ…と衝撃を受けた途端に心臓がドクドクと鳴り出し、手がさーっと冷たくなった。私は固まり、電話を凝視した。留守電のメッセージが流れる。そして夫は電話を切った。何の用だろう。出た方がよかったのか…。いや、出ないためにナンバーディスプレイを設置したのではなかったのか?と自問自答しながらも、こんなに身体反応が出る自分が情けなかった。今まで何事もないと、もう私は大丈夫かなと思ったりもしていたが、何かあれば動揺してしまう有り様…。なんてこった。ちょうど私は家を出るところだったので、「私は家にいなかった」と心でつぶやきながら外出した。
 外出から戻ると、留守電には夫から続けて電話がかかっており、最後にメッセージがあった。「話しがあるので連絡してほしい」と。どうしたらいいんだろう、電話をするべきか、無視するべきか、電話をしたら何を言われるかわからない、無視したら家まで押しかけてくるかもしれない、どうしよう…こわい…怖い! 再びモラの恐怖が襲ってきた。鬼のような夫の形相。「おい、いるんだったら返事くらいしろ!」と怒鳴られるのではないか…。
 
でも私はもう夫とは住んでいないんだ。そして私はひとりじゃない、私には相談できる仲間がいるんだ。やっとそう思い、モラハラ特別対策本部に通報(!?)して、なぜかセーターをテーブルにのせ、糸切り鋏で毛玉の掃除を始めた。夫に意見した瞬間罵倒されたことを思い出す。もうあんな思いはたくさんだ…。シャキ、シャキ、と毛玉をひたすら取りながら心が落ち着くことを待った。シャキ、シャキ、シャキ…だんだんと冷静さを取り戻してきた。3枚目のセーターの毛玉をとったらだいぶ穏やかな気持ちになった。自分で自分を追いつめることはやめよう。何も相手から攻撃されているわけではないのだから。
 そしてモラハラ特別対策本部の方々からユーモアある思いやりと力強い励ましと共に、今後の対策についても考えていただいた。私の心はすっかり軽くなった。

 その後夫からの電話はなく、代わりに郵便物が送られてきて、連絡の理由を知ることになり、とりあえず脅かされる内容ではなかったのでほっとするのだが…。
 しかし私はいつまでこうやって、夫から何らかの連絡がある度に恐怖を蘇らせて凍りついてしまうのだろうか。今のままの状態(別居)を続けていたら、夫に関係することで連絡が来ることもあるだろう。その度に、水底に沈殿して目に付かないヘドロが衝撃に煽られて舞い上がり、忘れていた嫌な感情に覆われ、自らを縛り付けるのだろうか。

 夫の言動はモラルハラスメントだと知ったその時から、私は何とか夫から離れようと考え密かに心の準備を進めてきた。そして、決死の覚悟で別居することができた。その時は、まず夫から危害を加えられないように、安全に離れるこことが最大の目標だった。
 そして別居してしばらくは夫の影に怯えたり夫への怒りに苛まれながらも、徐々に落ち着きを取り戻し、安全と安心を実感するとともに、自らの感情や考え、行動を自由に表現する幸せを、しみじみと噛みしめ味わうことができるようになった。それだけで私は満足だった。

 同時に夫婦生活の煩わしさから解放されながらも、結婚生活を保つことができる(籍が入っている状態)ことは、世間に何も弁明しなくてもいい、という便利さがあった。だから一部の人を除いて、大部分の人は私が別居していることを知らなかったが、「ご主人は元気?」「お正月はご主人の実家に行ったの?」「結婚しているの?」「連休はご主人とどこかに出かけたの?」などという日常会話にも、いつもと同じように答えることが出来た。これはとても気楽なことだった。離婚したら、職場の人や顧客、知人などの何気ない会話に出てくる家族や夫の話など、どうやって答えたらいいのだろう!?と悩んでしまうのだ。いちいち詮索されることも嫌だったし、夫とこのような関係に追い込まれた状況自体を理解しても、自分ではなかなか受け入れられない部分もあった。私は夫と仲良く暮らしたかったのに…夫のモラハラさえなければ、こんなことなかったのに!と心のどこかでしこりがあった。加えて私の母親の不満があった。母親は『離婚』という文字にこだわっていた。「まあ別居だったら、結婚解消するわけじゃないから今まで通りでいいもんねぇ。名字だって変わらないからわからないわよね。」と言い続けた。母親の姉妹やその子どもに離婚した人はいない。母親の友人は孫自慢をする人も多い。そんな中で自分の娘が子どもも作らず、離婚した、ということは母親にとって耐えられないことなのだろう。

 そして、私自身も離婚したことによって、それを周囲の人に知られ、興味本位の目で見られるのではないかと思うといたたまれなかった。こんなこと、誰が望むだろうか?ただ私の友人知人にももちろん、離婚した人もいる。そんな友人には「いろんな人生があって当たり前だよね」と言いつつも、自分自身が実際に体験するとなると、なかなか受け入れられないのだった。私は情けなかった。あれこれ考えずに堂々と言えばいいのだろう、とも思う。私の仕事関係の人に、シングルマザーが何人かいる。最初彼女たちに会ったときに驚いたのは、私が聞きもしないのに自ら「私、シングルマザーなんです」とニコニコと自己開示するのだ。そしてサラッと家の事に触れ、サラッと仕事の話しに入っていく。シングルマザーは強いな~、すごいな~、とただ感心することがよくあった。あんなふうに強くなれればいいな…私はきっとまた自ら壁を作っているのだろうな…。そんなふうに思った。

 モラハラ特別対策本部の方は「離婚したらもうモラ夫とは関係ないんだから、他人になるんだから、怖いことなんてなくなるよ」と話してくれた。その通りだ。現在別居していて、夫とは日常的に接触がないから気楽にいられるが、たまに接触があると激しく動揺してしまう。それはまだ夫とは婚姻関係にあって、夫からの影響力が私に及ぶのだと思っているせいだ。もう夫とは他人になることが一番いいのだ。


 私はいったい何にしがみついているのか。
 私は決断できるのだろうか…。



モラハラの呪縛

2007-01-07 13:06:28 | モラル・ハラスメント考
 私は、夫そして職場の上司からモラハラを受け、随分長い間、混乱と苦しみにのたうち回っていた。重い足を引きずり、泣き出しそうになるのをこらえ、冷たい憎悪に怯え、自らの怒りに身を焦がされ、日々を過ごしていた。八方ふさがりに思えた毎日だったが、モラハラという言葉を知り、自分が置かれている状況を理解し、未来は自分で選択できるのだと気づいた時から一筋の光を見いだしたのだ。その光を懸命に求め、夫や上司によって築かれた強固な壁が何でできているのかを調べ、それに合った方法を模索しながらコツコツと切り崩していった(ブログ左のカテゴリー『モラ脱出の道』に詳細があります)。その壁の割れ目からどんどん大きくなる光に励まされ、ひとつひとつ瓦礫を取り除き、やっとその強固なモラの世界から脱出することができた。
 よく見ると、その壁は夫と上司と共同で私も一緒に作ったものだった。私は「自分にはできない」「夫や上司に何とかわかってもらいたい」と思いこむことで、益々自分を追いつめていたのだった。

 モラハラを行使する人とその場所から脱出したら、全ては解決して楽になるのだろうか?
 まず物理的に距離を持つことで、今後は同一人物から日常的にモラハラを受けることはなくなる。そして心から安心してくつろげる自分の空間を手に入れることができる。これらは自分を取り戻す上で、非常に大きな要因となる。
 しかし私が感じたひとつの困難は、モラの影に怯える自分自身の心だった。

 モラ上司、そしてモラ夫から離れたときも同じような感覚を覚えたが、一番恐ろしかったのは、再びモラと接触することだった。もし電話が来たら私は冷静に話すことができるだろうか?もし道でばったり会ったら私はどんな顔をしたらいいの?なにを話せばいいの?そのことを考えると私は手が冷たくなり、胃が締め付けられるようだった。

 夫の場合は、「夫とはもう暮らせないので別居する」と「NO」メッセージを伝えることが出来た上で離れたので、まだ自分の思いに矛盾はなかった。ただまた嫌がらせをされたらどうしよう、という恐怖は非常に大きかった(ブログ左カテゴリー『別居その後』に詳細があります)。
 しかし上司の場合は、職場を辞めた際の理由は「家の事情」だった。職場を辞めるときには、後々のことも考えると本音を言うことはできない。その後の就職先に、何がどのように伝わるかわからないし、たとえ人間関係で悩んでもそれを表面化させずに終わらせるという、大人の振るまいを求められる。本当はこの酷い上司の行いを白日の下に晒し、万民に訴えたいくらいだったが、そうもいかないので、一応笑顔で退職できるような口実を設けた。しかしそれは後々までずっと納得いかないしこりとなって残った。しかも退職後、しばらくしてから上司の電話を受け「トラブって辞めたわけじゃないし、遊びに来て」なんて言われることの悔しさったらなかった。本音をぶつけられないもどかしさと、相反する態度を見せなければならないという矛盾した自分の行動は思った以上に私を縛り付けたのだ。
 私はモラ上司の下を離れた後も同じような業種の仕事をすることになったので、いつどこで会うかわからない。もしかしたら職場に電話がかかってくるかもしれない。そのとき私は相変わらず笑顔で答えなければならないのだろうか…。それを思う度に私の中の怒りと憎しみが燃えたぎった。あんなに酷い目に遭っていながらどうして本人はのほほんとし、私ばかりが苦しまなければならないのだ…。そんな思いがずっと消えなかった。
 退職して1年半後、あるセミナー会場でモラ上司の後ろ姿を見た。そこは200人以上の会場だったので、顔を合わせることは無かったが、確かにあの上司だった。その瞬間、私の胃が締め上げられ動悸が激しくなった。そんな体の反応も私自身を動揺させた。1年以上も会っていなかったのに、後ろ姿を見ただけでこの有様はなんだろう。私はこれから先もモラの呪縛に苦しみ続けるのだろうか…。気分の悪さと胃の痛みに耐えながら何とか研修を受け、終了したらすぐに会場を後にした。
 それからしばらくモラ上司から受けたモラハラやその時の生々しい感情が蘇り、私を苛んだ。私はここまで憎しみや過去の出来事に取り憑かれる自分自身をも嫌悪した。私はこんなに根深い人間なのだろうか。いい加減すっきりできないのだろうか。

 ある時、今の職場の支店にいる女性部長と話しをしたときのことだ。職場の人間関係の話になり、私は元上司との関係で苦しんでいることを少し伝えた。するとその部長は過去の苦い思い出について語ってくれた。「私がとっても信頼していた先輩から、信じられないような裏切りを受けたことがあってね。今でもそのことは忘れられないし、棘みたいになって心に刺さってるわ。」と。その部長はいつもしゃきしゃきとしていて、有能でセンスのいい女性だった。その部長でさえそんな思い出があるのか…。そう思ったら少し心が軽くなった。自分だけが執念深い性格なのではないか、とも思っていたからだ。
 そして、あの研修でモラ上司の後ろ姿を見てから2年後、うちの職場にその上司から電話があった。それまでモラ上司からは業務上の電話があったらしいが、他の人が受けていた。しかし今回はたまたま私がその電話を取ってしまった。私にとって恐れていたことだった。「あら、ウメさん、久し振り。元気にしてるの?がんばってるみたいね」という苦々しいくらいの明るい声。私はとっさに「はい、元気です。ここでは○○の仕事をさせていただいていて、がんばってやっています」と答えた。それが精一杯の、私の言えるセリフだった。そして担当の先輩にその電話をすぐつないだ。
 私は自分のセリフを反芻した。これでいいんだ。これでよかったんだ…。他の職場で生き生きと働いている自分を、はっきり伝えることができた。この一件で私はかなり吹っ切ることが来た。

 モラの呪縛から離れて行くには時間が必要だ。人によっては長い時間が必要かも知れない。私も何年もかかって、少しずつ呪縛を解いている。そしてひとりで我慢するのではなく、誰かに話すことが大切だと思う。何回も繰り返し話すことだ。あるときはブログで、ある時は友人に、ある時は親しくなった職場の人に、何気なくある場面を話してみる。そうすると、思わぬ共感や、別の視点が与えられる。そして、少し客観的に自分を見つめ、過去の場面の意味を別の意味で捉えられる。そして少しずつ楽になってくる。
 
 モラハラの後遺症は思った以上に手強い。モラの呪いはなかなか解けない。しかし方法はある。一つは時間、一つは話すこと。「話す」ことは「放す」ことだとどこかで聞いた。そう、私は話すことで、モラの囚われや自分自身の縛りを「放す」ことができた。様々な感情や思いを放せば、私はもっと楽に生きていける。大事に呪縛を抱え込みしまい込むことはもうしない。
 傷跡は残るだろう。寒くなったら疼くかもしれない。でももう膿んだり発熱することはない。その古傷によって、私はひとつ賢く強くなった。モラへの対処法を知ったこと、そして困難を乗り越える力を身につけたこと。

 それは皆さんが放してくれた体験から学び、いただいた、貴重な知恵と力です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。