こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

異性観

2007-04-22 21:10:29 | モラハラエッセー(離婚後)
 子どもの頃の私は丈夫で滅多に病気にならなかった。子どもがかかるお馴染みの病気には順番になったが、それ以外は風邪も殆ど引かなかった。反面弟は小児喘息で苦しみ、両親も心配したものだった。夜中に弟が発作を起こすと親はつきっきりになり、私はぽっつんとひとり取り残されたような気がしたものだ。
 そして私は母親から殆ど褒められたこともなかったので、「優しさ」というものに慣れていなかった。だからたまに近所の人に何かで褒められても、どんな顔をしていいのかもわからず、喜んだらいけないような気がして、ただ困った顔をして黙っていたことを思い出す。
 私は母親からいつも文句を言われる分、父親には認められたかった。ただ父親は自分の感情や思いを表現する人ではなく、いつも無口だったため、よくわからない存在でもあった。多分母親もそんな思いはあったのだと思う。たまに母親が「黙っていられるとどうしていいかわからないから、何とか言って」と父親にくってかかっていたことを思い出す。それでも父親は黙っていた。そして家のことは全て母親に任せていた。
 ただ、私は父親をどこか尊敬もしていた。家で仕事をすることもあった父親は、黙々と何かに向かっているように見えた。母親みたいにちまちましたことで怒らず、何か別の大切なことを知っている気がした。そんな父親観が、私の異性観に少なからず影響を与えている。

 私が10代の頃に惹かれ付き合ったた男の子は、非行に片足つっこんでいた子だったり、明るく振る舞っているけれどどこか憂いがあるような男の子だった。そんな彼を理解して受け止めてあげたい、という気持ちがあったのだと思う。
 仕事を始めてからは、年上の男性に惹かれた。しかも10以上年上の男性だ。ただそんな男性は結婚していることが多く、それがわかるとすぐあきらめた。その男性を奪い取るほどの情熱はなかった。またその男性に懐いている私、というポーズを周囲にも取っていたため、ウメの憧れは○○さんなんだよね、とおおっぴらに言われていたし自分もそうだと言っていた。そんなことを繰り返して単に片想いを楽しんでいたような時があった。

 そしてモラ元夫との出会いがあった。モラ系男性には出会いの頃から共通点があるようだが、モラ元夫もそれにもれず、とにかく私にしてみたら破格?に優しくされた。車でいつも迎えに来てくれ、送ってくれ、プレゼントをくれ、手料理をご馳走してくれ、臭いセリフを吐き(爆)、優しさに慣れていなかった私は、びっくりしたものだった。どうしてこんなに優しいの?その答として、モラ元夫は「好きだ」とか「大切だから」だとか言うものだからそういうストレートな言葉の免疫がなかった私はぽーっとしてしまったわけだ(苦笑)。そしてもっともらしい人生苦悩ストーリーを語られた日には…私の「わかってあげたい病」が発病するのも時間の問題だった(爆爆)!

 そのなれの果てがモラ男に散々してやられた私だ。ただそれをきっかけに、モラ男の生態及びモラのメカニズム、そしてモラを選んだ私自身の研究をしたことで、私が何をすべきかがわかり、再独身生活を送ることになった。それは正解だったと確信している。
 だから、私はよくよく自分を戒めていた。私が惹かれる男は“キケン”印だ。私が惹かれる男は何かある。だからよくよく用心しなくてはならない。そう思っていた。そして私はモラ元夫と別居する直前に、優男と知り合っていた(爆)。。。

 優男は、職場の別の課にいた年上の男性だ。落ち着いた雰囲気に好印象なルックスを持ち、誰もが認める、誰に対しても優しい男性だ。それなのに、なぜ独身?と思っていたら噂に聞いたところによると、彼の弟が生まれつきの難病を患っており、両親もその治療費や手術代を捻出するのにとても苦労したらしい。もちろん彼も働きだしてからはその家計を助けていたのだが、今度は母親が癌で倒れたそうだ。その医療費がまた家計を圧迫し…の繰り返しで彼女を作るどころではなかったらしい。「ふ~ん、苦労しているんだなあ」というのが最初の感想だ。(キケン!爆)
 そして別居前に優男がいる課と一緒にある仕事を行うことになり、彼と連れだって営業に行ったり、資料を作るために打ち合わせと称して飲みに行ったこともあった。その時の彼がまた優しいのだ。資料や荷物はさっと持ってくれる、ドアを開けてくれる、私が肩凝ったとつぶやけば次の日湿布を持ってきてくれる。誰にでも同じ、と思っていても…その頃モラ元夫との生活で疲弊しささくれ立っていた私の心に、その優しさがスーッと染みこんでいった。夫婦だってこんな思いやりはなかった…そして案の定彼に少しずつ惹かれる私があった。
 やっとモラ元夫と別居して少し日がたった時、仕事帰り歩いていたら偶然優男と出会った。その日は映画を観ようと思っていたので、つい魔が差して(←嘘)「これから○○って映画観に行くんだ~」と言うと「へぇ、面白そうだね。僕も観に行こうかな」と優男は言った。その時の優男は「僕も映画好きだけど、最近ほとんど観ることがなかったから、また観たいなぁ」なんてことを言っていた。そして一緒に観に行ってしまったのだ。その後はお茶だけ飲んですぐ帰ったが…(^^;)でもモラ元夫と離れたことで、こんなに自由に行動できると思うだけでも解放感を覚え、もしかしてこれも出会い?なんて思ったりした。
 その当時の気持ちは、ふとモラハラ同盟の掲示板に投稿したことがある(知る人ぞ知る・苦笑)。ただこれがどんな結果を引き起こすのかと思うと、慎重に冷静に、と自分にブレーキを踏んでいた。やはりモラ元夫のことで、もう男はこりごり、という気持ちも正直あったからだ。

 そして優男とはちょっと仲良しの友人、くらいにはなっていたと思う。たまに飲みにいったり、映画を観たり。でも心のどこかで「やっぱりちょっと違うな…優しいけど、なんか彼は自分がないような…」と感じていた。だから必要以上に親しくならないように気を付けたし、優男もそれ以上踏み込んでこようとは決してしなかった。なので一見穏やかな友情は続いた。ごく普通の男女だったら『2人は少しずつお互いへの友情を、静かな愛へと発展させていった』と、恋愛物語になるのかもしれない。

 しかし…やっぱり、と悟ったのだ。やっぱりデンジャラスなタイプだったのだ~~~(> <)
 気づいてよかった~~。。。
 誰にでも優しい優男のデンジャラスな部分とは!?     

 次回明らかになりま~す。。。

母の世界

2007-04-17 00:01:59 | モラハラエッセー(離婚後)
 先日母親から「元気なの?」と電話があった。つらつらとおしゃべりをした後、母親は「でもあなたたち、いつまでこのままなの?お父さんも心配してたわよ。モラ雄さんからは何の連絡もないの?」と言った。私は一呼吸置きちょっとどきどきしながら「実はさ、離婚したよ」と言った。「いつ?」「この前」「あら…なんですぐ教えてくれなかったの?」「まあ生活上は今と変わらないし…別居した時から離婚してたようなもんだよ」「もしかして、好きな人でもできたの?」ハァ?(_ _;) 母親はいつも突然妙な質問に走る。モラ雄と結婚したいと話したときには、突然「その人ハゲてないでしょうね!」と叫んだ…。
 「好きな人なんていないよ」「でもひとりで年取るのも寂しいわね…」「別にいいよ。遠くの身内より近くの他人だよ」「まあねえ。ところで、離婚したこと誰かに話したの?」「別に取り立てて報告するようなことでもないから、こっちの友人に話したくらいだよ」「そう、○○ちゃんとか△△ちゃんには話さないでね!あの辺のお母さん達にばれたらすぐ広まるんだから…」ばれたらって…(- -;) 私の中学時代の友人の母親達は、私の母親をとりまく人間関係と密接につながっている。そこに知られるのが嫌なのだ。「別にいいじゃん。離婚なんてそこら中にあふれてるよ」「何言ってるの!わかったらまたどんなこと言われるかわからないんだから!」

 母親はいつもこうだ。私の人間関係より、私が友人に言えない寂しさなんて全く関係なく、いつも自分が世間様からどうみられているかを気にする。自分の体面が一番大切なのだ。どうして「離婚になって大変だったね」とか「離婚なんて気にしないでいきなさい」とかいう言葉が出ないのだろう。
 母親は続ける。「でももしあなたのダンナのこと聞かれたらどうしよう…」「お母さんの好きなように言ったらいいじゃん。そんなこともうどうでもいいよ」「職場がお互い遠いから単身赴任してるって言おうかしら。それで滅多に会わないって」「私はもうどうでもいいよ(苦笑)」「こっちが困るのよね。聞かれたら」「……。」「名字変えてないんでしょ?」「変えてないよ。仕事とかの手続きが恐ろしく大変になるからね。他の人もわけわからなくなるし」「職場の人には言ったの?」「別にとりたてて報告するようなことでもないから特に言ってないけど」「そうよね。言わなくてもいいわよね。そうすればわからないものね」いい加減むかついてきた。

 話題を変えることにした。「そういえばお父さん元気?」「元気になったわよ~。ようやく少しだけ散歩もするようになったしね」「それはよかったね」「それにしてもサクラさん(弟の妻)はお父さんのこと何も言ってこないのよね~。お見舞いには来たけど、その後どうですか?とか。普通聞くもんじゃない?これって親のしつけの問題よね。あの親も気が利かないから、きっと娘にそういうことを教えなかったのね」…ぉぃぉぃ…もう30過ぎた大人に向かって親のしつけもないだろ?じゃああなたは完璧にしつけをしたと?と、また腹が立ってきた(苦笑)。

 ま、母親の世界は変えられない。ずっと昔からわかっていたことではないか。理解してもらおうなんて思っても仕方がない。でもこれでもきっと母親なりに受け入れがたい現実を、なんとか消化しようとしているのだろう、と思うことにした。
 私は私の世界でのんびり生きよう。母親の世界には、たま~~~に訪問するくらいでいいのだろう。ま、これでもまだましなやりとりができたのかもしれないね。やれやれ…。


 ところでモラハラ同盟の大ママさんからお知らせです。*************************************************************************

みなさまへ

昨年10月、「週刊ポスト」に短期連載された「離婚までの昨日今日明日」が大好評
につき、
小学館より4月12日、「男と女の離婚格差」というタイトルで出版されました。
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solrenew_detail?isbn=9784093797498
これに伴い、4月16日(月)発売の「週刊ポスト」にモラハラ特集記事が掲載され
ます。
今回は被害者3名が取材に応じて下さり、「我が家のモラハラ」について語っています。
ライターは本と同じ石坂晴海さん。前回の記事ではモラハラ以外の夫婦問題にもふれて
いましたが、今回はモラハラ一本!気合いを入れてご購読下さい。

ひとりでも多くの方にモラハラを知らせるため、コピペは大歓迎です。
よろしくご協力をお願いいたします。

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このところモラハラ大ブレイクですね!




渇望

2007-04-09 22:48:39 | モラハラエッセー(離婚後)
 私が子どもの頃から渇望し続けたことは、母から理解され受け入れられることだった。今そう思うと、母親業とは大変な仕事だ、と感じる。母だって人間だ。きっといろいろ苦労を経験し、母となったのだ。神さまのように常に慈悲深くあるわけがない。なのに子どもは常に飢えている。身体的にも、精神的にも、母を求め母の時間と愛情を喰らおうと要求し続ける。母も苦しい。子も苦しい。人間とはなんてしんどい生き物なのだろう…。
 
 私が幼少の頃、ぼんやりと周囲のことを把握し、ものごころついたときには、母親は常に怒っていたことを覚えている。「しっかりしなさい」「早くしなさい」「あなたはお姉さんなのだから」と言われていた。気が付いたときには、弟がいて母親の関心の大半を私から奪っていたように感じていた。私が話そうとすると、弟が話しを奪う。弟と喧嘩になると「お姉さんなんだから我慢しなさい」と言われる。私は嫌いな食べ物も黙々と食べ、弟は好きな物だけを食べた。家族のメニューが、弟の嫌いな魚だったりすると、弟だけお肉料理が特別に用意されたりしたのだ。
 あとから聞くと、男兄弟がいる友人もよくそんなことがあったらしい。しかし当時の私には、母親から差別されているようでとてもくやしく悲しかった覚えがある。

 私は家ではむっつりと黙り込み、母にとって扱いにくい子どもになった。何しても怒る母、私のやることなすことに干渉する母。私は母から殆ど褒められたことがなかった。なので、他人から褒められるとどういう顔をしていいのか、どう表現したらいいのかわからなかった。嬉しがったらいけないのだと、褒められても浮かれずに「とんでもない」と言うか、「いやいや」と知らんぷりしていることがいいのだと思っていた。大人になっても、しばらくはそう思っていたものだ。30過ぎてからだろうか。褒められたら「ありがとう」と嬉しい顔をしていいのだと知ったのは。

 私は母親からの怒りを回避するために黙り込むことに徹した。大声で泣き叫びたいときも、そうしたら余計母親の怒りをかい、母親の気を狂わせてしまう、とひたすらだんまりを通した。すると母親は「おまえは何を考えているのかわからない!」とまた怒った。そして怒りながらも、私に干渉し支配しようとした。
 私はなぜ母親がこんなに怒っているのか理解できなかった。どうして母親は私を理解してくれないのだろう。受け入れてくれないのだろう。そんなの、おかしいじゃないか。母親だったら子どものことを理解するのが当然だろう!どうしてこんなに自分の思い通りにしようとするのだろう、と思い、自分を理解してくれない母親を憎んだ。憎みながらも渇望していたのだ。その矛盾した自身の思いにに心が引き裂かれそうだった。
 
 そしてそれに耐えられず、私は早々に家を出る手段を得、母親から遠く離れたのだった。そのお陰で自分で考え行動する力を身につけることはできた。しかしその後、私はなお母親に執着し続けたのだ。母親はなぜあんなに怒っていたのだろう。なぜあんなに過干渉だったのだろう。なぜ自分の思い通りにならない私を理解しようとせず、きちがいじみた支配を続けようとしたのだろう。私はもっと母親に理解されたかった。受け入れてもらいたかった。なぜそれが母親にはできないのだろう?母親はいつも自分が中心だった。私が思うようにいかないと「私はそんなふうに躾た覚えはない」、そしてわずかながらも私を認める発言は「私の育て方がよかったから」だ。では娘の私自身はいったいあなたのどこにいるの?答のない問いだけがいつも私の頭にあった。それが10代後半になって、過食気味になったり、母親に対して突如ヒステリックに泣きわめいたりする、という自身の反応も引き起こしていた。母親の嫌いな喫煙もこっそり始め、隠れヘビースモーカーになっていた。

 そしてその疑問は、ついに母親研究へと私を駆り立てた。私は非行、家庭環境、虐待、心理学関係の本を読み続けた。そして『親も子どもの頃があり、そこで辛い経験が多いと、心の発達過程において問題が生じる。それが自らの対人関係や子育てにおいて投影される場合がある』ということがわかった。
 母親は戦中生まれだ。田舎に疎開していたようだが、多分生活は大変だったのだろう。母親はもともと7人兄妹の真ん中に産まれた。そのうち2人を子どもの頃の病気で亡くしている。祖母は悲しみの中、大変な生活を送り子どももいろいろ我慢したりして成長したのかもしれない。戦後も祖父の仕事の関係で何回か転居している。激変する時代の中で成人した母親も様々な思いやあきらめがあったのかもしれない。母親自体が満たされない心をもっているんだ。それを子どもにぶつけてしまったのかもしれない…。

 私は心理学関係の専門書を読みながら、そのように憶測した。そして「母親も大変だったんだ。母が私を憎んでいたわけではないんだ」と勝手に思うことで、自分を納得させ、母親に対しての怒りも鎮火していった。その頃は、私も就職し親から離れて住んでいたこともあり、親に頼らず自分で生活しているんだ、ということからくる精神的な落ち着きと、直接干渉されなくなったことからの落ち着きがあった。
 そして、母親は母親が生きてきた上でのものさしでしか、世間を、人間を見ることができないんだ。それは彼女の責任ではなく、彼女を取り巻く時代や環境がそうさせてきたんだ。そう思うことで少しでも母親を許すことができた。そして私自身の心も少しずつ軽くなってきた。
 加えて20代半ば前後のこの頃、私がたまに帰省すると母親は喜んで、たまに洋服などを買ってくれたり、ひとり暮らしは大変だからと家にある食材を持たせてくれた。それも私の心を慰めたのだ。ただたまに会うから双方の喜びがあるわけで、1週間実家にいると、いつのまにやら母親の説教が始まり険悪な雰囲気になってしまうのだ。そして私は心の中で悪態を付きながら自宅に帰ることになった。


 ある程度、相手の事情や行動の意味を知ると、こちらも納得するところがある。そういう理由があったのなら仕方がない、と諦めがつくときもある。私もそうしながら母親の事情を知り、憶測し、楽になったところがある。
 しかし問題は、私が勝手に調べ、憶測し、わかったように思っていたことだった。私に足りなかったことは、もっと母親とぶつかることだった。もっと母親と話し、喧嘩し、思いをぶつけられればよかったのだろう、と思う。

 私は母親を勝手に理解し納得するだけだった。そして相変わらず母親は私に会うと言いたいことを言っていた。なんだか一方通行だ、と感じた。でも人は親子でも理解しあえないものだから仕方がないのだろうか…。

 そんな時、元夫に出会った。元夫は、私を受け止め理解してくれる存在に思えた。

 母への渇望が背中を押した… コワ~イ