こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

我慢の子

2007-03-31 22:06:05 | 私のこと
 思えば私は子どもの頃から、いつも我慢をしていたような気がする。半ばそれが習慣づいてしまったような、そうしなければいけないと思っていたような節がある。

 私は両親の第一子だ。ただ正確に言うと、母親は私を産む前に一度流産していたらしい(このことは父親から聞いた。母親は自分から流産については一切言わなかった)。だから私が産まれるまでにはきっと普通以上の神経を遣ったことだろう。そしてよく言われることだが、第一子は若い親にとって初めての子育てなので、つい過剰に構い過ぎたり心配しすぎたりしてしまうらしい。私もその影響を多分に受けたと思う。
 幼い頃、私は母親に何を言われていたのだろう。よく覚えていない。だがいつの頃からか、母親は年子で産まれた弟にかかりきりで、私に対して「しっかりしなさい」とか「こうしちゃだめ」ということをよく言っていたような気もする。こんな光景はどこの家庭にもあることだと思うのだが…。

 いつの頃からか私はいつも我慢をしていた。特に思い出すのはトイレだ。幼稚園児だった私は、おしっこがしたくなってもいつも我慢していた。いつもぎりぎりになるまで我慢しているのだ。そして我慢できなくなり、トイレに走るが間に合わずよくそそうしてしまった。それがとても恥ずかしかったのだが、どうしても我慢しすぎてしまうのだ。その癖で便秘症にもなった。ついつい我慢してしまい、子どもの頃、1週間くらい出ないことはざらだった。母親は「あなたがもっと小さいときも便秘症でね。よく浣腸したわ」と言った。幼児の頃から我慢していたのか、私は…。この便秘症に後々まで苦しめられた。
 欲しいものを我慢することも当たり前だった。食事のおかずも、まず嫌いなものから食べ、最後に好きなものを食べた。母親に何かが欲しいとねだっても、「我慢しなさい」と言われ続けた。私は時に泣いたりしたが、すぐあきらめるようになり欲しいと言わない子どもになっていた。お年玉をもらっても、親が「貯金しなさい」と言えばまったく使わず親の言うまま貯金した。洋服も私の好みは却下され、親がよかれと思うデザインや柄のものを与えられた。おやつも親がよかれと考えるものだけを食べさせられた。例えばスナック菓子禁止だったので、子どもの頃は家でスナック菓子を食べたことがなかった。他の家に遊びに行った時だけ口に入る憧れのお菓子だったのだ。
 母親が怒っているとき、私は口答えもせずに黙って説教を受けた。母親の説教は長かった。何だかわからないが延々大きな声で私をなじるのだ。私は正座して母親の説教を受けながら何度も気が遠くなるように感じた。ある時などは、絨毯の上に正座して延々説教を聞いていたら、その絨毯が突如果てしなく広がっていくような錯覚に捕らわれ、驚いて泣いたことがあった。意識が朦朧とし、幻視を見たのだろうか?あれは不思議な感覚だった。そして私は母親が説教し始めると、空想を始め、その中で遊ぶようになっていた。そうすると母親が何を言っても遠くの音としか聞えず、少しでも辛さを紛らすことができた。
 この癖は、元夫が私に向かって延々怒鳴っていたときにも発揮された。私は黙って聞く振りをしながらいつも別のことを考えていたのだ。そうしてモラストレスを緩和させていたように思う。

(ちなみに弟は私とまったく逆だった。欲しいものを手に入れるまで泣きわめき、好きなものは真っ先に食べ、嫌いなものを平気で拒絶した。お年玉をもらうと、それですぐ自分の欲しいものを買い、母親がそれをたしなめると暴れた。弟に甘い母親に私はいつも怒りを感じていた。)
 
 そして私はいつの間にか、家では殆ど話さない無口な子どもになっていた。母親が「ピアノを習えば」と言えば「やってみる」と答えた。「そろばん習った方がいいわよ」と言われれば「そうかな」と言うとおりにした。そして習い事をし、練習をしても、心からやりたいと思っていないので、なかなか上達しなかったし、それを母親に責められ苦しかった。

 私は自分が何を欲しているのか、何がしたいのかよくわからないときが多かった。それがまた私を不安にさせたが、それを表に出してはいけないと思っていた。何があっても我慢しなければならない。嫌なことがあってもそれを顔に出してはいけない。そう思い続けた私は、一見落ち着き動じない子になっていた。周囲の大人は「ウメちゃんは落ち着いているわね~」「しっかりしてる」と言い、友達は「ウメはいつも冷静だね」「慌てないよね」と言った。当時、私も自分ってそういう性格なのかなと思っていたが、後から考えれば全然違うのだった。心の中ではいつも不安でどうしていいかわからなかったが、それを我慢して見せないだけだったのだ。何かあれば動揺しても、行動に出せずただ固まっていただけだったのだ。そうやっていつも平気な振りをしていた。冷静な振りをしていた。

 だから私は自分の考えや行動に自信が持てなかった。自分の意見をもつ、ということがよくできなかった。他の人たちの言うことをいつも客観的なふりをして聞いていたが、実は自分の判断や考えがわからず、うまく表現できなかったのだ。
 それは話し方にも現われた。単なるおしゃべりの時はまだいいのだが、改まって自分のことを話すとき「こんなこと言っていいんだろうか…」と絶えず心のどこかで不安に思いながら話すものだから、小さい声でもごもご話してしまうのだ。相手はよく聞えず「え?」と言うと、私はますます自信がなくなってしまい「いや、なんでもない」と言ってしまうことも度々あった。

 中学生の頃になると反抗期も相まって、ますます母親と話さなくなり、また母親の過干渉がたまらなく嫌になり心が壊れそうになる寸前、家から脱出した(『母からの脱出』)。家から離れることによって、いろいろなことを自分でしなければならなくなったため、随分鍛えられ自分を取り戻していったと感じる。しかしこの我慢の傾向は、後々の人間関係で少なからず影響を及ぼした。一番発揮したのは、やはり元夫との生活だろう。私は元夫との生活で、こんなに自分の課題が噴出するとは思いもしなかったのだ。
 自分の家族との関係が、元夫に投影されていたな、と思うことは多々ある。それは今思うと笑えるくらいだ。象徴的だったのは、元夫と私の母親の誕生日が同じだったこと…。それを初めて知ったときは運命だと思ったが、それは…呪いだった(爆!)

 やれやれ…

 今、私は我慢しない大人になった。子どもの頃よりわがままになった。辛抱がきかなくなった。
 おかげでベンピが治った…(爆)!



他人の事と自分の事 2

2007-03-25 14:25:32 | モラハラエッセー(離婚後)
 今付き合っている人は危険な男だ、と知った彼女は、その後も少しの間悩んでいたようだった。ある日の昼休み、例の3人組でお弁当を食べながら、彼女に「あの彼氏とどうなったの?」と聞いた。すると彼女は「実はこの前彼にメールしたんだ」「なんて?」「もう別れましょうって」「えー!すごいねー!?」もうひとりの女性社員と思わず歓声をあげた。私は彼女の決断の早さに驚いていた。私なんてモラハラという言葉を知り元夫がどのような人間かわかってから、半年以上かけてやっと別居したというのに。「そしたら彼、なんて言ってた?」「それが…自分が悪かった、またやり直そうってメールがきたあとに何回も電話がかかってきてね。それを見たらまた優しい彼に戻るんじゃないかなーって、やっぱりもう少し付き合ってみようかって悩んじゃって…」「いや、それはやばいよ。絶対また暴力的なことが起こるって」「多分そう思う。友だちにも相談したらきっぱり別れた方がいいって言われたし」「好きになった人だから悩むのはよくわかるけど…きっとまた思い通りにいかなくなったら暴言吐いたりするよ」「私もそう思う。今までもそんなことが多かったから…。やっぱりもう一度彼に話しをするわ」「会うの?大丈夫?」「会ったら何されるかわからないから、メールするよ」「それがいいよ。何か危険なことがあったらすぐ知らせてね。それか警察だよ」「うん、相談する」

 その後の彼女はしばらくモラ彼と戦い続けた。彼女は再度メールを送り彼の番号を着信拒否に設定した。するとモラ彼は家に電話をし、電話に出た彼女の親に、彼女を出すよう言ったらしいが彼女は出なかった。すると親に向かって何か失礼なことを言い、親も気味悪がっていたそうだ。そして今度は家の近くまで来て待ち伏せしていたらしい。ちょうどその時彼女は外出していたが、親が家の近くでうろうろしているモラ彼の姿を発見し、声をかけようとしたら逃げたそうだ。おかげで彼女は防犯ブザーを購入するはめになったが、毅然とした態度をとり続けていたため、モラ彼を撃退することができた。

 この間にも彼女の心の中では様々な葛藤があったことだろうと思う。好きで結婚まで考えていた男性の理不尽な言動に不安を感じながら、でも何とかやっていけるのではないか、お互いに努力すればやっていけるのではないか、と思うことはごく当たり前の気持ちだ。でも、どうして、なぜ、やっぱり、と何度思うことだろう。私は結婚してからずっとそんな迷いを抱き続けていた。何年も何年も。多分私のように、長期間にわたって悩み苦しみ続ける人の方が多いように感じる。
 この彼女のように、短期間でモラ彼の言動に疑問を抱き、他人からのアドバイスをすぐ理解し解決に向けて行動する、というような例はそう多くないだろうと思う。

 そして、この一件でもうひとつ感じた点がある。私はいつも他人の問題にかかわると、そこにエネルギーを投入してしまうのだ。なぜこのような問題が起こったのだろう。引き金は?関連した出来事は?解決方法は?とあれこれ考えてしまう。そして何とかできないものか、どうにか改善できないものか、と行動する。それがいいように作用すれば解決の糸口が得られる。しかし私がなんとかしなければ、といつの間にかコントロールすることに力を注いでしまうと、とんでもないことになる場合もある。その最たる対象が元夫であったというわけだが。

 逆に自分の問題については、鈍感だということだ。他人のことはよく見えるのにいざ自分のこととなると見えなくなってしまう。元夫のことも、頭のどこかで「?」ということはあったのに、それには見ぬふりをした。友人に心配されても、結婚前にDVとか共依存とかいう知識があっても、自分のこととして感じることができなかった。もし結婚前にモラハラという言葉を知っていても「何とかなる」と、結婚へ突入したことだろう。実際にモラハラを体験し、痛い目に遭いまくってからやっと「これって何?」と思い、「それを耐えていた自分って何?そこから離れず執着していた自分って?」とやっと自分に目が向くようになった。

 元夫との関係において、私は自分の弱さや対人関係上の問題を嫌というほど突きつけられた。そして私の中にあったいくつかの価値観も崩れ去った。例えば、「どんな人でも言葉を尽くし誠意を尽くせば理解し合うことができる」と思っていた。しかしそうでもないことを理解した(苦笑)。また「自分で決めたことは貫き通す」という思い込みがあったが、そうでなくてもいいんだ、と思えるようにもなった。


 自分の事って…難しいものだ。


他人の事と自分の事

2007-03-17 11:59:08 | モラハラエッセー(離婚後)
 少し前のことになるが、会社の飲み会があり、その後他部署にいる女性社員2人と一緒にお茶を飲みに行った。この女性社員達とは一緒に仕事をするときもあり年齢も近く、仲良しというほどでもないが、合間のおしゃべりを楽しむような間柄だった。
 コーヒーを飲みながら職場の四方山話に花を咲かせていたら、ひとりの社員が「実は困ったことがあって…」と言い出した。どうも付き合っている男性のことらしい。以前から付き合っている男性がいる、ということは少し聞いていた。彼女の話に私達はぐっと身を乗り出した。

 その男性は彼女が以前勤めていた会社で出会い、彼女が転職した後に付き合いだしたそうだ。とても優しく楽しい男性で、彼女はいずれ結婚を、と思っていた。しかし付き合う時間が長くなるにつれ、「?」と思うことが多くなったという。些細なことで不機嫌になったり、彼女の1日の行動を逐一知りたがったりと干渉も強くなってきた。そして夜「今すぐ会いたい」と電話をしてくるので「明日も仕事があるし、帰りも遅くなるから今からは行けない」と言うと「どこかで浮気でもしてるんじゃないか?」と激怒する。しかし「さっきは悪かった」と謝罪のメールがあったりしていたそうだ。
 そしてつい最近、男性の運転する車で一緒にドライブをしていたら、些細なことで怒りだし乱暴な運転で怒鳴りながら走行を続けた。彼女は危険を感じ、赤信号の時とっさに車のドアを開け、助手席から降りたそうだ。すると男性も怒って車から出て追いかけてきた。彼女は必死に走って逃げ、近くにあった喫茶店に駆け込んだ。男性は店の中には入ってこず、しばらくしたら車に戻っていったそうだ。
 「それでどうしたの?」「知っている場所だったし、近くにバス停があったから何とか帰ることが出来たけど、この人やっぱりおかしいんじゃないかって思うようになってね。それで後から彼から謝罪のメールが来たんだけど、無視してたら何度も電話してきたから、出たらまた怒ってるし。何だかもう恐ろしくなっちゃって…どうしていいかわからない」彼女は憔悴した表情で、目に涙を浮かべた。

 私の頭の中ではもう答が出ていた。これはモラだ。なんとかしなければ彼女はもっと悲惨なことになる。
 私と一緒にその話を聞いていた女性社員は「え~、ちょっと信じらんないね。その彼、恋愛感情が高ぶりすぎているのかもしれないけどね~。ちょっと行き過ぎてる感じがするな~」と言った。いや、そんなものではないのだ。恋愛感情の高ぶりとか、行き過ぎ、という範囲で済ませられるものではないのだ。
 彼女は「でも結婚も考えてたくらい好きだったから、この状況がなかなか理解できなくて…一時的なのかもしれない、とも思ったりしていたけど、この前のドライブではもうほんとに恐くなっちゃって…どうしてあんなことするのかな…もう少し私もわかってもらえるように努力したほうがいいのかな…」と言った。

 私は彼女の目を見ながらゆっくりと話した。
 その男性は優しくて楽しくて魅力的だったのだと思う。もちろん付き合いの中ではいい部分だけではなく、嫌な部分も見ると思う。喧嘩もするだろう。でも今聞いたことは、喧嘩とか、努力して治るとかいう範囲のものではないように感じる。一番好きな人から、どうしてこんな恐怖を感じなければいけないのか。付き合っているときにそういう面が出てきたら、結婚して身内になったらもっと酷くなる。あなたは悪くないし、それ以上努力する必要もない。残念だったけど、彼がそういう性格で、最初は取り繕えてもそれがどんどん出てきている状態だと思う。
 と、なるべくわかりやすく伝わるように説明した。

 彼女はじっと考えていた。「やっぱりやめたほうがいいのかな…」
 「やめたほうがいいよ。これ以上つきあってたら不幸になる。好きだった人がこんなことになるって辛いけど、でもこれ以上エスカレートしたら大変なことになるよ」と私。
 「う~ん、やっぱりやばい感じがするよね。今ニュースとか雑誌でもDVとかってよく言ってるし、そんなだんなになっちゃうかもしれないよ」と女性社員。
 「ほんとに好きだったんだけどね…」と彼女はつぶやきながらも、「やっぱりおかしいよね」と、うん、うんと自らを納得させるようにうなずいていた。

 私は、彼女の話を聞いていて、彼女の状況、彼女の心情が手に取るようにわかった。そしてまるで自分に言い聞かせるようにして、彼女を説得した。
 私はこんなふうに思えなかった…。過去の苦い思い出が蘇る。私は楽しいところだけを見て、おかしな部分は見ないように、感じないようにしていた。
 彼女は偉い。付き合っているときから、おかしいと感じる自分をちゃんと受け止めていた。好きだけど、彼のこの言動は何?とちゃんと疑問を感じていた。そして他の人にそれを相談することができたのだ。きっと虫の居所が悪かったのだろう、とか、他人に言うのは恥ずかしい、とか、自分が努力すれば彼は変わるはず、とか事実をねじ曲げて操作しようとするのではなく、きちんと客観的に捉え、「どう思う?」と私達にも意見を求めたのだ。
 私にはできなかった。いや、元夫と付き合っている頃、元夫のおかしな言動を、面白おかしく友人に話したところ、友人は真面目な顔で、「ウメは付き合っているというより、まるで彼相手にボランティアしているみたいだよ」と言ったのだ。どこかでおかしいとわかっていてもできなかった。


 そしてその後、彼女はある行動に出た。

 もう少し続きます。


事件名?

2007-03-03 15:10:30 | 離婚に向けて
 先日、役所の休日窓口で提出した離婚届を受理したという通知がきた。「あなたからの戸籍届出については、下記の通り受理されましたのでお知らせします。」という前文、そして手続済みの内容が記載されていたが…。
 1 受理年月日     平成19年2月24日
 2 事件名        離婚届
 3 届出人氏名     ○○ モラ雄
                 ○○ ウメ
 4 届出事件本人氏名 ○○ モラ雄
                   ○○ ウメ
 この書類を見た直後は「事件名」という項目に違和感を覚えた。離婚って事件扱いされるのか~、戸籍を変更することは事件なのか?日本では、離婚は事件扱いか?事件を届出た私に何か?とエスカレートする思考。ただ後から冷静に考えてみたら「事件」という言葉は「事」の「件」、つまり「ある事柄について」、ともいえる。私の中にある日常用語の「事件」は、犯罪絡みや悪い出来事、という意味でインプットされていたことと、やはり人生初体験の出来事に少々ナーバスになっていたこともあるだろう…とつい過剰反応してしまった自分に苦笑いした。

 ただこれで夫と私は他人になったのだ。これから彼は元夫であり、もう今後私の人生史上には殆どかかわることのない他人となった。街中にいるただのヨレヨレのおっさんとなったのだ(爆)。といってもまだ離婚したという実感がない。別居して2年以上が経ち、私の生活上から元夫の気配は随分前に無くなっていた。離婚届けを提出したが、今の生活の場も穏やかな毎日も変わらず進む。そう思ったら、実は別居したその日に、もう物理的な離婚は果たしていたんだ、とも思う。私の場合は、離婚に向けて心の整理をつけるまでに時間が必要だったのだろう。結婚や離婚は、個人的な要素だけではなく社会的な影響力も含まれている。私自身の中にあった元夫への嫌悪と恐怖、そして微かな愛着と夫婦として過ごしてきた時間を整理していくこと、そして周囲からの目、親との葛藤、仕事への影響、ひとりで生きていく事への覚悟等の問題とも向き合って考える必要があった。

 そして離婚後の姓をどうするか、という問題も少し悩んだ。旧姓に戻る方もいれば、結婚の時の姓を使う方もいる。私はどうしようか…。
 ここでは社会的な影響をまず考えた。私は結婚で姓を変えると同時に新しい土地に住み、そこでの仕事もある程度キャリアを積むことができた。今の仕事では、ひとつの職場のみならず、あちこちの関連会社とかかわりがあり、時々単発で別の仕事を依頼される場合もある。そこで姓名を変えたら今の定着した関係が、ややこしいことになるだろう。また姓を変えることで私生活を干渉されることも憂鬱だった。こんな時女性は大変だと思う。男は結婚しようが離婚しようが何も変わらず、周囲からは何もわからず仕事に支障もない。
 また、姓名を変えることになると様々な免許や資格、書類などもいちいち手続きしなければならないことも非常に面倒だった。自動車の免許、パスポート、加入している保険、仕事関連の国家資格、職場の事務にも手続きし、給与が振り込まれる銀行の通帳も、自分の職場以外の仕事関係の名義も、債権者登録も、大家さんにも?…職務経歴や業績も姓名が変わると他人の業績のように感じられる。これらの煩雑な手続きをするだけで、エネルギーが枯渇してしまいそうだ…。

 それから、以前の姓名に戻ることにも自体にも抵抗があった。過去の自分に戻るような気持ちになるからだ。たまに「あなたは何歳の自分に戻りたいと思う?」なんていう話しになることがある。「また二十歳に戻ってやりなおしたい」とか「ぴちぴちの10代に戻りたい」という人もいるが、私はもう過去の自分には戻りたくない。親や社会に向かう葛藤が苦しかった10代にも、20代の頃の自信がなく若気の至りで恥ずかしいことをしていた自分にも戻りたくない。戻るというのではなく、単に20代になる、だけでもイヤだ。また同じ事を繰り返すと思うと、またあの未熟で苦しい道のりを考えるだけでしんどい。
 今私自身が実感していることは、年を経るたび、精神的には段々楽になっていくことだ。自分に対して、周囲に対してもあまり神経質にならず、ゆとりを持ってかかわることができるようになった。もちろん、結婚生活においては大変な思いをし、別離という選択を決断することになった。仕事でも、信じられないようなモラハラに遭い、転職を余儀なくされた。逆境の最中にいたときには、この土地に来たこと自体が間違いだったのではないかと、人生最悪最低だと感じるくらい辛い毎日だった。しかし様々な出会いとその支えによって少しずつ酷い状況から抜け出し、今現在はいい職場に恵まれ自分の望む仕事をし、生活も穏やかで自分なりにささやかな幸せを感じながら毎日を送っている。
 改めて思い起こすと、結婚後の30代は本当に波瀾万丈だった…と思う。そんな激しい日々?を乗り越えて、今いる自分は案外好きだ。姓名がどうであろうと私は私で変わらない。
 そう思い「離婚の際に称していた氏を称する届(これまたややこしい言い回しの書類なのね…)」にも記入をして離婚届と共に提出した。


 自分だけの戸籍、自分だけの生活。う~ん、随分すっきりしたな~
 今、私は誰に気兼ねすることもなく、誰かに合わせることもなく、本当の私を受け入れ、私自身を生きている、という気がする。これからの私はどうなっていくのかな。どう変化し年を重ねていくのかな。。。
 それがちょっぴり楽しみでもある。