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うどんのこと香川のこと

開店後、ほぼ週1ペースの更新になってます。
しばらく、主なテーマに信号番号の設置を加えようと思います。

シリーズ3 「原理・原則」の逆転と技術革新

2008-01-14 20:18:39 | Weblog
さて、うどんジムは、15年前に、東京から讃岐うどんを食べに来るような仕掛けをしようと試みて、何にも成果を上げれんかった人間です。

じゃあ、15年前に今のような讃岐うどんブームは起こりえたか?
というと疑問があります。

・バブル後に、安いもので楽しみたいという世相が広がった。
・高速道路と自動車の普及。
・デジカメやネット、特に画像を大量に速く処理できるコンピューターやブロードバンドでの情報交換

これら、時代や技術革新とセットでないと、何をやっても、今のような讃岐うどんブームはなかったのかもしれない。

さて、前記事で、「原理・原則」の逆転現象について書いたが
これも時代背景とか技術革新との関係で論じられるのでは?

なぜ、社会性を先にできる時代になったのか?
昔は、会って、飲んだりしないと交流できなかったり、相手の本音を探れんかった。
今は、デジカメ・ネット・ブロードバンド・ブログなどがある。

自分の店の儲けに全力を注ぐのは、一点集中だから、漏れやハズレが少ない。
しかし、社会性を先にして、広く協力を求めようとすると、力も拡散するし、相手のことも信頼できるかわからんし、物事は人が増えるほどほころびのリスクも増える。
だから、昔は、よっぽで力や余裕があるか、犠牲になってもいいと覚悟した人しか社会性に走れりにくかった。

これも、「あしたさぬき」のようなシステムと関係があり。
技術革新の成果によって、上のような、昔からの「原理・原則」を逆にしても通用する、力の拡散を防ぎ、それなりに本音や志向を探れる、資源を高速に効率よくシェアしやすくする磁場ができるようになったんだと考えることができそうに思う。

シリーズ2 某団長日記からのヒント

2008-01-14 19:54:47 | Weblog
「炎について」で「偽善」の「偽」の部分について詳細にと意気込みましたが

「偽」って、結局、自己目的のことでしょう。
よく、「偽善」て言われるのは、

「上への点数稼ぎかよ!」
とか
「なあんだ。好きな娘の気をひくだめじゃん。」
とか
「結局、儲けのためじゃん。」
とか
「おいおい、選挙目的か!」
とか
「売名行為ですか?」
とかとかとか

そいうえば、某団長日記にヒントが
30代、40代は、いわゆる「まちづくり」をやるよりも、自分の店や会社のために全力を尽くせと。
そうやって、儲けて、お金ができてくると、そこには自然に街ができるはずなんだと。

自己目的に全力を注げば、社会的な目的も達成に近づく。
それは、某団長さんのよくおっしゃる「原理・原則」だと思う。

うどんジムもそれが「原理・原則」らしくは思います。

ただ、我が事をがんばったら、地域が良くなる。

ってのは、アダム・スミスの「神の見えざる手」みたいに思った。
確かに、「原理・原則」だ。

しかし、その「原理・原則」の段階で、いかんともしがたい世の中になったという気もするし。
それを潔しとしない人々が増えつつあるという気もするし。

地域を良くするために動くことが、企業の儲けにつながるという逆の順序を地でいくビジネスが増えてることとも関係があると思う。

「社会的企業家」という言葉もあるし、FPの勉強でも、「SRI(社会的責任投資)」ってのも出てきた。

言葉は悪いけど、「偽」が端的にいえば、自己目的で、社会性が「善」なら、善に偽をくっつけていく話だと思う。

「SRI」というのは、「社会性のあることをしている企業は、将来にわたって、そうでない企業よりも収益性が高いだろう。」という観測が前提にある概念です。
たとえば、早くから環境対応をしてきたトヨタなど

今後は、原則の上に、また別の原則がのって
「社会性」が先に来て、それを「自己目的」にするという、原則で行く人が表に出てくるはずでは。

そこで、昔は、とにかく、見返りを求めないことが美しく、ぼろぼろになる人を賛美する風潮がありましたが。

「社会性」を大事にする人が疲弊して、ぼろぼろになる社会がいい社会だと思いますか?
そういう見返りを求めないぼろぼろになる献身が好きみたいな、エートスというのか、文化・習慣的な精神性というのか、一種の負け犬根性というのか、ひがみ・足ひっぱり根性というのかを少なくしていかんことには、地域ってのは、伸びやかにいかないんでないかと思うんです。

店行こうと思って、玄関に行くまでにふと、思いました。

シリーズ1 炎について

2008-01-14 19:07:56 | Weblog
地域で何かを良くしようという 「力」を いっぺん 「炎」に例えました。

炎は、どっかで着火しないといけない。小さくとも瞬発的な力がいる
(これがよくいわれる「まちづくりには、若者・ばか者・よそ者がいる。」って話かも。)。
燃える対象がいる(肉とか、陶器とか)  (財や不動産持ってるのは、もうちょっと歳いってるから、いい意味で、若者、ばか者・よそ者の刺激を受けて踊ってくれんと)。
広げる油のようなものもいる(同友会とかまちラボとかもそうか?)。
その炎を維持するための炉とか釜、野外のことなら天候とか、環境がいる(地域のキャパや方向性・行政の動向など)。

今、突然思いついたことだから、うまいこと例えになっとらんかもしれん。
あと、
炎の成果を受け取るシステム、ちゃんと公平に料理が配られるかとか
その成果の価値を引き出したり、認めることができる人々がいるかとか
たえとば、名作の陶器の価値がわかるとか、名作にふさわしい使い方ができるとか

①着火
②対象
③燃料
④釜
⑤成果の分配システム
⑥成果の価値への感受性

即興にしては、けっこう体系だって網羅されてるような気もする。

これを最近はじめた「あしたさぬき」に当てはめてみた。

参加してる人達は、いろんなところで、もう大きくなってたり、まだとても小さいものだったりするけど、①着火をしていたんだと思う。

②対象は何だろうか?
地域の人だろうか、もう少し面的な意味の強い地域そのものだろうか

あれは、特別によそに比較して先進ではないと聞いたことはあるけど、優れたシステムだと思う。
炎を広げる油など③燃料として、無茶苦茶に優れていておもしろいと感じる。

④釜は何だろうね。国や自治体など行政の支援や協力体制もそうだろうし、物理的な街のキャパシティーとか市場としての人口もそれに近い意味を持つだろうか?

地域が活性化することの成果が多くの文化的、経済的、環境面などで広く人々の喜びになり、実となる⑤システムとなるか。
よく揶揄されるのが、イベントをやっても、「一部の関係者が喜んでるだけだ。」で、その絡みで、「関係企業が補助金までもらいながら潤っただけ。」みたいな話だと思う。
そっから出発することはあるけど、それは、①や③の段階の話で、⑤、⑥へのビジョンが初めからなくても、どっかでいる。

また、多くの人々の交流というのか連帯というのか協力というのか協働というのか、切りがありませんが。
そこから生まれた文化や環境や福祉など、簡単に財貨で計りがたいものの価値を、⑥感受性というのか、視野や感性の高みや広がりをもって、評価したり、育てたりできる人々が多くいるか。


さて、ここまで長々と、書いて、まあもっともらしい話ですが

何が言いたいかというと

どっちかというと傍観者がよく揶揄するような「偽善」ってやつですが

何か、意思とか目的をもって、現実を変革するには、「偽」の部分は絶対に必要で、「偽」が悪質な「偽」であったらまずいこともあるけど、「『偽』のない善にはあまり意味がない」と、世間受けの悪そうなことを論理的に網羅して、隙なく、経験にも合致したこととして言うためです。

①~⑥の機能と、偽善の性質や分類、今、この地域でもどこでも起こってそうな現実との関連とういことの整理に挑戦していきたいと思います。

炎はほっといたら消えようとすることがよくある。
強く、大きく、広く、守り育てる力は、つまるところ拡大再生産性にある。
それは、やっぱり「偽」の部分だと思う。