tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:猪木武徳『日本の近代7 経済成長の果実 1955~1972』

2005年10月02日 23時25分01秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
書誌データ:中央公論新社 2000年

例によって、古本屋経由購入。定価は2400円だが、一回1250円に設定して、それに斜線を引き1050円にしていた。この本はシリーズものだから、他にも何冊かあった。オビが付いていて、付録(月報)が付いていて、安心して買った。半額以下だから嬉々としていたが、本文を読み進めて、付録を読んでいると、その付録は真ん中で織っただけで、ホチキス止めもしていないから、中身の数枚が抜けている。だから読めない部分が存在する。久々に「やっちまった」という感じだ。しかも、対談で1960年代の韓国における学生紛争の影響で韓国経済が大混乱がおこった、いわば「面白い」状況をこれから説明するところだったから、なおさらがっかりだ。図書館かどこかで探してコピーしておこう。

さて、肝心の書評だが、大抵戦後に付いて書かれた本は終戦の1945年を起点としている。しかし、この本は1955年を出発点とし、戦後の10年間は前の巻に入っている。ちなみに前の巻の年代は1941~1955年となっている。前の巻は完全な戦争中心の内容であり、同時に戦後処理に付いても書いてあるようだが(入手はしていないので憶測)、この巻は経済成長、すなわち高度経済についての解説となっている。実際には、通史を書くことが、この本の内容だから、政治にも言及がされている上に、日常生活にも書かれているから、内容は多く、その分読みにくい部分もある。相対的に、経済中心の内容で書かれているのは、作者が経済学の人だからだろう。本当は20年にも満たない時間の取り方だが、その時代の変化はこれほどまでに大きかったのかと思う反面、その大きさをうまく表現できなかったようにも思える。ミクロ(日常生活の内容)とマクロ(生活に影響を及ぼした政治や国際経済の変化)がうまくシンクロしていないように思える。もう少し細かく章や項目を分け、解説すれば良いのに、一つの項目にミクロとマクロを同期させるから、漠然とした書き方の印象になる。

でもいろいろと面白い視点を提示してくれていて、この時代の自民党政治は、結局金権問題を見えるように行っていたこと。少なくとも隠すべきなのにね。それがあまりにも見え見えだから、田中角栄はスッパ抜かれたのだ。でもこれは田中に限る事ではなかった。この事件に先立つように起こった、黒い霧(1966年)で当事者の議員達は、出直しの総選挙でも自民党の公認を受ける事無く、当選している。猪木も次のような表現を用いて書いている。

「利益誘導の政治が、当然と思われる程度に定着してしまったということであろう。」

また、田中角栄の退陣については、

「国家意識が希薄になるということは、裏を返せば私的関心のみが高まり、個人が私的生活へ没頭する傾向を強めるということである。1970年段階で、我々日本人は公と私のバランスに確たる配慮をすることもなく、その中間的な概念の模索を始めていたわけでもなかった。私的利益の無制約とも見える追求で政治という公共の利益実現の仕事が歪み、74年晩秋、ひとつの内閣が倒れた。これは戦後の日本社会が、自由と平等を謳歌したことの避け難い帰結であったと筆者は感ずる。」
とも書いている。

日本人が未熟だった時期、そして同時にまだまだ成長できた時期だったのかも知れない。