昨日、テレビを見ていたら、覚せい剤依存にたった女性のことが出ていた。
家族問題のつらい現実から逃避するためにクスリに手を出したらしい。
まだ若いらしく、母親が出てきたが、この母親が私の両親とはまったく異なる
世界の住人らしく、理解ができなかった。
自分の親を見て根付いた「親」の概念があって、それと比較するのだが、
「うちの親」とはまったく違うのだ。自分がつらいから子供の面倒まで見られない
とかいう言い訳を行う。「うちの親」からは聞いたことのない言葉である。
さて、いまベンヤミンの『パサージュ論』のなかの「ボードリヤール」を読もうとしている。ボードリヤールとは『悪の華』で有名な19世紀末のフランスの詩人である。
ベンヤミンはボードリヤールについて、いくつか研究論文にしている。『パサージュ論』でも特に長くページを割いて解説している。
詩そのものの解釈はそれなりに難しいのだが、ボードリヤールは特に難しいといわれている。それというのも、彼は麻薬を行うことで、詩を完成させたからだ。いわば、視点が麻薬中毒者のそれなのである。かといえ、われわれが正確に彼の詩を解釈したいがために、クスリを行うことはできないし、やってはならないことだ。
その点から考えると、この詩は読み手を「共感」という語で取り込むのではなく、極限まで突き離すことを念頭に置いた詩なのかもしれない。
家族問題のつらい現実から逃避するためにクスリに手を出したらしい。
まだ若いらしく、母親が出てきたが、この母親が私の両親とはまったく異なる
世界の住人らしく、理解ができなかった。
自分の親を見て根付いた「親」の概念があって、それと比較するのだが、
「うちの親」とはまったく違うのだ。自分がつらいから子供の面倒まで見られない
とかいう言い訳を行う。「うちの親」からは聞いたことのない言葉である。
さて、いまベンヤミンの『パサージュ論』のなかの「ボードリヤール」を読もうとしている。ボードリヤールとは『悪の華』で有名な19世紀末のフランスの詩人である。
ベンヤミンはボードリヤールについて、いくつか研究論文にしている。『パサージュ論』でも特に長くページを割いて解説している。
詩そのものの解釈はそれなりに難しいのだが、ボードリヤールは特に難しいといわれている。それというのも、彼は麻薬を行うことで、詩を完成させたからだ。いわば、視点が麻薬中毒者のそれなのである。かといえ、われわれが正確に彼の詩を解釈したいがために、クスリを行うことはできないし、やってはならないことだ。
その点から考えると、この詩は読み手を「共感」という語で取り込むのではなく、極限まで突き離すことを念頭に置いた詩なのかもしれない。