霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

12月の集計(2019年の集計)

2019-12-31 23:38:10 | 散歩

12月は3回でした。21日の5,400歩はある集会に徒歩で行った時のものなので、散歩の合計歩数は33,200歩となります。
散歩の記録は昨年の1月から始めて丸1年となったので2019年の集計をしてみました。
散歩日数は56日、合計歩数は59万歩、総距離は413kmとなりました。これはここ霞ヶ浦から名古屋まで歩いたことに相当します。随分と歩いたように見えますが、散歩は平均1週間に1日なので運動になっているのかどうか怪しいところです。来年も散歩を楽しもうと思います。

銀波から金波へ

2019-12-31 21:10:47 | 散歩

13,600歩 (15:00-17:02)
晴れ (13℃) 北西風

暮れの大掃除も数日前からしていたので早めに終わり久々に散歩しました。今日は風が強くて帽子を飛ばされたりして歩くのも大変でした。
土手に着いた時はまだ陽も高くて湖面は銀波で眩しく輝いていました。ふと、この銀波がどのように日の入り時の金波へと変化していくのかなと思い写真を撮ってみました。
帰り道、薄暗く寒くなる中で窓拭きや玄関掃除中の家があり、慌ただしい大晦日を感じさせてくれました。

仏教はイデオロギー・・・

2019-12-19 22:55:37 | サピエンス全史

分かっているつもりでいても、じゃあ説明せよと言われて窮するものに「哲学と宗教の違い」というのがあり、ずっと曖昧でした。

ハラリ氏は宗教を『超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度』と定義できるとして、宗教の持つ様々な側面を幅広い視点から取り上げてホモ・サピエンスの歴史への影響を解説しています。読み進めるうちに哲学との違いについても自分なりの答えが見つかった気がします。
それは、哲学は物事の疑問から入るのに対し宗教は信じることから入るという違いです。宗教は神とか極楽浄土とかの存在を信ずることで心の安心を得るというものとの理解です。
仏教は代表する宗教の一つですが、ハラリ氏は仏教に関してゴーダマ(釈迦)が何に悩みどう悟りに至ったのかを2~3頁で見事に解説しています。さらに一神教とは原理が違っていること、仏教はイデオロギーとも言えると述べてます。

そう言えば、仏教で不思議に感じていたことがありました。同じ仏教でも浄土教と禅宗とは全く違うように見えるのです。これまでは大乗仏教と小乗仏教の違いなのかとの理解でしたが、今回浄土教は極楽浄土を信じることから始まっているので宗教そのものと言えるのに対して、禅宗は生きる意味を問うことから始まっているのでむしろ哲学ではないかということです。修行により自分なりの答えを得たなら、それがイデオロギーかも知れません。
さて、我が家にも時折り宗教を説く人が来られますが、元々神の存在を前提にして説かれますので、話が噛み合わないのも当然なことだったのです。
とは言うものの、この私もあり得ないとは分かっていながら強く信じていることがあります。それは、父や母の臨終に間に合わなかったこともあってか、自分の死後に亡き両親や先立った人達に会えるというものです。それで心の安堵が得られるので不思議です。


師走の銀波

2019-12-15 18:48:12 | 散歩

9,100歩 (13:15-14:38)
晴れ (11℃)

久しぶりの銀波です。光がカモ達にまとわり付いて動くのがとても綺麗でした。
午前中、ボランティア活動で特別養護老人施設の誕生会とクリスマスを兼ねたイベントの一つとしてギター演奏をしてきました。昔の懐かしい曲ばかりでしたので、大きな声で一緒に歌って楽しんでもらえて、良い今年の弾き納めになりました。


独り暮らし

2019-12-13 14:39:12 | 散歩

10,500歩 (10:14-11:43)
曇り (5℃)

陽が射さず寒いので手袋をしましたが、耳当ても欲しいくらいでした。釣り客やカモ達も寒そうです。
先日、独り暮らしのお年寄りの方々90人ほど招いた年越しそば交流会があり、そのお手伝いに行きました。蕎麦打ち同好会が中心となり各種のサークルも参加しています。狂言や紙芝居、サックス演奏やゲームなどアトラクションも盛り沢山でしたが、保育園生と手を繋いで遊ぶ遊戯では皆さん笑顔になって本当に楽しそうでした。
我々スタッフも一緒にお蕎麦を食べながら話し相手になります。女性が圧倒的に多い中、25年前に奥さんを亡くされたという82歳の方と隣になり色々と話をしましたが、最後に『ずっと話す相手がいなかったので、色々と聞いてもらって気持ちがとても軽くなった』と言われてこちらも嬉しくなりました。
人は独りぼっちで生きて行くことは耐えがたいものなのだと知りました。古女房だの哀愁の連れ合いだのとふざけていることにほんの少しばかり罪悪感を覚えました。