霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

親鸞(6:自然法爾) ー 終 ー

2018-05-20 20:03:42 | 雑学
この世(自然)の真の姿(真如)は絶対無であり、人間(衆生)の存在もその外にあるものではなく、本来の姿(相)は無である(相即無相)…納得。
しかし、人間は本質的に自己の主我に執着し、現実の自己は見えないので(迷倒の凡夫)真の安心は得られない…納得。
信において主我性が断じられて執着から脱却でき、初めて自己が生死の凡夫であることを知る…納得。
親鸞は「現実の安心」ということに宗教の本質を主張した。ここが未来教と思われがちの浄土教の諸師を超えた偉大さがある。問題は、往生するかしないか、弥陀が救うか救わないかではなく、現実に信を獲て本当に安心することにある…納得。
自然=真理=真如であるゆえ、自然の道理に従順なのが自然で最も合理的、自然と私が一枚となった無の世界が、明白な真実そのもの(自然法爾)である…大いに納得。
以上、解説書による予備知識を持って「教行信証」をじっくり読んでみたいと思っています。

親鸞(5:聖道門と浄土門)

2018-05-19 20:51:25 | 雑学
悟りを開くには、雑念を振り払い厳しい修行を積むのが聖道門だそうですが、ことに修行に差し障る女人を遠ざけます。これは現代の受験生にも通じるかも知れません。
果たして、この人間本来の雑念を振り切れるものでしょうか。最近日本の代表的な寺院の貫主が女性問題を起こしたというニュースも相次いでありましたが、親鸞はこの問題と正面から向き合い葛藤した末に、とうてい凡夫の身では無理と知り妻帯もしました。
浄土門を未来教から現実的な問題として論理的に解釈し直したのが教行信証と解説書にありました。

親鸞(4:衆生・浄土)

2018-05-12 21:44:52 | 雑学
仏教用語は難しいですが、その一つ一つの意味は深く、それを理解することがむしろ楽しくなります。
先の真如(一切の物の本性)は絶対無で、衆生(凡夫=人間)とは世界を異としているため、人間の目に見えるものとして浄土が考えられたとのことです。
この真如・浄土・衆生の3つの意味と関係をきちんと理解することが、教行信証の全体像を把握する上での基本のようです。
これまで、浄土を中心に捉えていたことで誤解や混乱をしていたと分かりました。

親鸞(3:真如)

2018-05-10 22:04:00 | 雑学
教行信証の解説書を読み始めたのですが、いきなり目から鱗です。
「真如」とは絶対真実や一切の本性を言うのですが、4月12日のブログで呟いた「真理探求」していたのは、この真如のことの気がします。この真如の意味を深く理解出来れば、探し求めていた答えが見つかるかも知れません。
それは形や色は無く認識できるものではない無相であり、それを知るには作為の無い無知(智彗)によるとのことです。
いま話題のダークマターやダークエネルギー、そして真空のエネルギー等を連想し、重なり合うようでスーと胸に落ちました。

親鸞(2:教行信証)

2018-05-01 20:56:58 | 雑学
師の法然と共に法難に遭い、親鸞は越後に流されました。4年後に勅免されましたが京には戻らず関東に移り住み、茨城県笠間市の西念寺で浄土真宗の根本聖典となる「教行信証」を著述しました。宗教書であり思想書であり哲学書でもあるとのことです。
ここまでは知っていましたが、肝心の内容は難しいという先入観のみで全く知りません。知らないまま人生終わってしまうのが心残りになってきたので、奮起し挑戦してみようと思い立ちました。
解説書片手にどこまで親鸞の心を理解できるでしょうか。